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【CK3】逃げ上手の若君!北条時行で南北朝MODを遊んでみた【ゆっくり実況】
CK3ゆっくり実況プレイ動画です。
週刊誌で人気の『逃げ上手の若君』
CK3日本史大型MOD、Shogunateの南北朝時代モードなら、彼を操作することができる!
史実では成し得なかった鎌倉幕府再興を目指します
Youtube版
https://youtu.be/iyR4R1Hp_tQ
動画中に登場するFUN氏製作の「Shogunate」及び「Historical Figure for Shogunate Japanese」MODは、Steamのワークショップにて絶賛公開中となります!
「[BETA] Shogunate MOD」
https://steamcommunity.com/sharedfiles/filedetails/?id=2696334752
「Historical Figure for Shogunate Japanese MOD(Shogunate用の史実人物登場MODです)」
https://steamcommunity.com/sharedfiles/filedetails/?id=2556474085
感想、改善点などコメントいただければ励みになります!
シナリオ:1336年 南北朝争乱
プレイキャラ:信濃の大大名 北条時行
Crusader Kings Ⅲ バージョン1.8.1
使用MOD:CK3日本語化MOD・Japanese Font・Nameplates・Extended Outliner・Historical Figure for Shogunate Japanese・[BETA]Shogunate (Japanese version)・Personage
難易度:ノーマル
使用素材
動画末尾に記載
使用編集ソフト
ゆっくりMovieMaker4
建武中興の立役者・万里小路藤房の終焉地・滋賀県湖南市三雲【妙感寺】
滋賀県湖南市三雲の南朝ゆかりの地・妙感寺へ参詣。
妙感寺の開山は授翁宗弼(じゅおうそうひつ)。
俗名は藤原藤房。
後醍醐天皇の建武中興に尽力した楠木正成、新田義貞と並ぶ「建武三忠臣」の一人。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)とも称され、楠木正成の最たる盟友の1人である。
この藤房の終焉の地として、彼の墓所があるのがここ妙感寺であり、南朝とは深い縁がある。
楠木正成の妻は藤房の妹・滋子と伝わる。
拙著『建武中興と楠木正成の真実』でも触れているが、楠木家と万里小路家との縁戚関係から、笠置挙兵時の後醍醐天皇の「南木の夢」の折、藤房は義理の弟にあたる正成を後醍醐天皇に推挙したと考えられる。
実際、正成に笠置参陣の勅使として楠木館に遣わされたのも、万里小路藤房であり、全ての辻褄が合致する。
元弘元年(1331)9月28日未明、風嵐に見舞われる中、鎌倉幕府方で組まれた決死隊の急襲を受け、笠置城は陥落。
瞬く間に猛火に包まれ、50ヶ寺と共に本尊の弥勒菩薩もろとも焼失した。
後醍醐天皇と藤房は辛くも笠置城を脱出し、正成の籠る河内の赤阪城を目指したが、程無く道に迷い、有王山(京都府井手町)の山中に迷い込んでしまう。
有王山麓の松の下で「さしてゆく笠置の山を出でしより、あめが下には隠れ家もなし」とお詠みになると、藤房卿は「いかんせん慿む蔭とて立ち寄れば、なお袖濡らす松の下露」と返され、天皇を慰められた逸話は余りにも有名である。
この後、天皇と藤房は幕府方の追っ手に捕らえられ、隠岐島に配流となる。
天皇が配流された後も、楠木正成は赤阪城、千早城で籠城戦を展開した。
楠木軍によって散々に翻弄される幕府の大軍を目の当たりにし、鎌倉幕府の御家人・新田義貞、足利高氏らが幕府に失望し相次いで離叛。
伯耆国の豪族・名和長年が隠岐島から天皇を奪還すると、形勢が宮方有利に転じた。
足利高氏が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させ、北条一門は自刃、鎌倉幕府は滅亡し、ここに建武の中興が成立した。
建武中興の成立後、藤房は後醍醐天皇の親政のもとで恩賞方を務めた。
武家への恩賞が余りに薄い事を受け、武家の離叛を恐れた藤房は後醍醐天皇に対して諫言したものの聞き入れられず、藤房は政治に絶望。
