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中森明菜『Heartbreak』広東語版…草蜢「紅唇的吻」
中森明菜のハートブレイクというアルバム曲は2つあって、1つは1988年の『Heartbreak』、もう1つは2009年の『HEARTBREAK』でまったく別。で、草蜢(グラスホッパー)が89年にカバーしたのは当然ながら前。草蜢は蔡一智、蘇志威、蔡一傑の3人組で、もともと梅艶芳(アニタ・ムイ)の「弟分」としてバックダンサーをしていましたが(sm22846568)、88年に歌手としてデビュー。翌89年にこの「紅唇的吻」でテレビやラジオのヒットチャートで初めて1位になり、北京語版「一路順風(sm23179229)」も歌って台湾進出しました。ちなみに蔡一傑は「マッチ物真似コンテスト」で優勝したのが芸能界入りのきっかけで、草蜢は近藤真彦のカバーを多く歌っています。う~ん、明菜とアニタとマッチってどうしても絡むんだよね。。。
中森明菜『Heartbreak』北京語版…草蜢「一路順風」
梅艶芳(アニタ・ムイ)の「弟分」としてバックダンサーをしていた3人組(sm22846568)の草蜢(グラスホッパー)。88年に歌手デビューし、89年に中森明菜『Heartbreak』の広東語カバー「紅唇的吻(sm23178808)」で香港ではチャート1位になりましたが、同時に台湾進出を賭けて北京語カバー「一路順風」もリリース。香港ではダンサー出身だと知られていましたが、台湾人は知らないのでmvではダンスが強調されてます。日本ではこの時期、少年隊や光GENJIなどがブームでしたが、草蜢も踊る男性アイドルグループとして台湾で人気が爆発。歌も北京語がメインになり、90年代に香港で久々に北京語ポップスが復活するきっかけの1つになりました。
『時には母のない子のように』広東語版1…陳和美「心酸酸」
『時には母のない子のように』はカルメン・マキのデビュー曲にしてヒット曲。1969年の歌ですが、香港や台湾ではたちまちカバーソングが乱発されて、11種類も現れたとか。。。その1つが台湾人と日本人のハーフの歌手・陳和美が71年に香港で出した広東語カバーの「心酸酸」。歌詞の内容は別れた男を毎晩思い出しては酒を飲んで泣く女の怨歌ですが、いかにも泣いてくださいといわんがばかりのオーバー歌唱法に加えて、ハッキリ言って広東語の発音はヘタですw陳和美は74年に日本語版も出しましたが(後半部分)、こっちの方がよっぽどマシ。ところで、香港で活動する芸能人はたいてい英語名も持ってますが、陳和美の場合は「カズミ・チャン」なんでしょうか?
『時には母のない子のように』北京語版01…鄧麗君「孤児涙」
『時には母のない子のように』はカルメン・マキの1969年のヒット曲ですが、香港や台湾ではカバーの嵐となり、北京語版が「孤兒淚」「心茫茫」「河邊的人」「遇」「一滴眼涙」「失去了你」「誰来陪伴我」「等待」、広東語版が「不想你走」「心酸酸(sm23180700)」「一双燕子」、台湾語版が「流星」などなど…。鄧麗君(テレサ・テン)の「孤児涙」は70年に出ました。オリジナルは「母のない子のように」とあくまで形容詞なのが、「孤児涙」はホントに孤児の歌になってしまい、♪おなかが空いたら誰を頼るの?♪♪小鳥にもお母さんがついてるのに♪♪溜息と涙ばかりで、帰る家はない♪とお涙頂戴で熱唱していますが、♪孤児の涙の味を知ってますか?♪と言われても、舐めたことないから知らないとしか言いようがないデス。
中島みゆき『悪女』広東語版1…夏妙然(セリナ・ハー)「失去就失去」
