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私のジャマイカ滞在記 ⑬ / 44A
縁というものは、夫婦に限らず、袖を触れあっただけでも前世からの縁と言われます。
私がレゲエのイベントに足を運び始めた頃、大阪のムーズバーイエローでのイベントに誘われたことがありました。石川県から何度か大阪のダンスイベントに参加しており、私が口でレゲエを歌っていると話していたため、新進のアーティスト向けのダンスイベントに誘われたのだと思います。そのイベントには色々な思い出があるので詳しくは触れませんが、特に印象に残っているのは、「タカハシマンです、よろしく!」と挨拶してくれた人と、その日のゲストスターであった吉本興業のレゲエアーティスト、ユカさんとツネさんのコンビ、スノッブです。二人はとても親しみやすく、会場の外の廊下で色々と話をしてくれました。私はその場のノリで、石川県でのイベントに二人を招待すると伝えました。
時が流れ、私は20代の最後の3月にジャマイカを訪れ、アイシャハウスというゲストハウスに滞在しました。そこで再びユカさんと会い、彼女は私を覚えていてくれました。ツネさんも相変わらずクールで、ジャマイカでのスノッブのパフォーマンスは素晴らしかった。彼らは20年前にはレゲエDJ風の漫才をし、10年前にはダンサーとして活動していました。今回、ユカさんに再び出会えたことは私にとって幸運でしたが、残念ながらそれが最後の再会となりました。インターネットのニュースでユカさんが亡くなったという報道を見たのです。私がレゲエから離れてしまうと、他の人たちとも疎遠になってしまうのではないかと懸念しています。しかし、これはジャーガイダンスの導き、つまり縁というものだと感じます。かつて出会った人々と再会する機会があれば、その縁を大切にしたいと思います。
ちなみに、ジャマイカで「イエローチョイス」というイベントが開催され、日本人参加者はスピーカーの搬入を手伝っていました。その際、端正なルックスの青年が近寄ってきて「タカハシマンです、よろしく」と挨拶してきたのは、とても印象的でした。
私のジャマイカ滞在記⑧ / 44A
ワイニーと私① 私はこのジャマイカ滞在記をいつか電子書籍にして出版しようと思うのだが、本当に人生の中での色褪せないネタの宝庫に飛び込んだようなものである。 アオイサンゴ礁の海に浮かぶ島国、ここに飛行機が、到着したときは、周りから拍手が沸き起こり、この国で今から起こる私のエピソードを祝福しているかのごとくであった。 しかし、ひとは十人十色思いもそれぞれ、多くの女子はこの国にロマンスを求めているのではないかと感じさせたし、私についてはラスタなどレゲエの持つ精神的な側面に期待を抱いていた。だから最初に飛行場に着いたとき、白人の若い女子が何やらニコニコと私に話しかけてきたが、私はたどたどしい英語で返すとすぐに顔色を変えて去っていった苦い記憶が思い出される。私は奥手なのだ。 しかし、現在のジャマイカという国はボブ・マーリーの崇高なイメージを看板とする精神的な国である一方で社交的を通り越したワイニー天国という側面を合わせ持っていた。 そして多くの女子、特に日本人の女の子はワイニーやレゲエダンスを求めてジャマイカを訪れている子が大半だった。その証拠としては日本人女子の大半がホットパンツを履いていた。私はラブリッシュやアイシャハウスといった日本人が経営するゲストハウスに2ヶ月の大半を滞在するにいたったのだが、そこのロビーで交流した話の内容は、「ダンスでジャマイカ人にワイニーされたよ。まるで熱帯の嵐が私たちを包み込んだみたいだった」と興奮して話しているのを、私は平静を装って聞いていた者だった。
華晨宇「癲狂院(疯人院)」マーズ・コンサート2023・武漢公演(20230527)公式映像
