タグ 広島県の神社 が登録されている動画 : 21 件中 1 - 21 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
Voicepeak 広島県の神社巡り 〜初秋の【速田神社】〜安芸国造の祖神を祀る古社〜修正版 広島県廿日市市友田
廿日市市友田地区 津和野街道が通る旧佐伯町であった山間の集落にある。友和公民館近く県道30号沿い。
安芸国造の祖神を祀る安芸国総鎮守 速谷神社を1560年頃に勧請したと言われる(廿日市佐伯地区散策マップによる)
おそらく祇園社も(天王神社の扁額がありますから)合祀されていると思う。
社殿の造りもなかなかです。彫刻もいいし本殿の脇障子の龍・虎の彫刻はいいな。
広島県指定天然記念物 ツクバネカシの大木があり、初夏は紫陽花、冬は椿、秋には紅葉の紅葉もあるし雰囲気も悪く無い。県道を小瀬川温泉(ちなみに温泉の鎮守 小瀬川神社がある)へ行くため走行中、幟がはためいていていたので立ち寄る。秋祭りなんかも近いんだろうね。境内で獣の匂いがした・・・夜は野生動物も出てくるんだろうねw R5.9.15 タイトル あまりに暑いんで思わず初秋ってしたけど もう仲秋やなw
温泉行くんで一眼をいらないと思い携行しなかったので、紅葉したらまた行って来たいな。
iPhoneSe2 撮影でやんすので画質はそれなり。
最近旧佐伯町地区には田畑にソーラー発電が異様に増えていて危惧します。
余談:あとこの先の津田の津保美堂の二重焼(今川焼)はおすすめ。今は、金土日がだいたい営業日。
広告恐れ入ります感謝感謝であります^^;人
赤城山登頂記念 様
龍休宗庵 様
桜の頃「 草津八幡宮 」と広島湾と市街地の展望 広島市西区草津(令和4年4月下旬)
裏参道から賛否。
令和4年晩春記録。広島市西区草津 江戸時代は西国街道の間宿(あいのしゅく)で正規の宿場の間にあり休息などに利用された。海辺の街で海運、漁業牡蠣養殖などで栄えた今は沖が埋め立てられ住宅や商工施設が立つ 戦国時代 水軍城「草津城」もあった。
神社の在る山について、神功皇后の三韓征伐の伝説でこの地で軍船を整え 弓矢(箭)の訓練をさせたと伝承され力箭山(りきやさん)と呼ばれる。
草津八幡宮の今の社殿や境内域、自体はそう古いものではない。
昭和六年に山腹を切り開き境内が新造され現在地に遷座され新たに社殿建立されたもの。
古は海の近くにあり再建のたび内陸に移っていったと言う。
高台にあり草津の町〜広島湾や島々などの景観が優れています。時々眺めに行きたくなる場所。
社殿も大変姿が良いし189段の石段も風情がある。
御朱印もいただけます。
宮嶋口や旧市内からチンチン電車で行き 草津駅で降りて散策も楽しいですよ。
草津沖周辺は埋め立てられ近代化されているが、古い街並みや神社仏閣、うだつやコテ絵などのある古民家や蔵なども今だ点在している。歴史散策も楽しい。御幸川の河口あたりに飲食店スーパー専門店などが入るレクトがある。洒落ているので休息などに良い。
西国街道を進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
広島市の神社巡り 延暦元年鎮座 「五日市八幡神社」 広島市佐伯区五日市
五日市は旧佐伯郡東端の町だった〜現在広島市佐伯区である。初参拝^^;
神社はなかなか古く 延暦元年年創建古社のようです。
明治以前には毎月五日に市が立ったことから五日市の地名となったようです。
