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【1/2】さやわか×大井昌和×東浩紀「マンガは歴史と社会を語れるか2ーー大学紛争と『ビューティフル・ドリーマー』の問題、あるいは大塚英志とジェンダーについて」【ニッポンのマンガ #6】(2020/1/9収録) @someru @ooimasakazu
【収録時のイベント概要】
大反響の「マンガは歴史と社会を語れるか」(2019年11月19日)、早くも続編開催決定!
批評家・さやわか氏とマンガ家・大井昌和氏が不定期で送る「ニッポンのマンガ」シリーズ。その第5弾は、美少女コミック研究家・稀見理都氏と東浩紀が参戦し、戦後史とマンガ史を横断する内容で大きな反響を呼んだ。
2020年最初のゲンロンカフェでのイベントとして、その続編の開催が決定。「1」では安彦良和と山本直樹が話題となったが、「2」では2人の接点である1972年の連合赤軍事件(山岳ベース事件+あさま山荘事件)を出発点として、戦後史をマンガが描くことの困難と可能性を語り尽くす。
山本は「レッド」シリーズで連合赤軍事件を入念な取材のもと精微に描ききった。安彦は連合赤軍事件の中心人物と大学時代に深い繋がりがあり、『革命とサブカル』(2018年)ではロングインタビューを行なっている。じつは参加者の東浩紀はこの1ヶ月で大学紛争関係資料に沈潜。いまや山本直樹「レッド」の登場人物についても「だいたい実名が思い浮かびますね。中村愛子(作中では平)と伊藤和子(同じく唐松)あたりになると、ときどきまちがえちゃうけど……」などと言い出す始末。永田洋子(赤城)も植垣康博(岩木)も坂口弘(谷川)も回顧録を読んだという。そんな彼が、あらためて「大学紛争をマンガで描くこと」の問題を提起する。新たな参照点として、押井守、大塚英志、そしてオウム真理教事件などが呼び出される予定だ。
とはいえ、例によってテーマはテーマ。どこにいくかわからない脱線、逸脱、迷走こそが「ニッポンのマンガ」シリーズの魅力。2020年代の幕開けにふさわしい、圧倒的熱量でお届けする神イベントに乗り遅れるな!
マンガは歴史と社会を語れるか2 – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20200109/
Hidetaka Ishida×Yuk Hui × Hiroki Azuma <Is a Post-European Philosophy of/in Technology Possible?> @nulptyx @digital_objects @hazuma
【収録時のイベント概要】
※ 本イベントのトークは英語で行われます。
『新記号論』イベント、第三弾!
著者ふたりを引き合わせた張本人である、香港の哲学者 ユク・ホイ氏をお招きして、石田英敬氏、東浩紀とともに鼎談イベントをゲンロンカフェにて開催いたします。
本イベントでは、「技術について語るヨーロッパ哲学を超えた哲学は可能か、あるいは、ヨーロッパ哲学を超えた新たな哲学は技術のなかにあらわれているのか」をテーマに、たっぷりと議論いただきます(*イベントは全て英語で行われます)。
『新記号論』の新たな展開を、どうぞお見逃しなく!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190820/
鈴木卓爾×深田晃司×渡邉大輔「いま、<映画を作る>とはどういうことか」【ポスト映画論講義 #6】(2019/8/19収録) @suzuki_takuji @fukada80 @diesuke_w
【収録時のイベント概要】
ゲンロンカフェで、ゆるく、長く続けさせていただいているポスト映画論講義も1年4ヶ月(!)ぶり、今回で6回目。
今回のゲストは、鈴木卓爾監督と、深田晃司監督。鈴木監督は、現在、監督最新作『嵐電』が全国劇場公開中であり、深田監督は、まもなく新作『よこがお』が公開される。お二人は、平成が終わり、令和が始まったいま、私が誰よりもお話を伺ってみたい映画監督である。
平成時代、とりわけその最後の2010年代に、日本映画の状況は大きく変わった。動画サイトや配信サービスをはじめとする新しいメディア環境の普及により、「映画」のイメージ自体が大きく揺らいだ。あるいは、社会全体の過剰流動化の中で映画を作る「拠点」も自明なものではなくなった。そして、その大きな転換点となったのが、2010年代の幕開けに起こった、2011年の東日本大震災だった。その後の10年間は、私や深田監督とほぼ同世代の比較的若い世代を中心にして、映画の輪郭と、それを生み出す/観るための足場をさまざまに模索していくプロセスだったと思う。その一端が、私にとっては、例えば『映画はどこにある』(フィルムアート社)にまとめられたような、インディペンデントな映画作家たちの活動だったことは、これまでにもいくどか述べてきた。少なくとも、私自身は、ここに「希望」を感じていた。そして、その模索の営みの一部は、2018年の上田慎一郎監督の低予算のワークショップ映画『カメラを止めるな!』の異例の大ヒットとして、ある意味で社会的な注目を浴びることとなった。ただ、それは果たして突破口だったのか? 『カメ止め』の喧騒もすっかり収まってしまったいま、2010年代の映画に孕まれていたのは、いったいいかなる問題だったのか? あえてこんな風に言ってしまえば、震災(原発事故)と『カメ止め』の後に、<映画を作る>とはどういうことなのか?
……と、書いてみたが、これは私自身の問題意識であり、まずは、お二人の新作の話題から入りたいと思います。
……ただ、私にとっては、鈴木監督も深田監督も、上記のような問いに対して、いまの日本映画の中で、最もラディカルに、そして最も飄々と(!)対峙している作家のように思える。深田監督は、映画の現場の厚生を訴えるアクティヴィストとしての顔を持つ一方、自作の中では今度の新作を含め、現代の公共性のありかを問い続けているし、鈴木監督は、ここ数年、大学や映画美学校での映画制作のあり方を模索し、なおかつ『ゾンからのメッセージ』や『嵐電』のように、「映画を撮ること」の足場そのものの生成過程を唯一無二の方法で問い直している。そして、何よりお二人には、『ほとりの朔子』や『さようなら』、そして『ジョギング渡り鳥』といった震災をテーマとした重要作もある。
といったところで、当日は、毎回のように、私が司会役を務め、お二人の新作について、そして、映画作りの現在について、いろいろと伺っていきます。令和の夏の久々の映画トーク、ご期待ください!
(文責・渡邉大輔)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190819/
ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×福冨渉 司会=上田洋子「舞台と小説の交感ーー『プラータナー:憑依のポートレート』『憑依のバンコク オレンジブック』出版&東京公演開催記念」(2019/7/2収録)@sh0f @yuvmsk
【収録時のイベント概要】
2018年にバンコクで世界初演を迎えた『プラータナー:憑依のポートレート』は、タイの現代史と、そこで生きる一人の芸術家を描く物語。国家、政治対立、芸術、セックス、ポップカルチャー、繰り返し起こる軍事クーデター。それらが渦巻くなかで、彼は人生の幸福と孤独に心と身体を囚われ、引き裂かれ、それでもなお生きることを望み、欲望する。
これは、決してタイだけの物語ではない。今を生きる、私たちとあなたたちの物語。
タイ現代文学の旗手ウティット・ヘーマムーンの原作を、岡田利規の脚本・演出、塚原悠也(contact Gonzo)による空間構成=セノグラフィーが再構築。タイ唯一の舞台芸術賞、IATC Thailand Dance and Theatre Awards 2018のBest Play賞を受賞するなどバンコクの演劇シーンで絶賛を浴び、パリのポンピドゥ・センター(フェスティバル・ドートンヌ・パリ/ジャポニスム2018公式企画)での上演も反響を呼んだ、斬新さ溢れる4時間の大作が、ついに日本初演を迎える!
