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平安時代後期の石積みの遺構が国の史跡に 貿易拠点だった博多「港の護岸」
福岡市の小学校跡地で見つかった平安時代後期の石積みの「博多遺跡」が、国の史跡に指定されることになりました。
オリジナル記事を読む
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/790255
奈良きたまち巡り 奈良女子大記念館一般公開のついでに旧奈良監獄、北山十八間戸、多聞城跡、聖武天皇陵、転害門を散策しました。
奈良女子大学記念館の春の一般公開に行きました。その後、きたまちの史跡めぐりを楽しみました。
変なおじさんとこの 鶏さん番外編 ゆらり旅愛南 百二十二の巻 天嶬の鼻遺跡 高野長英の砲台石塁跡およびお台場跡
天嶬の鼻のルートが開通した後
さっそく高野長英の砲台跡 お台場跡に
行ってきました
お台場の石垣の奥が 天嶬の鼻遺跡になるようです
景勝地に遺跡と歴史的な物が多いですね
四国旅行 瀬戸内海国立公園「屋島」山上 3泊4日で高松、屋島、小豆島、鳴門に旅行しました。一日目、屋島山上です。夏休み旅行。
絶景の四国、香川県高松市の屋島山上への夏休み旅行。2022年7月です。
高松駅からJRで屋島駅→四国村を四国旅行②の動画であげていますが、そこからシャトルバスに乗って屋島山上まで行きました。
屋島寺、屋嶋の城、談古嶺、血の池など、絶景と癒しのスポットでした。
四国旅行 屋島四国村ミウゼアム 3泊4日で高松、屋島、小豆島、鳴門に旅行。屋島の四国村ミウゼアムです。
四国、香川の屋島四国村ミウゼアムへの夏休み旅行。時間が全然足りなかったですが、とても素敵な野外博物館でした。再度、ゆっくり訪れたいです。登録有形文化財など名建築がいっぱいです。
高松から屋島までは電車で20分程度なので気軽には行けますが、見どころたっぷりなので、時間をたっぷりとって行きたいところです。
2022年7月の旅行です。
千葉県市川市柏井町を歩く 【西船橋からなんとなく市川市方面を意識して編part 8】【散歩245】
姥山貝塚公園に着きました.
なるほど少なくとも業界ではかなり有名な史跡のようですね.市川市にこのような場所があったとは…全く知らなかった.
歩いたのが数か月前なので記憶があいまいですが,確かここから発掘されたものの一部は東京国立博物館に保管されていると公園内のどこかの看板に書いてあったような気がします.
Youtube版⇒ https://youtu.be/5btuG-IbFRg
堺のピラミッド土塔一般公開と出雲大社初芝分祠 深井から初芝を歩きました。
土塔は行基の作った日本で唯一の土で作られた仏塔です。一般公開のときだけ上に登れます。ついでに出雲大社初芝分祠にいったら立派でビックリしました。
【リアル登城アタック】名護屋城RTA 00:06:27
2022年のGWに九州に行ってきたシリーズ第2弾。
発音が同じ名古屋城のほうが知名度が高いので、
名護屋城は忘れられがちですが、
一時期はここが日本の中心になってた時もあるんですねー
使用したBGM
リシュリュー~孤独な正義~ / 田中芳典 さん(nc230193)
華めく王都 / KK さん (nc237972)
使用した立ち絵
立ちONE素材 / akihiyo さん (im10610721)
ARIA / おだぶつ さん (im9661693)
白鳥古墳に鎮座する 日本武尊を祀る「白鳥神社」初稿 山口県熊毛郡平生町佐賀
白鳥古墳は熊毛半島の中間の熊毛郡平生町の佐賀の海に臨む舌状丘陵の上に造られている。
全長120m 山口県最大の前方後円墳で後円部の径65m 高さ8m、後方部の幅62m 高さ7.5mもある巨大なもの。
5世紀半ばに築かれた瀬戸内海航路の拠点 に置かれた周防国の支配者の古墳。
