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謎のなぞなぞ 『徒然草 気まま読み』#43
今回扱うのは、第百三十五段。
藤原資季(すけすえ)大納言入道という人物が、宰相中将・源具氏(ともうじ)に対して、「おまえさんの尋ねる程度のことなら、どんなことだって答えてみせよう」と言ったことが発端となり、話が大きくなって、御前にて争うことになり、もし資季が具氏の尋ねる問いに答えられなければ、ご馳走をするということになった。
そこで具氏が尋ねたのは、幼い時から聞いていたが、未だにわからないなぞなぞの答え。
そのなぞなぞとは
「馬のきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」
資季はついに答えられず、具氏の勝ちとなったのだが、それで、このなぞなぞの答えは?
【ゆっくりと学ぶ日本の古典】 徒然草 《第二段~第六段》
ゆっくりで徒然草を再現するプロジェクト
BGMを選ぶのが難しい…
目次
第二段「君主のあり方」
第三段「男子と恋愛」
第四段「仏教に真剣」
第五段「引きこもり」
第六段「反出生主義」
序段&第一段→sm35557887
シリーズ【ゆっくりと学ぶ日本の古典】→series/55677
枕の方角 『徒然草 気まま読み』#42
今回扱うのは、第百三十三段。
全文を紹介すると…
夜(よ)の御殿(おとゞ)は東御枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拜は辰巳に向はせ給ふ。南にはあらず。
どちらに頭を向けて寝るのがいいのか。
徒然草の時代からいろいろと言われていて、特に「北枕」は忌み避けられていた。
些細なことではあるけれども、そんな生活感覚がわかる一篇。
【ゆっくりと学ぶ日本の古典】 徒然草 《序段&第一段》
こんにちは!授業は退屈でも、試験前に勉強してみると意外と面白い古典文学を、ゆっくりで再現しました。初回は徒然草です!なんとか243段までいけたらいいな…
愛欲の道 『徒然草 気まま読み』#41
今回扱うのは、第九段。
一部を紹介すると…
事に觸れて、うちあるさまにも、人の心をまど(惑)はし、すべて女の、うちとけたる寝(い)も寝(ね)ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬ業にもよく堪へ忍ぶは、たゞ色を思ふがゆゑなり。
女性の色香ほど人を惑わすものはない。
その色欲の止めがたいことは、他のどんな欲望とも比較にならず、老人も若者も、智者も愚者も変わりがないと力説する兼好。
女の色香が人を惑わす力の強さについて、未だにどの研究者にも出典がわからない形容句を用いて警告を発する兼好。
兼好…いったい、女性と何があった?
命長ければ、辱(はじ)多し 『徒然草 気まま読み』#40
今回扱うのは、第七段。
全文を紹介すると…
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに、物の哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなり行くなん、浅ましき。
徒然草の中でも特に美文で格調の高い段。
ただひたすら生きることのみに執着していたら、千年生きても足りないと思うだろう。
限りある命を受け入れることができるか?
永遠の命を手に入れるよりも、大切なこととは何か?
手塚治虫の『火の鳥』などのテーマに受け継がれていく、人生・生命に関する哲学。
さらには、日本人の感覚の底にある「永遠」の目指し方などについても語ります。
稽古の心得 『徒然草 気まま読み』#39
今回扱うのは、第百五十段。
一部をを紹介すると…
能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。
ちょっと厳しいことを言っているが、言われてみればそのとおり。
こっそり練習して、上手くなったら発表しようなんて思っている人は、何事も身につけられた試しはない。
どんなに下手であろうと、失敗しようと、恥をかこうと、構わずに披露してみることこそが重要。
これ、「ゴー宣道場」にも通じる話なので、今度参加する人は見ておいてくださいね!