(『プラータナー:憑依のポートレート』公演特設WEBより)
6月27日より東京芸術劇場にてウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也『プラータナー:憑依のポートレート』が上演される。
また、この原作小説が福冨渉氏翻訳のもとで河出書房より6月24日に刊行、次いで、公演記録集も6月28日に白水社より刊行される。
『プラータナー:憑依のポートレート』日本初演とW刊行を記念して、
ゲンロンカフェにて、来日中のウティット・ヘーマムーン氏、そして舞台版を手がけたチェルフィッチュの岡田利規氏、本書翻訳者でありゲンロンのイベントにもご登壇いただいたタイ文学者の福冨渉氏によるトークイベントを開催!司会はゲンロンの上田洋子がつとめ、3名とともに、小説と演劇、タイと日本の文学を繋ぐ議論を展開する。
文学の後発国であり、いまだに文学と社会・政治の距離が近く、現代文学が力を持ち続けているタイ。
この国では、言葉には何が託されるのか。託された言葉たちは、舞台上にどのように表出するのか。
この貴重な機会を、どうぞお見逃しなく!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190702/
片山杜秀×岡田暁生 司会=山本貴光「クラシック音楽から考える日本近現代史──『鬼子の歌』刊行記念イベント」(2019/5/14収録)
【収録時のイベント概要】
鬼才の音楽評論家・片山杜秀氏の新著『鬼子の歌――偏愛音楽的日本近現代史』刊行記念イベント!
音楽評論家で、政治思想史研究者の片山杜秀氏。サントリー学芸賞と吉田秀和賞をダブル受賞した『音盤考現学』『音楽博物誌』をはじめとして、教養と知性をそなえた博覧強記ぶり、情熱あふれる語り口で多くの読者を魅了してきた。
文芸誌『群像』の連載がまとめられた新著『鬼子の歌』は、そんな片山氏の魅力が濃縮された大著である。
本書で描かれるのは、明治以降に生まれた「日本の西洋クラシック音楽」だ。文明開化によって、文学や美術、そして音楽も(西洋)近代化を目指して、西洋からの借り物を咀嚼し、換骨奪胎して、新たな日本文化を生みだしてきた。
しかし日本の近代のクラシック音楽は、同じ近代文学や近代美術に比べて注目をされる機会は多くはないと、片山氏は述べる(まるで「鬼子」のようにと)。夏目漱石や森鴎外の小説のように、明治の山田耕筰の歌劇『黒船』が論じられることはあまりない。
日本人の作曲家たちは、どのように日本のオペラや交響曲やソナタを作曲してきたのか。それらははたしてどんな音楽なのか。
本書では山田耕筰、伊福部昭、黛敏郎、三善晃など、文明開化以降の14人の作曲家とその作品について論を展開しながら、立ち現れてくる日本社会や文化のあり様について語っていく。
片山氏の慧眼によって迫る時代のドキュメントは、音楽そのものにあまり詳しい人でなくても興奮をかき立てる面白さだ。
そんな本書の刊行記念トークイベントには、片山氏のほか、音楽学者の岡田暁生氏、司会に文筆家の山本貴光氏をお招きする。
岡田氏のゲンロンカフェへの登壇は、2017年4月の亀山郁夫氏との対談イベント以来2度目。岡田氏はかつて片山氏の『音楽博物誌』の書評において「僕にとって片山さんは『真に21世紀の音楽批評家の名に値する唯一の人』である」と激賞した。本書に対しても、聴いたことがない曲でさえ読んでいるうちに惹かれていく「批評の究極のマジック」と評を寄せている。
山本氏は、書評専門紙『週刊読書人』にて本書の刊行を機に片山氏と対談。「とにかく言及される音楽を端から聴きたくなる」と〝片山節〟の魅力を熱く語っている。
新元号「令和」はじめての月にお届けする、「クラシック音楽」から考える日本近現代史。
豪華登壇陣によるトークは必聴!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190514/
さやわか×大井昌和【令和第一弾!】「『名探偵コナンと平成』を語り尽くす!ーーニッポンのマンガ #4」 【四天王シリーズ #11】(2019/5/4収録)@someru @ooimasakazu
【収録時のイベント概要】
さやわか氏の新著『名探偵コナンと平成』が、
2019年4月3日に発売され、はやくも大きな話題を呼んでいるーー!
ゲンロンカフェの大人気シリーズ「ニッポンのマンガ」にて、著者のさやわか氏とマンガ家の大井昌和氏が、本書を徹底解説いたします!
平成6年『サンデー』誌で連載が開始された「名探偵コナン」は、一躍人気となり、その2年後の平成8年にはテレビアニメがスタート、続々映画も公開され大ヒットを記録する、国民的名作マンガとなりました。
平成元年に生まれたひとにとっては、主人公のコナンや少年探偵団のこどもたちと同年齢の時に、アニメ放映が開始されるなど、まさに平成とともに歩んできたといえる「コナン」。
この平成の名作は、いったいどのように、どうして、生まれたのか、
そして、ともに歩んできた「平成」とは一体なんだったのか。
平成がおわり令和を迎えようとするいま、ふたつの謎を名推理により解き明かした本書について、徹底的に語り尽くします!
「名探偵コナン」は、4月12日(金)より劇場版第23弾『名探偵コナン 紺青の拳(フィスト)』が公開。
いまもっともアツいマンガ×批評イベントとなること間違いなし。
『名探偵コナン』をヒントに平成という時代の真実を推理してみませんか。
ーー『名探偵コナンと平成』より
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190504/
しりあがり寿×姫乃たま「漫画家として生きること――姫乃たま『周縁漫画界』(KADOKAWA)刊行記念イベント」 @shillyxkotobuki @Himeeeno
【収録時のイベント概要】
姫乃たま氏の新著『周縁漫画界 漫画の世界で生きる14人のインタビュー集』(KADOKAWA)刊行を記念し、トークイベントを開催します!
⦅漫画に限らず時々、作家と作品は切り離して考えるべきだと言われるけど、私は切り離さないほうが面白いと思っています。作家本人が作品のイメージそのままでも、その反対でも、魅力的だからです。⦆
(姫乃たま『周縁漫画界』まえがき より)
姫乃氏は『職業としての地下アイドル』(朝日新聞出版)ではアイドルの実態を赤裸々に描き出し、好評を得ました。
本書で取り上げられるのは、作風も個性も違う、十人十色の第一線で活躍する漫画家たち。
多くの人々を笑わせ、唸らせ、熱くさせる漫画を世に生み出す漫画家たちは、日々なにを思い、どのような生活を送っているのでしょうか?
姫乃氏はやわらかな筆致で、表現者としての道のりや漫画に込める思いなど、漫画家たちの知られざる素顔に迫っていきます。
今回の対談のお相手には、同書で姫乃氏のインタビューを受けた、漫画家のしりあがり寿氏をお招きします。
書籍のなかでは、ギャグ漫画のもたらす笑いの効果や可能性について、お二人で考察をしています。
漫画家たちの世界を知ることで、漫画の新たな魅力を発見できるかも?
漫画ファンはもちろん、漫画家をはじめとしたクリエイターや表現者を志す皆さんは、超必見です!