中島みゆきの『悪女』は1981年発売のヒット曲でしたが、北京語で2種類(sm23186531とsm23588982)、広東語で3種類カバー(sm23185975とsm23357646とsm23588961)されています。最初に出たカバーは82年に夏妙然(セリナ・ハー)が広東語で歌った「失去就失去」。内容は、やり直そうと言っている男に対して、これ以上付き合っても疲れるだけだから…と別れを決めた女性の歌。夏妙然はこの頃、レコード会社から「期待の新人」とみられていましたが、日本発のアイドルブームが香港にも上陸すると、アイドル向きではないとDJへ転身。現在ではラジオ局のお偉方に出世してますが、ラジオ局のイベントでは今も歌っているそうな。。。
中島みゆき『悪女』北京語版1…黃露儀「等著回答」
中島みゆきの『悪女』は北京語で2つ、広東語で3つカバーが出ていますが、これは北京語による最初のもの。男がもう自分を愛していないのではと悟った女が別れようと決意する内容です。同じ時期に香港で夏妙然が広東語カバーの「失去就失去(sm23185975)」を歌いましたが、やはりこういう歌は北京語が合いますね。。。黃露儀は台湾人でもともと黃鶯鶯の名で歌っていました。76年以降は拠点をシンガポールに移して黃露儀の名で活動しましたが、台湾ではずっと黃鶯鶯。英文名はどちらも「トレーシー・ホァン」です。70年代後半から80年代にかけては英語の歌も多く歌っていました。
小柳ルミ子『瀬戸の花嫁』広東語版1…麗莎、譚炳文「為了愛」
1974年の香港映画『街知巷聞』の挿入歌。男女のイチャイチャしたデュエットソングになってます。女性の麗莎(リサ・ウォン)はシンガポール人で、北京語や英語の歌を歌っていましたが、72年に広東語で歌ったところ大ヒット。拠点を香港に移して歌と映画で活躍していましたが、75年に引退。89年に商売に失敗したショックで11年間も意識不明の昏睡状態になりましたが、復活して最近また香港でコンサートを開いているとか。。。男性の譚炳文は、21世紀に入り70歳を過ぎてからはもっぱら声優業。主に日本製のテレビドラマの吹き替えをしていて、西田敏行や北大路欣也の声を担当してます。それにしても、ラスト1秒のギャグの続きが見たい。。。
海援隊『思えば遠くへ来たもんだ』広東語版…徐小鳳「毎一歩」
1986年のカバーソング。映像は89年のコンサートのもの。
海援隊『思えば遠くへ来たもんだ』北京語版1…林淑蓉「分手的涙水」
1983年のカバーソング。林淑蓉は台湾人で、テレビの鳳飛飛の物真似コーナーに出演したのが契機で歌手デビュー。当初は鳳飛飛の歌(sm23193607)を歌っていましたが、80年代半ばにマレーシアに拠点を移し、李茂山または羅時豊とのデュエット「無言的結局」が中華圏全体で大ヒットし、メジャーになった人です。現在では北京に居住してビジネスをしているとか。。。そういえば、私が初めて歌った中国語のカラオケも「無言的結局」でしたw
塩まさる『九段の母』北京語版1…エルフィナ「春到人間」
エルフィナは1960年代末から90年代にかけて活躍したインドネシアの人気歌手ですが、70~80年代にシンガポールやマレーシアのレコード会社でも「愛慧娜」の名で活動し、インドネシア語やジャワ語の他に、中国語(北京語と福建語=台湾語)、マレー語、英語などでレコードを出していました。スラバヤ出身のカトリックで、中国系の人だと思いますが…。で、75年に歌った旧正月ソングの「春到人間」、春が来てかつて別れた彼氏を思い出すという内容の曲ですが、原曲(後半の映像)は1939年の『九段の母』。上京した母親が上野駅から靖国神社まで戦死した息子に会いに行くという当時の「愛国歌謡」でした。それが36年間の紆余曲折を経て、シンガポールでインドネシアの歌手が中国語で歌唱することになるのが、アジアの謎。