神社は後円部の真上に鎮座する。江戸時代社殿再建のおり異物が出て今も 保存されているそうです。半島には古墳が多く神花古墳、阿多田古墳などがある。
御祭神 ヤマトタケル命(日本武尊)
昨年は駐車用が工事中で社前まできただけだが今回は参拝と港を見て歩いた。景色がいいですね。晴れたり曇ったりの一日でした。白鳥稲荷という神社も近くの高台にある(去年は間違えて先にそちらへ参拝した)駐車場からの景色が良い。
久保白船 当地の佐合島出身の俳人。種田山頭火らと活躍したそうです。初めて知りましたなかなかいい句ですね。
蹲(うずくま)れば蕗のたう
海の青さ空の青さに雲重なれり
熊毛半島 大星山からの景色 sm37602958(別垢)
【西国街道】 広島山口県境 〜小瀬川ながれと吉田松陰の故郷決別の歌〜 岩国市小瀬
古代山陽道の石國駅家に比定される山陽道は中世には一時荒廃したが近世になると 整備され江戸時代には参勤交代の道などとして用いられました。
関戸〜小瀬へ かつての国境の川 秋の気配がする流れを眺める。
車載が少し。小瀬川の日本の風景。定点観測。初秋。
歌碑は岸信介氏の揮毫であり、吉田松陰が安政の大獄で江戸へ送られるときこの渡し場付近を詠んだ歌らしい。
悲壮な感じですね。
川と山が綺麗だったので満足であります。
ただ惜しいのは錦帯橋で一時停止違反の切符を切られました< (^_^;) 気をつけます。
武将茶人〜上田宗箇(そうこ)ゆかりの 史跡 名水「岩船の水」 広島県廿日市市浅原
戦国から江戸初期の武将で浅野藩の家老 上田宗箇ゆかりの場所。廿日市市の史跡である。
浅野家内での揉め事から3年ほど隠棲した上田宗箇はここ廿日市市北部の浅原で草庵を結び茶事三昧に生きた。
佐伯郡(大竹や大野、旧佐伯町)辺りは上田家の領地であった。住民にも慕われたらしい。
毎日ここへ清水を汲みに来て民家でやすんで庵へもどったという。
水は今も守られ茶に合う名水として親しまれている。
東屋に囲炉裏があり休息できるようになっている。水量は絶えないがそう多くはない感じです。
夏場は虫が多い(蜂もいた)
歴史=上田重安(のち剃髪して宗箇と号した)従五位下主水正。
尾張星崎村出身で元小笠原氏を称し、重安の時代に上だと改めたらしい。祖父の時代から丹羽長秀の家臣であった。武勇にも優れていたようです。長秀なき後、秀吉直参で1万石の大名となった(豊臣姓と冠位を授かる)関ヶ原で西軍に与し改易。
蜂須賀家の客将〜さらに浅野家(妻が高台院尾根の従兄弟の娘で浅野との関係も深かったらしい)に乞われ1万2千石で家老となり浅野とともに芸州へ移った。
茶道(利休〜古田織部に師事)作庭に優れた文化人でもあった。和歌山城西の丸、粉河寺庭園、名古屋城二の丸庭園、広島の縮景園など作庭がいまものこる。
死後今の廿日市の串山で荼毘にふされ遺灰は砕かれ大野瀬戸(宮島海峡狭隘部)に流された。墓には遺髪と一本松が植えられているそうです。
周防 山代地方本郷 西照寺山門(旧長州藩 本郷代官所表門 遺構)と動物の彫刻 岩国市本郷町
昔から岩国北部(周防玖珂郡北部)今の美和、美川、錦、本郷あたりを山代郷(山代地方)と呼んだ。
長州藩の直轄地として、本郷には今の小学校の場所に本郷代官所が慶長十七年以来おかれていた。
本郷は山深いところにあり周囲を山に囲まれている。昔から楮、三椏(コウゾ、ミツマタ)を産出し 和紙の原料とされたこれは長州藩の財政をうるをし「三白政策」(米、塩、和紙)の中核の一つを成した。現銀収入源の特産品として重要だったわけです。本郷町内に楮祖(ちょそ)神社というのがある。
本郷は江戸時代の周防 山代地方の経済・政治の中心だったわけです。
案内板によれば〜本郷代官所の門は大正十年移築され西照寺の山門に転用され保存された。
二百六十年以上代官所にあった歴史ある山門であります。今回再訪しますと可愛い動物の彫刻がありました前回行ったんだけど以外によくみていないですね・・。