建武元年(1334)に39歳で突如出奔して出家し、諸国を放浪した。
「授翁宗弼」と号し、公卿時代の知行地であった江州三雲の郷に於いて、後醍醐天皇念持仏の千手観音を奉安する持仏堂を建立したのが妙感寺の開基で、持仏堂が本堂。病を得、療養の為、三雲に移り妙感寺に穏棲。
天授六年(1380年)3月28日、85歳で亡くなった。
本堂の横には、五輪塔が立つ大師の墳墓がある。
建武中興と楠木正成の真実 ~大楠公の地元で洗いざらい事実をお話ししてきました~
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國體護持派と反日勢力との熾烈な死闘
また在庫切れ表示‼️これは異常事態だ‼️本の中で安倍晋三元首相と私との知られざるやり取りを書いているからその全容を知られたくない勢力の圧力だ‼️版元には在庫ありAmazonの在庫切れは誤表示で注文できるのでどしどしご注文を‼️反日勢力の圧力には屈ない‼️御協力宜しくです‼️
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私のご先祖・楠木正勝公のお墓参りへ 〜奈良県吉野郡十津川村・湯泉寺温泉〜
私の先祖は楠木正成だが、楠木正成の三男・正儀の長男・正勝は、楠木家直系の池田家に対して、楠木家嫡流であり、伊勢楠氏の祖である。
私はこの伊勢楠氏の血脈にあたる。
楠木正勝は、南北朝合一に尽くし、北朝に走った父・正儀と対立し、北朝と徹底抗戦を続けた。
しかし、間も無く、楠木本城である千早城が落城し、祖父・楠木正成の頃から懇意にしていた十津川郷士を頼った。
十津川郷で持病を煩い、同郷の湯泉寺温泉で湯治を行いつつ、再起を図ったが、志半ばにして病死した。
十津川郷で持病を煩い、同郷の湯泉寺温泉で湯治を行いつつ、再起を図ったが、志半ばにして病死し、その死を悼んだ地元の人々が、正勝が隠棲していた十津川郷武蔵の地に墓碑を建立し、菩提を弔った。
正勝の長男・正顕は、伊勢国司の北畠氏を頼り、北伊勢へ基盤を移し、現在の三重県四日市市の楠城、同県いなべ市の治田城を築き入城し、伊勢楠氏は隆盛を誇る事となる。
時代くだり、戦国時代、織田信長の重臣だった佐久間信盛が信長の不興を買って追放された後、十津川郷にやって来て、自身が尊崇していた楠木正勝の史跡の傍で隠棲した。
彼の墓も、その遺言通り、彼の尊崇してやまぬ正勝公の墓碑の隣に建立された。
今回、楠公研究会賛助会員で「俵屋工房」の絵師・高橋亮馬画伯にご招待頂き、ご先祖・楠木正勝公のお墓参りにお連れ頂いた。
また、正勝公が実際に入ったという湯泉寺温泉にも宿をとって頂き、大変温かいご歓待を賜わった。
高橋亮馬画伯の作品は、東京国立博物館に展示されており、今後は、日本の神々を描きたいと益々、その尊い志を立てていらっしゃった。
長年にわたり、いつも大変お世話になっている高橋画伯に心より感謝申し上げます。
皇居外苑から今も日本を見守る大楠公 〜東日本大震災でのエピソード〜
皇居外苑の大楠公像にて、今回の湯島での講演も大盛況、お越しになられた多くの方々に楠公精神と國體の真実について伝え、大和魂を発揚させて頂いた事をご報告した。
「雨の日も風の日も、こうして私達を見守ってくださっているのですね」
ふと、そう仰る声が聴こえた。
実は、東日本大震災の時、帰宅難民となられた方々の為の救護テントが張られたのもここ大楠公像前。
現代に亘って尚、楠公の魂は生き続けている。
大楠公に感謝の言葉を述べ、講演の大成功をお伝えした直後、一陣の風が大楠公像の方角から吹き抜けた。
神威が発動される時には神風が吹く。
まさに、これは大楠公の神威を表した神風であった。
今年も後醍醐帝のご法要へお招き頂いたので参列してきます
明日の後醍醐天皇御命日を前に、ふと自身の今までの生い立ちを思い返し、その重さを痛感している。
生まれてからこのかた、先祖の名に恥じぬよう、先祖を貶める行いをせぬよう、それに相応しい品格を保つよう、幼い頃から父母に教育されて育ってきた。
特に、父親は旧帝国海軍中尉であったから、教育勅語を始めとした戦前ばりの家庭教育を受けたし、先祖を祀る某神社の神事にも一緒に参列しなさい、と訳も分からず連れて行かれた。
また、茶道教授と華道教授であった母親は私が幼い頃から、当然の嗜みとして茶道・華道・能楽・着付け・礼法・ピアノ・習字を修練させられてきた。