悪筆を憚らず 『徒然草 気まま読み』#38
今回扱うのは、第三十五段。
非常に短いので、全文を紹介すると…
手の惡(わろ)き人の、憚らず文かきちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさし。
字の下手な人が、それを気にせず文を書くのはいいことである。見苦しいと思って人に代筆をさせるのは嫌味なものである。
今ではワープロもあるわけだが、手紙で気持ちを伝えようと思ったらやはり本人の肉筆。字の上手い下手など関係ない。
現在でもすんなり通じる兼好の美意識。
ついでに、字の上手い下手を巡って現在一年がかりでもめている泉美家のエピソードも登場します。
綽名から逃げられない 『徒然草 気まま読み』#37
今回扱うのは、第四十五段。
全文を紹介すると…
公世(きんよ)の二位の兄に、良覺僧正と聞えしは極めて腹惡しき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「切杭(きりくひ)の僧正」と言ひけり。愈(いよいよ)腹立ちて、切杭を掘りすてたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池(ほりけ)の僧正」とぞいひける。
あだ名をつけられやすい人って、いる。
それはその人のキャラクターのためであって、当人がいかに気に入らなくても、そのあだ名で呼ばれないようにするための工夫をいくらやろうとも、そのキャラクターが変わらない限り一切無駄なのです!
子を持つべし 『徒然草 気まま読み』#36
今回扱うのは、第百四十二段。
一部を紹介すると…
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷の恐ろしげなるが、傍(かたへ)にあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、物のあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。
確か以前に扱った段では、「絶対に子供なんて持つものじゃない」と言ってたはずだが? と思った人もいるかもしれないが、これは矛盾というわけではない。兼好はケース・バイ・ケースでその時の心の赴くように書いていて、この人の場合は、子を持ってこそ人の心がわかったのだと言っているのである。
そして話はさらに続き、恥ずべきことをする人、罪を犯す人を無下に非難するのはよくない、そうするには、その人なりの事情があることを考えるべきだと説き、些細なことから話がどんどん深くなっていく。これぞ徒然草の醍醐味。
伊勢から上京した鬼 『徒然草 気まま読み』#35
今回扱うのは、第五十段。
一部を紹介すると…
應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ参るべし。たゞ今はそこそこに」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。
前回に続いて、現在の「都市伝説」を思わせる話。
伊勢から女の鬼を連れて京に上った者がいるという噂がたち、噂が噂を呼んで、京の都は騒然。
珍しいものが見れると「鬼見」に繰り出す人もいて…
前回お見せできなかった「猫又」の絵や、「鬼」のイメージの変遷がわかる絵などもお目にかけます!
猫又出現! 『徒然草 気まま読み』#34
今回扱うのは、第八十九段。
山奥に猫又という妖怪がいて、人を食うそうだとある人が言うと、またある人が、山奥でなくても、この辺でも年を取った猫が妖怪になって、人を食うらしいぞとある人が言う。
そんな話を聞いたある法師が、自分のように独り歩きをする者は気を付けないといけないぞと思っていたところ…
昔の話というなかれ。このような話が誰からともなく広がっていく様は、現在の「都市伝説」なんかにもそっくり。
そして、すっかり信じ込む人もいる一方で、兼好はじつに冷ややかな視線を向けている。
これも、今とあんまり変わらないようで…
子は不要 『徒然草 気まま読み』#33
今回扱うのは、第六段。
冒頭で「我が身のやんごとなからんにも、まして數ならざらんにも、子といふもの無くてありなん」
と言い切る兼好。
前回扱った段では「妻を持ってはならぬ」と断言し、さらにここでは、身分が高い人だろうと、取るに足らないものであろうと関係なく、「子は不要」だと断言する。
しかも、子は不要とする根拠が、功成り名を遂げた人の中で子のいなかった者の例ばかり集めてきたり、聖徳太子について史実ではない伝説のエピソードを持ってきたりと、こじつけ感がハンパない。
いったいどうしたんだ、兼好!?
しかしこれも徒然草の味わいの一つ。ここでこう言っているからと言って、それが絶対だと兼好自身も考えていたとは限らない。柔軟性を持って読んで行こう。
妻帯するな! 『徒然草 気まま読み』#32
今回扱うのは、第五十六段。
一部を紹介すると…
妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも獨り住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。
「たれがしが婿になりぬ」とも、又、「いかなる女をとりすゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。異なることなき女を、よしと思ひ定めてこそ、添ひ居たらめと、賤しくもおし測られ、よき女ならば、此の男をぞ、らうたくして、あが佛と守りゐたらめ。
普段はなるほどと思わされる含蓄のある話ばかりの『徒然草』ではありますが、今回ばかりは「どうしたんだ、兼好!?」と思ってしまう一段。
とにかく男たるもの、妻だけは持ってはいけないと口を極めて罵る兼好。
大したことのない女を良いと思って妻にしている男はつまらない、と言うのはまだわかるけれども、素晴らしい女性に尽くされていても「その程度の男か」と言い放つ。女性に対して厳しい論調は以前にもあったけれども、ここまでくると、一体何があったの?と思ってしまう。
誤解がないようにと、高森氏が自身の結婚観などについても語ります!
