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第48回楠公研究会「楠木一族と服部一族〜南北朝時代から戦国時代、そして現代まで続く盟友関係〜」【一般公開版】
今回の勉強会は愛知県弥富市の重要文化財「服部家住宅(旧荷之上城)」にて開催。
15代目服部家ご当主からお話を伺った。
伊勢楠氏と共に、同じく南朝方として吉野時代から共闘してきたのが、服部氏だ。
服部氏といえば、楠木正成の妹の嫁ぎ先として、また、観世家とも血縁がある家筋として、余りにも有名である。
服部氏の団結力は非常に強く、伊勢長島攻めの際の服部家棟梁・服部左京亮友貞は、織田勢を迎え討つべく、河内一郡荷ノ上に館を築いた。
友貞は、戦国乱世を生き残る為には、一向衆に帰依する北伊勢の豪族や僧侶・門徒らの、反信長の力の結集が必要と考え、天文17年(1548) 本願寺を訪れ、 長島願證寺と交歓して結びつきを強めた。
当時、北勢48 家と呼ばれた土豪の多くは長島願證寺の国侍門徒であり、 友貞との結びつきにより長島願證寺は一大勢力となった。
永禄3年(1560) 、友貞は狭間の戦いで今川義元に加勢し呼応して、軍船で大高下から熱田湊を荒らしたが義元に利あらず、信長を討つ好機を逸した。
長島一向衆で重きをなした友貞を信長は大いに恐れた。
永禄11年(1568)正月、服部友貞は、楠木正具の求めに応じ、南朝の盟友・多気城城主の北畠具数の元へ年賀の挨拶の為、出立した。
その途上、楠木正具の地盤である北伊勢・米野山蔭涼庵に逗留した。
この時、友貞は、信長の謀略に遭い、信長の家臣・柴田勝家の軍勢に取り囲まれ、蔭涼庵で自刃した。
服部友貞公の墓碑は今も、蔭涼庵のすぐ傍に残っており、代々墓守をされてきた畑中家が今に至るまで毎年、服部友貞公の法要を取り行っておられる。
【声変版】皇居に鎮座する「南朝」の象徴楠木正成
西暦1,331年10月22日
慣例により後伏見上皇の詔によって、両統迭立から三種の神器の無いまま持明院統の光厳天皇を践祚させ、光厳天皇が初代北朝天皇に即位する。父である後伏見上皇は院政を開始した。また、後醍醐天皇一派の倒幕計画には大覚寺統全体が関与したわけではないとして、大覚寺統嫡流から皇太子を輩出し両統迭立を維持すべきとの理由により、持明院統の同意の下に木寺宮康仁親王が皇太子に選出された。
宇宙一元化 公式HP
https://universe-centralization.com/top.html
もし韓国社会の現実を目のあたりにしたら K-POP編
・弥生の候、益々ご清祥の事とお慶び申し上げます。
さて、皆さんは何故K-POPアイドルを初め。
大半の朝鮮人が反日なのか、真剣に考えた事はありますか?
その疑問を解き、ぜひ周囲の家族や知人、同僚と情報を共有し自身でXやFacebook、Telegram等のアカウントで発信してもらえれば幸いです。
詳しくはこちらへ↓
反日朝鮮半島系の人が教育勅語と李氏朝鮮時代の小中華思想と詭弁の相乗効果で洗脳工作する手口
https://images.app.goo.gl/QKRMFTrYCN2wfxmW7
「独島は我が領土タンタン!」韓国アイドル、替え歌で無邪気な反日
https://www.sankei.com/article/20170323-MV4SYXAO3RNWXFQQXJOBTFFGBI/
もし韓国社会の現実を目のあたりにしたら 【反日教育編】
・さて、南朝鮮の反日教育と選民思想を日本史の教科書及びNEWS、池上彰さんの特集で既にご存知かとは思いますが↓
1.有史以来、中国に征服され現在に至るまで所謂華夷秩序の影響
2.儒教(朱子学)が我が国以上に強く
「上下関係、礼儀、面子」を重視し苛烈な受験競争で御馴染の風景で(見栄を張る)有名な
教えが日常に浸透
3.異民族と交流がなく、西洋人の移民を大量移住をする程受け入れなかった長い歴史
(個人主義が皆無)
以下の特徴が挙げられます。
現実本当に酷いのかまた、奇想天外で見るに
耐えないのか、本動画で共に学びを深め。
家族、同僚、友人との情報を共有して南朝鮮
(韓国)に立ち向かっていきましょう!