また寺の前を流れる水路は吉田松陰の実兄杉民治が代官所の最後の代官(区長)として七年勤務し整備したものだそうです。
偕行団=第二次長州征討の時、長州藩で結成された諸隊。当地方の僧侶により編成された軍隊。
他に神官の編成した神威隊(本郷=国恩寺が屯所)などもあった。
美和の速田神社へ寄った後、県道130号線を越え本郷へ日帰りで行ってきたので拝見してきた。
長州の 歴史 代官所 門
【お台場】幕末の海上要塞「第三台場」に上陸&散策【台場公園】
幕末の江戸湾に築かれた「御台場」
慶応4年までは、国防の最前線だった場所。
明治時代に役割を終え、大正15年には「国指定史跡」に指定されました。
ペリー艦隊が品川沖まで来ておきながら、
引き返して横浜に上陸したのも、砲台があればこそですね。
現在は歩いて上陸することが可能で、
砲台・火薬庫・陣屋・かまどの跡が残っています。
黒船来航時の面影が感じられますね。
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<山口県の神社>小早川水軍の後裔 浦氏の奉斎した 阿月 神明宮(東 西二社) 山口県柳井市阿月( Azuki)
阿月は江戸時代に小早川氏の庶流で小早川水軍司令官 浦宗勝の後裔=浦(うら)氏が上関から異動となり阿月領主として治めた所である。
神明宮=浦就昌(なりまさ)により建立された御社。
西神明宮=豊受大神宮を祀る神社(克己堂から少し西側に行った所にある)
東神明宮=天照皇大神宮を祀る(公民館の少し先にある)
神明祭=天照皇大神宮、豊受け神宮の依代20mの御神体(大きな鉾)を東西二本たてて行われる奇祭。一度見てみたいと思っています。所謂とんど(宮中行事の左義長が民間化したもの)と小早川氏の軍神祭が融合したもののようです。
現在は毎年2月11日に行われる(元来は旧正月14、15日であったらしいです)
幕末領主浦氏の開いた〜維新の志士を輩出した私塾 克己堂 跡があり史跡になっている。
克己堂を開いたのは長州藩家老 浦靱負(うら・ゆきえ〜家老・国司家からの御養子である)である。
軍神祭は柳井商工会の観光HPによると〜文禄の役のおり小早川隆景以下浦宗勝などが、伊勢神宮へ祈願をして朝鮮半島へ渡航し、戦いで勝利を得たのでそれ以来始められたとありました。
ちなみに少し北に位置します伊保庄の古社 賀茂神社にある、県下で二番目に古い在銘石鳥居は
第九代 浦元種が願主として寄進したもの。
あと、広島の三原には神明市というのがありやはり町にある神明宮の祭りがあるらしいです小早川隆景時代からのようです。隆景の居城三原城跡もあり小早川氏ゆかりでしょう。
防長路シリーズ〜 https://www.nicovideo.jp/series/19894?ref=pc_watch_description_series
防長あれこれ〜明治維新史跡〜 阿月「 克己堂」跡と浦氏奉祀の「神明宮 」 山口県柳井市阿月( Azuki)
歴史散策〜伊保庄の賀茂神社の後、夕方に本土から南へ突き出した室津半島 東側の南部にある阿月地区へ。
阿月は江戸時代に小早川氏の庶流で小早川水軍司令官浦宗勝の後裔=浦(うら)氏が上関から異動となり阿月領主として治めた所である。
領主浦氏の開いた〜維新の志士を輩出した私塾 克己堂 跡があり史跡になっている。
克己堂を開いたのは長州藩家老 浦靱負(うら・ゆきえ〜家老・国司家からの御養子である)である。
ただし小学校が立っているので現存するのは表門と浦靱負さんの顕彰碑。
現在は毎年2月11日に行われる 神明祭が有名である(元来は旧正月14、15日であったらしいです)東・西神明宮=皇大神宮、豊受け神宮の依代20mの御神体(大きな鉾)を東西二本たてて行われる奇祭。一度見てみたいと思っています。所謂とんど(宮中行事の左義長が民間化したもの)と小早川氏の軍神祭が融合したもののようです。