この辺りは西国街道もほど近い場所でちょうど八幡川が側を流れている。
本殿は後で気づいたのですが、拝殿と幣殿が下にあり裏参道側の一段高いところにあります。
海老山山麓の塩屋神社(海や塩田の守護神的な神社だった)で祭祀を兼務されているようでした。
小瀬川流域紀行(一)弥栄ダム湖を望む 後飯谷「客神社」・「河内神社」 広島県大竹市
大竹市の黒滝山山麓。後飯谷(うしろいいだに)眼下の弥栄ダムの景色も良い。この谷は黒滝山登山口になっていた。弥栄大橋方面から黒滝山を見ますと山の上に赤瓦の御社が見えるの客神社です。
前から気になっていたので迷っていたらちょうど大竹市議会選挙カーが入っていくのに続いて登り参拝してみた。
客神社は大変景色がよいです。ダム湖と吊り橋、山々の風景。いい場所に鎮座している。
小瀬川対岸 岩国市側の山中には餅ヶ峠(弥栄ダムの管理道から林道を抜けて近い、まだ人が住んでいます)、沼田原、丸田、矢細工、柏など廃村や限界集落が点在しするエリアです。
屋島で敗れた平家軍落人の里とも云われるところが多い。
ここからやや下の大竹市安条の向かい側で岩国市小津川〜渓流沿いにも現在も人が住む集落も点在する。
参考:大竹市歴史研究会HP記事参照。
〜令和4年〜 厳島管絃祭の島〜摂末社巡り 長浜神社、本宮、三翁神社、荒胡子神社
厳島神社大祭 管絃祭の当日 午後から島へ渡り 拙者、末社のいくつかを巡りながら本宮参拝
朱印をいただいて帰る。摂社や末社も佇まいはよろしいですな・・。
コロナ禍によりR2年から御座船、漕ぎ伝馬船は行われていない。
今年は参拝だけでもできてよかった。
(今年も神官さんだけで催行、神事のみでモーター付きの船をチャーターして行われたようです)
通常=まず本宮を十六時ごろ祭典があり〜御座船に移譲〜伝馬船に引かれ大鳥居前の儀〜移動〜火立岩沖〜地御前神社前〜長浜神社前〜大元神社前〜本宮と行こうていで祭事と管絃を演奏して巡る。
今回は参拝が遅くなり十五時ごろでしたので祭典を待って本殿前に10数人くらい人だかりができていましたね。
なので人が写りまくりなんもので飾られた鳳輦や弓矢盾などの飾りの写真はなしであります^^
過去動画にはあるんですけどね。
できるだけ余分な人は映さない方針でやっとりますんで^^
2021年の祭りの様子(本宮の飾り風景もあり) sm39114027
2019年(古いアカウントのうp)https://www.nicovideo.jp/watch/sm35662094
晩春の 大竹 疫神社・大治社大竹市元町
広島県西端の街大竹市 鎮守大瀧神社の元の鎮座地(弥ヶ迫)にある「疫神社」(疫病を鎮めるため祭られた)と大治(おおし)社(宗像三神中でも田心姫命を祀る)大瀧神社〜御神幸の終点でもある。
桜のころも撮影したので桜模様はまたうpします。
大竹地域の言い伝えでは=ここの場所あたりに厳島神社創建社として知られる流刑中の佐伯鞍職(くらもと)が居住していた場所と言われる。厳島明神鎮座伝説中では所の翁とも呼ばれる。疫神社境内の 山の方に所塚(佐伯鞍職の形代をおさめているという)
注)この時は上までは行かなかったのですが、推古桜(途中で折れてる)が見えるところまで上がりました。そこから見た感じでは楕円形の石がいくつか据えてありちょうど墓所に花筒にシキミが供えてあるように見えたもんで。写真は失敗してた。
もしかしたら所塚自体はさらに奥かもしれません。墓の可能性も機会があればまた見てみようかな。
大瀧神社 宮司家=所 氏ですからね 佐伯氏の系譜か?