中国のロックスター・華晨宇の4枚目のアルバム「新世界NEW WORLD」に収録されている名曲。
火星三部作・其ノ二
「私をかわいいと思うなら、あなたたちもきっと私と同じ、狂人です。(如果你们觉得我可爱,那你们一定跟我一样是一个疯子。)」
詞:呂易秋
曲:華晨宇
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2023年、華晨宇はのロックフェスの形式に続き、中国でライブツアーを開催した。今回のテーマは、祖国の美しい川や山にファンを連れて行くことで、みんなと一緒に日の出を見る約束を果たすために、オールナイトコンサートを開催する準備さえしている。
これまでに、杭州、成都、武漢、長沙の4都市で合計11日のライブ情報がリリースされた。毎日は依然として昼公演と夜公演に分かれており、チケット料金も変更されていない。ステージもまた新しく建設されたもので、2021年の会場よりもさらに巨大だ。
メインステージは、巨大なアートインスタレーションで構成される高さ28mの「SF都市」です。大面積に鏡面単透材を使用することで、ステージが自然環境と完全に一体化し、異なる視点、異なる時間帯に異なる魔法の効果が現れます。時には「海市蜃楼」のような感覚があり、舞台が「消えてしまった」ように感じます。夜間、10組の巨大な移動装置がステージ上の「クロストラック」を使用して異なる方向に移動し、ステージを複数の空間に分割します。映像と照明が鏡面で構成された異なる空間でランダムに屈折し、異なる位置から異なる効果が見え、千変万化の効果が生まれます。
「家」ステージは、「火星文明」の「星間装置」のようであり、メインステージとつながる延長台は、「火星文明」の廊下として観客席を貫通します。これらの空間構造は、惑星公転軌道に似た巨大な環状装置に囲まれています。歌の意境に合わせて、環状軌道はレーザーショー、人工降雪などのロマンチックな奇跡を作り出すことができます。
罪と罰② /44A 歌
こんばんは、ドストエフスキーの問題作罪と罰です。今読み進めてるのはこんな感じですが、
なんていうかここまで極端でなくてもやってしまった後で後悔して自責の念に苛まれることはあります。
キリスト教でいう十字架を背負って生きていて、仏教でいう業を背負って生きています。
地域支援事業44Aの解説あり / 44A
今日は地域支援事業の勉強です。それでDiwaliというリズムに乗って話してきて思い出したんですが、
私が社会福祉士の試験勉強の時は毎週夜にクラブに出かけそこで踊りながらアプリの問題を解いていました。30代半ばの頃です。それで、2時くらいになったら帰って新聞配達し、少し寝て介護の職場に出かけていました。
今思うとタフな男です。ただ40になってすぐにガンを経験しましてのでそこからはガクッと夜遊びは減りましたし、新聞配達もやっていません。
ただ自分はそんなにやわではないぞと思い出しただけです。はい
ケアマネ暗記シリーズ19 指定権限を、6つ覚える / 44A
ズバリ次回までの宿題です。今日のうちにやるのがベストです。
それでビレッジバンガードを見てたのは、姪っ子がバレンタインをくれたとの事で、早々とお返しは何がいいかと考えるわけです。
はい、面白いものがいっぱいありました。
ケアマネ暗記シリーズ18 介護保険制度の創設/ 44A
こんばんわ、次はウインドーショッピングとショッピングの歩行数です。500歩です。物欲が歩数を増やします。そして今回の暗記は介護保険制度の創設、その背景です。
ケアマネ暗記シリーズ番外編 (宿題) / 44A
こんばんは、昨日はサクラ福祉カレッジの私の担任の先生とマンツーマンオンライン授業を行い。今日はその宿題について考えてました。そして、先ほど学びについてのオンラインオリエンテーションがありこの先の勉強についてガイドがありました。