【登壇者より】
「マンガが大きな影響力を持つにいたった今、それを作り出しているマンガ家にも様々な角度から関心が集まっています。とりわけ曲者の集まるビーム界隈。その中の一人として、姫乃さんに腑分けされるのが楽しみでたまりません。はたして何が出てくるか?ドベーッ」
(しりあがり寿)
「『コミックビーム 』の誌面で、三年に渡って漫画家さんのインタビューを続けてきました。私自身が漫画を描けないことから、技法よりも漫画家さんの生い立ちや、作品に影響を受けた出来事、本人の在り方、そしてどうして漫画を描くのかについて、著書では着目しています。当日はインタビューでは話しきれなかったお話をできるのが楽しみです」
(姫乃たま)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20181107/
五百蔵容×速水健朗 電話出演=樋渡群「サッカー批評の新たな地平を切り拓く!――『砕かれたハリルホジッチ・プラン』から『サムライブルーの勝利と敗北』へ」 @500zoo @gotanda6
【収録時のイベント概要】
伝説のサッカーイベント、待望の第2弾!
2018年サッカー日本代表の激動を徹底総括し、サッカー文化の新たな魅力を描き出す!
今年7月、それまで本田圭佑が誰かも知らないほどサッカーに疎かった東浩紀が、たまたまテレビでW杯ロシア大会の日本代表の試合を観戦したことをキッカケに、トークイベント「戦術のパラダイムシフトとペップコードの謎――オフサイドの意味すらわからない超初心者・東浩紀が、それでもハリル解任を許さない速水健朗と元サッカー部のさやわかに聞く2018ロシアW杯の魅力と行方」 が開催された。
W杯決勝戦直前のお気楽雑談イベントの予定だったにも関わらず「今年のゲンロンカフェのなかでも屈指の神イベント!」「これぞ人文知や批評の面白さ!」「こういうサッカー談義が観たかった!」と圧倒的な大反響を巻き起こした。
特に、講師役として招かれた速水健朗氏によるプレゼン「文化系のためのサッカー講座」は、産業革命以後のヨーロッパと近代フットボールの密接な関係を明らかにするなど、サッカーの多様な見方を紹介する秀逸の面白さとなった。
まったくサッカーに疎い東が、現代のグローバル金融資本主義とサッカーの類似性について言及し応えていく奇跡の展開は絶賛を博した。
同イベント中には、『砕かれたハリルホジッチ・プラン――日本サッカーにビジョンはあるか? 』(星海社新書)の著者である五百蔵容氏が急遽壇上に登場し、日本対ベルギー戦の得点シーンを超精密に解説する場面もあった。
同書は明晰な試合分析にはじまりサッカーの本質を解き明かしていく意欲的な内容で、イベント前に速水氏に薦められ読んだという東も感嘆するほどの好著である。
さらに五百蔵氏は、9月に『サムライブルーの勝利と敗北サッカーロシアW杯日本代表・全試合戦術完全解析』(星海社新書)を上梓。
ロシアW杯の日本代表全4試合を緻密に分析し、日本代表の展開したサッカーがどういうものだったか、世界の潮流の中での位置づけや、過去の監督たちの仕事との連続性について考察した。
五百蔵氏は『砕かれたハリルホジッチ・プラン』のなかで「志半ばに終わった仕事を顧みることなく、『次、次!』とばかりに貴重な教訓をしばしば含む経験を捨て去っていく愚は、サッカーの世界のみならず日本社会の至るところで見られます」と語る。
サッカーという競技の核心に切り込むことで、広く一般性や普遍性を見出してきた五百蔵氏ならではの諫言だろう。
2018年のサッカー日本代表は、W杯2ヶ月前という異例の時期に、ハリルホジッチ監督の電撃解任。西野朗監督率いる日本代表として臨んだW杯では、下馬評を覆すベスト16(1勝2分2敗)への進出。森保一監督による新体制始動となってからのキリンチャレンジ杯では、コスタリカ、パナマ、ウルグアイに3連勝と、まさに激動の1年だった。
ゲンロンカフェではこの度、五百蔵氏、速水氏をお招きして、2018年の日本サッカーの現在地を徹底検証するとともに...(全文は以下のリンク先からご視聴いただけます)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20181203/
大谷能生×速水健朗 「<俺による永久革命>の復活ーー『平岡正明論』刊行記念イベント」 @ootany @gotanda6
【収録時のイベント概要】
待望の『平岡正明論』がここに誕生!
1960年代から21世紀冒頭までの約半世紀を生涯現役で駆け抜けた著述家、平岡正明。
『ジャズより他に神はなし』『ジャズ宣言』『チャーリー・パーカーの芸術』などジャズ評論で広く知られるほか、
政治思想、第三世界革命、犯罪、水滸伝、中国人俘虜問題、歌謡曲、映画、極真空手、河内音頭、大道芸、浪曲、新内、落語……
数多くのテーマに空前絶後のスケールで取り組んだこの著述家を、批評家であり、様々なジャンルで活躍する音楽家でもあり、ときには俳優として舞台にも立つ表現者・大谷能生氏が自由自在に論じた問題作、『平岡正明論』(ele-king books)。
ゲンロンカフェでは、著者の大谷氏を招き、この『平岡正明論』の刊行記念イベントを開催します。
対談相手をつとめるのは、『ラーメンと愛国』や『独立国家論』(『ゲンロン』連載中)など、独自の切り口で「国家」を論じてきた速水健朗氏。
イベントでは、両氏によって、平岡の縦横無尽に繰り広げられる趣味性の一貫性をつきとめ、「戦争」ではなく「革命」の可能性を肯定し続けたその思想を徹底的に解析し、議論することになるでしょう。
平岡イズムを受け継ぐ2人による「<俺による永久革命>の復活」をお見逃しなく!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20180701/
金子遊×清水高志×渡邉大輔「哲学と映像の『存在論的転回』——『実在への殺到』と『映像の境域』の交点から考える」 @diesuke_w @omnivalence
ここ数年、国内の現代思想では「思弁的実在論」「オブジェクト指向存在論」、あるいは「人類学の存在論的転回」と呼ばれる言説が盛んに紹介され始めている。つい最近も、ミシェル・セールの『作家、学者、哲学者は世界を旅する』、アレクサンダー・ギャロウェイの『プロトコル』、グレアム・ハーマンの『四方対象』、ティム・インゴルド『メイキング』……などなど、関連書籍が話題を呼んでいる。
これらは英語圏では十年くらい前から登場し、互いにも密接な関連性を持って展開してきた。僕(渡邉)自身は映画批評や映像文化論を専門にしている人間であり、むろんこれらの哲学的動向に関しては専門外だが、いまの自分の仕事にもさまざまな形で着想をもらっている。他方で、これもまたここ最近の映像論界隈で盛り上がっているニューメディア研究やポストメディウム論、映像人類学といったデジタル以降、あるいはワールドシネマ台頭以降の映画の世界で脚光を浴びつつある理論や言説があるが、これらもまた以上の思想動向と関わりを持ってきた。ヒトとモノ、ヒューマンとノンヒューマン、あるいは観客とスクリーン、カメラと被写体……といった近代以来の関係が新たに再編されつつある感覚がある現代、今後の世界像とそこで作られる文化表現がどうなっていくのかを、今回のイベントでは「哲学」と「映像」の関わりから考えてみたい。これはまだあまりない試みのはずである。