常習的に侵犯する日本人を決死阻止した独島
義勇守備隊
https://s.japanese.joins.com/jarticle/157764
朝鮮人によるレイプが日本で多発
https://tokua33.ninja-web.net/
反日、小中華思想の起源
https://images.app.goo.gl/cSsusSPjDjWcxQNc6
北海道遠征に行ってみた '23 根室本線編 Vol.3
普通、「吉野」というと、後醍醐帝が南朝を開き、太閤羽柴秀吉が1594年に花見の宴を開いた奈良県吉野が想起されますが、北海道に「新吉野」と名付けられた駅が存在します。
元は、「下頃部(しもころべ)」という駅名でしたが、読みにくい事と、吉野桜に似た山桜が周囲に多かったことに由来して1942年に改名されたようです。
そんな、「新吉野駅」に寄ってみることにしました。
[南朝へ赴く]逃げ上手の若君 第115話を読んで
週刊少年ジャンプ2023年30号掲載
逃げ上手の若君 第115話について語ります
時行と逃若党の再始動
作者 松井優征先生
Weekly jump 2023 vol30
The Elusive Samurai ep115 impressions
Restart of Tokiyuki and his fellowers
Story and Art by Yuusei Matsui
#0:00 前説
greeting
#0:21 第115話について
about ep115
#1:14 伊豆から南朝へ
from Izu to the Southern Court
#1:56 後醍醐天皇との面会
meeting with Emperor Godaigo
#2:50 天狗と玄蕃
Tengu and Genba
#3:43 当時の伊豆について
about Izu at the time
アニメ逃げ若公式ティザーPV
https://youtu.be/__9tLo8qjqc
【BGM素材】まんぼう二等兵 様
アンゴラたちの踊り sm36249773
西に浸る sm42892137
楠木正成の孫・正勝が開いた秋田県由利本荘市の寺院「高建寺」
山形県から出羽三山、鳥海山を越えて、楠木正勝が開いた寺院・秋田県由利本荘市の高建寺へ。
楠木正成の孫・楠木正勝は、本坊の新潟県村上市の耕雲寺から修験の道を経て山形県由利本荘市に入ったと思われる。
高建寺の創建年には諸説あり、応永元年(1394)とも応永11年(1404)とも応永34年(1427)とも云われる。
開山者は耕雲寺(新潟県村上市)の住職である傑堂能勝禅師。
傑堂能勝禅師は南北朝時代の南朝の有力武将だった楠正成の三男である楠木正儀の長男。
応永元年(1394)に耕雲寺を創建し応永34年(1427)に没している事から高建寺の創建年は応永11年(1404)説が有力とされる。
一方、信州佐久間郡大井郷出身の大井義久が応仁元年(1467)に当地に入封し高建寺を菩提寺とした事から、高建寺を創建したのは大井義久で、2世切叟が開創、傑堂能勝禅師を勧請開山とした為、遡った没年を創建年としたとも。
実際、元々の境内地が大井家の居館である根城館の二の丸付近に境内を構えている事からも義久が開基者だったと推察されます。大井氏の後継である矢島満安が天正年間(1573~1593年)に本城を根城館から新荘館に遷すと、高建寺も館に近い矢島町坂之下に境内が遷され、満安が中興開基者となっている。
寛永16年(1639)の大洪水により境内が大破した事を受け、明暦2年(1656)に矢島城下から見て子吉川を挟んで反対に位置する現地に再興された。
現在の高建寺本堂は元禄7年(1694)に造営され明治に改修したもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、正面軒唐破風、桁行9間、外壁は真壁造白漆喰仕上げ、花頭窓付。
総門は切妻、銅板葺き、一間一戸、薬医門、袖壁潜り戸付き。
山門は安永年間(1772~1781年)に造営されたもので、入母屋、銅板葺き、三間一戸、八脚楼門、上層部には高欄、「嶺松山」の山号額、下層部左右には仁王像安置、楼門建築としては旧矢島町唯一のもので改修をかなり重ねておりかなり古い。
朱色の仁王像は1丈3尺の大きなもので200年以上前のもので京都の仏師が製作したものを運ばせたとされる。
大阪河内長野の紅葉の名所 観心寺は国宝・重要文化財豊富な楠木正成ゆかりの古刹
大阪河内長野の紅葉の名所に行きました。
観心寺は、大阪・奈良・和歌山の三県の境に位置し、役行者が開き、弘法大師が再興したといわれる名刹です。南朝ゆかりの寺で楠木正成幼少の頃の学問所でもあります。
金堂や建掛塔など境内には国宝や重要文化財がたくさんあり、秋には赤のモミジや黄色のイチョウで美しく彩られます。春は桜の名所としても知られ、関西花の寺二十五番霊場にも数えられます。
観心寺の後は、美しい林道を通って、もう一つの紅葉の名所、延命寺に行きました。
延命寺と奥河内もみじ公園はまた別動画で紹介させていただきます。
大阪市内から一時間足らずで行けるお勧めの紅葉の名所です。
朝鮮戦争再開へ 北朝鮮国防省 軍事措置再開を宣言
北朝鮮、軍事措置再開を宣言 韓国の監視活動に対抗 「新型装備」を前進配置
11/23(木) 6:34配信
北朝鮮との軍事境界線付近にある韓国軍の監視所=7月19日、京畿道坡州市(AFP時事)
【ソウル時事】
北朝鮮