うん、これは道場です。毎日やってれば勉強が好きになりそうです。先生はいかなる手も使って覚えさせてくれます。リスペクトであります。思えば私が20代の時にレゲエの現場で毎週マイクリレーに参加し鍛えられていましたが、あれに通じるくらいのハードなものです。私は日本の高名な歌い手にも鍛えられましたし、ジャマイカの高名な歌い手にも鍛えられました。まさに道場です。なので今回は暗記の歌にも次回からひねりが効くよう歌をシスターナンシーにしました。反復して韻を踏むスタイルは暗記法にもぴったりです。はい実は今でも歌い手で勉強家私も飛躍、新たな舞台にも向けて
頑張ります。
ケアマネ暗記シリーズ⑦ 介護予防計画作成/ 44A
最近はやることが増えてますね、それで思ったのは煩悩を減らすと勉強の効率があがる。それは簡単で家で勉強するよりカフェとかの方がいいということです。何しろ食事や洗濯、テレビ鑑賞がないからです。でも今日はご覧の通り部屋でおでんを煮ながらの投稿です。あと毎日NFTを作ってます。
私のジャマイカ滞在記 最終回 / 44A
日本に着いた。
成田空港から東京へ向かう列車内はどんよりとしており、周囲の人々は皆、疲れ切っているように見えた。これはジャマイカのバス内の雰囲気とは大きく異なっていた。ジャマイカではバスの中でたいていダンスホールレゲエが流れていたが、ここはその対照的な光景だった。
ニューヨークの人々も、親しみやすい人が多かったことを思い出す。その点で、日本人はぐったりしているように見えた。
私はサニーさんと会う約束をしていた。東京のどこかで待ち合わせをする予定だったが、具体的な場所はほとんど忘れてしまっていた。それでも、サニーさんやアイナ、ジャーゴンさん、サニーさんの妹さんを含む多くの人々が集まってくれた。
私は東京特有の路上で、ビールケースを椅子に見立てた居酒屋で、目を輝かせながらジャマイカの話をした。酔っ払っていたが、サニーさんやジャーゴンさんも喜んでくれていたようだが、その話の詳細は覚えていない。
そして、ジャマイカから帰国した私は、路地裏で立ち小便をしてしまった。みんな、私がジャマイカで何を学んでいたのだろうと疑問に思ったかもしれない。ここは日本だ、ジャマイカのやり方は通用しない。みんな心の中ではそう思っていただろうが、その時ばかりはジャマイカのバイブスに満ちた私を歓迎してくれた。それはリスペクトだった。
そう、大切なのは何を学び、どこでどう活かすかだ。残念ながら、私はレゲエ的な意味でそれを活かすことはできなかった。
その後、石川県に戻った。良い思い出だけが残った。
仕方がない、しかし、それが夢だったので、それで良しとする。
私は成人式の際、あまり友達がいないと感じていた。完全にではないが、これが私の居場所でないと思っていた。そして、ドレッドヘアのジャマイカ人の友達を作り、誰かに自慢してやろうと夢見ていた。
それを実現できた。それだけで、私のジャマイカ留学は大成功だったと言ってもいいだろう。
終わり。
私のジャマイカ滞在記 ⑭ / 44A
ジャマイカの日本人①
私はジャマイカ滞在の期間の大半を日本人が経営する宿で過ごしました。その中で特に思い出深いのは、アイシャハウスとラブリッシュです。
最近では、YouTubeで簡単にジャマイカの映像を見ることができますが、当時小さかったラブリッシュのジュンさんの息子さんが成人になって大きくなっているのを見て驚きました。それは私たちが歳をとったということを実感させられる出来事ですが、短い期間でも両宿での出会いと別れがありました。
特にラブリッシュのテラスでは、当時新たにフリーになったばかりのある女子アナウンサーが、毎日ノートパソコンに向かっている光景が印象的でした。彼女は素性を隠してはいましたが、非常にオープンな人でした。私たちにはその辺りの道案内などをしてくれました。おそらく彼女にとってはそこで普通に過ごすことができたのでしょう。そのため、私たちもあえて余計なことを聞かないようにしました。
