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【講義アーカイブ】対話がつむぐ教理と実践 ―華厳宗の論義資料を読む―(講師:野呂靖)[2020年4月18日]
※ この講義のレジュメおよび資料編を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。当日配布した資料「画像篇」については、諸事情により公開できませんので、ご了承ください。
煩悩にとらわれた凡夫は華厳教理を理解できるか?―――
鎌倉初期の東大寺。平重衡(1157-1185)の南都焼討によって灰燼に帰した伽藍と教学の復興期に、華厳宗僧が盛んに行ったのが論義や談義などの対話型・問答型の修学でした。そこでは自らの成仏に至るプロセスに華厳教理がどのように関わるのかという実践的な問題が大きなトピックになっていました。彼らはそうした教理問答のなかで、教理を議論する営みそのものが華厳の修行論・成仏論に合致していること、善財童子などの『華厳経』の登場人物や中国華厳の祖師たちの歩みを「模倣」することによって確実な成仏への道が開けていることを、繰り返し確認していったのでした。その姿はあたかも兵火によって失われた「聖教」を、自らの実践のなかに取り込み、その教えの通りに生き直していくことこそ真の復興であると考えていたかのようです。
この講座では、そうした鎌倉期から南北朝期かけて作成された華厳の論義・談義資料のなかから、断惑義・浄土往生義・成仏義などに関するいくつかのトピックを紹介し、「教理を問答すること」そのものが中世の僧侶たちにとってどのような意味をもっていたのかを考える一助としたいと思います。
またその前提として、日本における華厳思想の流れについても歴史的にたどります。
華厳教理は平安時代以降、真言宗や天台宗の教理形成に大きな影響を与えつつ、常にそれらとの緊張関係のなかで議論が深められていきました。とくに空海(774-835)が示した即身成仏や法界観との差異をどのように示し、またそれを乗り越えていけるかは華厳宗側の大きな課題でした。
鎌倉期に入ると明恵(1173-1232)や宗性(1202-1278)、凝然(1240-1321)などの登場によって、遼や宋の華厳文献など東アジア各地の最新の情報が参照され、新たな展開をみせていきます。また南北朝・室町期には根来寺などの真言僧や律僧などによっても華厳文献が生み出されていくなど、修学の場がひろがっていきます。世阿弥(1363-1443)の娘婿である金春禅竹(1405-1471)と東大寺戒壇院長老志玉(1383-1463)との邂逅を介した能楽理論への導入などもこの時期にあたります。江戸期にはそうした中世後期の動向をうけつつ、とくに真言宗や浄土・浄土真宗系の学林を中心に教えが継承されていきます。
従来、鎌倉時代以降の華厳宗は衰退したと考えられてきましたが、近年、新たな資料の検出などによって、その見方は大きく変わりつつあります。そうした資料などもできるかぎり紹介しつつ進めていきます。ご参加の皆さまと議論できることを楽しみにしています。
【神道シリーズ・シーズン2】第32回・吉田松陰の思想遍歴
吉田松陰は、文政13年(1830年)8月4日、長州萩城下松本村(現・山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれたが、杉家の貧困さのため、叔父で山鹿流兵学師範である吉田家の養子となり、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。
叔父のモラハラ、パワハラのスパルタ教育にもめげず、頭脳明晰な松陰は、9歳で明倫館の兵学師範を務め、11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義でその才が認められ、15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。
嘉永3年(1850年)20歳の時に藩からの調査を目的として長崎遊学をした松陰は、停泊してるオランダ戦艦を視察し、さらに翌年、藩主の参勤交代の供をして江戸に出向した時に出会った幕府海防顧問の佐久間象山の教えを受けるうちにこれまで学んできた和風兵学の脆弱さと無力さを知り、山鹿・長沼兵学を捨て西洋兵学を学ぶ意思を固めた。