国防省は23日、朝鮮中央通信を通じて声明を発表し、南北軍事合意によって停止していた全ての軍事的措置を再開し、軍事境界線付近に「強力な武力と新型軍事装備を前進配置する」と宣言した。
【写真特集】北緯38度線
軍事衝突が発生した場合、「全面的に『大韓民国』が責任を負うことになる」と主張した。
韓国は22日、北朝鮮が
軍事偵察衛星
の打ち上げを強行したことを受け、2018年の南北軍事合意のうち、飛行禁止区域の効力を一部停止。軍事境界線付近での北朝鮮に対する監視・偵察活動を再開した。北朝鮮の声明はこれに対抗した形で、「今、この時刻から合意書に拘束されない」と表明した。
北朝鮮国防省の声明は、朝鮮労働党中央軍事委員会の委任によって出された。軍事偵察衛星の打ち上げを「自衛権に該当する措置だ」と正当化。韓国の「挑発的な策動」によって合意が「死文化」したと指摘し、「代価を必ず払わなければならない」と警告した。
韓国統一省は北朝鮮の声明発表後、合意の一部停止は北朝鮮の挑発に対する「最小限の正当な防御措置だ」と説明。韓国の申源※(※サンズイに是)国防相は23日の国会国防委員会で、「北朝鮮が効力停止を口実に挑発を敢行すれば、直ちに、強力に、最後まで報復する」と述べた。
(関連)韓国 “北朝鮮 衛星打ち上げは成功 ロシアから技術支援”
2023年11月23日 16時29分 北朝鮮情勢
韓国の情報機関は、北朝鮮による21日の軍事偵察衛星の打ち上げについて成功したという分析結果とともにロシアから技術支援があったという見方を明らかにしました。
韓国の情報機関、国家情報院は23日、国会の情報委員会で北朝鮮による21日の軍事偵察衛星の打ち上げについて分析した結果を報告しました。
委員会に出席した議員によりますと、国家情報院はこの中で「打ち上げは成功し、衛星が軌道に進入した」として衛星は地球の周回軌道に入ったという見方を示したということです。
また、北朝鮮がロシアに対し、関連する設計図やこれまでのデータを渡し、その分析結果を受け取った状況を把握したとして、ロシアによる技術支援があったとしています。
(その他)韓国のソウル高裁、日本政府に賠償命令 一審判決を破棄 元慰安婦訴訟 ⇒ネットの反応「国を挙げて何回も何回もお替りチョウダイ!ww」
第90回NSP時局ならびに日本再生戦略講演会 _ 令和5年11月質疑応答 202311_01
https://nipponsaisei.jp/archives/410
・特定の人種でも特定の宗教でもなし
・地上の天国か地上の地獄か
・始まって最後まで行くハルマゲドン
・ハルマゲドン後の世界へ
・革命を世界に拡げる人たち
・相互尊重_相互利益_相互内政不干渉_争いなしのユーラシア
・全体主義の終了
・1971年国家体制立て替えの始まり
・それぞれの役割
・財政がとまるところと実感と始まり
・来年のお祭りからの広大な世の中
・誠にもって明るい世の中
・世界に向けて何をしようか_衣食住なんでもできる
・世界が受け入れられるもの
・世界のためが大好きな日本人
・新しい時代の生活と仕事へ
・ルールによる支配統治の終了
・1つの戦争2つのシナリオ
・地域のこと歴史のことがわかる人
・議会制民主主義の限界
・完結からの後始末
・石っころと水が喜んでいる舞台_人間の偉大さ
・原生林と魚
・人間が頑張らないと
・より温かく明るく
・トゲトゲしくなる_義理人情がない法の支配
・義理_道義と道理
・道義_護るべき原則
・道理_もののことわり
・引っ込んでしまった義理人情
・学ぶべき人たちはたくさんいる
・時代の常識の中で活躍をみる
・視野から外すもの
・あまり絶望しなさんな
・自然の神秘
・ぶっ壊す役割の人たち
・デフレ慣れしてしまった人たち
・味音痴ではない人たち
・行ってみないと会ってみないとわからない
・日本列島の最初の人類_考古学的な事実
・山の民は戦争をしない
・勉強することは大事
・南朝_民政自治_皇
・東洋文明には入らない日本文明
・バチカンの公開で世界の歴史は落ち着く
・イノベーションと改善からの循環
・自分でつくるやることが最大の愉しみ
・学校の中にまともな社会人を
・漢方薬と漢方製剤の違い
・懐かしいものへの回帰
・バランス感覚のある人たち
・だから日本はおもしろい
・富の固定化と土地所有_絶対の正解なし
・50年定着とユダヤ教の教え
・等価交換と贈与_贈与しないと始まらない
・平和への道_食糧問題と住宅問題の解決こそ贈与
・自分だけという気持ちが過半数いくかいかないかの分水嶺
・外部環境は自分で選ぶ
・いい人を自分で集める_手作り
伊達家 南北朝時代編 戦国大名家紹介シリーズ#21-4【ゆっくり&VOICEVOX日本史解説】
全国の戦国大名を紹介する動画シリーズ「戦国大名家紹介シリーズ」。
引き続き、鎌倉以来の名門にして奥州筆頭・伊達家を紹介します。
今回は南北朝時代を扱います。
0:00 導入
1:04 オープニングテーマ
1:21 1.後醍醐天皇と足利尊氏のお気に入り、伊達政長
6:44 2.7代・伊達行朝の栄光と没落
17:15 3.8代・伊達宗遠
24:04 編集後記
【参考文献】
・「陸奥伊達一族」吉川弘文館 著・高橋富雄
・「伊達一族の中世」吉川弘文館 著・伊藤喜良
・「南北朝武将列伝 南朝編」戎光祥出版 著・亀田俊和・生駒孝臣
・「南朝の真実 忠臣という幻想」吉川弘文館 著・亀田俊和
・「動乱の東北史4 南北朝内乱と東国」吉川弘文館 著・桜井 彦
・「下総・奥州相馬一族」新人物往来社 著・七宮涬三