私のジャマイカ滞在記⑨ / 44A
ワイニーと私②
物事はふとした瞬間に逆転することがある。その変化には、仲間の影響が大いに関わっているのだ。リッキーベンツ達との出会いは、彼らが悪友と呼ばれることもあったが、決して性根が悪いわけではない。彼らとの交流は私にとって良い経験だったと言えるだろう。
リッキーベンツは、通りすがりの女の子に対しても「プリティガール」と声をかけるタイプだった。エクスペンシブは痩せ型で純朴な青年だが、ラバダブになると積極的で勇ましい姿を見せた。ナディは、日本人宿のラブリッシュにも出入りする親切なドレッドヘアの持ち主だった。他にも印象的な人物はたくさんいるが、特に奥さんが日本人のマリモという名前は印象的で、よく覚えている。
その頃、私はそういったメンツと一緒に様々なダンスイベントに足を運んでいた。ある日のファイアーリンクスのダンスイベントでは、道路上で人々が集まり、ダンスホールレゲエのリズムに合わせて踊っていた。リンクスは音楽をかけ、MCが煽るスタイルで盛り上がりを見せていた。そして、ある時刻になると、ワイニーをして自慢する時間が訪れた。MCは「ワーッ」と叫びながら煽り立てていた。
その矛先が何故か私に向けられ、「ジャパニーズ、ようこそー、ジャマイカギャル」と叫びながら、「ワイニーしろー」と促された。頭が真っ白になりながらも、私は前にいた大柄な女性に対して瞬間的に腰を振った。するとMCは「グワーージャパニーズ」と叫び、会場全体からは轟音のような歓声が沸き起こった。
しかし、その女性は振り返って私を睨みつけ、観衆の中にいた顔見知りの日本人女性達は遠目から冷ややかな目で私を見ていた。それでも、私がその場を歩くと、周りからは英雄のように声をかけられた。翌日からはリッキーベンツ達の話題の種にもなったのだ。
これが、私がジャマイカ人の心をつかんだ瞬間の出来事である。
ノルウェーの森 ⑤ 空 / 44A
ノルウェーの森のこれは最後で、私はまた勝手に題名つけさせてもらったのですがこれは
まさに「空」です。クウです。
般若心経の空です。ソラでも面白いですけど
人間やることをやらないといけないということですかね。
仏教的にいうと自分の業ですし、それを精算しなくてはいけない。
でもそれも空ならそれでいいんでしょうけど、
最近1番わかるのは掃除や整理整頓ですね、出したら片付けなければいけませんし、思考だって整理しなくてはいけませんし、
生きてたらあらゆる欲ありますし、マズローだって色々言ってますし、承認欲求とかもありますし、
それで私なんかも色々散らかしてしまうんですけど掃除と整理整頓ですわ。
あと結婚出来たらそれはいいですけど、出来なくてそれはそれでやることコンパクトになっていいのかな、それじゃー
認定 / 44A
ケアマネ試験も来年に向けてボチボチみなさんはじめた方もおられるでしょうし、私も今年受けられた方の打ち上げにも参加しますし(サクラケアカレッジの方々 )、浮かれるとこは浮かれてしめるとこはしめて頑張っていこうと思います。
すぐにこうなる / 44A
このタイトルにある、すぐにこうなるというのは例えばジェスチャーで両手で真っ直ぐならえみたいな感じのあれです。それしか見えない的な、最近ではカメラをズームしすぎて木を見て森を見ず的な撮影ですかね。確かに今思うと恋してもそんなもの、回りが見えてくると家族がいたり友達がいたり、すでに恋人がいたり、するものですから、つまりケアマネで言うとアセスメント不足でケアプラン実行してるものです。てか今の私に必要なのはつまりその能力ですわ。はい分かりました。焦って前にドカってなってるだけでした。はい
私のジャマイカ滞在記 ⑱ / 44A