大治(し)社=田心姫を祭るお社。恵比寿様も合祀されているようです。
疫神社(やくじんじゃ)
大国主命、少名彦命(字幕=打ち間違えてます訂正します^^; 動画はこのままにします)、素盞嗚命〜祭神は元は牛頭天王なんでしょうね。
所の翁=伝説ですが、厳島明神が厳島へ来た時、海上で出会った釣りをする翁。どこのものかと問えば
所のものですと答えたという伝説で(この土地のものです意味)厳島神社創建の佐伯鞍職である。
佐伯鞍職(大竹の説話では)、または別の人物とも・・。
歴史的なものは大竹歴史研究会のHP記事を参照しています。
山御所「阿刀明神社」安芸国 楽音寺神明帳記載の古社 〜 令和三年初秋 〜 広島市安佐南区沼田町阿戸
阿刀明神社 天保八年に古い阿刀神社と近くにあった宇豆八幡とが合祀された神社である。合祀後は社号を八幡宮と称したが、明治維新以後、旧名に復した。
春は桜もあり村の鎮守として昔ながら残された御社。
天保年間氏子により杉、ヒノキなど植樹された鎮守の森は広島市の天然記念物指定。
広島市安佐南区沼田町阿戸地区 旧戸山村と呼ばれた所(沼田郡阿戸村と吉山が合併していた)その後伴村などと合わさり沼田町〜広島市と合併し安佐南区沼田町に。
御祭神 主神=可美眞手命(ウマシマデノミコト) 天照大神 宗像三神 相殿=八幡神
古代には阿刀(あとう)氏の居住した土地でその祖神を祀る阿刀神社がもともとあった。その後天承年間(崇徳天皇の御代)大中臣権介正房により開拓された土地ということです(八幡神を祀ったのはこの一族らしいです)
境内社=大中神社と大年社、荒木社(社の右側の二小社)
阿刀氏は物部と同じ饒速日命を祖神とする氏族集団であるそうです。可美眞手命は饒速日の子神。
2020年以来 時々参拝に行きますが参道の石畳と社叢を背景にした社殿の見事さに惚れ惚れします。
戸山公民館で散策用のMap資料がおいてありいただけます。資料も少し置いてあった。
広島市 文化財HP,戸山散策マップ、wiki参照。
大竹市元町 疫神社・大治社と神楽山 薬師寺【芭蕉の弟子 志太野坡 記念の浅生塚】
広島県西端の街大竹市 鎮守大瀧神社の元の鎮座地(弥ヶ迫)にある「疫神社」(疫病を鎮めるため祭られた)と大治(おおち)社(宗像三神中でも田心姫命を祀る)大瀧神社〜御神幸の終点でもある。
言い伝えではここの場所あたりに厳島神社創建社として知られる佐伯鞍職(くらもと)が居住していた場所と言われる。伝説では所の翁とも呼ばれる。山の方に所塚(佐伯鞍職の形代をおさめているという)
真言宗 神楽山「薬師寺」
小さなお寺ですが、広島新四国88ヶ所霊場四番札所となっている。後ろの山上にかつて存在したという西福寺の後継の寺院で護摩堂を麓に移し創建したと言われている。
市内でも古い宝篋印塔(なかなか大きなもの)や古い仏像も多いようです。これらは江戸時代の災害など多い頃建立されたらしい火伏せ地蔵、法華塔の地蔵尊(宝篋印塔の守護)などもある
本堂の写真は没でした(失敗)本尊は薬師瑠璃光如来(六十年ごとにしか拝めませんです)
本堂上に浅生塚があり、芭蕉の弟子で軽みを継いだという芭蕉の弟子 志太(浅生庵)野坡(やば)の門人で、ここ大竹の芦蕗たち竹里連(俳諧を行う集まり)が野坡三十三回忌に建立した石碑。
野坡は西国方面で活動し、ここ広島藩最西端の地へも何度も訪れ連句を巻き、指導をおこなった。
玖波 大歳神社と神生(みあれ)石(西国街道 玖波宿の鎮守) 広島県大竹市 記録
広島藩(芸州藩)西端の宿場 玖波(クバ)宿のすぐ近くに、行者山麓の鎮座する。行者山は修験道の山で現在は石鎚神社系の修験道の山である。ハイカーがよく訪れる山でもある。
玖波(クバ)大歳神社=恵川の傍に鎮座し、後ろは行者山がある。鎮守の森がこん森している。
