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ややこしいのはイヤだ / 44A
今回のはほんとに心の叫びです。ややこしいのはイヤだというのは
例えば、あー失恋したそこにいたら気まずいなぁ、でも行かなきゃならない。どのつらさげてとこっちは思うけど自己中心的な相手は何も思わない。これは昔の話しですけどそんなのはイヤだ。って話しです。恋愛感情なんてのは勝手に湧き上がるものなのですので、ほとんど失恋する私にとってはここまできたら心に穴が空きっぱなしなのです。だから本当はもっとどこでもイヤだと声を上げなければいけないのかもしれませんね。
私のジャマイカ滞在記 ⑮ / 44A
日本人の中でも特に、私はレゲエ音楽の生きた証人の一人と言えるだろう。レゲエをこよなく愛し、そのビートに合わせて人生を踊る全ての人々がそうであるように、私もまた、その一人だった。私の記憶には、2008年にジャマイカのモンテゴベイで行われたビッグイベント「ワールドクラッシュ」の日付までも鮮明に残っている。私はラブリッシュという場所に滞在しており、そこにいた他の滞在者やジュンさんと共に、キングストンからモンテゴベイへと乗り合いタクシーで向かったのだ。初めて訪れたモベイの夜は景色を記憶に留めることなく過ぎ、目に焼き付いたのは広い校庭に設けられたイベント会場と、そこに集まる人々の喧騒のみだった。
それにもかかわらず、私たちは好きな場所を見つけ、音楽の熱気に身を任せた。そんな中で、私たち日本人の誇りであるマイティクラウンが出場していたのだ。彼らは記事にもある通り、クラッシュで見事優勝を果たした。詳細は省くが、その時の興奮といったら筆舌に尽くしがたい。私はジャマイカに来て以来、外国人でありながらもレゲエの文化を学び、育てられた。マイティクラウンの堂々とした態度は、自信に満ち溢れていて、私に大きな勇気を与えてくれた。レゲエは世界中に広がり、ジャマイカ人だけのものではなく、全世界の人々のものになっていた。日本はその文化を引き継ぎ、さらに発展させていることを強く実感した。
私のジャマイカ滞在記 ⑪ / 44A
ジャマイカの隠れた力 - ブルーマウンテンの奥深く
富士山、長野の分杭峠、そして聖域の岬。これらは日本の三大パワースポットとして知られている。聖域の岬は特に、修験道者たちの修行の地として昔から知られており、その神秘性から「能登」という名が生まれたという。
しかし、今回私が探求するのは、遠く離れたジャマイカのパワースポットである。私がこの地で感じた唯一の確信は、ブルーマウンテンの存在であった。この地は、世界的に有名なコーヒー豆の産地であり、私もその豊かな自然に魅了されていた。一度、UCCのジャマイカ人職員と共に乗り合いタクシーでその登山道へと向かったことを覚えている。コーヒーの実は、赤く成熟していても生で食べるには美味しくない。しかし、焙煎されることで、あの香り高いコーヒー豆へと変貌を遂げるのだ。
どれくらい登ったのか記憶にないが、標高が高くなるにつれ、熱帯のジャマイカでさえも肌寒く感じられた。幸い、私はパーカーとニット帽を着用していたが、足元は何故かジャマイカで購入した国旗模様の草履であった。足に豆を作りながらも、コーヒーの木を眺めつつ、一歩一歩山を登り続けた。
何合目かも分からない高さに達した時、突然声をかけられた。声の主は、日本人女性で、今回のオプションツアーの依頼主だった。名前は失礼ながら忘れてしまったが、彼女はブルーマウンテンの村で結婚し、暮らしているとのことだった。
この出会いは偶然だったのか、それとも何か運命的なものだったのか。ブルーマウンテンの神秘は、ただの地理的な特徴に留まらず、人々の心にも深く影響を与えているようだった。私はその日、ただコーヒー豆の産地を訪れただけではなく、人生の奥深い真実に一歩近づいたような感覚を覚えている。
私のジャマイカ滞在記③ / 44A
シズラの日本ツアーが私のSNSのフィードを賑わせていた。47歳になった彼が、現場でのパフォーマンスの様子が毎日投稿され、その度に私の心は高まっていった。しかし、夜勤の都合で実際にライブに参加することは叶わなかった。予定表を目にする度、私の記憶は25年前へとタイムスリップした。