ジャマイカの陽光のもと、ジャークチキンの香ばしい煙が青空を突き抜ける。通りを歩けば、ドラム缶で焼かれるチキンから立ち昇る匂いが、空腹を誘うリズムを奏でる。その煙は、この地の生活と深く結びつき、食の記憶を育む。
多くはジャークチキンをジャマイカ料理の代名詞とするが、私にとっては遠く離れた日本で味わったモモ肉のジャークチキンの味が、かけがえのないものである。その理由は単純で、日本風に調理したその料理が、家庭の味としての温かさを伝えてくれるからだ。そう、日本のラーメンがその起源の地を超えたように、私にとってのジャークチキンは日本で完成する。
しかし、ジャマイカでのジャークチキンは、その価格の安さとは裏腹に、コストコのチキンのあばら骨の部分のようなものや、ゲットーの露店で見る頭付きのグロテスクなもの、さらにはケチャップをかけただけの胸肉に比べると、この地で出会うフィッシュスープやミートパイのようなパティの方が、はるかに私の心を惹きつけた。
そして、なにより忘れられないのが、アキーアンドソルトフィッシュだ。ラブリッシュのジュンさんがゲストハウスで提供してくれたその料理は、ジャマイカの朝を象徴するかのように、素朴でありながら味わい深い。アキーの果肉は卵のような食感を持ち、塩漬けのタラと炒め合わせることで、忘れがたい美味しさを生み出していた。10年以上が経つが、その味は今も鮮明だ。おばちゃんが黄色いアキーを剥く光景も、ジャマイカの暮らしの一コマとして、私の心に焼き付いている。
その土地のマンゴーの木の下では、子供たちが柿泥棒のように果実をついばんでいた。ジャマイカの熱気と共に生きる彼らの姿は、いつまでも色褪せることのない風景として、私の記憶に留まっている。そんな日々を過ごしたジャマイカは、食文化だけでなく、そのすべてが、小さな宝石箱のように私の中にしまわれている。
ラガマフィンがー/44A
ラガマフィンとは何か?
初めて出会った歌はシャバランクスとかね。そんな風の人を指すんでしょうね。
ハーフパイントはダンスホール聞かないとわからないかもですが、
なかなか、ラスタにはなれないけどラガは目指せますからね。レゲエ好き共通の合言葉はラガマフィンてのはいいかもです。
Shine 2024年 / 44A
別に特段何があったというのは、ないのですけど、先程YouTubeで、マイティークラウンの横浜レゲエ祭の、ファイナルみてたら、少し熱くなってきまして、それで歌ってみた次第ですが、そこまでLIVE風ではないのであります。自分でもギターもひけばきいのですが、それも挫折気味で、またインストに被せて歌ってます。インストは素晴らしいギターの演奏でジブリばんのノーウーマンノークライですね。それで私はずっとレゲエが好きでいるんでしょうか?サッカー好きとレゲエ好きを天秤にかけてレゲエ好きをとった私も最近はあまり前ほどレゲエも聞いてはないのですが、まぁ年をとって大人になってきたんでしょうけど、今は昔のことを思い出すだけです 笑
ノルウェーの森 ④ シンクロニシティ / 44A
はい、ノルウェーの森を全部読みましたので、連続2回投稿します。
それで村上作品で私が感じることがあるのですが、それはシンクロニシティです。
何か関係の無いことと関係の無いこととが因果関係のように繋がるというものですね。
直感とでもいいますか。私も昔ありましたが、交わる線みたいなのがあるのですが、例えば実際に恋人同士でなくても、その別の思いと別の思いが繋がってしまい気になってしまうみたいなね。
まぁこれを追い求めても上手くいかないことがあるので注意なのですが
ありますね。ユングという心理学者はよく研究しています。村上さんもユングの本読んだのかもしれませんね。
ケアマネ2020年46~60 / 44A(回答)