『夏をあきらめて』広東語版1…盧業瑂(ブレンダ・ロー)「全心伝意」
『夏をあきらめて』は1982年のヒット曲ですが、サザンオールスターズと研ナオコがほとんど同時に歌ってた気がします。この「全心傳意」はどちらのカバーなのかはっきりわかりません。。。MVを観ると芸能人っぽくないおばさんが歌ってます。盧業瑂(ブレンダ・ロー)はもともとATV(アジアテレビ)のディレクターで、「アマチュア歌手コンテスト」という番組の制作を担当していましたが、出場者のレベルに憤慨した(?)のか、結局自分が歌手になってしまい、ラジオ局でDJもしていました。その後92年にカナダへ移民してからは、カナダやカリフォルニアの中国語ラジオ局でDJをしているようです。
『ウルトラセブン主題歌』広東語版…林嘉華「七星俠」
中国語で「超人」とはスーパーマンのこと。しかし胸に「S}と大書きしているアメリカのスーパーマンだけでなく、香港では仮面ライダーもウルトラマンも「超人」で、仮面ライダーは幪面超人(マスクの超人)、ウルトラマンは鹹蛋超人。ウルトラマンの眼の形が鹹蛋(塩漬けタマゴ)みたいだからとか。で、初代ウルトラマンは吉田超人(ガッティンチウヤン)とも言う。香港人によれば「ウルトラマンの本名って、吉田だろ」。あれ、ハヤタ隊員じゃなかった?香港のテレビでは「吉田(ガッティン)」と吹き替えて放送してたみたいです。ウルトラセブンは台湾では「超人七号」だったそうですが、それじゃ芸がないと香港では「七星俠」。なんかカンフー時代劇の侠客みたい。ドラマ主題歌中国語カバー集→mylist/42426466
高石かつ枝『南国エレジー』台湾語版1…蔡幸娟「難忘的愛人」
2009年末の映像。『南国エレジー』は高石かつ枝が1965年に歌ったヒット曲。と言っても、いまどき耳にする機会はまずないでしょうが、台湾語カバーの「難忘的愛人」は、67年に尤雅(後に来日デビューして優雅)が歌ったのに続いて、鄧麗君(テレサ・テン)などいろんな歌手が歌い、最近でも蔡幸娟が改めてカバーするなど、今でも台湾ではよく聴く懐メロの1つになってます。それにしても蔡幸娟は明菜やキョンキョンと同じ歳ですが、ずいぶん若く見えますね。
都はるみ『アンコ椿は恋の花』台湾語版1…詹雅雯「驚什麼」
都はるみが『アンコ椿は恋の花』を歌ったのは1964年ですが、台湾語カバーソングの「驚什麼」が出たのは99年になってから。タイトルは「何を恐れてるんだ?」という意味。いつも他人と比べてばかりじゃ、日夜頑張ってきたのは何のためだ?誰も助けてくれなくたっていいじゃないか。他人と比べるのはもう止そう…というような人生の応援歌で、詹雅雯が自ら作詞してます。それにしても、台湾語って演歌によく合うし、詹雅雯も演歌によく合った顔つきしてますねw
キャンディーズ『やさしい悪魔』広東語版…薰妮「北斗星」
『やさしい悪魔』は1977年の曲ですが、薰妮(ファニー・ワン)が広東語でカバーしたのは翌78年。一体なぜ「北斗星」かと言うと、男を振った女が私はもう泣かないと夜空を見上げながら北斗星に誓うから。薰妮は70年代半ばから80年代半ばにかけて活躍した香港の歌手で、「毎当変幻時(sm23159528)」渡辺はま子『サヨンの鐘』広東語版)の大ヒットで人気が出た人です。
梓みちよ『二人でお酒を』北京語版1…鳳飛飛「祝你順風」
『二人でお酒を』は梓みちよがカムバックした1974年のヒット曲ですが、台湾では翌75年に当時の2大人気女性歌手による2つの北京語カバーソングが出現。1つは鳳飛飛(フォン・フェイフェイ)が歌った「祝你順風」で、もう1つは鄧麗君(テレサ・テン)が歌った「再来一杯(sm23215688)」。テレサ・テンの北京語の方がキレイなのですが、「祝你順風」の方がその後多くの歌手が歌い、浸透したようです。『二人でお酒を』のカバーは後に「敬你咖啡不是酒」や、台湾語の「祝福的酒」も出ています。テレサ・テンは95年に亡くなりましたが、鳳飛飛も2012年にガンで亡くなっています。