ゲストには、今まさに新著『実在への殺到』(水声社)が大きな反響を巻き起こしている哲学者・清水高志氏と、こちらもここ最近、『辺境のフォークロア』(河出書房新社)『映像の境域』(森話社)など、映像、文学、民族学といったジャンル越境的な著作や翻訳を次々刊行されている金子遊氏をお迎えした。僕と清水氏、僕と金子氏、また清水氏と金子氏はそれぞれ以前から面識があり、前に一緒にイベントやワークショップもさせていただいたこともあるが、3人での鼎談は初めてである。清水さんはミシェル・セール研究の第一人者である一方、世界の哲学の動向にも鋭敏に反応する独創的な思想家であり、また情報哲学などデジタル以降の文化環境の変化にも幅広く関心をお持ちだ。また金子さんも、文学から実験映画、ワールドシネマ、映像人類学、ドキュメンタリー、民俗学……と、関心が幅広い。
今回、僕は司会役というよりは、「書生」として(笑)お二人に日頃独学で色々と考えていることを伺ってみたい。なので、この分野の初学者も楽しめるはず……? ともあれ、当日は3人の「化学反応」を楽しんでいただきたい。(渡邉大輔)
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20171014/
岡﨑乾二郎×岡田温司×土屋誠一「美術館という地雷原——それらは不発のままで保たれうるか?」【2017/6/2収録】 @kenjirookazaki @seiichitsuchiya
ここ数年、美術に対する相次ぐ表現規制は、美術館という機関においてもまた無関係ではない。とりわけ日本国内においてのそれは、かつてから懸念されていた制度的疲弊を、結果的に明白するものとなった。
美術館に対する露骨な軽視は、確かにこの国の文化的民度を示しているかもしれない。とはいえ美術の側から、美術館を擁護する有効な手立てがとられていない上、美術館経営においても、危機意識が共有されていないことがはっきりしたのではなかろうか。
今回のイベントでは、美術家かつ美術批評家でもある岡﨑乾二郎、美術史家である岡田温司、表現規制への反対論陣の形成にかかわってきた批評家の土屋誠一の3人が、ここ数年の動向を批判的に総括しつつも、「美術館」が本源的に持つポテンシャルを議論する。
【イベントのページ】http://genron-cafe.jp/event/20170602/
さやわか×ばるぼら「さやわか式☆現代文化論#26 今からでも間に合う! 正しい渋谷系入門」
90年代前半から半ばまで、音楽を中心としたムーブメントとして盛況だった「渋谷系」。だが現在ではその潮流は表向き失われたし、語られることがあったとしても誤解や偏見に基づいているか、ノスタルジーが協調されがちである。昨今では小沢健二が活動を活発化させるなど、渋谷系を再検討する機運が芽生えてもいるが、その言説はリアルタイムに渋谷系を体験した世代にとっては単に懐かしく、またそれ以下の世代にはさほど重要さの理解できないものになりがちなのである。日本文化の重要なポイントである渋谷系について、正しい理解がなされないのは深刻な問題である。そこで、他分野と同様、渋谷系についても網羅的な取材研究を重ね著書『渋谷系の時代』も書き進めているばるぼら氏に、今こそ正しく理解すべき渋谷系の知識と教養を教示いただくことにする。氏はさやわかとも過去に渋谷系について話す機会があったが、今回は渋谷系の基本的な知識から、90年代の文化は正しく再評価しうるか、なぜそれがなされないのかという広い視野での討議も行う。(さやわか)【イベントのページ】http://genron-cafe.jp/event/20160623/
さやわか×西島大介×濱野智史「映画『世界の終わりのいずこねこ』アーキテクチャ、アイドル、コミック、その先へ」【2015/3/21収録】 @someru @DBP65 @hamano_satoshi
西島大介が脚本・出演・コミカライズを手がけ、濱野智史率いるPIPメンバーも多数出演する映画『世界の終わりのいずこねこ』は、ニコ動環境以降の斬新な映画表現であり、クラウドファンディングで約460万円を集め制作され、いずこねこのほかゆるめるモ!やライムベリーら地下アイドル16組が出演する10年代の新しいSFアイドル映画です。映画公開とコミック版の刊行を記念して、アーキテクチャ、セカイ系、アイドル、映画、ゼロ年代そして10年代の表現をテーマに、さやわか、濱野、西島が徹底的にトークします(PIPによる単行本お渡し会も同時開催)。
速水健朗「いまなぜ『独立国論』を語るのか」【独立国論 #3】【2015/11/5収録】 @gotanda6
今回は、ついにシリーズ三回目、独立国論の完結編です。これまでは満州国設立と鉄道事故の関係であったり、学生運動、反体制運動といったものが、日本の作家たちにどのような影響を与えたかを皮切りに、映画監督の堤幸彦を語ってみたりと、僕(速水)の趣味性の高い「独立国論」を、ゲンロンカフェという場を借りて、講義という形で行ってきました。最終回は、一度原点に返って、なぜいま、「独立国論」を僕が語ろうとしているのかについて講義してみたいと思います。簡単に言えば、多国籍企業が力を持ち、ネットを得た市民が権力を持つ時代に、これまでどおりに中央集権が機能しなくなる時代が来るのではないかというのが前提です。そうなった場合に、1,地域で独立運動が起こる、これはすでに世界中で起こり始めていること。それ以外、2,民族や土地とは別の新しいコミュニティが「国家的なもの」になり得るような事態が想定できるかもしれない。大きくは、この2つでしょうか。特に、2については、僕の近年の仕事と無関係では無いと思っています。例えば、「都市とショッピングモール」。国家とは違ったレイヤーで世界に広がる共和国的なものを考える。それが東浩紀と僕が挑んだ「モール論」だった気がします。「政治と食」(フード左翼とフード右翼)。このテーマも、国民を分断させるような「思想」として食とその闘争史を遡るという性質のものでした。「フード左翼」という造語までつくったのであれば、なぜ「フード左翼革命」をここで提唱しなかったか、悔やんでいます。ここで語りすぎると本編で語ることがなくなるのでやめておきます。また、この講義日である5日は、僕の誕生日の直前でもあります。ひとつ、誕生日を祝うご祝儀といった気持ちで、お越しいただければさいわいです(←ずうずうしい)。
斎藤哲也×山本貴光×吉川浩満「『人文的、あまりに人文的』な、2016年人文書めった斬り!」【2016/12/7収録】 @saitoshokai @yakumoizuru @clnmn