やや山側には山陽新幹線、神社の南には広島岩国道路(山陽自動車道へ接続)の橋脚があり現代と古いものが混在している。
社殿は昭和42年コンクリート再建(拝殿は流造、向拝付瓦葺き、神殿は神明作り銅板葺)昭和20年の枕崎台風以来3度の大きな風水害で痛み再建されたものだ。
社殿は白を基調にしていて造りも自然な感じなので意外に周囲の感じとあっていると思い悪くはない。
また神社の社殿の横には神の降り来る磐座が今も祀られており神生石(みあれいし)として鎮座している。社殿はこの祭祀対象の石を避けて横へのちに建立されてきたものらしい。
ここ玖波と周防の山里=山代地方(今の岩国市になる)の生見は昔から縁が深いようです。御幣が玖波から山代の生見まで飛んでいったというようなお話もの残る。また岩国の堅石明神(御神体の大岩がある)の縁起にもここの神社が出てくるらしい。
玖波(クバ)について余談
この玖波という地区は古くは古代山陽道 遠管駅家が置かれた場所といわれ古代から安芸の国西部のにおける交通の要衝の一つであった。
厳島にも近く瀬戸内の海運の港として、玖波谷へ山から降る道は周防山代など山間部地域から物資の降ってくるルートとして用いられたようだ。現代では役目を終え静かな町でわずか昔の面影を残す。
今は海が近く国道2号線が走りますが、昔は海側に道が無く廿日市から山越えで鳴川の石畳(遺跡がある)を抜け鉾の峠〜から唐船浜を経て馬試しの山をこえて玖波宿へ入っていようである。今はうま試しの山には隧道が通り玖波宿へ(旧道)また海側はおそらく削られ国道2号が開通している。江戸時代までは山側に旧山陽道が通っていた。
*神社の歴史などは玖波大歳神社サイトと大竹歴史研究会サイトを参照させていただいた。人
なかなか詳しいです。
【天神さまの〜観梅】西国街道 廿日市天満宮境内&初春の広島湾の眺め
梅の花がちょうど見頃で(一部まだ蕾の木もあった)ちょいと山登り(わずか)して散策した。場所は宮島も近い旧廿日市の中心部で旧道の旧山陽道(西国街道)が 社前を通っている。宿場町跡である。
廿日市天満宮(すぐ横が旧別当坊の正覚院)
創建は厳島神主家に就任した藤原親実により荏柄天神を勧請した桜尾城の鎮守として建立されたもの。
山は開発で峰続きがなくなっているが、桜尾城の支城〜篠尾城があった。墓地などがありそれが山の名残かなと思う、裏からも道があるようです。
江戸時代までは天神坊と呼ばれた神仏習合の寺社。
小高い山上からは極楽寺山、野貝原山(のうが高原)、舟倉、権現、経小屋の山々、
宮島〜能美島、似島、広島市方面の広島湾の島々が一望である。
音楽 ニコニ・コモンズ
のる様作
やさしいひととき。.*:+☆ジャズ風・優しいピアノソロ
donさま作
halfway through one's journey
【広島県の神社巡り】旧厳島神社兼帯社 大瀧(おおたき)神社 広島県大竹市
広島県西端の街〜大竹市の古社 大瀧神社(旧村社) 厳島神社の旧兼帯(社)七社の一つ。江戸期までは厳島神社から祀官が来て祭祀を行っていた謂れがある。
社伝では推古天皇5年創建らしい。村の拡大に伴い元亀年間(戦国期)、元文年間(江戸期)2度の遷座があり現在地 歯朶山の上に鎮座する。
祭神=宗像三神の一柱〜多岐都比賣命を主祭神として他七柱、
小高い山上にあり鎮守の森が覆う野鳥が多く自然が守られている。東麓には招魂社が鎮座しており境内は神社の駐車場も兼ねている。
狛犬、社殿も見応えがなかなかあります。4〜5回目なんだが環境も良いので運動がてら参拝もよかった(何度か通ってみないとわからないもんですな)
宮司さんは所さんといわれるそうで 厳島神社の鎮座伝説にもいう所の翁の後裔といわれるそうです。