話し方で人品が知れる 『徒然草 気まま読み』#31
今回扱うのは、第五十六段。
一部を紹介すると…
久しく隔たりて逢ひたる人の、わが方にありつる事、數々に殘りなく語り續くるこそあいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥しからぬかは。次ざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息もつぎあへず語り興ずるぞかし。
人と話をする時の態度で、その人が一流か二流かがわかると、何とも手厳しい分析をする兼好。
思わず「私は二流だ~」と嘆くもくれんさん。でも、これって誰にも覚えがあることでは?
それに、言ってることの中には、単に兼好の好みじゃないの?とか、それはいまの時代では違うんじゃないの?とか言いたくなるようなこともちらほら。
とはいえ、やっぱり耳の痛いところを突いているところがあって、思わず知らず反省会になってしまう一段。
旅の効用 『徒然草 気まま読み』#30
今回扱うのは、第十五段。
全文を紹介すると…
いづくにもあれ、暫し旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。
そのわたり、こゝかしこ見ありき、田舎びたる所、山里などは、いと目馴れぬことのみぞ多かる。都へたよりもとめて文やる。「その事かの事、便宜に忘るな」など、言ひやるこそをかしけれ。
さやうの所にてこそ、萬に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人・かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。
寺・社などに、忍びてこもりたるもをかし。
普通なら、旅に出ることの目的は、行った先の珍しいものや風光明媚な景色など、普段触れることのないものを見て、そこに価値を見出すことにあると思うところだが、やはり兼好は違う。
兼好は、旅に出て日常から切断されることで、むしろ日常の価値を再発見するところに意味があるという。
言われてなるほどと思う、旅の値打ちとは?
倹約を旨とすべし 『徒然草 気まま読み』#29
今回扱うのは、第二段。
全文を紹介すると…
いにしへの聖の御代の政をも忘れ、民の愁へ、國のそこなはるゝをも知らず、萬にきよらを盡して、いみじと思ひ、所狭きさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。
「衣冠より馬・車に至るまで、あるにしたがいて用ゐよ。美麗を求むることなかれ」とぞ、九條殿の遺誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。
ここに出てくる「順徳院」の教えは、現在に至るまで、歴代天皇が守ってきたことである。
それがこの時代には、貴族の間にも共有されていたことになる。
いや、兼好がわざわざ書いているということは、実際には守られていないという現状があったということか?
真の専門家とは 『徒然草 気まま読み』#28
今回扱うのは、第百八十七段。
全文を紹介すると…
萬の道の人、たとひ不堪なりといへども、堪能の非家の人にならぶ時、必ずまさることは、たゆみなくまさることは、たゆみなく愼みて軽々しくせぬと、ひとえに自由なるとの等しからぬなり。
藝能、所作のみにあらず。大方の振舞ひ・心づかひも、愚かにして謹めるは得の本なり。巧みにしてほしきまゝなるは、失の本なり。
世の中には、何のジャンルにおいても、プロであるのに技量に劣る人もいれば、素人にもかかわらずプロ顔負けの上手さを見せる人もいるものである。
しかし、プロと素人を並べてみれば、必ずプロの方が優ると兼好は言う。
それはなぜか?