月間電子雑誌『ゲンロンβ』で「人文的、あまりに人文的」と題し、毎月2冊の人文書を徹底解剖する対談連載している山本貴光と吉川浩満。「自由意志は存在するか」「歴史を解釈するとはどういうことか」「ひとはなぜ人生相談をするのか」。こうした哲学的・普遍的な問題を人類はいかに解決してきたのか、山本と吉川は古今東西のさまざまな人文書から、回答のサンプルを抽出してみせる。エピクテトスからモンテーニュ、大西巨人、そして2016年の著者まで、人間は人間の問題を考え続けているのだ。書物はそうした営みを時を超えて繋いでくれる。2016年は人文書にとってどのような年だったのだろうか。山本・吉川、そして人文書編集者の斎藤哲也、博覧強記の3人が2016年の人文書を縦横無尽に語り尽くす!■今年もたくさん本を買ってしまいました。斎藤さんと山本くんの話を聞いて買う本がさらに増えるのかと思うと今から憂鬱……いや、本当に楽しみです! みなさんもお楽しみに!(吉川浩満)どの本を取り上げようか、悩みまくっておりますが、互盛央さんの『日本国民であるために——民主主義を考える四つの問い』(新潮選書)と杉田俊介さんの『長渕剛論——歌え、歌い殺される明日まで』(毎日新聞出版)の2冊は大プッシュする所存です。もちろん山本さん&吉川さんの『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)、山本さんの『「百学連環」を読む』(三省堂)についても、根掘り葉掘りお聞きしたいと思ってます。(斎藤哲也)
深田晃司×渡邉大輔「演劇、映画行政、そして世界へ——深田晃司監督最新作『淵に立つ』カンヌ受賞記念企画」【ポスト映画論講義 #3】【2016/10/15収録】 @diesuke_w @fukada80
渡邉大輔がホスト役を務める、映画系トークイベントの第3弾。
今回のゲストは、3回目にして初めての実作者、今秋公開予定の最新作『淵に立つ』が先ごろ、第69回カンヌ国際映画祭で「ある視点部門」審査員賞を受賞したことも記憶に新しい、俊英・深田晃司監督!東京国際映画祭日本映画「ある視点部門」作品賞を受賞した『歓待』(11年)、ナント三大陸映画祭グランプリ金の気球賞を受賞した『ほとりの朔子』(14年)と、数々の受賞歴でいまや世界的な注目も浴びつつある深田監督。ゼロ年代後半以降に脚光を浴びた才気溢れる新世代若手映画監督たちのなかでも、深田監督は類例を見ないユニークなキャリアを歩みながら、しかもここ十数年のインディペンデントを中心とした日本映画シーンの核心部分を体現していた稀有な存在であるといえる。演劇=劇団青年団やアニメーション=東映との関わりから、「独立映画鍋」を拠点にした映画と文化行政へのコミット、ロボット役者とのコラボレーション、そして海外映画祭への進出……。ほぼ同世代であるホストの渡邉は、昨年、共著『日本映画の海外進出』(森話社)所収の拙論で、深田監督にインタビューした。
この時代に、「映画を作る(作り続ける)」とはどういうことなのか? いまもっとも波に乗る深田監督のお話を伺いながら、映画の未来と可能性について考えてみたい。
http://genron-cafe.jp/event/20161015/
辻田真佐憲「プロパガンダとしての観光——帝国日本の『聖地巡礼』から中国レッドツーリズムまで」【愛国コンテンツの未来学 #5】【2016/4/15収録】 @reichsneet
観光はプロパガンダにとって最良の手段である。ナチス・ドイツは、歓喜力行団を設立して「ひとつの民族」に観光の楽しみを与え、ヒトラーの生家を「聖地化」した。帝国日本は、紀元2600年に建国神話の「聖地巡礼」事業を行い、大東亜共栄圏の「観光地化」を構想した。プロパガンダは民衆に浸透させなければ用をなさない。民衆に浸透させるためには楽しさが必要だ。それゆえ、楽しく新鮮で、五感を通じてひとびとに訴えかける観光は、プロパガンダの手段として昔からたいへん重視されてきた。近年も、中国が「紅色旅游」(レッドツーリズム)の名のもと中国共産党の宣伝を行い、金正恩体制の北朝鮮がスキー場や飛行場を整備して観光立国をめざしている。観光は、現在のプロパガンダを知る最良の手段でもある。そこで、シリーズ5回めの今回は、「プロパガンダとしての観光」に焦点をあてる。登壇者は、2013年に北朝鮮、2014年にヒトラーの生家、2015年に中国のレッドツーリズムなど、プロパガンダ観光の今昔の地を歩いてきた。その内容(特に最新の中国レッドツーリズム)を詳しく取り上げることを通じて、プロパガンダ観光の歴史と未来を考える。(1)かつてナチスの「聖地」だったヒトラーの生家
吉川浩満×山本貴光「人文学は本当に危機なのか?——ポスト・ヒューマニティーズの文化地図作成法」【2016/3/2収録】 @clnmn @yakumoizuru
【イベント概要】月間電子雑誌『ゲンロンβ』で「人文的、あまりに人文的」と題し、毎月2冊の人文書を徹底解剖する対談連載している山本貴光と吉川浩満。「自由意志は存在するか」「歴史を解釈するとはどういうことか」「ひとはなぜ人生相談をするのか」。こうした哲学的・普遍的な問題を人類はいかに解決してきたのか、山本と吉川は古今東西のさまざまな人文書から、回答のサンプルを抽出してみせる。エピクテトスからモンテーニュ、大西巨人、そして2016年の著者まで、人間は人間の問題を考え続けているのだ。書物はそうした営みを時を超えて繋いでくれる。2016年は人文書にとってどのような年だったのだろうか。山本・吉川、そして人文書編集者の斎藤哲也、博覧強記の3人が2016年の人文書を縦横無尽に語り尽くす!■今年もたくさん本を買ってしまいました。斎藤さんと山本くんの話を聞いて買う本がさらに増えるのかと思うと今から憂鬱……いや、本当に楽しみです! みなさんもお楽しみに!(吉川浩満)どの本を取り上げようか、悩みまくっておりますが、互盛央さんの『日本国民であるために——民主主義を考える四つの問い』(新潮選書)と杉田俊介さんの『長渕剛論——歌え、歌い殺される明日まで』(毎日新聞出版)の2冊は大プッシュする所存です。もちろん山本さん&吉川さんの『脳がわかれば心がわかるか』(太田出版)、山本さんの『「百学連環」を読む』(三省堂)についても、根掘り葉掘りお聞きしたいと思ってます。(斎藤哲也)
佐々木敦×吉田雅史×東浩紀 「批評再生塾はぶっちゃけ成功だったのか、第2期はなにが変わるのか?」【2016/4/27収録】 @sasakiatsushi @nejel_mongrel @hazuma
3/17、〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉の第1期が全課程を終了した。豪華な講師陣を迎え華々しくスタートを切った一方で、厳しい課題と短い〆切を前に脱落者も続出。最終講評会までたどり着いたのは、全41名のうち15名だった。1年間の通算得点上位3名と、今回のテクストで選ばれた3名、計6名の評価をめぐり、講評会は白熱した。結果、当初予定していた最優秀賞(初代総代)に加え、総代同様『小説トリッパー』2016年夏号への掲載権を得る「次点」、次期批評再生塾へのオブザーバー権が与えられる「優秀賞」の新設が決定。それぞれ、吉田雅史、上北千明、横山宏介が選出された。一見成功したように見える批評再生塾第1期。しかし、本当にこれでよかったのか!主任講師佐々木敦、ゲンロン代表東浩紀が、怒涛の第1期を総括し、すでに募集中の第2期に向けて展望を語る。初代総代に選ばれたばかりの吉田雅史も登場!卒業生も受講希望者もウォッチャーもそうでないひとも必見!!