軍神祭は柳井商工会の観光HPによると〜文禄の役のおり小早川隆景以下浦宗勝などが、伊勢神宮へ祈願をして朝鮮半島へ渡航し、戦いで勝利を得たのでそれ以来始められたとありました。
ちなみに少し北に位置します伊保庄の古社 賀茂神社にある、県下で二番目に古い在銘石鳥居は
第九代 浦元種が願主として寄進したもの。
あと、広島の三原には神明市というのがありやはり町にある神明宮の祭りがあるらしいです小早川隆景時代からのようです。隆景の居城三原城跡もあり小早川氏ゆかりでしょう。
関ケ原古戦場 戦前絵葉書8枚 岐阜県関ケ原町
関ケ原古戦場の絵葉書8枚です。
・宮上 大谷吉隆之墓
・十九女池西 本多忠勝陣所古址
・大木戸 不破の古関
・笹尾山 石田光成陣址遠望
・福井 関ケ原合戦戦死者首級塚
・陣場野 徳川家康進旗検馘所
・関の明神 福島正則陣所古址
・小池神田 津島義弘陣所古址
史跡 広島藩主・旧湯治場と霊泉の鎮守社 湯之山大明神と大森八幡宮 広島市佐伯区湯来町
芸州広島藩主の旧湯治場で藩の事業で建てられた湯治場。250年の歴史がある。広島市佐伯区湯来町湯の山温泉 伝承では開湯は1200年前とも言われる古い湯治場。
行程 広島市佐伯区から一路湯来(ゆき)へ向かう八幡川沿いに登り魚切ダムの側を通り山間の中を抜け・・・
湯来伏谷の大森八幡宮〜湯来温泉(休憩)〜湯の山温泉、湯治場跡、湯の山明神社へ。
江戸時代も幾度か温泉が湧出し 1749年藩主 浅野吉長公により藩の儒者が湯の山霊泉記を著す。
翌1750年藩の事業として湯治場が建設され合わせて鎮守の湯の山明神が再建された。
その後、一般庶民にも解放され効能も高く湯治場として賑わったと云う。祭祀は佐伯区の観音神社さんで行われている。
神社でいただいてきた資料みますと、岡岷山(広島藩士で絵に秀でて、城下から湯の山温泉などを経て、豊平の駒ケ滝を見に行く行程を描いた 都志見往来日記などを書いた)の文によれば、中秋に入浴、寒いので8、9人しか湯治客はなく 湯は人肌で、湯坪に入るうちに暖かくなるが、湯に入った気分にはならと書いています。
その昔は源泉にそのまま入ったようです^^; 効能はその方が良いでしょうな。
現在は、温泉水源泉は23.5度なので温泉館で加温してある。
泉質は放射能泉(ラドン温泉です)
江戸の昔からある4mの落差の岩場から落ちる名物打たせ湯は源泉で23.5度ですので冬は・・・・やはり寒いねw。夏はいいですけど。
現在は旅館や、民宿が数件あるようで湯の山温泉館が公衆浴場としてあります。
湯の山明神社は温泉館の上にあり 旧湯治場跡もあって歴史を感じます。
旧湯治場跡は、県の史跡指定されており外から見学しました。
温泉館は何度も来てるけど、湯の山大明神さんは初めて参拝。
湯の山明神へ参拝して霊泉を汲み湯の山を後にした。
湯来町には他に湯来温泉もあり、旅館や湯来ロッジ(日帰り入浴できる)などがある。施設は湯来ロッジの方が良い。風情は湯の山の方かな。広島市周辺で最安の歴史ある温泉。
西国街道(旧山陽道)車載で峠越えと周防熊毛郡 呼坂(よびさか)宿の街並み風景と徳修館
周防国 呼坂(よぶさか)の宿場を車載と散策しました(いくつか修正して再度上げ直しました)
玖珂郡の周防高森 高森天神前〜車載で中山峠を越えて旧熊毛郡に入ります。
高森天神前〜中山峠〜(県道142号)〜高水村塾跡〜呼坂宿散策〜安田の徳修館跡の聖堂のある公園と孔子像。
昔この県道142号は迷い込んで走ったことがありました。
正覚寺、高水村塾跡〜しばらく行くと高水駅に至る。駅からまっすぐ西へ行くと呼坂宿跡のある通りへ。
去年高水駅方面は烏帽子岳登山できています。
この高水辺りに熊毛神社論社の大歳神社があるはずなんですが見つかりませんでした。
昔の家並みも少し残っていますのでまあまあいいです。駐車場探すのが大変ですけど。
余談ですが、鶴声軒のモナカ(柚白餡)が美味しかったので後日また買いに行っちゃいましたw 店主さんがとってもいい方ですよ^^