その直後の寛永4年(1851年)12月には脱藩した上で翌年4月に至るまでの約5か月間の東北遊学を行い、日本の海岸線が海外勢力からの侵略に対してまったく無防備であること知り、さらに危機意識を高め、
江戸に戻ると脱藩の罪で地位と家禄を剥奪され、長州に戻され、実家の杉家預かりとなるが、翌年、罪が許され、藩より諸国遊学の許可が出ると、再び江戸に戻り、佐久間象山から得た長崎にロシア船が停泊するという情報をもとに、ロシア船に乗り込んで海外渡航し、西欧列強の実情を把握しようと企てた。
しかし、長崎に着いた時にはロシア船はすでに出航しており、乗り込みは失敗したため、今度は静岡の下田に停泊中のペリーの米艦隊に乗り込みを試みたが、断られ失敗し、その行為を自首した松陰は長州の野山獄へ送られ、その後3年以上の獄中生活を過ごすこととなった。
西洋兵学を知り、水戸で会った会澤正志斎らから国体思想を学び、幕府に尊王攘夷政策を採ることを要求してきた松陰だったが、獄中生活のさなか、浄土真宗の僧侶で国学者だった黙霖との文通論争の中、佐幕思想を捨て、討幕思想に傾斜した松陰は、出所後に日米修好通商条約を結んだ幕府を打倒するための老中暗殺計画を立案し、それが漏れて江戸の石川藩の牢獄に入れらた上、安政6年(1859年)斬首刑となり29歳の短い命を閉じた。
しかし、松陰の刑死の反響はあまりにも大きく、それが5年後の禁門の変から大政奉還に至る激動の4年間の火付け役になったのである。
【神道シリーズ】第34回・白山信仰と被差別部落(時宗・浄土真宗と穢多部落と鉦打部落)
関東の被差別部落には白山神社が多いと言われ、その白山は「はくさん」と呼ばずに「しろやま」と呼ばれてると言われます。
一方、関西の被差別部落ではそうした傾向は一切見られず、代わりに浄土真宗(大谷派)を信仰(の檀家である)しているところが多いと言われます。
何故こういう現象が起きたのでしょうか?
被差別部落の発生や形成の歴史は非常に複雑であり、今でも明確に説明できる人はほとんどいないと言われますが、今回は、白山信仰や時宗や浄土真宗(一向宗)と被差別部落の関係にスポットを当て、白山信仰の性質、時宗や浄土真宗と天台本覚思想(誰でも仏様になれる素質はあるという考え)と被差別部落の関係について考察していきたいと思います。
極力簡単明瞭に分かりやすく説明できるように努力したつもりです。
葦津珍彦「島津黙雷と国家神道」
葦津珍彦(神道学者)は、国家神道を成立したのは浄土真宗大谷派の島津黙雷であったことを解説します。
【神道シリーズ・シーズン2】第12回・伊勢神道の完成(仏教・道教・儒教の思想注入へ)
13世紀後半に渡会行忠によって創設された伊勢神道は、真言密教系の両部神道をベースにし、そこから仏教用語を取り去り、道教理論を導入する事により外宮を主とす両宮の存在流を説明しましたが、室町時代の14世紀から15世紀にかけて行忠を継いだ渡会家行は、行忠と違い、堂々と仏教・儒教・道教などの書からの引用を憚らず、それらを伊勢神道理論完成の為に導入して行きました。
中でも梵網経(ぼんみょうきょう)の中で説かれた弟子たちの釈迦に対する忠誠心や浄土真宗(一向宗)開祖の親鸞聖人の「教行信証」に書かれた門徒たちの極楽往生への迷いなき信心からの「正直」な心などに強く感銘を覚え、そこから自らの神道論の中心となる「内清浄」の観念を生み出して行きました。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第18回・島地黙雷と黙雷の時代
長州藩が14万5千の幕府軍から第二次長州征伐の攻撃を受けていた時、勤王派を支持していた西本願寺に属していた青年島地黙雷ら真宗僧侶たちは金剛隊という僧侶部隊を結成し、長州藩士たちと戦い、その中で後に明治政府の中心になる木戸孝允や伊藤博文、井上馨、山形有朋、江藤新平など多数の重要人物たちとの信頼関係を築き、この人脈が明治5年から10年にかけての黙雷の時代を形成することになったのである。