河野至恩×上田洋子「東京から世界文学空間へ:接続と断絶——『世界の読者に伝えるということ』出版記念トークイベント」【2014/6/14収録】 @shionkono @yuvmsk
【イベント概要】
東京にハルキ・ムラカミ・ミュージアムをつくる?現代日本の批評は、世界でいまどう読まれているのか?そして、日本文化を海外に持ち出すことの価値は?俯瞰ができない世界のなかで、ローカルな現象とグローバルな文脈をどうつなぐか。そして、つなぐことにより見えてくる新しい可能性と限界をさぐる。
<登壇者からのメッセージ>
新刊『世界の読者に伝えるということ』では、日本文学・日本文化の世界での消費・受容を世界の読者の視点から見ることをテーマとして、「比較文学」「地域研究」という、異国の文学・文化を読む「ふたつのレンズ」について考えました。このトークイベントでは、本書の議論をさらに深めつつ、現代の日本文学・批評を海外に紹介することの意義について考えていきたいと思います。
まず、本書の理論的な背景として、ダムロッシュ、スピヴァクらの「世界文学」をめぐる議論を読み解き、翻訳文学を読むということについて、現在の比較文学研究・批評のなかに位置づけます。文学研究の「世界文学」論の見取り図を描くといってもいいでしょう。本書で「比較文学」と「地域研究」を対置したのはなぜか。「世界文学」として読むということは原典を軽視することにつながるのか。——そうした疑問にも答えたいと思います。
そして、日本文学、とくに現代文学や批評を世界の読者から読むことによる新たな可能性について、実例を通して考えていきます。なぜ東京には、国外の文学の読者に向けた文学館がないのか——たとえば、東京の村上春樹作品にかかわる場所を網羅した「ハルキ・ムラカミ・ミュージアム」のような。また、現代日本の批評は、どのような媒体で翻訳出版され、どのような読者に読まれているのか。それを海外の日本研究者などはどう評価し、今後はどのような批評の翻訳が求められるのか。海外の日本文学・批評の研究・翻訳・紹介にさまざまな形で関わってきた私の経験から、書籍では紹介しきれなかった実例を通して、これらの問題を具体的に考えてみたいと思います。
本書で提示した日本文学・文化の海外への流通のモデルでは、ローカルな場所(たとえば東京)で生まれたテクストや文化現象をグローバルな文脈につなぐという作業が重要な役割を果たします。しかし、2014年の現状を見ると、少し前には世界に開かれていたように見えた日本のポップカルチャーや批評が、再び世界の文化の流れから独立・自生し、独自の発展をとげているようでもあります。世界の文脈に乗せるということは、コストが高い割にリターンが少ないと敬遠されることが多いのかもしれません。ただ、今後は文化の境界を越えた流通が増えるなかで、本書で書かれたような文化流通がむしろスタンダードになっていくのではないか。そのような状況のなかで、東京発・日本発のテクストや文化現象を世界の文脈に翻訳し、接続していくキュレーションの役割がますます重要性を増していくのではないか、というのが筆者の見立てです。今回のトークイベントでは、この作「接続」と「断絶」の意味について議論したいと思います。
本書で提案したコンセプトを、思想や文学に関心のある読者向けにずっと深めたトークイベントにするつもりです。ぜひお見逃しなく。
<3/7>さやわか×西島大介「西島大介とセカイは変わったのか——『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』刊行記念対談」【さやわか式☆現代文化論 #23】【2015/12/22収録】 @someru @DBP65
西島大介の著書のうち、西島大介の批評性がもっとも発揮された傑作『土曜日の実験室』が出版から10年にして文庫になった。そもそも人は西島大介のことを何もわかっていない。せいぜい、かわいい絵を描く漫画家だとか、音楽活動もして いるサブカルっぽい作家だとか思っている。本人もろくに説明しないので、何も理解されないまま10年が過ぎ、こんな時代になってしまった。長年の友人であり「ひらめき☆マンガ学校」等でともに仕事をしているさやわかとしては大いに不満である。そこで今回は、西島大介から日本文化の10年を、そして西島大介自身をいまいちど振り返りたい。これはファンイベントでも馴れ合いトークでもない。ガンガンいくぞ。(さやわか)■2005年の刊行より10年が経ち『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』として僕の初短篇集がちくま文庫化されました。ちくま文庫といえば僕にまとっては「マンガの教養」枠。そう、この批評文と短篇コミックからなる奇妙な本は、暇潰しに足る雑多な読み物であると同時に「学び」そのものです。ゼロ年代から10年代へと時は流れ、版元であったINFASの雑誌「スタジオボイス」は休刊し、セカイ系やラノベブームもその役割を一度終え、オタクやネットの在り方はよりだらしなく、希望の無いものへと変わりました。僕の居場所も変わりました。例えばゼロ年代に盟友にして恩人たる東浩紀さんの哲学を最も適切にビジュアル化していた駆け出しの僕でしたが、現在においては梅沢和木さんこそがその役割を担っていると感じます。……全文は以下のリンクからご覧ください。西島大介とセカイは変わったのか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20151222/
<5/5>木ノ下裕一×児玉竜一「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」【2015/8/14収録】 @KINOSHITAyuichi
「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」というタイトルを頂戴しまして、畏れ多さに縮み上がっている次第です。私は、常に〈伝統〉というものの周辺に住み、〈部外者〉として古典を扱ってきましたので、自身の活動を通して新しい伝統をつくっていると感じたことはありません。しかし、現代演劇側の人間がいかに〈伝統〉を扱うことができるのか、その可能性と限界を探り、古典現代化についてのいくつかの方法論を作り上げていきたいとは常に思っています。それも、いろんなアーティストに示唆を与え、伝播していくような方法論を。それが可能になれば未来の演劇界はゆるやかに革新されていくかもしれないと夢想しています。ですから今回の分不相応なタイトルを、古典現代化に必要な〈統(おおもと)〉を〈伝〉えるという意だと勝手に解釈し、あえて甘んじることにしました。分不相応といえば、一方的に敬愛してやまない児玉竜一先生にお付き合いいただくことも、願ってもない幸運で、大変張り切っているのであります。(木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一)歌舞伎という演劇はまことに多義的です。商業演劇なのに伝統芸術、高尚な顔をして猥雑、難解のようでエンターテインメント、時流に敏感でいて保守的、〈確固としたフォルムを持つアメーバ〉のような矛盾そのもの。そんな存在であることを、あんまりちゃんと認識してもらっていないところが、さらに厄介です。木ノ下歌舞伎は、そんな厄介のまっただ中に切り込んで、〈伝統〉の中から〈現代〉を取り出す鮮やかな手練手管の数々で観客を瞠目させています。この上の文章(↑)のような、謙譲と気配りに満ちた文章を書く人が、どうしてあのような激烈で痛切な劇世界を作り上げるのか、客席のみなさんとともに知りたいと思います。和歌山出身で京都に学んだ木ノ下さんが、いかにして歌舞伎という厄介な〈伝統〉に執着し、しかもそこから離れて見る視座を得て、独自の方法論を築き上げるに至るのか、その歌舞伎的ヰタ・セクスアリスをうかがいたいと思います。なにぶん、上演後のアフタートークでは、関西のおばちゃん的しゃべりの名手として知られる木ノ下さんですから、<裕一・竜一>の即興漫才になるんだろうなと、大変楽しみにしているのであります。(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長 児玉竜一)
<3/5>木ノ下裕一×児玉竜一「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」【2015/8/14収録】 @KINOSHITAyuichi