山陽自動車道熊毛インターに近い、安田地区にある 徳修館は、江戸時代付近の三丘領主毛利藩一門の宍戸家の郷校(領内の学校)のあった場所。
史跡指定建物は聖堂(孔子や孟子などを祀ってある)で周辺は公園。孔子像は孔子の故郷の支那から贈られたもの(その頃は友好的だったんだろうね)
さらにこの安田地区から少し東へ行くと清尾地区にいたり、周南七福神の真言宗三光寺やかつては熊野三所権現を祀っていた古社の高水神社があり(いつ行きましても掃き清められていてすがすがしいです)
高水神社の奥の院が夫婦岩という影向の巨岩で三光寺から登れるそうですがまだ登拝はしたことがないんですけどね。確実登山でしょう。
徳修館の近くにに宍戸家館もあったそうで今も子孫の方が住んでおられるそうです。
近くにはラドン温泉の呼鶴温泉や三丘温泉などもありドライブがてらにいいですね。
間違えて 違うタイトル読み込み間違いしてました・・すいません ^^; 直しました。2019 春
ゆっくりツーリング日記#3 GSR400、柳生町へいく(前編)
(前後編は)初投稿です
後篇は近いうちにあげます
前回の動画(sm35626455)
次回の動画(sm35841581)
西国街道行く 鳴川石畳遺構〜鉾ノ峠〜玖波宿,〜小方宿(間の宿)へ 総集編
西国街道行く
広島市周辺の旧山陽道(西国街道)の一部を何回かに分けて歩いてみます。面影はわずかだと思いますが 歴史のある道ですから。
ルート=廿日市市の西端 大野鳴川〜石畳道〜鉾ノ峠〜唐船浜〜玖波(くば)宿跡〜黒川を経て
小方(間の宿跡)までのロングバージョン
石畳道は昔の街道のもので西国街道の遺構です。峠越えはJRのトンネル上を通過しますので少しスリルがある。馬試しと言われる峠は旧道にトンネルができ、国道二号線が海側にできているので使われなくなっており通れない。
玖波宿=安芸国最後の宿場(隣の小方の休息などに使われた予備的な間の宿と補完しあっていた)
洪量館が本陣で文化人なども集い文化の華が咲いたと言い伝えられている。四境の役(長州征伐)で長州軍に焼かれ灰燼に帰す。その後再建された古民家や蔵などが残り風情ある町並みをまだ残している。
間の宿(あいのしゅく)=正規の宿場本陣などがいっぱいの場合、脇本陣などへ宿泊をさせたそうです。
厳(いつき)神社=厳宮(ごんのみや)大明神と呼ばれた古社。かては福島正則の亀居城本丸あたりにありましたが廃城となり妙見丸跡に遷座された。城が忘れさられても社は今に残りました。
その昔、厳島のお島周り式(島を回り七つの浦の神社で神事をする)御烏喰式(おとぐい)式というのがあり養父崎で団子を筏で流し神烏(おがらす)が取りに来るんだそうですが現れない場合は、厳宮(ごんのみや)出しといいこの宮の前まで船で漕ぎ出して拝したと言います
前の動画と玖波宿のところが被りますが、宿場と間の宿の相補的関係があり振り返りながら1本にまとめました。
西国街道行く 四郎峠〜鳴川石畳遺構〜鉾ノ峠〜玖波宿
西国街道行く
広島市周辺の旧山陽道(西国街道)の一部を何回かに分けて歩いてみます。面影はわずかだと思いますが 歴史のある道ですから。
ルート=宮内から四郎峠〜中山の疣観音(今川了俊歌碑)〜JR大野浦(今川了俊歌碑)をいくつか紹介して鳴川手前まで車載。
廿日市市の西端 大野鳴川(なるかわ)〜石畳道〜鉾ノ峠〜唐船浜(からふねはま)〜玖波(くば)宿跡へ
大野向原あたりからさらに山へいくあたりから残念社(長州征伐の時、幕軍伝令で長州軍に撃たれた依田半蔵を祀る)経由の古道(四境の役の古戦場)ですがで山道でもありパスしてます。寂しい古戦場を一人では歩きたくないもんな。
山を超えた場合、鳴川手前の団地のあたりに出てきます
石畳道は昔の街道のもので西国街道の遺構です。峠越えはJRのトンネル上を通過しますので少しスリルがある。馬試しと言われる峠は旧道にトンネルができ、国道二号線が海側にできているので使われなくなっており通れない。
唐船浜(とうせん浜)=太閤秀吉がこの浜で外航船を作らせたとか言われます。