私にとってはそれが当たり前の生活だったし、周りの子も私と同じだと思っていた。
しかし、小学校に進学してから、同級生は明らかに自分とは違った。
歴史の授業では、家庭や神社で教えられたものとは全く違う事を教えられ、父が私に教えてきた事は全て嘘と教えられ、かなりのカルチャーショックを受けた。
そんな訳で、子供の頃はなんでこんな家系に生まれてしまったのだろう、と心底、自分の生まれを憎んだ少女時代だった。
戦前から戦後、大きく捏造され変遷していく歴史の真っ只中を諸に生きたという貴重経験である。
今ではその葛藤を乗り越えた事が糧となり、現在の活動に繋がっている。
と、そんな事に思いを致しつつの、静かな秋の夜長であった。
後醍醐天皇陵のある如意輪寺の御忌法要へ ~後醍醐天皇ご命日の日~
後醍醐天皇のご命日に、後醍醐天皇御陵がある奈良県吉野山の如意輪寺での宮内庁立ち会いのもとでの御忌法要にお招き頂き、参列して参りました。
この日は後醍醐天皇ご自身が手彫りされた自作の後醍醐天皇ご尊像が御霊殿からお出ましになり、本堂へ移られて法要が執り行われます。
御霊殿から本堂までの道程に、御輿を担いでおられるのは後醍醐天皇がご生前の折にお傍でお世話をされた方々のご子孫達です。
法要では、ご住職様のお計らいにて、私の本『建武中興と楠木正成の真実』も本堂の後醍醐天皇のご霊前にお供え頂きました。
本堂の法要後は、宮内庁畝傍陵墓管轄区職員によって後醍醐天皇御陵の御鍵が開けられ、通常は立ち入れぬお傍近くにて慰霊の祈りをお捧げさせて頂きました。
金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜
今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。
楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。
金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。
橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。
今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。
なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。
また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。
ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。
「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。
地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。
歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。
後醍醐天皇が流された隠岐島に向かい、日御碕灯台から詩吟「小楠公の母」を詠じてきました
楠公研究会会員で、岡崎功先生が建学された湘南高校の元教員・須藤文義様と、同じく楠公研究会会員の浜田博之様のお招きを賜わり、出雲へ。
須藤様が仕えられた岡崎功先生は大東亜戦争の無条件降伏に際して、松江騒擾事件で知られる方。
須藤様ご自身、神社本庁の芦原総長や元掌典職で現亀山神社(広島県三原市)の潮宮司、住吉大社の加藤権宮司等多くの卒業生をお待ちになられる。
当日、まずは日御碕灯台から隠岐島を望み、後醍醐天皇と楠公、南朝の遺徳を偲び讃えるべく、詩吟「小楠公の母を詠ず」を吟じさせて頂いた。
護国活動を行う中、日々、敵勢力はもちろん同じ志を持つ者からも攻撃を受ける事は当然あるのだが、時に、保守を騙って私に近づき私の名を利用して悪事を働く者が若干1名出現し、私の行ってきた顕彰活動に少々自信喪失していた中、今回の須藤様、浜田様からのご高配は、私にとって、今後の更なる顕彰活動に向けての何よりの励みとなるものとなった。
天は、神は、私にまだまだ引退してはならない、表舞台から去ってはならない、とお命じになられていると感じた。
ご神意を知り、天命を悟りて、神意と天命には絶対的に従わねばならない。
それこそが神国日本の民として命を授かった者としての責務である。