新政府発足以来、平田国学派に押された新政府は、神仏混淆禁止令発令後、各地で激しい廃仏毀釈の嵐が吹き荒れると、その嵐は東海北陸の浄土真宗の影響力が強かった地域にも及び、明治3年頃からは北陸や東海を中心に真宗門徒農民による大規模な蜂起や騒動が勃発し、さらに、朝廷との血縁関係も含めた東西本願寺の繋がりを憂慮し、政府は、「朝廷からの命令」という建前で神仏分離政策を進めていただけに、それが朝廷自身によって否定されてしまうと神仏分離政策自体がとん挫してしまう可能性があることと、真宗門徒たちによる反撃も大規模に発展すると国内統一どころか内戦に発展する危険性もあっただけに、真宗側との調整役を政府は求めていた。
幕末以来長州の勤王派と繋がりのあった黙雷は、神祇省の廃止と、国民教化のための教部省の設立を建白し、結局、政府は黙雷の意見を取り入れ、教部省を設立し、同時に大教宣布運動を推進する大教院・中教院・小教院を設置し、国民全体の何を教えるのか不明な教化運動が展開されることとなった。
明治政府が当初目指していた、平田国学派が主張する祭政一致の天皇を中心とする神道国家路線は、真宗門徒たちの反撃により頓挫し、今度は真宗側からの提案で始めた神儒仏共同の国民教化運動も、実質、民間に深く広く浸透していた浄土真宗の布教活動となり、国学派は反発し、西郷隆盛を中心とする薩摩閥の力を借り、大教院の執行部を乗っ取り、仏教勢力に祝詞の拝礼などを強制するに至り、真宗の脱退を招き、結果、教部省自体が廃されることとなり、黙雷の時代も終焉することとなった。
さらに明治13年には、政府と国学派が対立し、教部省を継いだ神道事務局内で伊勢派と出雲派の対立から政府は平田派全体を政府から排除し、逆に平田派を政府や公安の監視対象としてしまった。
もともとキリスト教に敵意を抱き、キリスト教に対抗する為に仏教と平田神道との大同団結を訴えた黙雷ではあったが、結果、しょせん水と油は交わらず、政府は両者と距離を置き、大國隆正の唱えた祭政分離の国家神道の道を歩むことになったのである。
【神道シリーズ】第78回・箱根山信仰【後半】箱根大権現と浄土真宗(親鸞上人)
室町時代に本願寺(山科本願寺)三世の覚如によって書かれたとされる「親鸞伝絵」の中の「箱根霊告」の中には、親鸞上人が箱根山の訪れ、箱根大権現に会い、権現が感動して
翁を通じて親鸞上人を厚遇した、という下りがありますが、
果たして、神祇不拝(阿弥陀如来だけを信じて邪神は一切信じるなという事)を訴えていた親鸞が何故その神祇(神様という意味)である箱根権現に会い、敬意を払ったのか?というところが近年学者の間でも議論の対象になってきました。
実際に親鸞が箱根を訪ねたかどうかについては、越後より関東(常陸)に旅していた親鸞が54歳の時にこの地箱根を訪ねたことは地元での伝承などからしても事実であろうと見られてますが、「箱根権現との出会い」の部分については後世の創作だと推測されています。
浄土真宗(明治前は一向宗とか門徒宗と呼ばれていた)は覚如の室町時代から8世の蓮如の戦国時代にかけて急速な勢力拡大を始めており、それまで本地垂迹説で成立していた地方の権現信仰の地域を制圧する為にも「箱根霊告」(覚如)のような説話が必要であったのではないか?と推測されています。
【神道シリーズ・シーズン3】第20回・千家尊福【中編】千家尊福と祭神論争
慶応4年の大政奉還直後から始まった新政府による王政復古政策は、古代の祭政一致を目指し、神祇官を復活させ、さらに神祇省まで創設して律令政治時代の日本の政治体制の復活を目指したものの、全国で実施していた廃仏毀釈を伴う神仏分離政策は各地で住民や仏教勢力の抵抗に遭い、特に浄土真宗からは農民蜂起や暴動をも含む強い抵抗があり、神祇官制度はまったく実態を伴わないままわずか3年あまりで廃止になり、その後、神道国教化に向けて仏教勢力を含めた宣布運動を目指し、島地黙雷率いる浄土真宗からの提案で教部省を立ち上げたもののの、宣布するはずの神道の中身が不明で、しかも途中から台頭してきた薩摩閥により、教部省内の僧侶たちに
祝詞を読むことを強制したりするようになるとそれに抗議した浄土真宗が脱退することにより大教宣布運動は収束し、同時に教部省も崩壊し、その後、教部省の教導職、つまり、当時唯一宗教的布教を認められていた職権を
継承した神道事務局は、薩摩出身で伊勢神宮の大宮司の田中頼庸は事務局の祭神を造化三神とアマテラスだけとしたが、事務局に参加してきた出雲大社宮司で80代出雲国造の千家尊福は祭神のオオクニヌシも同等に祀るべきと主張し、両者は平行線のまま祭神論争が続いたが、全国の事務局教導職者の圧倒的多数と本居 豊穎や平田 銕胤など平田派は全面的に出雲派の尊福の支持に回り、形成は圧倒的に出雲派の優勢で推移した。