【今回の動画で使用した音楽素材】
・フリーBGM・音楽素材MusMus
http://musmus.main.jp/
・全曲無料・フリー音楽素材/魔王魂
https://maoudamashii.jokersounds.com/
・龍的交響楽 -Dragonic Symphony-
http://d-symphony.com/
・効果音ラボ
https://soundeffect-lab.info/about/
・甘茶の音楽工房
http://amachamusic.chagasi.com
【各キャラクター音源】
・うp主・シカリマツ音源「ゆっくりムービーメーカー4」
https;//manjubox.net/ymm4
・入力文字読み上げソフト「VOICEPEAK」
https://www.ah-soft.com/voice/zunko/
VOICEPEAK:東北ずん子
・テキスト読み上げソフト「VOICEVOX」
https;//voicevox.hiroshiba.jp
VOICEVOX:ずんだもん
VOICEVOX:もち子(cv明日葉よもぎ)
【各キャラクター立ち絵】
・うp主・シカリマツ立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
兜・頭巾→作:いらすとや様
・東北ずん子立ち絵(作:こーすけさんたまりあ様)
・ずんだもん立ち絵(作:moiky様)
・もち子&あん子立ち絵(作:490様、公式立ち絵)
奈良で楠公精神を歌ってきました
本日(日付替わり昨日)、私も友情出演のオファーを賜り、出演させて頂いた、なら100年会館大ホール(1400人収容)全席満員御礼の大盛況裡に開催された。
会場には、来賓として奈良県内の各市町村長、奈良選出の国会議員も臨席し、祝辞を頂いた。
私の舞台では、小楠公の装束で、大楠公の遺品の刀剣「菊一文字」を守刀として片手に持ち、私の持ち歌詩吟歌謡『千早城』を吟じさせて頂いた。
今回の舞台では、埼玉県から駆けつけてくださったオカリナ奏者・谷口恵様のお心遣いにより、オカリナ演奏のお力添えを賜りました事、この場をお借りしまして、心より感謝申し上げる□
楠公研究会会員の田邊広一様に於かれては、由緒正しき剣武の御披露が、詩吟に更なる威厳と品格を持たせてくださり、感動だった。
詩吟歌謡というジャンルでの千人規模の大舞台は初めてだったので(いつもは講演なのでそちらは慣れているが)、さすがの私も、多少緊張した。
※使用楽曲
・「桜井の訣別」
作詞:落合直文 作曲:奥山朝恭
・「千早城」
作詞・作曲:瀬戸木和男
後醍醐天皇が流された隠岐島に向かい、日御碕灯台から詩吟「小楠公の母」を詠じてきました
楠公研究会会員で、岡崎功先生が建学された湘南高校の元教員・須藤文義様と、同じく楠公研究会会員の浜田博之様のお招きを賜わり、出雲へ。
須藤様が仕えられた岡崎功先生は大東亜戦争の無条件降伏に際して、松江騒擾事件で知られる方。
須藤様ご自身、神社本庁の芦原総長や元掌典職で現亀山神社(広島県三原市)の潮宮司、住吉大社の加藤権宮司等多くの卒業生をお待ちになられる。
当日、まずは日御碕灯台から隠岐島を望み、後醍醐天皇と楠公、南朝の遺徳を偲び讃えるべく、詩吟「小楠公の母を詠ず」を吟じさせて頂いた。
護国活動を行う中、日々、敵勢力はもちろん同じ志を持つ者からも攻撃を受ける事は当然あるのだが、時に、保守を騙って私に近づき私の名を利用して悪事を働く者が若干1名出現し、私の行ってきた顕彰活動に少々自信喪失していた中、今回の須藤様、浜田様からのご高配は、私にとって、今後の更なる顕彰活動に向けての何よりの励みとなるものとなった。
天は、神は、私にまだまだ引退してはならない、表舞台から去ってはならない、とお命じになられていると感じた。
ご神意を知り、天命を悟りて、神意と天命には絶対的に従わねばならない。
それこそが神国日本の民として命を授かった者としての責務である。
隠岐島を望みつつ、そう固く誓った。
https://youtu.be/UqYsNeeeJW4?si=LfgSZ2M6yQC7Zcr9
伊達家 鎌倉時代編 戦国大名家紹介シリーズ#21-3【ゆっくり&VOICEVOX日本史解説】
今回も引き続き、鎌倉時代の名門にして奥州筆頭・伊達家を紹介します。
今回は2代当主・伊達宗村(為重)から第6代・伊達基宗(基永)を扱います。
0:00 導入
2:21 オープニングテーマ
2:38 1.2代・伊達為重と3代・伊達義広
8:53 2.4代・伊達政依
14:10 3.5代・伊達宗綱と6代・伊達基宗
17:25 4.本家の血統入れ替り仮説
14:55 編集後記
【参考文献】
・「陸奥伊達一族」吉川弘文館 著・高橋富雄
・「伊達一族の中世」吉川弘文館 著・伊藤喜良
・「新装版 中世奥羽の世界」吉川弘文館 著・大石直正・入間田宣夫・遠藤 巌・伊藤喜良・小林清治・藤木久志
・「南北朝武将列伝 南朝編」戎光祥出版 著・亀田俊和・生駒孝臣
・「南朝の真実 忠臣という幻想」吉川弘文館 著・亀田俊和
【今回の動画で使用した音楽素材】
・全曲無料・フリー音楽素材/魔王魂
https://maoudamashii.jokersounds.com/
・龍的交響楽 -Dragonic Symphony-
http://d-symphony.com/
・効果音ラボ
https://soundeffect-lab.info/about/