隠岐島を望みつつ、そう固く誓った。
https://youtu.be/UqYsNeeeJW4?si=LfgSZ2M6yQC7Zcr9
奈良で楠公精神を歌ってきました
本日(日付替わり昨日)、私も友情出演のオファーを賜り、出演させて頂いた、なら100年会館大ホール(1400人収容)全席満員御礼の大盛況裡に開催された。
会場には、来賓として奈良県内の各市町村長、奈良選出の国会議員も臨席し、祝辞を頂いた。
私の舞台では、小楠公の装束で、大楠公の遺品の刀剣「菊一文字」を守刀として片手に持ち、私の持ち歌詩吟歌謡『千早城』を吟じさせて頂いた。
今回の舞台では、埼玉県から駆けつけてくださったオカリナ奏者・谷口恵様のお心遣いにより、オカリナ演奏のお力添えを賜りました事、この場をお借りしまして、心より感謝申し上げる□
楠公研究会会員の田邊広一様に於かれては、由緒正しき剣武の御披露が、詩吟に更なる威厳と品格を持たせてくださり、感動だった。
詩吟歌謡というジャンルでの千人規模の大舞台は初めてだったので(いつもは講演なのでそちらは慣れているが)、さすがの私も、多少緊張した。
※使用楽曲
・「桜井の訣別」
作詞:落合直文 作曲:奥山朝恭
・「千早城」
作詞・作曲:瀬戸木和男
ここが「水戸学」の根源の地だ!〜茨城県常陸太田市・耕山寺〜
楠木正成の嫡孫・楠木正勝が開いた広澤山耕山寺へお参り、ご住職からお話をお伺いする事ができた。
国見山の南麓、瑞竜山の西山麓にある。
瑞龍山東山麓には、楠公精神を厚く崇敬、景仰し、湊川の殉節地の「嗚呼忠臣楠子之墓」墓碑建碑に始まる「水戸学」を全国の憂国の志士に興隆させた水戸徳川家の墓所がある。
曹洞宗で広澤(こうたく)山と号する。
本尊は聖観世音菩薩。
寛文三年(1663)の開基帳(彰考館蔵)によると、越後耕雲寺の末寺で、朱印地60石を有し、元は新宿(あらじゆく)村の山吹という地にあった。
楠木正成が湊川の戦いで殉節後、その後を継いで長男・楠木正行が楠木家の棟梁となるも四條畷の戦いで弟・正時と差し違えて殉節。
その後は、三男の正儀が家督を継ぎ、以後、正儀流が楠木家嫡流となった。
その楠木家嫡流の祖ともいえる正儀の嫡男・楠木小太郎正勝は、24歳の時、戦で負った足の怪我をきっかけに仏門に入り「傑堂能勝」と称し、全国を行脚し一六ヵ寺を創建した。
耕山寺もその一つで、佐竹義仁が施主となって庇護した。
佐竹家は楠木家を重んじ、自領内にも関わらず、楠木家の家紋・菊水の使用を耕山寺に促し、現在に至るまで菊水紋が寺紋として継承されている。
佐竹氏が去った後、この地を治めた水戸徳川家は、楠木氏ゆかりの耕山寺と同じ瑞龍山を墓所に選び、楠木氏ゆかりの霊地を墓所と定めた。
水戸徳川家がどれほど楠氏を崇めたのか、非常に窺われる事蹟である。
伊達家 南北朝時代編 戦国大名家紹介シリーズ#21-4【ゆっくり&VOICEVOX日本史解説】
全国の戦国大名を紹介する動画シリーズ「戦国大名家紹介シリーズ」。
引き続き、鎌倉以来の名門にして奥州筆頭・伊達家を紹介します。
今回は南北朝時代を扱います。
0:00 導入
1:04 オープニングテーマ
1:21 1.後醍醐天皇と足利尊氏のお気に入り、伊達政長
6:44 2.7代・伊達行朝の栄光と没落
17:15 3.8代・伊達宗遠
24:04 編集後記
【参考文献】
・「陸奥伊達一族」吉川弘文館 著・高橋富雄
・「伊達一族の中世」吉川弘文館 著・伊藤喜良
・「南北朝武将列伝 南朝編」戎光祥出版 著・亀田俊和・生駒孝臣
・「南朝の真実 忠臣という幻想」吉川弘文館 著・亀田俊和
・「動乱の東北史4 南北朝内乱と東国」吉川弘文館 著・桜井 彦
・「下総・奥州相馬一族」新人物往来社 著・七宮涬三
【今回の動画で使用した音楽素材】
・フリーBGM・音楽素材MusMus
http://musmus.main.jp/
・全曲無料・フリー音楽素材/魔王魂
https://maoudamashii.jokersounds.com/
・龍的交響楽 -Dragonic Symphony-
http://d-symphony.com/
・効果音ラボ
https://soundeffect-lab.info/about/
・甘茶の音楽工房
http://amachamusic.chagasi.com
【各キャラクター音源】
・うp主・シカリマツ音源「ゆっくりムービーメーカー4」