拝殿の彫刻がなかなかよかった。
境内社=市内の祇園、淡島社、七福神社が合祀して祀られる社がある。
境内入り口の神明型鳥居は市内一大きな石造物だそうです。一ノ鳥居は本町筋側にあり離れているかつてはこの辺りまでが境内地だったらしい。
また街が拡大して埋め立てられる前は本町筋の先に船をつけて参拝したといわれているそうです。
今は埋め立てなど進み内陸側にあるが海の神として漁業者などの信仰も厚かったといわれる。
細かい歴史は大竹市歴史研究会のサイト参照(なかなか詳しいです)
音楽 のる様作 ニコニ・コモンズより
やさしいひととき。.*:+☆ジャズ風・優しいピアノソロ
鎮守の森~和風&アンビエントなピアノソロ~
<天然記念物ツクバネガシ巨樹と冬姿の鎮守の森> 友田「速田(はやた)神社」 広島県廿日市市友田
蔓延防止で遠出できないので旧佐伯町の神社。広島県西部 廿日市市友田 速田(hayata)神社へ。雪が数日前に降り寒い天気だった。節分は過ぎたが冬の姿。ここは季節ごと定期的に観測に行っています。
すいませんタイトル間違ってた(以前の初夏の頃のタイトルよみこんだので)訂正した^^;人
ここは広島県天然記念物ツクバネガシの巨樹が参道入り口にある。樹高27メートル(広島文化大百科のHPでは37M?の記載ありどっちだw)もあるもので県内で同種では一番大きい。
廿日市市の宮内から県道30号線(旧津和野街道)を上り津田の手前の友田地区にあり。
昔は確かこの辺は友和村と言われていたところで、県道沿いに友和公民館が近い(裏にPあり)
神社すぐ手前に岩組バス停、友和公民館前にバス停があった。神社は駐車場無し。
境内は鎮守の森があり背後も山。拝殿は絵馬がかかり吹き抜け。本殿も流造のいい姿です。
本殿の脇障子には彫り物が見える。基本行事でもないと普段は誰もいないみたい。
雰囲気は良い。今回5目かな。
令和4年 寒の明けに
【天正年間創建】廣瀬大明神「廣瀬神社」〜広島市中区広瀬
廣瀬大明神「廣瀬神社」〜広島市中区広瀬
市杵島比賣命、多紀理毘比賣命、多岐都比賣命の三神を祀る。相殿に天照大神、素盞嗚命、神倭伊波禮彦命を配する。主祭神は厳島神社と同じですね。
歴史=天正年間 毛利輝元が広島城を築城し本拠を広島に移した折、菩提寺 洞春寺(現在は山口市にある)をこの地に移したという。その鎮守として祀られたのが広瀬 市杵島大明神である
広島の城下町 西部一帯の氏神とされた
享保年間広瀬大明神と社号を改めさらに明治後に広瀬神社と号し村社と定められた。
広大な境内地に巨木古木が並ぶ境内だったそうですが米軍の国際法違反の原子爆弾投下により灰燼に帰す。戦後の区画整理で境内地も狭くなり現在の社域が定まった。
現社殿は拝殿が昭和二十四年建立、本殿は昭和五十年造営だそうです
行き方 広島駅や宮島線からだと~広島電鉄の十日市電停を下車して歩道(左側)を横川方面へ向かう。寺町電停の手前、広瀬町信号の交差点を左へすぐ。
JR横川からだと広電に乗り寺町電停で降りて少しだけ歩くと同じ交差点へ着く社殿が駐車場越しに見えます。
この日は横川あたりから寺町を散策しながら行きました。
【広島市の神社巡り】「安芸津彦神社」(旧名 官幣社) 広島市安佐南区祇園
江戸時代までは厳島神社の七つの兼帯社の一つであった。明治5年 現在の社号に改めた。
JR可部線に沿うように走る県道277号線(旧道)沿いにある。所々古い屋並みも残る道だが 今でも交通量は半端なく多い路線その街道沿いの一角に旧官幣社こと安芸津彦神社がある。
安芸津彦神社(旧名称=官幣社)安芸津彦命、安芸津姫命を祭神とする神社~安芸津彦命は阿岐(安芸)国造 飽速玉男命(速谷神社御祭神)の祖神である.