・甘茶の音楽工房
http://amachamusic.chagasi.com
【各キャラクター音源】
・うp主・シカリマツ音源「ゆっくりムービーメーカー4」
https;//manjubox.net/ymm4
・入力文字読み上げソフト「VOICEPEAK」
https://www.ah-soft.com/voice/zunko/
VOICEPEAK:東北ずん子
・テキスト読み上げソフト「VOICEVOX」
https;//voicevox.hiroshiba.jp
VOICEVOX:ずんだもん
VOICEVOX:もち子(cv明日葉よもぎ)
【各キャラクター立ち絵】
・うp主立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
兜→作:いらすとや様
・シカリマツ立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
頭巾→作:いらすとや様
・東北ずん子立ち絵(作:こーすけさんたまりあ様)
・ずんだもん立ち絵(作:moiky様)
・もち子&あん子立ち絵(作:490様、公式立ち絵)
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜
今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。
後醍醐天皇陵のある如意輪寺の御忌法要へ ~後醍醐天皇ご命日の日~
後醍醐天皇のご命日に、後醍醐天皇御陵がある奈良県吉野山の如意輪寺での宮内庁立ち会いのもとでの御忌法要にお招き頂き、参列して参りました。
この日は後醍醐天皇ご自身が手彫りされた自作の後醍醐天皇ご尊像が御霊殿からお出ましになり、本堂へ移られて法要が執り行われます。
御霊殿から本堂までの道程に、御輿を担いでおられるのは後醍醐天皇がご生前の折にお傍でお世話をされた方々のご子孫達です。
法要では、ご住職様のお計らいにて、私の本『建武中興と楠木正成の真実』も本堂の後醍醐天皇のご霊前にお供え頂きました。
本堂の法要後は、宮内庁畝傍陵墓管轄区職員によって後醍醐天皇御陵の御鍵が開けられ、通常は立ち入れぬお傍近くにて慰霊の祈りをお捧げさせて頂きました。
今年も後醍醐帝のご法要へお招き頂いたので参列してきます
明日の後醍醐天皇御命日を前に、ふと自身の今までの生い立ちを思い返し、その重さを痛感している。
生まれてからこのかた、先祖の名に恥じぬよう、先祖を貶める行いをせぬよう、それに相応しい品格を保つよう、幼い頃から父母に教育されて育ってきた。
特に、父親は旧帝国海軍中尉であったから、教育勅語を始めとした戦前ばりの家庭教育を受けたし、先祖を祀る某神社の神事にも一緒に参列しなさい、と訳も分からず連れて行かれた。
また、茶道教授と華道教授であった母親は私が幼い頃から、当然の嗜みとして茶道・華道・能楽・着付け・礼法・ピアノ・習字を修練させられてきた。
私にとってはそれが当たり前の生活だったし、周りの子も私と同じだと思っていた。
しかし、小学校に進学してから、同級生は明らかに自分とは違った。
歴史の授業では、家庭や神社で教えられたものとは全く違う事を教えられ、父が私に教えてきた事は全て嘘と教えられ、かなりのカルチャーショックを受けた。
そんな訳で、子供の頃はなんでこんな家系に生まれてしまったのだろう、と心底、自分の生まれを憎んだ少女時代だった。
戦前から戦後、大きく捏造され変遷していく歴史の真っ只中を諸に生きたという貴重経験である。
今ではその葛藤を乗り越えた事が糧となり、現在の活動に繋がっている。
と、そんな事に思いを致しつつの、静かな秋の夜長であった。
藤原直哉の「21世紀はみんながリーダー」 2023年9月27日 南朝共和国
藤原直哉のインターネット放送局の動画版です。同じ内容です。
藤原直哉プロフィール https://aeruba.co.jp/fujiwaranaoya/
(株)あえるば https://aeruba.co.jp/
(株)あえるばオンラインショップ https://aeruba.shop/
藤原直哉の時事ネットサーフィン https://vimeo.com/user112058794/
毎週1回発行のワールドレポート https://aeruba.co.jp/service/wr/
毎月2回開催の藤原学校 https://aeruba.co.jp/service/fschool/
全国の藤原塾 https://aeruba.co.jp/service/jyuku/
藤原情報教育研究所 https://note.com/naoya_f_lce/
藤原直哉のインターネット放送局 http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/
藤原直哉のツイッター https://twitter.com/naoyafujiwara/
藤原直哉のフェイスブック https://www.facebook.com/naoya.fujiwara.142/
認定NPO日本再生プログラム推進フォーラム https://nipponsaisei.jp/
偉大なる共生社会ー新生日本の国家ビジョンー https://nipponsaisei.jp/archives/3
サムネイル
楠木正成の盟友・結城宗広の治めた白河へ!その壮絶な生涯
福島県白河市の関川寺は白河結城家の菩提寺で、結城宗広が開基とされる。