https;//manjubox.net/ymm4
・入力文字読み上げソフト「VOICEPEAK」
https://www.ah-soft.com/voice/zunko/
VOICEPEAK:東北ずん子
・テキスト読み上げソフト「VOICEVOX」
https;//voicevox.hiroshiba.jp
VOICEVOX:ずんだもん
VOICEVOX:もち子(cv明日葉よもぎ)
【各キャラクター立ち絵】
・うp主・シカリマツ立ち絵
饅頭→作:伊達胆振守(うp主)
兜・頭巾→作:いらすとや様
・東北ずん子立ち絵(作:こーすけさんたまりあ様)
・ずんだもん立ち絵(作:moiky様)
・もち子&あん子立ち絵(作:490様、公式立ち絵)
現存!楠木正成の孫お手植えの大銀杏 〜山形県小国町〜
ダム湖底に眠る幻の寺・飛泉寺。
この大銀杏は楠木正成の孫・楠木正勝が杖としていた銀杏の枝を、現在の横川ダムとなっている飛泉寺の境内に挿したところ、それが根付き、大木となった。
大銀杏は高台に移され、飛泉寺も移転された。
飛泉寺には正勝の馬具が遺されていたが、一旦、紛失し、後に、戻ったが、色々と曰くあり、現在は山形県置賜郡の吉祥寺に納められている。
楠木正勝が最初に開いた寺院「耕雲寺」〜新潟県村上市〜
耕雲寺は応永元(1394)年に傑堂能勝禅師が開かれた寺で、傑堂の師の梅山聞本禅師を開祖としています。
能勝は楠正成の孫にあたるといい、正平(1355)10年に楠正儀の次男に生まれ名は正能と伝えられている。
別伝では、傑堂能勝は、康暦元(1379)年には既に仏門に入っており、楠木正勝が能勝であるとも伝わっている。楠木正勝は南北朝時代の武将。正能とも。楠木正成の子楠木正儀の子。北朝、室町幕府に徹底抗戦したが、戦に出て流れ矢を膝にうけ、それがもとで歩行が困難となり、25歳のとき高瀬大雄寺に入って出家、のち越前滝沢寺の梅山聞本のもとで修行を積んだという。
傑堂能勝は応永34(1427)年8月7日に73歳で耕雲寺で亡くなりましたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ちこまれ、立派な弟子を数多く育てた。
耕雲寺は越後の曹洞四ヶ道場の筆頭に挙げられ、末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという名刹です。江戸時代は10万石の大名と同じ格式をもち、代々村上藩主から150石の寺領が寄進されていました。
明治19年12月16日に火災のため全伽藍を焼失、僅かに残った鐘楼が今は山門として往時の名残を残しています。この建物は元禄15(1702)年の建立で、市内では羽黒神社の神明宮に次ぐ古い建物で、平成17(2005)年に村上市指定有形文化財に指定されている。
本尊は釈迦三尊仏で、寺宝として傑堂能勝所持の大般若経1巻などがある。耕雲寺の寺紋は「菊水」である。
新年度からいざ東京進出!
今年度から、保守系YouTube番組「チャンネルAJER」( https://youtube.com/@channelajer?si=F-7SKoeZusOXMFY6 )で、「女性神主が語る國體論」と題し、月2回の配信ペースで私の番組シリーズが始まります。初回は私の生い立ち。2回目以降は昨年出版した拙著『建武中興と楠木正成の真実』(Amazonはコチラから→ https://amzn.asia/d/fr9XAof)を、チャンネルAJERの栗山社長との対談形式でシリーズで詳しく解説していきます。ぜひ、「チャンネルALER」をお気に入り登録して頂き、また、拙著をお手に取って頂いてテキストとして頂きつつ、南北朝時代と楠木正成の事蹟について知って頂ければと願っています。
【告知】
4月24日(水)14時より、兵庫県神戸市の湊川神社・楠公会館(1階にて13:30より受付)にて第46回楠公研究会・第7回総会を開催致します。
総会では昨年度の活動報告と今年度の活動指針、午後3時から正式参拝に続き、神職による通常非公開の殉節地を含めた境内案内、神社由緒解説です。
会費は会員3千円、非会員は4千円(玉串料・会場使用料・神職謝礼含む)。
JR神戸駅徒歩3分。
高速神戸駅徒歩1分。
自家用車でお越しの方は、湊川神社地下のタイムズ神戸北をご利用ください。
午後5時からロイヤルホスト湊川店にて懇親会も予定しています(懇親会費別途)。