平成になる直前に焼失した後社殿は 残念ながら社殿は鉄筋コンクリート再建である。
写真を見直してみますと綺麗に撮れていました。
末社の建物は古い感じでした。
祇園の名の由来である、安神社がごく近い。
西国街道沿いの力箭山(Rikiya zan)に鎮座「 草津八幡宮 」と広島湾の島々 広島市西区草津(令和三年1月)
令和三年初参拝記録。広島市西区草津 江戸時代は西国街道の間宿(あいのしゅく)で正規の宿場の間にあり休息などに利用された。海辺の街で海運、漁業牡蠣養殖などで栄えた今は沖が埋め立てられ住宅や商工施設が立つ 戦国時代 水軍城「草津城」もあった。
神社の在る山について、神功皇后の三韓征伐の伝説でこの地で軍船を整え 弓矢(箭)の訓練をさせたと伝承され力箭山(りきやさん)と呼ばれる。
草津八幡宮の今の社殿や境内域、自体はそう古いものではない。
昭和六年に山腹を切り開き境内が新造され現在地に遷座され新たに社殿建立されたもの。
古は海の近くにあり再建のたび内陸に移っていったと言う。
高台にあり草津の町〜広島湾や島々などの景観が優れています。時々眺めに行きたくなる場所。
社殿も大変姿が良いし189段の石段も風情がある。
御朱印もいただけます。
宮嶋口や旧市内からチンチン電車で行き 草津駅で降りて散策も楽しいですよ。
草津沖周辺は埋め立てられ近代化されているが、古い街並みや神社仏閣、うだつやコテ絵などのある古民家や蔵なども今だ点在している。歴史散策も楽しい。御幸川の河口あたりに飲食店スーパー専門店などが入るレクトがある。洒落ているので休息などに良い。
蝋梅やひと足ごとの祈りかな
西国街道を進んだ宮内にある 宮内天王社sm37969384
西にある厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
水晶ケ城跡の麓 「臼山八幡神社」補遺〜 Usuayama Hachiman (師走 紅葉最盛期記録) 広島市佐伯区石内
令和二年12月 もみじの紅葉が盛りになったと思われた頃訪れた。
やや曇り気味でしたがだいぶ色付きが進んでおりまあまあ雰囲気は出てるかなと。宮島辺りは混雑しているというので避けてこちらへ再訪した。この辺りは古代山陽道でもある。
平安末期に始まり戦国時代厳島合戦の前まで 水晶ヶ城という大規模な山城があり厳島神主家藤原氏や大内氏の支配下にあったが厳島合戦前に毛利軍により落城後に廃城となった。城砦が大規模すぎて守るのに難しい故とも云われる。
旧社格は村社。八幡神を祀る。境内社=稲荷神社と新宮神社がある。
境内は結構広いです。石段したのもみじの古木のある石鳥居のところは駐車スペースになっています.。また社殿右手の境内隅に永井建子(けんし)の記念碑が建つ。
〜境内 由緒書より〜
延暦二年宇佐八幡より勧請された小祠が祀られ、後に築城された水晶ヶ城の鎮守として祀られた。現社殿はなかなか大きく造りどっしりしている。境内は大木が多くある境。昭和になり 皇紀二千六百年記念にて山腹を切り開き境内拡張して社殿を現在の位置へ移し祀った。
その1(紅葉はじめ頃〜社殿及び境内 動画 sm38073703
令和2年12月
【真冬の厳島】2 旧官幣中社 厳島神社参拝と冬の境内(大鳥居の扁額展示中) 2020冬
リモートで参拝気分をどうぞ。R2年12月紅葉シーズンが終わった頃 参拝。参拝客はいるものの比較的 神社は閑散としている。雲が多い午後の空は変化はあるが光量にやや乏しい、しかも寒い。