銕胤など平田派は全面的に出雲派の尊福の支持に回り、形成は圧倒的に出雲派の優勢で推移した。
何度も合同会議を開き、教導職の代表を集めた会議での多数決でも出雲派が圧倒的勝利をするも田中頼庸はこの結果を潔く認めず、出雲派の紛糾が続く中、政府中枢から桜井能監を派遣し、合議の末、大国主の合祀の合意に至り調印までするものの、尚も伊勢派の頼庸はその結果を認めず、最後には薩摩閥の重鎮で内務卿の松方正義を頼り、三条実美を通じて明治天皇の直截という形で出雲派の要求は退けられ、アマテラスのみが事務局の祭神となり、圧倒的優勢だった出雲派の敗北は決定的となった。
この後、千家尊福は事務局から脱退し、出雲大社教を立ち上げ、政府の神社神道路線とは別の路線を歩むこととなるが、これを境に政府は平田派を政府から完全に追放し、政府は祭政分離に基づく神社神道、つまり国家神道と、政府が公認する教派神道13派の二流に分け、近代国家日本の建設の為、幕末以来討幕派が目指した祭政一致の理想を完全に放棄することになったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第56回・谷口雅春と生長の家(その③)
谷口雅春の思想変遷は、浄土真宗の正信偈を何度も何度も棒読みさせられた少年時代から、トルストイの復活の中で提起された原罪と贖罪の問題、さらにオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の中で描かれる堪能的で耽美的で退廃的な世界への魅了との間で揺れた青春時代と、いかに生きるべきかという問題を抱えつつ、神霊治療に興味を持ったことがきっかけで入信した大本教では、霊界物語での霊界の世界と万教同根の思想を学びながらも、神仏など絶対的な存在と自分と言う個はどう関わりあうべきかという問いの答えは見つからぬまま大本脱会後も自分の問題意識は彷徨い続けていた。
貧困の中、宗教雑誌の翻訳などで糊口を凌いでいた谷口は、武者小路実篤の「新しき村」や西田天香の一燈園など、自らの私財をつぎ込んで建設したユートピア村に興味を示したが、武者小路の丸投げ式で失敗した「新しき村」や、自己犠牲を強いる西田の一燈園など、いずれにももろ手を挙げて賛同できぬまま、トルストイが投げかけたキリスト教の原罪と贖罪と人の生き方という問題は解決せぬまま再び原点に戻ってしまっていた。
そこで西田が出会ったのが、当時アメリカで一世風靡していたニューソートと言うキリスト教プロテスタント反カルバン派から発生した思想で、これは、西田にとってはコロンブスの卵に匹敵するほどの画期的な発想であった。
18世紀に北欧スウェーデンの科学者・スウェーデンボルグが自らの瞑想の中で見て来た霊界の世界では聖書に書かれてることとはまったく異なる世界で、そこでは創造神は全知全能でもなければ
特別な意識を持った存在ではなく太陽の光であり、その光はイエスも含めすべての人が平等に持っており、人はみな神の子であり、自身の中にある神をいかに生かして充実した人生を送るかが重要だと唱えた。このニューソートの思想は19世紀にはアメリカ大陸に伝わり、北米で一世風靡するが、20世紀の大正時代には日本にも伝わり、谷口にとってもこれまで持ち続けたキリスト教への問いの大きな答えを与えてくれるものになったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第13回・三河大浜騒動(浄土真宗の反撃)
明治新政府は、寺院統廃合と神仏分離政策、および、宮中、伊勢神宮、全国神社の祭祀統一などにより、欧米のキリスト教のような一神教的神道国家の形成を目指したが、そこに大きく立ちはだかったのは浄土真宗とその膨大な数の門徒たちであった。
新政府は寺院の数を減らしたり、寺院を神社に変えたりすることにより仏教の弱体化と国家が直接管理する全国神社により「神道国家日本」を目指したが、その過程で多くの真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などの寺院が廃寺化されたが、それはすべて朝廷の命令の下にという口実で強権を持って進められた。