こんにちは、ケアマネ試験2020年の問題の46~60までやりました。感想は難しかったです。はっきり言ってこのままでは受かりません。60問と言っても3つ選べというので、しかもどこに書いてあるかわからないところから出題されてますし、一言「いやらしい」です。はいころ動画を見てケアマネの勉強をされてる方は少ないと思いますが2021年の試験日がもうわずかなので頑張ってください応援しています(ケアマネ試験は社会福祉士や介護福祉士、看護師等国家資格を取得して5年
介護や福祉の現場で働いた人に受験資格が授与されるので私はたぶん来年の10月)、はい
ややこしいのはイヤだ / 44A
今回のはほんとに心の叫びです。ややこしいのはイヤだというのは
例えば、あー失恋したそこにいたら気まずいなぁ、でも行かなきゃならない。どのつらさげてとこっちは思うけど自己中心的な相手は何も思わない。これは昔の話しですけどそんなのはイヤだ。って話しです。恋愛感情なんてのは勝手に湧き上がるものなのですので、ほとんど失恋する私にとってはここまできたら心に穴が空きっぱなしなのです。だから本当はもっとどこでもイヤだと声を上げなければいけないのかもしれませんね。
私のジャマイカ滞在記番外編① / 44A
ジャマイカからの帰り道、私の足はマイアミを経由してニューヨークへと向かっていた。マイアミの暑さから一転、ニューヨークの肌寒さは私にスーツケースの中からダウンジャケットを取り出させた。
ニューヨークと聞けば、誰もが夢のような場所を想像するだろう。実際にその地を踏むと、そこはまさに近代的な都市の姿をしていた。異国での旅に慣れた私は、A列車かC列車に乗り、ラブリッシュのニューヨーク支店を目指した。ジャマイカ滞在中、オーナーに頼んでいたおかげでスムーズに移動できた。
アメリカに住む黒人の方々は、親切で心温かい。飛行場で迷っていた私を案内してくれたり、列車を降りた後も別の人が道を教えてくれた。ブルックリンの人々は、実はとても親切なのだ。
ジャマイカで覚えた感謝の言葉を口にしながら、目指す場所に着いたのは、まさにニューヨークらしい建物が立ち並ぶアベニューだった。薄暗い階段を登り、ピンポンを鳴らすと、ドミトリーの管理人が出迎えてくれた。そこは二段ベッドのある部屋で、数人が寝泊まりしていた。
そして彼らは、レゲエを愛し、留学や旅行でここに来ている人々だった。男女の区別なく、みな同じ情熱を共有しているように思えた。
私のジャマイカ滞在記 ⑲ / 44A
ジャマイカでの恋愛は、実際のところ、空白のままだった。私の話を読む人からすれば、何の面白味もない話だろう。日本には付き合っている人がいたにも関わらず、ダンスホールの賑わいやゲストハウスでの交流がそこにある。長い時間を共にして、何も起こらないのは、まるで奇跡のような話だ。けれども、その平淡さが、かすかながらも記憶に残っている。
時おり、日本人やジャマイカ人の若者と連絡先を交換したことはある。ただ、それが何らかの関係に発展することはなかった。振り返ると、一度だけ、向こうから連絡をくれた女性がいた。ジャマイカ人の警備員の女性だ。彼女との出会いはウィリーの紹介によるものだったが、それも長続きはしなかった。不思議なことに、ジャマイカのバスガイドにまで電話番号を聞かれ、交換したが、こちらから連絡を取ることは一度もなかった。その後、ふとした日に道端で彼女に見つけられ、「待てー」と大声で呼び止められたが、私は走ってその場を去った。
前にもどこかで書いたが、「レゲエが恋人さ」と言っていたあの人と、私の恋愛事情は何も変わらない。そう考えると、ウィリーだとかリッキーベンツとかの友人たちの方が、実は紳士かもしれない。
この話、自慢のつもりはない。ただの自己反省だ。あの時以来、色恋沙汰からますます遠ざかる一中年男の泣き言に過ぎない。
ケアマネ暗記シリーズ被保険者 / 44A (歌BURROBANTON)