白河結城氏は、下総結城氏の庶流にあたる。
鎌倉時代、結城氏の祖で鎌倉幕府御家人の小山朝光が得た白河荘を、孫にあたる結城裕広に与え、裕広が白河に下向して以来、結城家は白河城を本城としてこの地を治めた。
裕広の子・宗広は、幕府の御家人として、後醍醐天皇の起こした倒幕活動・元弘の変には幕府方で参陣。
朝廷側の楠木正成が籠る千早城攻めにも幕府方として、足利高氏、新田義貞らと共に参陣した。
しかし、千早城が全く落ちる気配が無く、幕府のていたらくを目の当たりにした矢先に、伯耆国の豪族・名和長年の尽力によって、配流先の隠岐島から脱出、名和館の裏手の船上山に行在所を設けた後醍醐天皇が発した幕府倒幕の綸旨を受け、宗広は幕府方から離脱し、朝廷側へ味方する事となる。
同時期に、新田義貞や足利高氏も幕府方から朝廷方へ寝返っており、「千早城未だ陥ちず」の報が鎌倉幕府滅亡の決定打となった。
建武の中興成立後は、楠木正成・名和長年・千種忠顕らと共に建武四天王「三木一草」の1人に数えられ、権勢を誇った(一説に次男の結城親光とも)。
後醍醐天皇から厚い信任を受けて北畠顕家が多賀城に入ると、諸郡奉行に任じられて共に奥州方面の統治を任された。
宗広の長男・親朝は、奥州府の式評定衆として、北畠親房とその子で陸奥守の北畠顕家に尽くした。
征夷大将軍の座を狙う足利尊氏によって後醍醐天皇皇子・大塔宮護良親王が暗殺され、尊氏討伐の綸旨がくだり、朝廷方と足利方との戦いとなる。
箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞率いる朝廷軍を破って尊氏が入洛するが、宗広の次男・親光は尊氏を暗殺する目的のもと、偽って足利方に降伏した。
親光へ応対した大友貞載に、「降参人のくせになぜ鎧を脱がない」と詰め寄られ、尊氏暗殺の企てが見破られたと思った親光は、せめて敵将の1人でも討ち取ろうと貞載を斬殺、群がってきた足利兵を手当たり次第に斬り倒したが、足利兵により斬殺された。
親光の死後も宗広は怯む事無く、顕家や正成らと共に軍を率いて足利軍を攻め、京都奪還の大功を挙げた。
九州に逃れた尊氏が再起を果たして東上して来ると、顕家と共にこれと戦ったが、延元3年に顕家が高師直と戦って敗死し、朝廷軍は壊滅。
宗広は命からがら南朝皇居の置かれた吉野へ。
宗広は南朝方再起のために、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて伊勢国安濃津(現在の三重県津市・結城神社辺りの港)より北畠親房・伊達行朝・中村経長等と共に海路から奥州へ向かおうとしたが、海上で遭難し、安濃津の港に漂着。
間も無く、老齢での無理が祟ったのか、体調を崩し、その地で病没した。
【せかい】南朝鮮人はさ、口の中の、何か咀嚼した食べ物を見せるんだよ!!!
「お風呂はいる気力わけてや」
お風呂に入るまでの時間を利用し配信中の【せかい】。
何やら「モノ申したい」事がある様だ。
ご覧下さい。
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伊達家 初代・念西の子どもたち編 戦国大名家紹介シリーズ#21-2【ゆっくり&VOICEVOX日本史解説】
全国の戦国大名を紹介する動画シリーズ「戦国大名家紹介シリーズ」。
今回は初代・常陸入道念西の子どもたち(第2代当主・伊達為重を除く)について扱います。
主要人物:伊佐為宗・中村資綱・伊達為家・大進局・貞暁
0:00 導入
1:01 オープニングテーマ
1:19 1.長男・伊佐為宗
3:43 2.三男・中村資綱と四男・伊達為家
7:15 3.源頼朝の側室・大進局と頼朝の三男・貞暁
14:55 編集後記
【参考文献】
・「陸奥伊達一族」吉川弘文館 著・高橋富雄
・「伊達一族の中世」吉川弘文館 著・伊藤喜良
・「南北朝武将列伝 南朝編」戎光祥出版 著・亀田俊和・生駒孝臣
・「南朝の真実 忠臣という幻想」吉川弘文館 著・亀田俊和
・「福島県の歴史」山川出版社 著・丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作
・「征夷大将軍になり損ねた男たち トップの座を逃した人物に学ぶ教訓の日本史」ウェッジ 著・二木謙一
【twitterアカウント】
https://twitter.com/goh_fusa
【今回の動画で使用した音楽素材】
・フリーBGM・音楽素材MusMus
http://musmus.main.jp/
・全曲無料・フリー音楽素材/魔王魂
https://maoudamashii.jokersounds.com/
・龍的交響楽 -Dragonic Symphony-
http://d-symphony.com/
・効果音ラボ
https://soundeffect-lab.info/about/
・甘茶の音楽工房
http://amachamusic.chagasi.com
【各キャラクター音源】
・うp主・シカリマツ音源「ゆっくりムービーメーカー4」
https;//manjubox.net/ymm4
・テキスト読み上げソフト「VOICEVOX」
https;//voicevox.hiroshiba.jp
VOICEVOX:ずんだもん
VOICEVOX:もち子(cv明日葉よもぎ)
【各キャラクター立ち絵】
・うp主立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