しかし、阿弥陀如来以外を信仰対象としない浄土真宗にはもともと権現とか明神と言った神祇信仰は持たなかった為、国家神道を押し付ける新政府の政策には強く抵抗した。
寺院統廃合政策に対して浄土真宗は全国で抵抗を続けたが、明治4年(1972年)2月に富山で2000人以上の真宗門徒農民の一斉蜂起が起きた翌月の3月には三河の大浜で真言宗僧侶や門徒農民数千人による大浜騒動が起き、暴動自体は鎮圧されたものの、それにより大浜での寺院統廃合および神道化政策は中止となり、この動きは全国的な真言宗の抵抗運動に大きな弾みをつけると同時に、新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈運動に対して大きなブレーキをかけて行くこととなった。
現在の愛知県碧南市、西尾市、安城市を含む三河大浜の地域は、当時、千葉県に本拠地を置く菊間藩の遠隔飛び地として菊間藩の管轄下にあり、藩は、平田国学の門下生で小参事の服部純を大浜の寺院統合および神道化政策のトップとして派遣した。
この動きに不満を訴えた大浜の真宗寺院の僧侶たちは暮戸会所に集まり、藩の本部である大浜陣屋に談判に出かけることを決めたが、その道中、多数の真宗門徒農民たちが集まり、談判団の数は数千人に膨れ上がり、僧侶たちは彼らに解散を求めたが応じず、結局大浜陣屋北の片山家庄屋で暴動となり、藩側が砲撃により鎮圧に乗り出すこととなった。
結果は、事態の大きさに対して藩側の処罰は予想よりはるかに軽く、このことからしても真宗を挑発することの恐怖感を藩が感じていたことを物語る。
新政府の強引ともいえる国家神道化計画は、当時東部中国地方から畿内、中部地方全域、そして関東の一部にまで勢力を持ち、当時の人口の三分の一から二分の一近くを占める真宗門徒たちを無視して進めることはできず、結果、神道化政策もかなり形骸化される結果となったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第1回・廃仏毀釈と平田国学の復古神道①
日本の歴史史上最大の汚点とされる廃仏毀釈は、大政奉還の翌年3月の慶応4年1868年3月に薩長新政府により神仏混淆禁止令がだされると翌4月に日吉社の社司・樹下茂国と生源寺希徳らが吉田神道配下の者たちで結成した神威隊40名を引き連れ、日吉社に祀られた仏像仏具経典などを破壊しつくした暴力的破壊活動を契機に明治元年以降の数年間に全国いくつかの地域で過激な寺院破壊活動が展開された事件のことを言う。
廃仏寺院統合の動きは明治前より水戸藩、岡山藩、薩摩藩、土佐藩、津和野藩などいくつかの朱子学・陽明学・国学の影響が強かった藩で江戸時代初期、中期、後期、末期から見られていたが、それらはあくまで寺院の統廃合であって仏像仏具什器などの破壊を意図するものではなかった。
しかし大政奉還後に始まった廃仏毀釈運動は仏教や僧侶たちに対する憎悪と嫌悪が動機となっており、この上からの仏教破壊活動は仏教を信仰する住民
との間に大きな摩擦を引き起こしていった。
廃仏毀釈運動の特徴は、長州・薩摩・津和野など陽明学国学の影響を強く受けた旧藩主や藩士たちがこぞって新政府の神仏分離政策を口実に各地で過激な仏教破壊活動を行い、仏教を信仰する村民たちや浄土真宗を中心とした仏教勢力からの根強い抵抗を受けることとなり、やがて新政府によってそうした破壊活動が罰せられることにより収束に向かった一連の暴力活動を指す。
廃仏毀釈活動は明治元年から4年ぐらいまでの間に集中し、明治9年にはほとんどの破壊活動は終了するが、
廃仏毀釈運動とは別に進められた神仏分離政策も地元の抵抗に会いながら新政府は朝廷からの命令という言葉を盾に強引に推し進め、結果、明治10年頃には日本の寺院の約半数は消滅し、さらに廃仏毀釈で失われた国宝クラスの文化財は日本の文化財全体の三分の二以上に及んだと言われる。
廃仏毀釈活動は、慶応4年の日吉社の仏像仏具経典破壊を引きりに明治元年から明治4年ぐらいにかけ、松本、苗木、佐渡、富山、隠岐などで特に酷い暴力的破壊活動が行われ、これらの破壊活動の首謀者は旧藩主、旧長州藩士、平田国学の影響を強く受けた旧幕臣らで、いずれのケースも平田国学という点で一つの線で結ばれている。
仏教の神・権現神や仏教帰依した氏神明神が長く定着していた日本の国土に平田国学の復古神道というこれまでの歴史に無かった新興宗教を強制的に根付かせる事が一連の破壊活動の根底にあった。