やはり効率よく覚えるには合わせ技が必要です。この究極レゲエやヒップホップとケアマネ勉強を合わせるのも斬新です。そしてそのレゲエのしゃべくりスタイルを確立させた先陣方にはリスペクトであります。このブロバントンもその一人ですが、私がジャマイカに行った時も少しアドバイスをくれました。その言葉はずばり「VIBES」であります。なのでヴァイブスでケアマネ問題も頑張っていきます。
私のジャマイカ滞在記 ㉒ / 44A
さらばジャマイカ
慣れ親しんだ土地を離れるとき、その別れをどう受け止めたのか、今となってははっきりとは覚えていない。ウィリーとは会って話をしたのだろうか。リッキーベンズには何と言ったのだろうか。彼らにとっては、日常の一部が消えただけのことで、深くは感じていなかったのかもしれない。
夜中か、あるいは朝方、ラブリッシュの運転手であるアイジャに空港までの送迎を依頼していた。愛想のいいニット帽をかぶったラスタの彼と、車中で何を話したのか、それとも無言で過ごしたのか。ダウンタウンのダンスに寄るという粋な計らいをしてくれたが、そこは男女がワイニーして盛り上がるいつもの光景だった。パサパサとは通り過ぎるという意味で、私は文字通りその時間を通り過ぎた。涙はあったのだろうか、忘れてしまった。アイジャとの別れ際、互いにヤーマンと言い交わし、私は空港へと向かった。彼が最後の友人になるとは思ってもみなかったが、彼は長いこと見送ってくれたように思う。今となっては、彼に最大のリスペクトを感じている。
ジャマイカに着いた初日、迎えに来てくれたのはウィリアムさんだった。彼は「ウェルカム トゥ ジャマイカ」と言った。その日の夕方、キングスゲートのラスタは「ロンコム」と言った。それは久しぶりという意味だろうか。リッキーベンズやウィリーは分かれ際に「レター」と言うが、それは「後で」という意味なのだろうか。
しかし、なんとなくもう彼らに会うことはないような気がする。時間が経つにつれて、日本で心が変わってしまった自分と、再びジャマイカに行けるようなお金もないからだ。
ジャマイカはハリー・ベラフォンテが歌うほどロマンチックではなく、かなり騒がしい場所だった。それでも、そこで過ごした時間は私の物語の中でいつまでも色褪せない重要な一部となるに違いない。
私のジャマイカ滞在記 ⑰ / 44A
節度は万事において重要な要素であるが、メチャクチャな見た目をしているジャマイカ人にも、この節度は確かに存在する。それは特にラスタファリアンの間で顕著であり、彼らの間ではこれを「ヘビーマナーズ」と呼ぶことがある。土足でジャマイカの地に踏み入れる私たちだが、その地には古来から続く生活と風土が息づいている。レゲエを愛する私たちは、情報を通じてラスタや「ワンラブ」「ヤーマン」「ブレス」といった言葉の背後にある精神的な意味をある程度は知っていると自負している。
しかし、ジャマイカ全体がラスタファリアニズムで結ばれているわけではなく、中にはギャングになって金を稼ぐならず者も少なくない。節度が何を意味するのか、ジャマイカでそれを見極めるのは難しい。以前出会ったラスタのウィリーは、スーパーでビールを買い、飲む前に床に一滴垂らして神に捧げる儀式を行う。彼が本当に節度をわきまえているかは定かではないが、ポケットに銃を忍ばせていて脅してくるジャマイカ人に対して怒りを覚えたこともある。私は「ワンラブ」という言葉を合い言葉のように使い、ジャマイカで親しみを込めて交わしていたが、実際はすべての人がその精神を共有しているわけではなかった。
そんな中、私にも深く反省する出来事があった。それはラスタの日曜集会でのことだった。朝から夜遅くまで続く音楽とともに、厳かにダンスをする集まりである。緑のネックレスをしたエセ日本人である私は、ある少年に目をつけられた。ジャマイカの少年は日本人や他のアジア人を見るとカンフーを真似する習慣があるが、私も冗談で「アチョー」と返してしまった。すると少年は興奮し、「アチョー、俺の方が強い。ネックレスをよこせ」と迫ってきた。しかし、その場に「コラッ」という一喝が飛び、それは老年のラスタからのものだった。神聖な場での悪ふざけにのってはならないと気づいた私は、少年に緑のペンダントを渡して和解し、隅で静かに反省したのだった。