ここから、「プロとは何か?」ということが見えてくる。
完全でないことが良い 『徒然草 気まま読み』#27
今回扱うのは、第八十二段。
兼好は二人の友人の話から、日本人の独特の美意識について語る。
新品で綺麗なものよりも、少し古びてきたもののほうが味わいがある。
完全に揃っているよりも、いくらか欠けている方が趣がある。
何事につけても、整っているものはよくない。いくらかし残したところがある方が、面白いのである、と兼好は綴っている。
わび・さびなどにも通じる美意識を自覚的に語っているのである。
その一方で日本には、全く清浄なものがよいという感覚もあるのだということも補足でつけ加えて、日本人の多面的な美意識について考える。
孤独こそ良い 『徒然草 気まま読み』#26
今回扱うのは、第七十五段。
つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。
この冒頭部分に、言いたいことが凝縮されている。
孤独で退屈な状態でいることを嫌がる人は、どういう心境なのだろう、その気が知れない。たった一人でいることこそがいいのだと兼好は言う。
世に従い、人に交われば、それに迎合し、自分自身を失うというのである。
兼好はその生き方を貫き、自分を通したからこそ『徒然草』を後世に残した。
兼好の生きた時代ですら、このようなことを批判しなければならなかったのである。
それならば、SNSによって、とにかく人と繋がりたい、人の評価を受けたいという意識が強迫観念にまでなっているような現代を兼好が見たら、一体何を思っただろうか…?
親しき人を見直す 『徒然草 気まま読み』#25
今回扱うのは、第三十七段。
全文を紹介すると…
朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時に、我に心をおき、ひきつくろへる様に見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人もありぬべけれど、猶げにげにしく、よき人かなとぞ覺ゆる。
疎き人の、うちとけたる事などいひたる、また、よしと思ひつきぬべし。
この段では、人間関係の距離感の取り方について考察する。
一見、今さら気を使わなくてもいいじゃないかと思えるような間柄の相手でも、その時に合わせて、しかるべき時に然るべき態度を取れるかどうかというのは重要なこと。
そこに、他人を他人として尊重した上で親しんでいるのか、そうではないのかということが表れる。
短い表現の中に、現在にも通用する教訓が語られている。
ご譲位後の上皇 『徒然草 気まま読み』#24
今回扱うのは、第二十七段。
全文を紹介すると…
御國ゆづりの節會行はれて、劒(けん)・璽・内侍所わたし奉らるゝほどこそ、限りなう心ぼそけれ。
新院のおりゐさせ給ひての春、よませ給ひけるとかや、
殿守の伴のみやつこ(御奴)よそにしてはらはぬ庭に花ぞ散りしく
今の世のことしげきにまぎれて、院にはまゐる人もなきぞ寂しげなる。かゝるをりにぞ人の心もあらはれぬべき。
先頃、200年ぶりの天皇ご譲位が行われたが、譲位が当たり前だった時代の『徒然草』に書かれた譲位はどういうものだったのかというと、それは大層侘しさを感じさせるものだった。
そこに書かれた譲位は、95代・花園天皇から96代・後醍醐天皇へのものであると推測されている。
つまり、南北朝の動乱前夜の譲位であったという事情がそこにはあった。
今回、祝賀の中でご譲位が実現したのは実に幸福なことだったと実感。
さらには、ご譲位に伴い行われる三種の神器の継承について、桓武天皇の時代から鏡だけは動かされなかったという定説に対して、実は鏡も動かされていたのではないかと思われる記述があるという、興味深い余談も登場!
月見る景色なり 『徒然草 気まま読み』#23
今回扱うのは、第三十二段。
旧暦9月20日ごろ、ある人に誘われて、兼好は明け方まで月を見て歩くことになった。
現代人にはない時間の使い方である。
するとその途中で、誘ったその人は兼好を置いてある家に入って行く。
兼好、置いていかれたことを特に気にするでもなく、家や庭の様子の風情を味わい、その家の主の人となりを思い浮かべる。
さりげなく、そしてはかない余韻の残る、情緒あふれる徒然草の一つの世界。
栗ばかり食べる娘 『徒然草 気まま読み』#22
今回扱うのは、第四十段。
短いので全文を紹介すると…
因幡(いなば)の國に、何の入道とかやいふものの女、かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更に米(よね)のたぐひを食はざりければ、「かゝる異様のもの、人に見(まみ)ゆべきにあらず」とて、親ゆるさざりけり。
さてこの話、一体何を言おうとしているのか?
なぜ兼好法師は、この話を『徒然草』の一段に加えたのか?
実はこれ、未だにどの研究者も解明しておらず、有力な説さえ現れていない謎なのです!