形式的には神仏分離という名目で過去に長く定着していた権現明神信仰を消し去り、新設神社に新たな由緒社伝を捏造したものの、それは同時に信仰の無い神社を増産していくことになったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第6回・リセットされた伊勢神宮(今の伊勢神宮は明治に創られた新伊勢神宮)
日本書紀には、アマテラスの身代と言われる八咫鏡が宮中から常世の世界を求めて五十鈴川のほとりの宇治山田に移ったという話や、後の天武天皇たる大海人皇子が壬申の乱で戦争を祈って伊勢の方向に遥拝した話が出てくるが、実際に伊勢神宮の名称が登場するのは11世紀に天台僧・皇円によって書かれた扶桑略記で、古書の中で確認できる伊勢神宮では、神宮の成立は天武天皇の治世の8世紀頃とされ、もともと伊勢の宇治山田の地で伊勢大神たる由化ノ神を氏神としていた渡会氏の地に、出自不詳の荒木田氏がアマテラスを祀る内宮の禰宜として登場し、渡会氏は由化ノ神ならぬ豊受神を祀る外宮の禰宜とされた。
その8世紀以降明治までのおよそ1200年以上の間続いてきた内宮荒木田氏・外宮渡会氏の禰宜や中世以降明治前までずっと続いていた伊勢大麻を配り参詣者たちを募っていた伊勢御師や江戸時代以降盛んになった伊勢講までをも明治新政府は一瞬にして強制的に廃止してしまった。
一方、中世以降、密教との繋がりを通じて発展した内宮や、道教思想に基づいて伊勢神道を形成して神宮の独立性を確立した外宮の存在基盤も新政府による神宮周辺の寺院の全廃や内外宮禰宜の社家・荒木田氏、渡会氏を追放し、伊勢神道の道教的祭祀を全廃し、薩摩など外部から平田国学など国学神道論の影響を受けた部外者たちを権禰宜など神宮運営の中心に据え、新たな祭祀と地方官庁が伊勢大麻を生産して住民に強制的配布をする、など過去の伊勢神宮の歴史を完全否定する新伊勢神宮建設計画が進められた。
やがて伊勢神宮は神宮としての独自性よりも、明治期に新たに作られた宮中祭祀と歩調をとるように新たに作られた明治神道形式で統一され、さらに全国神社も独自祭祀を禁止し、宮中、伊勢神宮、全国神社と共通性する祭祀の構築が新政府によって進められた。
こうした強引で人工的な日本教の建設には、浄土真宗を中心とする仏教勢力や庶民の根強い反対や抵抗によりかなり緩和され、骨抜きにはなって行ったのだが、伊勢神宮や伊勢周辺寺院も含め、失ったり破壊された伝統文化はあまりのも大きかったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第2回・廃仏毀釈②(佐渡・隠岐・富山)
廃仏毀釈は、慶応4年1868年3月8日の吉田神道配下と日吉社社司ら40名による日吉社の仏壇仏具の破壊焼却に始まり平田国学の影響を強く受けた一部の藩主藩士や庄屋豪農らにより明治元年より明治4年の終わりぐらいまでの間に全国5か所ぐらいの地域で過激な仏教排撃、寺院破壊と僧侶の強制還俗と帰農、そしてぶっそうさい火葬の禁止と神葬祭土葬の強要が実施され、やがて寺院や民衆の方から政府や朝廷に抗議の請願が出され、実地調査をした新政府がその惨状に驚き、事件関係者を処罰し明治4年の後半頃より収束をみることとなった。明治以前より廃仏寺院統合や廃仏毀釈が行われてきた水戸藩、薩摩藩、岡山藩、津和野藩、土佐藩などを除くと明治以降に平田国学の影響を強く受けて過激で破壊的な廃仏毀釈が行われたのは、松本、苗木、佐渡、隠岐、富山の5地域であるが、これらの地域に共通している点は、いずれも浄土真宗の強力な勢力圏であり、真言宗や
天台宗や浄土宗、禅宗の寺院が次々と破壊され、僧侶たちには還俗が強制される中、浄土真宗だけは民衆門徒やtouzai本願寺の政治力も含め、実に根強い抵抗を見せ、この力がやがてこうした一連の過激な廃仏毀釈活動を終息させていくこととなった。
結局一連の過激な廃仏毀釈活動が齎したものは、実行犯たちの思惑に反していかに仏教が国民にとって切り離せない唯一の信仰になっていたかを改めて証明した結果になったのだ。
【講演 深田萌絵 氏 スパイ防止法の制定について】 緊急国民集会 スパイ防止法の早期制定を!② 主催: 英霊の名誉を守り顕彰する会 共催:酒生倶楽部 2020/9/9 衆院第一議員会館
ニコニコ動画(まほろばジャパン)を是非登録して下さい!