玖波(kuba)宿
安芸国最後の宿場(隣の小方(ogata)=休息などに使われた予備的な間の宿と補完しあっていた)
洪量館が本陣で文化人なども集い文化の華が咲いたと言い伝えられている。四境の役(長州征伐)で長州軍に焼かれ灰燼に帰す。その後再建された古民家や蔵などが残り風情ある町並みを一部まだ残している。
西国街道を行く 廿日市市大野 向原の石畳と九州探題今川了俊歌碑
西国街道廿日市市 大野地区にある 向原の石畳(復元)を歩いてみた。
昔の西国街道の姿を少しだけイメージできます。
宮島に一番近い温泉 宮浜温泉の駐車場に停めて歩きました。
実物の石畳遺跡は保存のため埋め戻されています。
背後の高い山は経小屋山 古代の防人が一切経を守護神に祀ったからとと云われます。
また、街道の石畳の実物ですが、ここから少し先の鳴川の鉾ノ峠ヘ向う山の入り口のところにはそのまま残っています。
今川了俊(貞世)の歌碑
遠州今川氏の祖で、足利三代義満に仕えた。九州探題として九州の南朝方を駆逐する司令官となる。
優れた歌人でもあり、九州へ赴くときに西国街道通り、各地で歌や紀行文を残している。
『道ゆきぶり』がそれです。また自らの体験を記した「難太平記」なども表した。
廿日市には今川了俊の歌碑があと2箇所有ます。
西の京 古都山口 大内文化の古寺社をめぐる旅 寺社編(五社寺巡拝)
2019.8.8
山口市を自転車で回りました。山口駅~上山口~宮野~大内氏館跡~山口駅写真と少し動画も添えて編集しています
前半(古熊神社~八幡宮)
古熊神社(天神さん)=大内氏の建立した天満宮 拝殿は楼門も兼ねる山口独特のもの。
今八幡宮=大内氏により元々あった今八幡(祭神:宇治皇子一座)に朝倉八幡を合祀して創建され、楼門に拝殿の機能を持たせてある造り楼拝殿の左右翼廊は中央より一段低く作られ身分により座すところが決まっていたようですまた僧侶の読経が行われた場所のようです。管領代大内義興公の建立なので豪壮な造りです。
動画後半で以下をあげています
仁壁神社~八坂神社(築山館跡にある)~龍福寺=大内館跡にある庭。
仁壁神社は三宮と呼ばれ周防の古社である。バテてたのでさらりと拝殿で参拝だけ
八坂神社はもともと祇園社と呼ばれ牛頭天王を祀る神社だったと思いますが明治後八坂社となっています本殿は大内義興の建立で、そのまま現存。
元々は山口大神宮内にあり江戸期に堅小路の築山館跡へ移転されたもの。祇園祭の鷺舞の奉納は 600年続くそうです。往古は庶民は築地屏から舞を見物することも禁じられていたとか。
堅小路=山口の昔のメインストリートだそうです。
曹洞宗龍福寺=元は山口市内の白石にあり廃寺になっていたが毛利隆元が大内義隆の菩提寺に創建。明治後本堂などが失われ 大内氏の氏寺だった氷上山興隆寺から釈迦堂を移築して本堂とし再建されていますので大内氏全盛時代の遺構と言えます。資料館もあるようですが疲れてて未見です。
発掘された史跡の復元池泉庭園も見学してみました。 枯山水も復元されてるらしいです(後で知りましたので行っておりません)
他に参詣した 常栄寺と善生寺は庭園動画にまとめることにして掲載していません。
撮影してないんですけど偶然通ったので護国神社もいってます(広くて社殿の後ろの青空と雲と樹木がいい感じでした)常栄寺への途中にある。
また近くの墓地下に総理大臣で陸軍元帥寺内正毅墓所の看板があり(行かなかったですが)この近く 出身らしいですね陸軍墓地か何かのようです。
雪舟庭園 sm35616440
周防岩国 初夏の庭園紀行 吉香公園 満開の花菖蒲と吉香神社 山口県岩国市
山口県の西の端 岩国市 〜花しょうぶ園、吉香神社、吉川氏の昌明館門と付属長屋など
毛利一門吉川氏の城下町 JRを利用して花しょうぶを求めて日帰り花見旅
岩徳線川西駅から名橋錦帯橋を渡りかつての居館武家屋敷などのがあったエリアを公園化した吉香公園 を散策。夏6月は花菖蒲園が満開 2箇所の花菖蒲園に11万本以上の菖蒲が植えられている。