大阪・難波のタワーレコードで、私がシズラと初めて出会ったのは彼のアルバム「ブラックウーマンアンドチャイルド」を手に取った瞬間だった。その夏、22歳のシズラが「レゲエJAPANSPLASH」に出演するとのニュースを聞き、興奮のあまり一人でフェスに足を運んだ。しかし、彼のパフォーマンスは思っていたよりも控えめで、ブジュバントンやジュディモワットが観客を圧倒していた。
その後10年が過ぎ、私は再びシズラのライブを見る機会を得た。ジャマイカへの旅の途中、ウイリーというツアーガイドとともに、シズラが出演するイベントに行くことになった。長いバスの旅で、私の隣に座った子連れの母親は、子供を私の膝の上に乗せ、その子はドーナッツを食べていた。ウイリーは前方で賑やかに叫び声を上げていた。
イベント会場に到着し、明け方にシズラがステージに登場。10年前とは違い、彼の成長を感じる迫力のあるパフォーマンスに私は圧倒された。その後、会場を出ると、まだイベントは続いており、マイクから「ケイプルトンが登場するぞ」というアナウンスが流れ、観客の歓声が響き渡っていた。バス停に戻ると、ウイリーは近くの草むらで小便をしていた。
私のジャマイカ滞在記② / 44A
ジャマイカへの旅の初日、私はウィリーという男と出会った。彼は自らを「ツアーガイド」と称していたが、私には彼が明らかな詐欺師に見えた。私の宿泊先、ウィリアムズゲストハウスは、ボブ・マーリーミュージアムの隣に位置していた。そのため、到着早々に荷物を置いてミュージアムに足を運び、壁に残る銃弾の跡に興奮した。
その時、ミュージアムの外で私を待っていたのはラスタ髪の集団だった。彼らは私を仲間に誘おうとし、気がつけば胡散臭い男、ウィリーの自転車の前の棒に横乗りしていた。彼は私を乗せて、坂を蛇行しながら降りて行き、ボブ・マーリーの像がある場所へと連れて行った。
途中、道の凸凹により何度も自転車から落ちた私はウィリーから叱責されたが、ついにボブ・マーリー像の前に到着。私は興奮のあまり、像の写真を撮りまくった。その後、ウィリーは突然私に向かって「俺に金を払い専属のツアーガイドの契約を結べ」と要求してきた。彼の圧倒的な勢いに押され、困惑しながらも「ユージーニアス」と思わず言ってしまった上で、彼の要求を飲むことになった。
ゲストハウスに一度戻り、オーナーのウイリアムズさんとの挨拶を済ませた後、再びウィリーの自転車に乗り夜のキングストンを散策。ニューキングストンのクラブ前には多くのジャマイカ人が集まっており、彼らとの交流の中で私はジャマイカの深い魅力を感じ、思わず「ジャマイカ」と叫びながら涙を流した。
そうして、ジャマイカ初日の夜はウィリーとの不思議な出会いとともに幕を閉じた。
私のジャマイカ滞在記番外編② / 44A
ニューヨークでの記憶は断片的だが、鮮明な一部が心に刻まれている。食事はあまり取らず、思いつくままに入ったマクドナルドで、ジャマイカでの経験と同じように、黒人の少年にカンフーの真似をされてからかわれたことを覚えている。街の弁当屋で買った見たこともないような不味い弁当を、宿に持ち帰って食べたが、あれは一体何だったのだろう。
その夜、宿に泊まっていたレゲエ好きの兄ちゃんたちと一緒にイベントに行った。どこかのビルの中で行われていたそのイベントでは、ガーネットシルクやモーガンヘリテージの曲が流れていた。フロアにはドレッドヘアの黒人たちが大勢おり、彼らの目は今まで見たどの目よりもギラギラと輝いていて、何か悪そうな雰囲気を醸し出していた。これがニューヨークのジャマイカ人の姿なのかもしれない。
次の日は霧に包まれた街を歩き回った。まさにニューヨークの象徴的な風景だ。敷居が高くてほとんどの店には入らなかったが、ただ街を見ているだけで心は躍った。そして、訪れることが絶対に外せない場所があった。それはメトロポリタンミュージアムだ。子供の頃にテレビで見たあの場所。館内は本当に広く、世界各国の美術品が展示されていた。
私のジャマイカ滞在記 ㉑ / 44A