動画リスト:
①【挨拶 高田 彌 氏 :原田義昭•衆議院議員秘書】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39317424
②【講演 深田萌絵 氏 スパイ防止法の制定について】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39320729
③【講演 稲村公望 氏 スパイ防止法で公安警察を応援したい!
外国人よりも手引きする日本人を見張れ!】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39321204
④【講演 松本道弘氏 日本一の同時通訳者・深田さんの英語を鍛えたい!】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39322350
⑤ 【パキスタン人 ムガール氏からの応援!】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39322468
⑥ 【酒生文弥 氏 同時通訳者・浄土真宗僧侶】
https://www.nicovideo.jp/watch/sm39322760
一向宗レポート【らじお城跡】
顕如の画像キャプるために太閤立志伝5を久々に起動しましたが、最後のセーブデータは2011年でした…。光陰矢の如し。
宗教統計調査は宗教団体や宗教法人の自己申告に基づく統計。数の誇張やズレなどもあると思います。日本人の場合は「信者」の基準が曖昧なので、信者数を明確に調べるのは難しそうですね。
また、日本史の教科書では、鎌倉新仏教のところで浄土真宗=一向宗と紹介されています。山川の『詳説日本史研究』では加賀の一向一揆のところで「浄土真宗本願寺派」と記載されています。
※よみまちがい
衆生…しゅじょう
普通のお便り、質問、やってほしい企画案、生配信の投稿メール補足、イラストなどなど、投稿をお待ちしています。
↓メールはこちらまで!件名か本文にラジオ動画宛てであることを書いて下さい。
[email protected]
旧らじお城はこちら(コミュ限)⇒mylist/13121739
【Part1⇒ここ】【次⇒sm34584244】
【マイリス⇒mylist/63074832】【コメントできない方⇒sm33718181】
実況Part1まとめ⇒mylist/9128270
単発ものまとめ⇒mylist/8352258
ウェブサイト⇒http://ashizurimusume.web.fc2.com/
twitter⇒https://twitter.com/AshizuriJo
カスッケの独り言18
そこそこ久しぶりの投稿です。今回は宗教について、そのなかでも浄土真宗の親鸞について語ってます。布教の為の話じゃないのでご安心を(苦笑)。マイリスmylist/35642474
戦極姫4武田家 その34
実家の宗派、浄土真宗なんですよねぇ だからどうしたって話だけどもw
シナリオイベント24. 幸せの結末を
武将イベント 本願寺顕如 細川忠興
前:sm20939738 次:/sm20982766
戦極4武田家マイリスト:mylist/36424265
戦極姫・三極姫関連Part1マイリスト:mylist/33034188
終わりまで今回含めて後5回ほど
夢見る男が四八(仮)を実況プレイ Part44
このゲームは間隔が空いても全然支障がないからいいなあ、いまもう一つ進行中のFABLE2は間隔があいてしまうと色々忘れてしまうw操作方法とかw町の地形とかw前→sm6938288 次→sm6968240 マイリスト→mylist/12170042
すーびー、ベクトル 第14回 p=sa+tbの存在範囲
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解答
浄土宗 法然
浄土真宗(一向宗) 親鸞
時宗(遊行宗) 一遍
日蓮宗(法華宗) 日蓮
臨済宗 栄西
曹洞宗 道元
鎌倉仏教を暗記する【日本史・スタディ実況】
0:01 ~ オープニング
1:33 ~ 抜き打ちテスト
2:51 ~ 抜き打ちテストの評価
5:17 ~ 浄土宗
9:00 ~ 浄土真宗
12:59 ~ 時宗
13:45 ~ 日蓮宗
16:34 ~ 臨済宗
18:49 ~ 曹洞宗
22:01 ~ ゴル君の勉強タイム
22:36 ~ ゴル君のテスト再挑戦
26:13 ~ おまけの確認テスト
日常生活では絶対に聞かれないが、
これを覚えなければならない学生・受験生がいる!
もし苦戦しているならば、我々と一緒にサクっと暗記しよう!