今回散策ルート
JR岩徳線川西駅〜錦帯橋(槍倒しの松)〜家老香川家長屋門〜岩国高校跡〜御堀〜吉香神社と紫陽花〜城山花菖蒲園〜吉香花菖蒲園〜吉川史料館と昌明館跡(市の重要文化財 門、長屋)〜
現吉香公園のエリアは、かつては大内氏時代は永興寺が伽藍を並べ、江戸初期の吉川氏の入国以後は、 居館や武家屋敷が並んだ。明治後居館跡に遷座した吉香神社とその附属地が公園化されさらに、旧制岩国中学や女学校、岩国高校として利用された場所が学校の移転に伴い追加され、城山や紅葉谷も含めて 総合公園化された。
清流錦川の側にあり 広場や噴水、四季折々の花に樹木や緑、昔の建物、神社仏閣のある場所。
春は梅、桜、夏は花菖蒲に鵜飼、秋は紅葉 横山(城山)の城跡には再現された岩国城もあります。
他には美術館、史料館、城山ロープウエイ、白蛇観覧所や鵜飼用の川鵜の飼育場などもある。
ちなみに川西駅から欽明路バイパスを少し西へ行くと欽明館のうどんの自販機コーナーがありますぞ
史跡 「頼山陽」旧居紹介と師走茶会(片桐石州筆の掛け軸も) 2018
2018 師走 広島の頼山陽記念館茶室で濃茶の会があり
一服飲んできました。お邪魔するのは今回で2回目かな。
お点前は石州流の方でした。
頼山陽史跡記念館の紹介とお道具拝見の写真少し紹介します。
木々やお庭もあり街中の憩いの場所です。
広島市の繁華街の近くなので紙屋町や本通りや電車電停も近い。
頼山陽旧居の建物や御庭は、原爆で焼けて戦後の再建(復元)です。
頼山陽の色々企画展示や常設展もあります。
観光の節は歴史好きの方は頼山陽記念館にも御いでくださいませ。
近くには広島城跡、名勝 縮景園などあります。
【散策物語】もうすぐ開花の高岡古城公園と高岡大仏を歩く ~富山県高岡市~
次回の高岡古城公園の投稿は満開の姿かと思います。
イランの名所・旧跡『フェルドウスィー廟』
マシャド近郊にあるイランの有名な叙事詩人フェルドウスィー廟(びょう)
巨大な廟は1933年没後1000年を記念して作られた。
マシャドは東北部に位置するイラン第二の都市。
詩人フェルドウスィーは940年、イラン北東部トゥースで生誕。
フェルドウスィーは、最も偉大なペルシャ語の詩人とされ
その傑作シャーナーメはイランの思想や文化を反映しており
世界の多くの研究者はこの作品を世界最大の英雄伝としています。
廟(びょう)は簡単にいうとお墓の事です。
アジアと中東の映像→【mylist/61515778】
吉見百穴を散歩する。
営業時間内にしか入ることが出来ない場所の為、昼間の撮影になります。
(9:00~17:00)
↓↓↓写真はこちら↓↓↓
https://twitter.com/Hiroki8112/status/992753347659677696
■Hiroki
コミュニティ:<Hirokiのコミュニティ>co3786661
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大房岬要塞 ( 大東亜戦争で実際使われることが無く終戦を迎えた要塞)
大房岬要塞の歴史は江戸時代の末、黒船来襲に幕府はあわてて江戸の防衛のために各地に台場(要塞) を建設しました。東京湾の入り口に当たる大房岬にも弘化4年(1847)に10挺の大筒が備えられました。 明治20年代に入ると日清・日露戦役に備えて日本海軍は兵員の訓練に励み、艦砲射撃の演習場として大房岬が選ばれました。岬南面 に館山湾から発射された艦砲の砲弾跡が残っています。 昭和3年、陸軍は東京湾防衛のため、大房岬を買収し、要塞化する工事に着手しました。照明所と発電所はそのときに建設されました。 その後、昭和11年にワシントン軍縮会議の結果、解体処分となった巡洋戦艦「鞍馬」の艦砲(口径20cm)2門の砲塔が2基備えられ、1箇(個)大隊の兵士が 東京湾の防衛に当たりました。