梓みちよ『二人でお酒を』北京語版2…鄧麗君「再来一杯」
『二人でお酒を』は梓みちよがカムバックした1974年のヒット曲ですが、台湾では翌75年に当時の2大人気女性歌手による2つの北京語カバーソングが出現。1つは鳳飛飛(フォン・フェイフェイ)が歌った「祝你順風(sm23215426)」で、もう1つは鄧麗君(テレサ・テン)が歌った「再来一杯」。テレサ・テンの歌声の方が、北京語の発音がキレイで良いのですが、「祝你順風」の方がその後多くの歌手が歌い、台湾では浸透したようです。というのも、「再来一杯」は香港のレコード会社から発売されたたため。台湾を代表する女性歌手でありながら、香港や東南アジアなど中華圏全体+日本で活動した鄧麗君と、あくまで地元台湾を拠点にしていた鳳飛飛の違いだったのかも。
喜納昌吉『花』台湾語版1…「阮是你的人」
喜納昌吉の『花』って、ビートたけしのオールナイトニッポンのEDの曲だったと思いましたが、1990年代になったらいつの間にか中華圏で大ヒットしていました。有名なのは香港人歌手の周華健(エミール・チョウ)が台湾で北京語で歌った「花心」ですが、台湾語版の「阮是你的人」と「一人行一路」もあります。「阮是你的人」は潘越雲が歌っている曲で、「私はあなたのもの」という意味。映像は2014年2月の歌手オーディション番組で、蘇聖惠という人が歌っているものですが、彼女はまったくの素人ではなく、90年代にちびっ子歌手として活動し、95年に美空ひばりの『リンゴ追分』を日本語で歌ってグランプリを獲ってます。道理で日本語もうまいはず。
浅田美代子『しあわせの一番星』広東語版1…徐小鳳「風雨同路」
浅田美代子って、1970年代の「歌がヘタクソなアイドル」の代表格みたいに言われてた人ですが、まぁ実際にそうでしたw80年代初めにはもっと下手な人もどんどんデビューしますけど。。。『しあわせの一番星』は74年にテレビドラマの挿入歌としてリリースされたもので、さらにタイトルそのままで映画化も。それだけアイドルとしての人気があったのでしょう。さて、徐小鳳(ポーラ・チョイ)が広東語カバー「風雨同路」を歌ったのは78年。どんな試練があっても愛する人と一生ともに歩んでいこうというような内容で、徐小鳳の代表曲の1つとして香港では有名な歌になりました。それにしても、髪型が何だか「タマネギおばさん」みたいw
『ズンドコ節』台湾語版…葉啓田「真快楽」
ズンドコ節って、小林旭やドリフターズ、氷川きよし等いろんな人が歌詞やアレンジを変えて歌ってましたが、元歌は戦争中の『海軍小唄』だそうで。で、台湾でも「宝島歌王」こと台湾語演歌の帝王にして、元殺人教唆犯かつ元国会議員の葉啓田先生が台湾語でカバーしていますが、たぶん小林旭のバージョンをもとにしているようです。香港ではドリフの『ズンドコ節』の北京語カバー「你去了哪裡(sm27971586)」が出てました。
少年隊『ABC』広東語版…草蜢「ABC」
梅艶芳(アニタ・ムイ)のバックダンサーだった草蜢(グラスホッパー)の3人組。1988年に歌手デビューし、89年に中森明菜のアルバム曲『Heartbreak』を広東語(sm23178808)と北京語(sm23179229)でカバーしてブレイク。そして90年には少年隊の『ABC』をカバーして、90年代に人気絶頂のグループになりました。近藤真彦などジャニーズ系の曲をかなりカバーしていましたが、代表曲になったのは当時珍しかったタイのポップスのカバー。