兜→作:いらすとや様
・シカリマツ立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
頭巾→作:いらすとや様
・ずんだもん立ち絵(作:moiky様)
・もち子&あん子立ち絵(作:490様、公式立ち絵)
【世界史雑学】劉伶【竹林の七賢】
日本人初スーパーモデルの山口小夜子さんも
「空き缶は捨てられるものという固定概念を取り払えば着ることができる。
地下鉄だって家だって何だって着ることができる。
人間はそれを取り巻く全てのものを着ている」と言われたそうです。
(『開運!なんでも鑑定団』2023.5.30放送より)
【2023.6.13追記】
コメントで教えていただき動画の間違いを修正してアップし直しました。
0:20 正しくは司馬炎(236-290,位265-290)は西晋(265-316)です。
(誤)南朝・宋(420-479)の武帝は劉裕(356-422,位420-479)です。
誠に申し訳ございません。
【音楽】『イー・アル・カンフー』より
音源:Magical 8bit Plug 2
https://ymck.net/app/magical-8bit-plug
・効果音ラボ様
https://soundeffect-lab.info/
・PANIC PUMPKIN様
http://pansound.com/panicpumpkin/index.html
【VOICEROID】結月ゆかり
【フォント】フロップデザイン様 モボ
https://booth.pm/ja/items/2811136
【画面効果】えふすと f-stock様
https://f-stock.net/
【参考文献】
・目加田誠『新書漢文大系21世説新語』明治書院
・『世界人物逸話大事典』角川書店
・『新課程チャート式シリーズ新世界史』数研出版
・『詳説世界史図録』山川出版
・『世界史のための人名辞典』山川出版社
・『世界史用語集』山川出版社
次回作鋭意制作中
↓制作中動画進捗状況など↓
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ニコニコ動画: https://nico.ms/user/126185796
#世界史
#雑学
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【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第61回・儒教招魂社・靖国神社その①
靖国神社のルーツを辿ると、江戸初期の水戸藩主・徳川光圀が唱える南朝正統論の中で、特に天皇の為に命を尽くして戦死した楠本正成を崇敬し、現在の神戸市中央区の湊川神社のルーツとなる楠木正成の招魂墓碑を建てたが、この水戸藩に伝わる楠木正成崇拝は、江戸中期以降、倒幕を目指す勤王の志士たちの間に広まり、幕末になると、この水戸藩の藩士たちと接触のあった長州藩士たちが下関戦争で戦死した長州藩士たちを下関桜山に招魂場を作り、儒教式で戦没者たちを祀ったところから始まる。
この動きは、慶応4年1968年に新政府が京都東山に幕末の勤王の志士たちの戦死者たちを祀った霊山官祭招魂社を創建し、この儒教的な招魂思想は明治2年1869年の東京招魂社の創建に繋がり、さらにこの儒教的招魂社が明治12年1879年に靖国神社と改称され、儒教的招魂社でありながら神社の体裁を整えて行くこととなる。
招魂とは、亡くなった人の魂を呼び寄せることで、儒教では、魂は不滅のものだり、死後もこの世
に存在すると信じられていた為、招魂の儀式は行われていた。儀式では、故人の墓の前で食べ物や飲物、香などを供え、亡くなった人の冥界での幸せを祈った。招魂の儀式は、故人の魂を慰め、冥界で幸せに暮らせるようにするために行われるが、同時に、生きてる者たちの心を慰める意味もあった。
故に、靖国神社の前身である東京招魂社の時代には、戦没者たちは忠魂霊と呼ばれ、天皇の為に戦争で戦い、その忠誠の下で戦死した忠臣たちの霊魂を招魂し、天皇が参拝して慰霊する、という形が採られていた。しかし、明治12年になり、靖国神社と改称され、神社の形式を採るようになると、儒教的な招魂思想はそのままで、外観や祭祀の在り方だけを変え、やがて、明治37年1904年の日露戦争の頃になると、それまで忠魂霊と呼ばれていた戦没者たちは英霊と呼ばれるようになった。この英霊という言葉は、水戸の儒学者・藤田東湖の中国宋代の忠臣文天祥(ぶんてんしょう)の詩から引用した英霊という言葉から来ており、やはり、儒教の思想がその底辺にあった。
そして、やがて靖国神社は、このように儒教的な招魂思想に神社という衣をかぶり、日清日露戦争、第一次大戦と進むにつれ、戦没者の数が急増する中、大きな発展を遂げることとなったのである。
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】
滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。
江南の春
江南春 杜牧
千 里 鶯 啼 緑 映 紅
水 村 山 郭 酒 旗 風
南 朝四 百 八 十 寺
多 少 楼 台 煙 雨 中
【きずゆか中世史㉖】 斯波家って結局何?(前編)
八十八(やそや)です。
前回の終わりに今回が最終回と言ったな。…あれは嘘だ。うわぁああああああああああ!!