大鳥居の修復中で、扁額2枚が展示されている2枚あり 厳島神社こ(れは本社側)伊都岐嶋神社(海側)サムネは 修復中の大鳥居の扁額。
客人神社の祓殿や拝殿、東廻廊の屋根など修理中。初詣準備などが行われていた。初詣に関しては人数制限を設ける予定で来客次第で長い待ち時間が予想される。1月2月中くらいまでの期間にゆっくり初詣に来て欲しいと神社側は希望しているらしい。
三ヶ日は大体は家でゆっくり過ごすのが本来の正月なので今は1日から大型店も空いていたりせわしないですね。1月中に初詣はすればいいのでは?と思います。
大きな神社の摂社(人が少ないしいいところもある)。や近くの感じのいい氏神や鎮守社みたいなところに参拝するのもいいですね。この日は商店街も休みも多く開店休業のような風景でした。
余談
保守系チャンネルで見たんですが原因を作ったC国から帰国した日本人の方、PCRなど検査は一切なしで、電話の自動音声を案内され自動音声で注意だけ聞かされ自宅へなんて適当な入国管理をされているらしい(一部かもしれないが)不審に思いキャスターさんが保守系政治家に言うとエビデンスがないから仕方ないとほざいたらしいです。事実なら危機感のなさ、経済的にやばいお店や失業個々人を保証や支える政策(改革・財政均衡論、緊縮大好き)もない政府だね。最近の引退した亀井静香さんの対談を見ますと爪の垢でも煎じて飲めと思います。
*散策の続き3 清盛神社の入江〜多宝塔への道 sm38041737
ぶ漢発コロナ大流行禍の年(令和2年)梅雨時の地御前神社の様子 sm37384152
対岸の厳島神社外宮 地御前神社 sm33544265
旧村社 宮内天王社〜快晴の中 今年最後の黄落の大銀杏 (旧・厳島神社兼帯社)2 再訪 2020
今年最後の参道大イチョウの紅葉が鮮やかな境内風景。次回参拝したらもう冬の姿でしょう。紅葉が始まって3回行きましたが一番綺麗に撮れた気がします^^
廿日市市宮内は県道30号線が走り県道と御手洗川がぶつかる所の旧道を少し川沿いに遡ると参道入り口がある。ちょうど交番のところを入れば良い(交差点のところには吉賀町の柿木村アンテナショップがある)
1周間くらい前に再度参拝。境内の落ち葉は氏子さんが頑張って掃き集めてきれいになっていた。
元来は広田神社の元鎮座地の麓にあったが、天正年間に海の近くなので津波災害で現在の宮内へ遷座した。元来は祇園社で牛頭天王を習合した神仏混交の社だった。
祭神=素戔鳴命、神武天皇など
明治後は八坂神社と改称したが戦後昭和44年頃 氏子の希望で宮内天王社へ社号を再度改称した。
名称は長い神仏習合時代の牛頭天王の語感を生かしたか神武天皇伝説の絡みからなどと言われる。
江戸時代〜厳島神社兼帯七社の一つだった(祭祀を厳島神社の祀官が行い社殿などの修築も厳島神社が賄った神社)境内にあります社殿修築の寄進者を記載した石碑を見ますと、厳島神社が多くの寄進をしていました。
境内は大木も多くあり村社として守られてきたようです。旧山陽道が近くを通っていた場所でもある。御手洗川沿いあたりは大体山陽道にあたるらしい。
令和二年は梅雨明け前に1回、黄落して都合3回・・計4回目の参拝。
2018年か2017年頃に行った時は、落ち葉がまだ片付けられていない時、行きましてもう境内全て黄金色だったですね。
近くに有機野菜の産直売場があるのでたまにこの辺へ遠征して行きますのでついでに。
厳島神社外宮 地御前神社 sm37384152
上平良にある延喜式内社名神大社 速谷神社 sm35298947