少年隊『ABC』北京語版…草蜢「限時専送 ABC」
梅艶芳(アニタ・ムイ)のバックダンサーだった草蜢(グラスホッパー)の3人組。90年に少年隊の『ABC』を広東語でカバーしましたが、台湾へ売り込みを図るため北京語のカバー『限時專送ABC』も出したところ、大ヒット。以後、台湾を中心に活動します。しかし広東語版(sm23228699)と比べてみると、香港人だけあって北京語で歌うより広東語で歌った方が気楽そうです。
殿さまキングス『なみだの操』北京語版…鳳飛飛「愛苗」
殿さまキングスって、コミックバンドとして寄席番組の常連だったような気がしますが、いつの間にかマジな歌手になってしまい、玉川カルテットが後釜に座ったような気がします。。。その殿さまキングスの1973年のデビュー曲が、女の操じゃなくて『なみだの操』ですが、翌74年にはさっそく台湾で鳳飛飛が北京語でカバー。内容は操がどうしたというものじゃなく、あなたの心に愛の苗を植えて大事に育てたい…という無難なもの。ところで、鳳飛飛は台湾では「鳳姐」という愛称で呼ばれているようですが、香港で「鳳姐」とはマンションで開業する娼婦の意味。
河合奈保子『スマイル・フォー・ミー』北京語版1…「飛向你飛向我」
『スマイル・フォー・ミー』のカバーソング「飛向你飛向我」を台湾で最初に歌ったのは、1982年デビューの「元祖日本式アイドル」の金瑞瑶。「日本のトップアイドルの代表曲を片っ端からカバーして歌えば、人気が出るだろう」という戦略で、松田聖子「青い珊瑚礁」、中森明菜「ミ・アモーレ」、早見優「夏色のナンシー」、わらべ「もしも明日が」、シブがき隊「100%そうかもね」のカバーを次々と出していたが、その1つが河合奈保子の代表曲であるこの曲。映像は2001年に女の子(というよりオバサン?)2人組の錦繡二重唱が改めてカバーしたもので、蔡幸娟のデビュー曲「夏之旅」や鄧麗君の「小城故事」など、80年代初めのヒット曲を集めた懐メロ特集の一環。
アダモ『雪が降る』北京語版1…葉璦菱「降雪」
アダモはベルギー人の歌手で、『雪が降る』はもともとフランス語の歌ですが、アダモは世界中でヒットさせるために自らいろんな国の言葉で歌い、日本語版もその1つ。しかしアダモは中国語では歌わず、葉璦菱は後半、オリジナルとして日本語でも歌っているから、やはりこれは日本語版のカバーなのでしょう。
山口百恵『プレイバックpart2』北京語版1…徐小鳳「偶像」
日本語で「偶像崇拝」と言うと宗教用語みたいですが、中国語では偶像=アイドルで、アイドルスターに熱を上げるのは「偶像崇拝」。で、香港の徐小鳳(ポーラ・チョイ)が北京語で歌ったカバーソングは、♪あなたの表情は私を迷わせ、あなたの歌声は私を酔わせる♪とアイドルを讃える内容で、♪もう1回歌って、Play Back Play Back♪とか言ってますが、これは引退した山口百恵を讃えた?徐小鳳が自分を自画自賛してるってわけじゃないですよね?それにしても、徐小鳳の投げやり調の歌い方は山口百恵に合ってますね。。。『プレイバックpart2』の北京語カバーには台湾で男性歌手が歌った別バージョン(sm23245432)もあります。
山口百恵『プレイバックpart2』北京語版2…劉文正「回転的愛」
劉文正(スティーブン・リウ)は1970年代半ばから80年代半ばにかけて台湾で人気があった歌手。その後引退してアメリカへ移住しましたが、芸能イベントにも顔を出さないので、しばしな死亡説が流されては「私は生きてます」とコメントを出しているという人。劉文正が歌った「回轉的愛」、回転する愛ってなに?と思いましたが、愛は無理強いするもんじゃないから、相手に愛がない時はあきらめろということで、♪愛にPlay backはいらない♪と歌ってます。なお、『プレイバックpart2』の北京語カバーは、香港で女性歌手が歌った別バージョン(sm23245144)もあります。