すみません、次が最終回になります。そう日を置かずにアップできると思います。
【きずゆか中世史:裏足利家の興亡】
前:㉕「太平記」の終わり! sm41568351
次:(終)斯波家って結局何?(後編)
ツイッター:https://twitter.com/yasoya_night
参考資料(著者敬称略)
WikiPedia「斯波義淳」他の記事
看聞御記:大日本史料総合データベース
足利将軍と御三家:谷口雄太
管領斯波氏:木下聡他
室町幕府 全将軍・管領列伝:平野明夫・日本史史料研究会
室町幕府守護職家事典:今谷明・藤枝文忠
応仁の乱:呉座勇一
足利一門守護発展史の研究:小川信
佐々木導誉:森茂暁
南北朝武将列伝 北朝編・南朝編:亀田俊和・生駒孝臣・杉山一弥
鎌倉公方と関東管領:植田真平
関東公方足利氏四代:田辺久子
国別 守護・戦国大名辞典:西ヶ谷恭弘
信長公記:奥野高広・岩沢愿彦校注・角川ソフィア文庫
第41回楠公研究会『建武中興と楠木正成の真実』出版記念講演会in靖国(令和5年2月25日 於:靖國会館「偕行の間」)
00:28 国家斉唱
01:45 来賓紹介
02:26 主賓・稲田朋美元防衛大臣 祝電披露
04:00 共催者・株式会社青林堂代表取締役社長・蟹江幹彦様 ご祝辞
05:42 来賓挨拶・靖國八千代食堂オーナー・高取宗茂様 ご祝辞
14:35 来賓挨拶・沖縄県議会議員・又吉清義様 ご祝辞
19:45 来賓挨拶・桜井の駅陣宿・清水家末裔・倉田美春様 ご祝辞
21:28 山下弘枝 講演
43:44 懇親会 於:不二楼4階BAR(通常入室不可)
第41回楠公研究会『建武中興と楠木正成の真実』出版記念講演会in靖国、約100名の方々にご出席頂き、満員御礼の大盛況裡にて開催させて頂きました!
主賓の稲田朋美代議士は、沖縄からの飛行機が天候による遅延により間に合わず、代理として大河内公設秘書がご臨席くださいました。
ここ大舞台を無事に終える事ができましたのは、ひとえにお支えくださる皆様のお陰様と、感謝に絶えぬ思いでございます。
Amazon歴史部門ベストセラーとして、拙著『建武中興と楠木正成の真実』連日上位ランキング入りを継続し続けており、大好評!
楽天等では売り切れ続出!
拙著は約80年かけてGHQが作り上げてきた自虐史観を思いっきり粉砕する内容となっております。
その為、私、現在、左翼陣営からの多くの圧力を受けております。
攻撃上等!戦い続けます!
つきましては、お志あられる皆様、ぜひ、沢山、お買い求め頂き、広く拡散のご協力を宜しくお願い申し上げます!
https://amzn.to/3J4G78l
靖国神社正式参拝に引き続き、当日の講演会の一部、Ban(多分大丈夫だと思います□)にならない程度に緩くしたものを一般公開しておりますので、是非、来賓の皆様、そして、私のド迫力のスピーチ、講演をご覧頂けましたらと存じます。
私の講演をご覧になられた皆様、一様に、見た目は可愛らしい女性だが、中身は何故か男性、しかも武将で、間違って女性に生まれてきてしまった、とご感想を頂き、光栄な限りでございます。
https://youtu.be/uNNuZo_BpIQ
懇親会は、八千代食堂オーナー・高取様の格別のご厚意にて、茅場町「不二楼」様の4階を貸切頂き、とても珍しい絶品の熟成寿司を有難く頂き、楽しい懇親の場となりました。
高取様のご配慮に、心より厚くお礼申し上げます。
#歴史 #わかりやすく #南北朝時代
GHQにデマを垂れ流す河辺機関
西暦1,948年11月20日
主に以下3名がタケマツ作戦について会談を行う。
①河辺虎四郎
②レイシー
③有末精三
河辺がレイシーに南日本でのタケ作戦の概要を以下の通り説明した。
①防府(山口県)を拠点にスパイを南朝鮮(韓国)に派遣し、防府の貿易ルートを活用し北緯38度線を越え、北朝鮮と満洲の情報を伝える。
②対馬への情報拠点設置が可能である。南朝鮮からの密貿易に使われており、日本人工作員の南朝鮮潜入に利用する。ソ連船の情報獲得の為対馬の漁民を工作員として雇う事も可能である。
③アメリカの無線機を用い以下の言語の放送を傍受する。
❶中国語
❷朝鮮語
❸ロシア語
河辺は半年間の南日本での活動経費としてG2に対し3,905,000円を提示し、レイシーは必要な機材の手配を約束した。さらに河辺は北日本でのタケ作戦の概要を以下の通り説明した。
①翌年4月に作戦を開始し美唄(北海道)に本部を、札幌・函館・礼文島(北海道)に支部を設置する。
②樺太在住の信頼出来る日本人に接触し、樺太や千島列島からの帰還者をスパイとして送り返す。また、故意に船を難破させソ連に船員を送り込む事で、万年筆や時計の密輸ルートをソ連領内に開拓する。周辺海域を高速艇で監視し、無線を傍受する。
河辺は半年間の北日本での活動経費としてG2に対し5,962,000円を提示した。それと引き換えに河辺はG2に対し、蒋介石率いる中国国民党を支援する事を約束した。また有末は、タケ作戦での工作活動に渡辺渡を起用するが、使い物にならず、作戦は悉く失敗した。
宇宙一元化 公式HP
http://universe-centralization.com/top.html