ご参加ご希望の方は以下リンクの参加表明ボタンからお申し込み頂くか、楠公研究会事務局(□ 090 -3723-4251 ✉️ [email protected] 担当:西山)までご連絡ください。
https://facebook.com/events/s/%E7%AC%AC46%E5%9B%9E%E6%A5%A0%E5%85%AC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E7%AC%AC7%E5%9B%9E%E7%B7%8F%E4%BC%9A%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%A5%A0%E5%85%AC%E4%BC%9A%E9%A4%A8/790522212509100/
新番組「女性神主が語る國體論~帝国海軍中尉の娘という数奇な運命の下に生まれて(前編)」山下弘枝 AJER2024.4.17(1)
【会員制サイト:AJERcast】
http://ajer.jp/
【後半映像】
#山下弘枝
#楠木正成
#楠公研究会
#湊川神社
#後鳥羽上皇
#千早城
Facebookユーザー名 channel Ajer
Facebookページ名 チャンネルAjer
新番組
「女性神主が語る國體論」
第1回
帝国海軍中尉の娘という数奇な運命の下に生まれて
山下弘枝氏
前編
【会員制サイト:AJERcast】
http://ajer.jp/
今年も盛況裡に総会開催〜大楠公殉節地に立ったその時の奇跡〜
第46回楠公研究会並びに第7回総会、湊川神社・楠公会館にて滞りなく斎了。
この日は終日雨の予報だったのに、私が神戸市内入りすると同時に、その瞬間のみ何故か晴れ渡り、陽の光が燦々と降りそそぎ、先祖のご歓迎を受けた思いだった。
総会・拝殿での正式参拝・通常非公開の殉節地案内の最中も不思議と雨は不思議と全く降らず。
殉節地でこんもりと盛土がされている禁足地を拝した瞬間、正成・正季兄弟が刺し違える瞬間がフラッシュバックした。
幼い頃から親に連れられ何度もお参りしているが、こんな現象は初めてだった。
それと同時に堰を切ったようにドッと雨が降り始めた。
国の現状を見、国を憂う大楠公の涙と感じた。
吉田松陰は遺書「留魂録」で、強烈な志を持った者はたとえ肉体が滅んでも、魂は永遠に生き続け、そうして永遠に日本人の魂の奥底に生き続ける楠公精神こそが七生報國である事を説いている。
かつて吉田松陰はじめ幕末の志士達がそうであったように、私共も大楠公墓碑の前で國體の中興を誓った。
ご参列の皆様誠にありがとうございます。
後ほど、全記録動画は、FB有料会員限定ページにて共有させて頂きます。
第48回楠公研究会「楠木一族と服部一族〜南北朝時代から戦国時代、そして現代まで続く盟友関係〜」【一般公開版】
今回の勉強会は愛知県弥富市の重要文化財「服部家住宅(旧荷之上城)」にて開催。
15代目服部家ご当主からお話を伺った。
伊勢楠氏と共に、同じく南朝方として吉野時代から共闘してきたのが、服部氏だ。
服部氏といえば、楠木正成の妹の嫁ぎ先として、また、観世家とも血縁がある家筋として、余りにも有名である。
服部氏の団結力は非常に強く、伊勢長島攻めの際の服部家棟梁・服部左京亮友貞は、織田勢を迎え討つべく、河内一郡荷ノ上に館を築いた。
友貞は、戦国乱世を生き残る為には、一向衆に帰依する北伊勢の豪族や僧侶・門徒らの、反信長の力の結集が必要と考え、天文17年(1548) 本願寺を訪れ、 長島願證寺と交歓して結びつきを強めた。
当時、北勢48 家と呼ばれた土豪の多くは長島願證寺の国侍門徒であり、 友貞との結びつきにより長島願證寺は一大勢力となった。
永禄3年(1560) 、友貞は狭間の戦いで今川義元に加勢し呼応して、軍船で大高下から熱田湊を荒らしたが義元に利あらず、信長を討つ好機を逸した。
長島一向衆で重きをなした友貞を信長は大いに恐れた。
永禄11年(1568)正月、服部友貞は、楠木正具の求めに応じ、南朝の盟友・多気城城主の北畠具数の元へ年賀の挨拶の為、出立した。
その途上、楠木正具の地盤である北伊勢・米野山蔭涼庵に逗留した。
この時、友貞は、信長の謀略に遭い、信長の家臣・柴田勝家の軍勢に取り囲まれ、蔭涼庵で自刃した。
服部友貞公の墓碑は今も、蔭涼庵のすぐ傍に残っており、代々墓守をされてきた畑中家が今に至るまで毎年、服部友貞公の法要を取り行っておられる。