「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」というタイトルを頂戴しまして、畏れ多さに縮み上がっている次第です。私は、常に〈伝統〉というものの周辺に住み、〈部外者〉として古典を扱ってきましたので、自身の活動を通して新しい伝統をつくっていると感じたことはありません。しかし、現代演劇側の人間がいかに〈伝統〉を扱うことができるのか、その可能性と限界を探り、古典現代化についてのいくつかの方法論を作り上げていきたいとは常に思っています。それも、いろんなアーティストに示唆を与え、伝播していくような方法論を。それが可能になれば未来の演劇界はゆるやかに革新されていくかもしれないと夢想しています。ですから今回の分不相応なタイトルを、古典現代化に必要な〈統(おおもと)〉を〈伝〉えるという意だと勝手に解釈し、あえて甘んじることにしました。分不相応といえば、一方的に敬愛してやまない児玉竜一先生にお付き合いいただくことも、願ってもない幸運で、大変張り切っているのであります。(木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一)歌舞伎という演劇はまことに多義的です。商業演劇なのに伝統芸術、高尚な顔をして猥雑、難解のようでエンターテインメント、時流に敏感でいて保守的、〈確固としたフォルムを持つアメーバ〉のような矛盾そのもの。そんな存在であることを、あんまりちゃんと認識してもらっていないところが、さらに厄介です。木ノ下歌舞伎は、そんな厄介のまっただ中に切り込んで、〈伝統〉の中から〈現代〉を取り出す鮮やかな手練手管の数々で観客を瞠目させています。この上の文章(↑)のような、謙譲と気配りに満ちた文章を書く人が、どうしてあのような激烈で痛切な劇世界を作り上げるのか、客席のみなさんとともに知りたいと思います。和歌山出身で京都に学んだ木ノ下さんが、いかにして歌舞伎という厄介な〈伝統〉に執着し、しかもそこから離れて見る視座を得て、独自の方法論を築き上げるに至るのか、その歌舞伎的ヰタ・セクスアリスをうかがいたいと思います。なにぶん、上演後のアフタートークでは、関西のおばちゃん的しゃべりの名手として知られる木ノ下さんですから、<裕一・竜一>の即興漫才になるんだろうなと、大変楽しみにしているのであります。(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長 児玉竜一)
<1/5>木ノ下裕一×児玉竜一「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」【2015/8/14収録】 @KINOSHITAyuichi
「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」というタイトルを頂戴しまして、畏れ多さに縮み上がっている次第です。私は、常に〈伝統〉というものの周辺に住み、〈部外者〉として古典を扱ってきましたので、自身の活動を通して新しい伝統をつくっていると感じたことはありません。しかし、現代演劇側の人間がいかに〈伝統〉を扱うことができるのか、その可能性と限界を探り、古典現代化についてのいくつかの方法論を作り上げていきたいとは常に思っています。それも、いろんなアーティストに示唆を与え、伝播していくような方法論を。それが可能になれば未来の演劇界はゆるやかに革新されていくかもしれないと夢想しています。ですから今回の分不相応なタイトルを、古典現代化に必要な〈統(おおもと)〉を〈伝〉えるという意だと勝手に解釈し、あえて甘んじることにしました。分不相応といえば、一方的に敬愛してやまない児玉竜一先生にお付き合いいただくことも、願ってもない幸運で、大変張り切っているのであります。(木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一)歌舞伎という演劇はまことに多義的です。商業演劇なのに伝統芸術、高尚な顔をして猥雑、難解のようでエンターテインメント、時流に敏感でいて保守的、〈確固としたフォルムを持つアメーバ〉のような矛盾そのもの。そんな存在であることを、あんまりちゃんと認識してもらっていないところが、さらに厄介です。木ノ下歌舞伎は、そんな厄介のまっただ中に切り込んで、〈伝統〉の中から〈現代〉を取り出す鮮やかな手練手管の数々で観客を瞠目させています。この上の文章(↑)のような、謙譲と気配りに満ちた文章を書く人が、どうしてあのような激烈で痛切な劇世界を作り上げるのか、客席のみなさんとともに知りたいと思います。和歌山出身で京都に学んだ木ノ下さんが、いかにして歌舞伎という厄介な〈伝統〉に執着し、しかもそこから離れて見る視座を得て、独自の方法論を築き上げるに至るのか、その歌舞伎的ヰタ・セクスアリスをうかがいたいと思います。なにぶん、上演後のアフタートークでは、関西のおばちゃん的しゃべりの名手として知られる木ノ下さんですから、<裕一・竜一>の即興漫才になるんだろうなと、大変楽しみにしているのであります。(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長 児玉竜一)
<2/5>木ノ下裕一×児玉竜一「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」【2015/8/14収録】 @KINOSHITAyuichi
「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」というタイトルを頂戴しまして、畏れ多さに縮み上がっている次第です。私は、常に〈伝統〉というものの周辺に住み、〈部外者〉として古典を扱ってきましたので、自身の活動を通して新しい伝統をつくっていると感じたことはありません。しかし、現代演劇側の人間がいかに〈伝統〉を扱うことができるのか、その可能性と限界を探り、古典現代化についてのいくつかの方法論を作り上げていきたいとは常に思っています。それも、いろんなアーティストに示唆を与え、伝播していくような方法論を。それが可能になれば未来の演劇界はゆるやかに革新されていくかもしれないと夢想しています。ですから今回の分不相応なタイトルを、古典現代化に必要な〈統(おおもと)〉を〈伝〉えるという意だと勝手に解釈し、あえて甘んじることにしました。分不相応といえば、一方的に敬愛してやまない児玉竜一先生にお付き合いいただくことも、願ってもない幸運で、大変張り切っているのであります。(木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一)歌舞伎という演劇はまことに多義的です。商業演劇なのに伝統芸術、高尚な顔をして猥雑、難解のようでエンターテインメント、時流に敏感でいて保守的、〈確固としたフォルムを持つアメーバ〉のような矛盾そのもの。そんな存在であることを、あんまりちゃんと認識してもらっていないところが、さらに厄介です。木ノ下歌舞伎は、そんな厄介のまっただ中に切り込んで、〈伝統〉の中から〈現代〉を取り出す鮮やかな手練手管の数々で観客を瞠目させています。この上の文章(↑)のような、謙譲と気配りに満ちた文章を書く人が、どうしてあのような激烈で痛切な劇世界を作り上げるのか、客席のみなさんとともに知りたいと思います。和歌山出身で京都に学んだ木ノ下さんが、いかにして歌舞伎という厄介な〈伝統〉に執着し、しかもそこから離れて見る視座を得て、独自の方法論を築き上げるに至るのか、その歌舞伎的ヰタ・セクスアリスをうかがいたいと思います。なにぶん、上演後のアフタートークでは、関西のおばちゃん的しゃべりの名手として知られる木ノ下さんですから、<裕一・竜一>の即興漫才になるんだろうなと、大変楽しみにしているのであります。(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長 児玉竜一)
<4/6>岩井秀人×佐々木敦「舞台の時間が人生を露出する——ハイバイから考える現代口語演劇」【ニッポンの演劇 #2】【2016/2/10収録】 @iwaihideto @sasakiatsushi
チェルフィッチュ岡田利規さんの降臨で幕を開けた「ニッポンの演劇」の第2回は、劇団ハイバイを率いる岩井秀人さんをお迎えします。
5年にも及ぶひきこもりから脱出して演劇に開眼し、自伝的エピソードのおかしみとかなしみと狂気を増幅変形するユニークな作風で一躍人気者に。役者として、劇作家として、演出家として、まさに八面六臂の活躍を継続する彼の天才に迫ります。ハイバイの最新作『夫婦』の話はもちろん、過去の名作群についてもたっぷりとお話を伺います。平田オリザが創始した「現代口語演劇」を独自のスタイルでアップデートする岩井流演劇術を徹底解剖。観客も作り手も大注目です!(佐々木敦)
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「ニッポンの演劇」は、「日本・現代・演劇」のカッティング・エッジを解剖するシリーズ・イベント。
ふと気がついてみれば、70年代からテン年代まで、長い年月の間に登場した演劇人たちが群雄割拠状態でしのぎを削っているかに見える日本演劇シーン。それはまた、さまざまな形で海の向こうの舞台芸術の世界とも結び付きつつあります。ニッポンの演劇の独自性はどこにあるのか。その可能性と抱える問題はいかなるものなのか。毎回、最前線を牽引するキーパーソンをお迎えして、じっくりとお話を伺い、ディスカッションしていきます。
〈2/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmsk
ソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
〈1/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmsk
ソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
〈2/6〉真魚八重子×渡邉大輔「日本映画は再起動するか——『ポストシネマ』時代の邦画地図」【2016/2/2収録】 @yaeko_mana @diesuke_w
長らく「冬の時代」と言われてきた20世紀末を抜けて、「邦画バブル」と呼ばれて久しい昨今。テレビ局映画、若手インディペンデント映画、新世代ドキュメンタリー、そして新たな批評の書き手や媒体の登場……確かに、ゼロ年代以降の流動化・多元化した映画をめぐる状況(ポストシネマ?)の中で、これまでにない「邦画」の姿がはっきりと現れつつあるように見える。日本映画はいま、ほんとうに面白くなっているのか? これからどこに向かっていくのか?『キネマ旬報』『映画秘宝』はじめ各種媒体で活躍し、初の著書『映画系女子がゆく!』(http://amzn.to/1OSs96A)では多くの映画ファンの心を掴んだ真魚八重子と、2016年1月より『ゲンロン観光通信』(https://genron-tomonokai.com/mm/)に「ポスト・シネマ・クリティーク」を連載中の渡邉大輔。出自の異なる書き手ふたりが、共通して熱い注目を送る白石晃士監督作品を中心に、「Jホラー」以降の現代日本映画をめぐってトーク。2010年代も折り返し地点を迎えたいま、近年の邦画の情勢を概観し、未来への見取り図を引き直す!【登壇者より】今、日本は先進国とは思えぬほど、経済面も含めて何かが欠けている。その欠落は、まっさきに生活において余剰の部分にしわ寄せとなって現れる。その身近な例が映画だ。「人気漫画の映画化ならファンが来るだろう」「女の客を呼ぶためにはわかりやすい恋愛映画にしとけ」といった安直さ。そのうえカメラの低価格化で他の技術面は置いてきぼりにした、インディペンデントの映画がわんさか作られる。……全文は以下のリンクからご覧ください。日本映画は再起動するか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160202/
〈2/4〉円堂都司昭×山本昭宏「『終末』と『核』から考える日本文化——『戦後サブカル年代記』と『核と日本人』をめぐって」 【2016/1/26収録】 @endingendless
2015年は戦後70周年にあたっていた。その出発点は、広島と長崎の原爆投下後に代表される、焼け野原の終末的光景だった。敗戦からの復興過程にあった日本を、核実験で目覚めた怪獣が襲った1954年の初代『ゴジラ』。列島全体が海に消える『日本沈没』や、1999年7月に空から恐怖の大王が降って来て世界が滅ぶという『ノストラダムスの大予言』が流行した1970年代。これらのように日本では、終末と再生のイメージが繰り返し語られてきた。2016年夏には、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が総監督、リメイク版『日本沈没』や実写版『進撃の巨人』の樋口真嗣が監督・特技監督で『シン・ゴジラ』というゴジラ映画の新作が公開される。一方、安保法制問題や特攻隊を描いた『永遠の0』のヒットなどをめぐり、日本が右傾化している、戦争に向かっていると新たな破局への危機感を覚える人もいる。終末や核のテーマから離れられない日本文化は、どこから来てどこへ行くのか。『戦後サブカル年代記 日本人が愛した「終末」と「再生」』(http://amzn.to/1QksUWR)著者の私と、『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』(http://amzn.to/1RQGwLb)の山本昭宏氏で語りあいたい。(円堂都司昭)■2000年代に盛り上がった「サブカル批評」は、近年になってその魅力を減退させたと言われる。他方で、マンガやアニメなどの日本文化に注目して、私たちの立脚点を問い直す仕事は、従来通り継続している。こうした流れのなかで、円堂都司昭氏も私も、それぞれ「終末」や「核」という視点から日本文化を整理し、一冊の本を上梓した。文化を手がかりに、戦後の問い直しを行ったのである。……全文は以下のリンクからご覧ください。「終末」と「核」から考える日本文化 | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160126/
(3/3)さやわか×村上裕一+坂上秋成+東浩紀【さやわか式☆現代文化論 #21】「2015年のアニメをそろそろまとめてみないか」【2015/10/23収録】 @someru @murakami_kun
2015年、アニメのタイトル数は170本を超え、5年前に比べて3倍以上になっている。「ユリ熊嵐」「響け! ユーフォニアム」
「Charlotte」「アイドルマスター シンデレラガールズ」「艦隊これくしょん」「劇場版ラブライブ!」など、話題作と呼ばれるものも豊作。しかし一方でアニメのパッケージ販売は低調となり、ビジネスモデルは破綻寸前とすら言われている。
これらの大量の作品はどのように評価されるべきだったのか。見るべきものはあったのか。あるいは今日、果たしてアニメは文化として何をなし得るのか。以前も別の場所でやったことがあるのですが、村上裕一さんと共にアニメの現在と未来を展望する、ちょっとだけ早い2015年総括の大放談をやらせていただきます!(さやわか)
パッケージは売れなくなったが、やたらアニメに力を入れたNetflixが日本に上陸するなど、アニメの視聴者はどうにも減っていなそうなアンバランスな現状において、もはや売上数をもとに「覇権」を見極めるタイプの評価法は不毛になったと言えるかもしれません。じゃあビジネスサイドはどうしたらいいんだ!……という深刻な問題はさておいて、数値から離れたところで素朴に作品を味わうという立場が、いまやかえって新しいのではないでしょうか。とはいえ、素朴に味わうことが難しくなった作品が渦巻いているのも昨今のアニメ界隈の実情です。私たちはどうして『ユリ熊嵐』『艦これ』『血界戦線』『デレマス』『ニンジャスレイヤー』『アニメで分かる心療内科』『洲崎西 THE ANIMATION』を同じアニメだと思って楽しめるのか(もしくはそうではないのか)は意外と謎めいています。そういうこともさやわかさんとお話しながら掘り下げていければいいかなあと思っています(なお上記の作品に当日言及するかどうかは未定です)。それとCharlotte。(村上裕一)
1/3 http://www.nicovideo.jp/watch/1456315895
2/3 http://www.nicovideo.jp/watch/1456316343
3/3 http://www.nicovideo.jp/watch/1456316458
2015年のアニメをそろそろまとめてみないか | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20151023/
(1/5)さやわか×今井哲也×ふみふみこ【さやわか式☆現代文化論 #20】「描きたい人のための漫画術」【2015/8/28収録】@someru @imaitetsuya @fumifumiko23235
「漫画家は何を考えて絵を描いているのか?」「どうしてこの漫画は面白いのだろう?」その答えを、漫画家自身が話す機会。二人の漫画家がお互いの作品を持ち寄り、絵がまさに描かれていくその時に何を考えていたのか、どんな創意工夫がそこに込められているのかを解説していきます。
漫画はコマで区切られた中に絵が描かれることで物語が作られる独特な表現形式。その「面白さ」を作者がどのように作り出しているのか、じっくり作品を見ながら解説します。漫画読者はもちろん、漫画を自分で描いてみたいという人が実作での具体的なテクニックとして学べること間違いなし!
語り手はまず『アリスと蔵六』『ぼくらのよあけ』など舞台、物語、人物のすべてに唯一無二の緻密さと繊細さを生み出す今井哲也。そして『ぼくらのへんたい』『めめんと森』など柔らかい描線と大胆かつ鋭い感性で知られるふみふみこ。商業作品として漫画を発表し続ける一方で、独自のセンスで知られる二人。自作について、あるいは互いの作品について指摘しながら、その創作術を紐解いていってもらおう!(さやわか)
1/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1451614165
2/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1451615177
3/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1451615200
4/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1451614795
5/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1451614907
セカイ系は2010年代も生き残るか | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20140510/