日本史の教科書(10,000語以上)を丸暗記し、
センター試験で100点を取った学園長が
全国の学生たちと共闘します。
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主にYouTubeにて活動中!
特にお気に入りの動画を
ニコニコにも投稿していきます。
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大魔王立 スマイル学園
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【使用画像】
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■スマイル大魔王 画
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シロの真宗本廟奉仕団
【正式タイトル】『シロの真宗本廟奉仕団「出遇えて、よかった~それぞれのスタートライン」⑥』あの「シロの聞法見聞録」が復活! 宗祖親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け行事として開かれた第38回大阪教区同朋大会にて上映されました。シロをはじめとした面々が、手次のお寺から真宗本廟奉仕団として東本願寺へ上山することに。真宗本廟・東本願寺にてオールロケを敢行。【制作】真宗大谷派大阪教区教化委員会行事部【元動画】https://youtu.be/5mgVvOuN-eQ
「打ち砕かれる」こと3/3
・前枠のまとめ(#0:00)
・シュライエルマッハーの問題点(#3:20)
・キリスト教の伝統と信仰(#4:30)
・信仰に特別な体験は必要か(#8:04)
・信ずるとはどういうことなのか(#15:25)
・信仰の「年数の長さ」と「報い」には関係があるのか(#22:14)
・浄土真宗の「三願転入」(#25:55)
【前】sm21644102【一覧】mylist/38410017
心が洗われるアニメ第6部クソ息子編1/4
(株)チューリップ企画が制作した『世界の光 親〇聖人』というアニメシリーズをいっしょに観ましょう。親鸞様の話は第6部でおわりです。
VHSがソースなので映像の乱れがあります。
【PS2ドラクエ5】スライムともう一度冒険したい!【実況】part6
妖怪村に平和が訪れました。
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今作まとめ→mylist/41045055
part1まとめ→mylist/34843073
[ツイッター]→@tectan_nico
親切とか下心とか3/3
・ミャンマーでのビザ取得方法(#6:00)
・知識以外で深くなったこと(#8:15)
・「推し僧」の話(#11:20)
・宗教に対する一般の人たちの接し方(#13:10)
・瞑想はどこでできるんですか?(#15:05)
・メンタルヘルスと瞑想(#22:15)
・神饌(しんせん)の話(#26:35)
・浄土教の人たちはゴータマ・ブッダをどう思っているのか?(#27:30)
・浄土真宗と施餓鬼(#28:50)
画像は佐倉杏子です
【前】sm21954235
【鎌倉仏教シリーズ】第29回・浄土真宗②唯円と歎異抄2-2
浄土真宗の開祖・親鸞は、「教行信証」を始めとするいくつかの著書を残し、真宗の思想を後世に残そうとしましたが、親鸞は門徒たちに戒律を課すのではなく、阿弥陀如来の言葉を心底信じることが出来るようにる心がけを多く著しましたが、長年親鸞に付き添った河和田の唯円は、その親鸞の教えが後世誤解されることがないようにするため歎異抄という、親鸞思想の核心をまとめた書を残しました。しかし、皮肉なことにこの書が後の門徒たちの間に大きな誤解を生むことになります。
浄土真宗僧侶との対話04
【前】sm21651741【一覧】mylist/38420971 コミュ→co1466713
ラストです
aisssyさんの みんなのリズム天国【実況プレイ】その63
うp主≠放送者 以下、本放送からの説明文引用。
[生放送タイトル]
リズム
[生放送説明文]
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浄土真宗僧侶との対話01
2013/08/21放送 開演:22:43
浄土真宗大谷派僧侶、やる夫系創作者、ばくだんいわ◆QOOmW3I0SMさんとの対話
http://yaruok.blog.fc2.com/?tag=ばくだんいわ◆QOOmW3I0SM
※18:50分頃の効果音に注意
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【鎌倉仏教シリーズ】第33回・浄土真宗⑥妙好人(江戸時代の真宗)2-1
戦国時代は、猛威を振るった一向一揆など、浄土真宗(一向宗)は怖いイメージが強かったのですが、江戸時代に入ると、妙好人と呼ばれる、大人しくて温厚な念仏信者たちというイメージが一般的になります。妙好人とは、もともとは赤尾の道宗のような熱烈な念仏篤信者の事を指して呼んでいましたが、江戸時代の仰誓の著した「新聞妙好人伝」に出てくる157名(農民41% 商人16%)の妙好人は無辜な市井の庶民で、愛くるしい念仏信者のイメージが支配的です。