ジャマイカの日差しのもと、わたしの青春は、写真には残らない、ささやかな冒険の連続だった。自分の姿を捉えることには無頓着で、そのために残された数枚の写真は、とりとめもなく奇妙なものばかり。誰かがそれらを見たなら、わたしを誤解してしまうかもしれない。派手な外見とは裏腹に、わたしは無口で地味な男だったからだ。
ジャマイカに来て二ヶ月が経った頃、わたしの日常はリッキーベンズという男とその友達に彩られていた。彼のアーティストとしての才能は確かなもののそれごなかなか花開かないでいた。それでも彼のことを不思議に思いながらも魅了されていた。彼の家族とも親しくなり、小さな弟妹や母親に何度か会った。父親については、ニューヨークで悲劇的な最期を遂げたと聞いた。
彼の庭には昔使っていたというタクシーがあったが、彼がどうやって家族を養っているのかは、街の人々にはよく知られた謎の一つだった。彼の知人にはスタジオ経営者やダンサーがおり、街のあちこちに彼のビジネスの痕跡があった。
写真の中の背の高い男、レジャーはビデオカメラを持ち歩く男で、リッキーベンズのプロモーションビデオ撮影のためにいつも忙しく動いていた。屋上ビアホールでの撮影は夜遅くまで続き、わたしは機材運びを手伝っていた。レジャーは周囲の若者たちにも手伝いを促し、彼らに対する厳しい愛情を注いでいた。
撮影が終わると、夜更けにパーティへの誘いがあったが、わたしは疲れ果てていた。リッキーベンズは彼の部屋で眠るように言ってくれた。朝方、彼が帰宅する音で目を覚ますと、なぜか彼はわたしのポケットを探っていた。何が起こったのかを尋ねる前に、彼は何も言わずに部屋を出ていった。
何かを盗まれたわけではないが、その夜はジャマイカの普通の生活を垣間見たような気がした。その後すぐにわたしはリッキーベンズの家を離れたが、彼はバス停まで送ってくれ、別れ際に近くになっていたマンゴーをちぎり2人で食べあった。わたしたちが同じ29歳でありながら、あの夏はまるで少年のような無邪気な日々を過ごしていたことに、後になって気づいたのだった。
私のジャマイカ滞在記 ⑯ / 44A
ジャマイカでの2ヶ月間の滞在は、私にとって全く新しい体験だった。日本の地方都市の静けさとは異なり、ここでは日々がダンスイベントで色づいていた。太陽が燦々と輝く昼下がりであろうと、ジャマイカの夜が深まるころであろうと、私はダンスイベントに引き寄せられた。レゲエが好きな者として、その誘惑に抗うことはまず不可能だった。
イベントの流れは決まっていて、夜8時か9時に開始し、最初の1、2時間は古いレゲエ音楽が流れる。その後、朝まで続くエネルギッシュなダンスホールが始まる。私はよくそこを訪れ、始まるのを横目に見ながらも、いつの間にか疲れを感じて帰宅していた。心の奥底では、スカやロックステディ、ルーツレゲエ、ダブなど、ゆったりとした音楽をずっと聴いていたいと願っていた。
そんな私の願いを叶えるような場所が実際に存在した。レイタウンという、刑務所の近くで開催されるファウンデーションイベントだ。ある日、私は数人の日本人と共に乗り合いタクシーでその会場へと向かった。到着すると、そこは夢のような空間が広がっていた。多くのスピーカーからは昔ながらのレゲエ音楽が流れ、酒はたくさん飲むのではなく、ビールを一本手にゆったりと飲みながら踊る。そんなスローペースでレゲエを楽しむスタイルがそこにはあった。
観客は多かったが、自己主張することなくただ踊っている。しかし、マントを纏い、ターバンを巻き、デジタルカメラを持って歩いている一人の人物がいた。彼は確実に目立っていたが、それはジューニアリード本人であると思われた。彼のヒット曲「ワン・ブロード」が流れる中、彼はそこにいて観光客を驚かせていたに違いない。また、ビーニマンの姿も見たが、彼らはとてもわかりやすい存在だった。今になって思うのは、握手をしてもらうべきだったということだ。それが私のレイタウンでの貴重な思い出である。
私のジャマイカ滞在記⑦ / 44A
ジャマイカ、ストーンラブスタジオの近くにある小さなスタジオ、7star general studio。僕がそこに足を踏み入れたのは、15年前のことだった。その時の僕の姿は、彼らがよく使う言葉で言えば、ほぼ黒人のような姿になっていた。