私のジャマイカ滞在記⑩ / 44A
ジャマイカの不良たち
かつて、私はリッキーベンツたちと交流していたおかげで、様々なレゲエの関係者から声をかけられるようになった。今思い返すと、私は当時のドキュメンタリーを自らのカメラで撮影するという野心を持っていた。いつしか、そのカメラは私の日常の一部となり、あらゆる出来事を記録していた。ストーンラブスタジオでのパワーマンやジョーリコショット、そして当時名前の知らない売り出し中のアーティストたちの姿も、私のレンズを通して捉えられていた。何かとインタビューし、録画していたものだ。
その後、彼らと再会したのは、私が一人で訪れた野外ダンスでのことだった。公民館の庭に万国旗が飾られた、ある種異国情緒あふれる会場での出来事だ。まばらな客たちが微かにざわめき始め、私はふとした拍子に誰かに突き飛ばされ、よろめいてしまった。後ろ姿を見ると、先の出会いで知った若いアーティストの姿があり、さらに彼を取り巻く20人ほどの集団が、風を切るように会場前方へと歩を進めていた。そして、その先陣を切るのは、日本でも話題になることの多いダンスホールレゲエのイケイケアーティスト、ヴァイブスカーテルだった。彼は手にウイスキーやブランデーを持ち、それを口に含んだ後、突如ステージに上がり、自然とマイクを手渡されてパフォーマンスを始めた。客たちは興奮し、様々な歓声を上げた。私は鳥肌が立ち、あれこそが飛ぶ鳥を落とす勢いのアーティスト、ヴァイブスカーテルだと感動しながらも、少し怯えを感じた。
そして、これは日本に帰ってから知ったことだが、私を突き飛ばした犯人はポップコーンという名の、後にジャマイカだけでなく世界でも人気を博することになるアーティストだったのだ。
私のジャマイカ滞在記④ / 44A
ジャマイカに足を踏み入れた時、私は多くの日本の常識が覆されることに驚きを隠せなかった。ジャマイカの人々は、400年にわたる奴隷制度の歴史を背負いながらも、その苦難を乗り越えてタフな精神を持って生きている。ウサイン・ボルトのような世界最速のアスリートが生まれるその土地で、体力的には日本の長寿文化には及ばないかもしれないが、身体能力の面では確かに一目瞭然だった。
ある噂によれば、ボルトは昼間は厳しい陸上の練習をこなし、夜はダンスイベントで情熱的に踊り続けるという。私も何度かダンスイベントに参加したものの、立ち眠りが得意というだけで、中途半端な状態で友人のウィリーに何度も起こされた。
ジャマイカ滞在中、私はいくつかの宿を転々とした。多くの場所は、日本人が経営するゲストハウスで、そこには日本人の旅行者たちとの交流の場があった。しかし、ウィリーと一緒に時間を過ごすうちに、私は彼らとの間に微妙なズレを感じるようになった。
ボブ・マーリーの「トーキンブルース」には、彼が石を枕にして寝ていたことが歌われている。その歌詞が示すような過酷な生活も、ジャマイカの一部だろう。
あの日から多くの年月が流れ、ウィリーとの連絡は途絶えてしまった。連絡することは手間もかかり、面倒だったからだ。私は彼がどうしているのか、時折思いを馳せる。ジャマイカで知り合った人々との別れは、永遠のもののように感じる。
一方、日本では違った。カメラマンの兄ちゃんとは、東京の展覧会で再会することができたし、有名なアーティストたちのイベントに足を運べば彼らとも再会することができた。しかし、ジャマイカでの友人たちとは、なかなか会えない。この感覚、これこそが「ジャーガイダンス」なのだろうか。