【 拝殿の彫刻がかわいい 】三ツ石 「河内神社」(広島県大竹市三ツ石町)
広島県の神社巡り〜ローカルネタすぎますがまたもやです。広島県の西端大竹市にある 神社。大竹市の県道117号線沿いの三ツ石町にある鎮守社。江戸時代やや下の御薗〜苦の坂峠へかけて西国街道が通っていた。
字幕抜け=4分23秒〜テキスト入れ忘れてました=「河内神社 御本殿です」^^;
大竹の御園のあたりから入り三石浄水場前から小瀬川沿の穂二原(ほにはら)あたりへ出る県道横の岡の上にある。小高いところに姿のいい赤い鳥居が目立つのでこの道を走ったことがある方は見ているはずですが。以前1回行ったことがあるんですが様子をよく覚えていないのと駐車スペースがないのが大変。
此の間、御祭り前に幟がたったり幕を張ってある時行きたかったんですが、ようやく時間を見つけて
今頃参拝してきた。前から鳥居が気になっていたので記録してきた。
ただ由緒などは不明、佐伯神社庁のHPに名前以外ない。
境内はすごく綺麗にされていていいですよね。拝殿の動物の彫刻が丁寧でいいです^^
神社あたりを少し過ぎて浄水場手前の路側に駐車できるスペースが若干あるので車ならそこがいいでしょうが厳しい。神社周辺の三石地区は駐車スペースはない。眺めは良かったですまた行きたいです。
隣がお不動様を祀るお堂(四角いコンクリート製かな?祭壇のちゃんとしているサッシもはまって立派)神仏習合の名残かもしれませんが?
大竹市周辺
大竹市 桜の名所 福島正則の亀居城跡へ(西国街道沿い)前編 sm38506561
岩国市 令和三年 最盛期の錦帯橋の桜模様 sm38531266
大竹市木野(西国街道)大元神社と太閤振舞い井戸 sm38361367
大竹市木野 西国街道=渡し場跡と古い町並み sm35994416
晩秋の「臼山八幡神社」(1) 紅葉はじめの石鳥居 周辺風景切り取り 高画質版
臼山八幡宮 広島市佐伯区石内地区の神社で、背後の山は厳島神主家や大内氏の支配した大規模な山城跡 水晶ケ城跡。けいだいに蜜蜂さんが飛んでました。紅葉以外は黄色く黄葉してたりしましたね。
鳥居の辺りの紅葉など。
神社境内参拝はその2で。
<広島県の神社> 天照大神を祀る 廣田神社 廿日市市串戸
広島県の西部にある廿日市串戸 藤掛山の山腹に鎮座する 廣田神社。西国街道沿いの宮内村下組の氏神だった古い神社。広島藩の通史芸藩通志に記載されている。
御祭神=天照大神 鉄筋コンクリート製で吹き抜けの拝殿が再建されていました。
境内には稲荷社 御免石(藤掛山遷座したとき社頭にあった岩で参拝者は昔から「御免なさいませ」などと挨拶して 通った故事による)などある。
桜が植えられている境内から広島湾、宮島などが眺められる。
元は御衣尾山の山麓にあり、宮内〜地御前へ流れる御手洗川の瀬替えでこの山の谷に移転(現在そこには御旅所跡の石碑が残る川のそばで山のようなものは現在はない)さらに宝暦年間社殿焼失したために宝暦十二年藤掛山の現在地へ遷座した。
参道入り口の由緒書きによれば、現在の社殿は藤掛山が開発された時、再建されたものだそうです。 戦国時代は桜尾城の支城=藤掛城があった藤掛山〜現在住宅開発や道路建設で団地に大きく姿を変えています。旧山陽道の街道は藤掛山が大きく迫り出していたので海側は通行できず街道は山側を抜けて宮内へ向かっていたそうです。
また麓の東側には下平良(へら)地区の氏神 新宮神社(藤掛城の元 鎮守社)がある。
JR宮内串戸駅、広電宮内駅近く。