それはリッキーベンツという男からの招待に応じて訪れた場所だった。彼の名を耳にした時、心の中で小さな熱が湧き上がった。僕が求めていたのは、まさにこういう環境だったからだ。
7star general studioの庭には、名もなきアーティストたちが集まり、サイファーで自分のスキルを磨いていた。僕もその中の一人として、日本で作った「アリが十匹ありがとう」という歌を披露した。それはある意味、場を“ボス”にするための僕の魔法だった。その歌がリッキーベンツの耳に入り、彼は僕をスタジオの中へと連れて行った。
そこで僕が出会ったのは、社長のla lewisだった。彼は白のスーツに身を包んだ、まるで実業家のような風格を持つ男だった。その男は、僕に突如として歌を披露するよう要求してきた。緊張の中、僕は日本で受けた「パジャマパーティー」という歌を普通の声量で歌い上げた。しかし、それはla lewisの期待に応えるものではなかった。彼の顔には失望の色が浮かび上がり、僕を社長室から退出させた。
外に出たところ、リッキーベンツが待っていた。彼の顔には、なぜこんなことになったのかという不思議そうな表情が浮かんでいた。しかし、彼は突如として僕に「俺が特訓してやるから、弟子になれ」と言い放った。
それからの僕の日々は、レゲエの歌の修行の日々となった。リッキーベンツとの特訓の中で、彼と僕は同じ年だということを知った。それは、僕の人生の中での新たな章の始まりだった。
私のジャマイカ滞在記⑥ / 44A
ネットのニュースで、エレルイスの名前が風のように聞こえてきたとき、私は少し驚いた。2023年、あの7stergeneralスタジオのオーナー、エレルイスが詐欺の疑いで逮捕されたというニュースだった。驚くのは、私が彼に初めて出会ったのが2009年、もう14年以上も前のことだったからだ。
2009年春のキングストンは、今とは少し違う空気を持っていた。街を歩くと、未明の静けさの中でストーンラブのスタジオの近くを通りかかったことを思い出す。その時、7stergeneralスタジオの前で大きな声を耳にした。それがリッキーベンツの声で、彼は私をスタジオの中へと誘ってくれた。そこで、エレルイスという名前を初めて聞いた。彼はこの地の音楽シーンにおける重要な存在だった。
彼との出会いから数年が経ち、多くのことが変わった。しかし、エレルイスの逮捕は、私の心に深く刻まれた2009年の記憶と繋がっていた。彼のスタジオで過ごした日々は、今も私の心の中で鮮明に蘇る。
私のジャマイカ滞在記⑤ / 44A
人々はよく、「類は友を呼ぶ」と言う。でも、実際には、人の性格は、幼い頃のそれが大人になっても変わらないことが多い。私は基本的には穏やかな性格だが、時折、思いがけない一手を打つことがある。そんな私とは正反対で、常にスポットライトを浴びることを楽しむのが、レックスだった。
レックスは、日本のレゲエファンなら知らない人はいないだろう名前。彼は私とは対照的に、常に前向きで、何事も果敢に挑むタイプだった。そんな彼との出会いは、数年前のジャマイカのある日、アイシャハウスという宿でのことだった。
その日、部屋の前で日向ぼっこをしていると、隣の部屋からレックスがジャンベを持って出てきた。彼は私の部屋に招き入れられるような気配を放っていた。挨拶を交わすと、彼は椅子に座り、ジャンベのリズムを刻み始めた。私は、ジャマイカ特有の紙巻きたばこを手にしていた。それを彼に差し出すと、彼は一度それを解きほぐし、新しいリズラで丁寧に巻き直した。
太陽が降り注ぐ中、私たちはほとんど言葉を交わさず、ただジャンベの音色に身を委ねていた。煙が宙を舞いながら、時間がゆっくりと流れていくのを感じた。その後、彼が石川県に来てくれるように頼んだり(実際には頼んだことは一度もなかったが)、連絡先を交換したりした。
時は過ぎ、彼が出演するショーに私が足を運んだこともあったが、彼が私を覚えているかは定かではない。しかし、あの日のことは、何となくお互いに深い絆のようなものを感じたように思う。ジャマイカの日差しの中で交わした、小さなひとときの友情のエピソード。それが私の心の中に刻まれている。