桜田淳子『十七の夏』北京語版1…蔡咪咪(サイ・ミーミー)「十七年紀」
1971年に欧陽菲菲の『雨の御堂筋』が大ヒットすると、日本の芸能界はたちまち「チャイニーズ・ブーム」になり、台湾や香港からスカウトされた女性歌手が次々と来日デビュー。名を残したのはテレサ・テン、アグネス・チャンとリンリンランランくらいでしたが。。。73年に『年頃なのね(sm23139004)』でデビューしたサイ・ミーミーもその1人。結局、あまりパッとしないまま台湾へ戻りましたが、その後75年に歌ったのが桜田淳子『十七の夏』のカバーソング「十七年紀」。南沙織『17歳』や小泉今日子『私の十六歳』、はたまた♪伊代はまだ、16だから~♪など、アイドルが自分の年齢をタイトルや歌詞に入れるのは定番ですが、サイ・ミーミーはこの時17歳とは思えないんだけど。
中森明菜『サザンウインド』広東語版…譚詠麟(アラン・タム)「南風」
『サザンウインド』って、中森明菜にしては珍しくニコニコ歌う曲でした。他には『スローモーション』と『Dear friend』があるくらいで。もっとも『Dear friend』はかえって痛々しいと散々に言われてましたが。。。で、1984年に出した『サザンウインド』のカバー「南風」。タイトルは直訳でも内容は明るくなく、沢田研二の『勝手にしやがれ』みたいな感じ。なぜまた譚詠麟(アラン・タム)が明菜のカバーを歌ったのかといえば、『サザンウインド』は譚詠麟の盟友(sm22748613)玉置浩二の曲だからでしょう。もっともこの頃、明菜の歌は『禁区(sm22739843)』を張国栄(レスリー・チェン)、『十戒(sm22860514)』を張学友(ジャッキー・チュン)と、男性トップシンガーが競ってカバーしてました。
ぴんからトリオ『女のみち』北京語版3…愛麗「説声対不起」
レコードが400万枚も売れたという爆発的なヒットになった1972年の『女のみち』。歌ってる方はぴんからトリオ→ぴんから兄弟→宮史郎と、どんどん縮小していきましたが。。。その北京語カバーソング「説声対不起」は73年に鳳飛飛が歌った(sm28509092)のに続いて、台湾や香港の歌手がこぞってカバーを出しましたが、シンガポールで歌った愛麗(アリス・チョイ)のカバーは、鳳飛飛のカバーとは歌詞が1文字違い(後悔已来不及→後悔来不及)、怪しい日本語による歌唱付き!「チョイ」という姓(たぶん蔡)からすると広東系の人のようです。
渡辺真知子『迷い道』広東語版1…関菊英(スザンナ・クァン)「心霧」
私の中ではこの曲と『異邦人』がゴッチャになっているんですが、なぜでしょう?渡辺真知子が『迷い道』を歌ったのは1977年ですが、関菊英(スザンナ・クァン)が広東語でカバーしたのは79年。關菊英は70年代後半から80年代にかけて主にテレビドラマで活躍した女優ですが、この頃、映画全盛期だった香港では、映画にしか出ない役者が一流、テレビにしか出ない役者は三流という感じでした。90年にカナダへ移住して引退した模様。
『ミヨちゃん』北京語版…鄧麗君(テレサ・テン)「玉女之歌」
『ミヨちゃん』ってザ・ドリフターズの歌かと思っていたら、平尾昌章や氷川きよし、さらに渥美清まで歌ってたんですね。渥美清って歌手なの?でも寅さんの主題歌を歌ってたか。。。で、テレサ・テンが歌ってる中国語カバーですが、「玉女」とはイイ女のこと。若くてきれいな女の子なら「青春玉女」と言ったりします。で、内容はと言うと、♪キミは花も月もかなわないほど美しい♪だの、♪キミは金鉱、キミは銀鉱、一体誰が掘れるのか♪という類の歌詞が延々と続きます。