拙きものは女なり 『徒然草 気まま読み』#21
今回扱うのは、第百七段。
今だったら炎上必至?の、凄まじい女性論。
まず前半では、京都の朝廷に務める男たちの間では、女性からの評価や視線が非常に重んじられているという状況が記される。
それを受けた後半で、兼好は女性とはどういうものであるかについて、ボロクソに語っていく。
「すなおならずして、拙きものは女なり」と、ものすごい断言。返す刀で、そんな女の歓心を買おうとする男も斬って捨てている。
一体何があった、兼好!?
そこまで言う理由が、最後にちょっとほの見えて、兼好法師のまだ悟ってなさそうな人間像が浮かび上がる。
良き細工 『徒然草 気まま読み』#20
今回扱うのは、第二百二十九段。
すごく短いので全文を掲げると…
よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀が刀はいたく立たず。
これで全文。
しかしこれだけで、優れた表現をするには何が大事なことなのかということを考えさせられる。
良い細工をするには、少し切れ味の鈍い刀を使う。
それはなぜ?
勅書を持たる者は下馬せず 『徒然草 気まま読み』#19
今回扱うのは、第九十四段。
短いので全文を掲げると…
常磐井相國、出仕したまひけるに、勅書を持ちたる北面あひ奉りて、馬よりおりたりけるを、相國、後に、「北面なにがしは、勅書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけり。
勅書を馬の上ながら捧げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。
朝廷のトップである太政大臣・西園寺実氏が朝廷に出てきた時、上皇の手紙を持った武士が乗った馬と出会った。武士は馬から降りて礼儀を示したが、その行為がけしからんと、西園寺はその武士の職を解いてしまった。それはなぜか?
天皇・上皇の権威とはどのように担保されてきたのかがうかがえるエピソード。
死を憎まば、生を愛すべし 『徒然草 気まま読み』#18
今回扱うのは、第九十三段。
誰もが身につまされるであろう、生と死に関する話。
死を恐れるならば、もっと生を楽しもう。
もし死を憎むなら、もっと生を愛そう。
それができないのは、死を恐れていないからというわけではない。
そして、死生観にはさらに高度な次元がある…
ごく身近な話から語り出して、人生の本質にまで到達する『徒然草』の奥深さ。
珍しすぎる宝物 『徒然草 気まま読み』#17
今回扱うのは、第八十七段。
短いので全文を掲げると…
或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、「御相傳浮けることには侍らじなれども、四條大納言撰ばれたるものを、道風書かむこと、時代や違ひはべらむ、覺束なくこそ」といひければ、「さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ」とていよいよ秘藏しけり。
まるで落語みたいなエピソード。
特に何の教訓にもなりそうにないけれど、何か現代でも似たようなことがありそうな。『徒然草』には、こんなのもあるのです。
高名の木登り 『徒然草 気まま読み』#16
今回扱うのは、第百九段。
今回はお試し版無料公開。扱うのは、教科書にもよく掲載された「徒然草」でも特に有名な段。
名高い木登りという男が人に指示をして、高い木に登らせて梢を切らせたところ、高い場所でとても危険に見えたときには声をかけることもなく、降りてきて軒の高さぐらいになって「怪我をするな。気をつけておりなさい」と声をかけた。それはなぜかと兼好が問うと…。
厳しい身分社会の中にありながらも、身分の低い者の言葉といえども聴くべきものを逃さずに記し、評価した兼好の見識にも注目!
時期を選ぶな 『徒然草 気まま読み』#15
今回扱うのは、第百五十五段。
物事を成就するには、好機を選び、それにふさわしい時期を待つべきであるというのも、一面においては正しい。
しかし、そんなことは言っていられないこともある。
人生には、いつ何が起きるか分からない。本当に重要なことは、時期を待っている場合じゃないものなのだ。
自然の摂理、春夏秋冬の季節の移ろいを観察していると、わかることがある。
ましてや、人の生老病死の移ろいを思うと、悠長なことなど決して言ってはいられないのである!
保守の神髄 『徒然草 気まま読み』#14
今回扱うのは、第百二十七段。
全文を紹介すると…
改めて益なきことは、改めぬをよしとするなり。
これだけ。これで全文である。
だが、このワン・センテンスに、「保守の神髄」が語られている!
このわずかな文章の中に、いろんな含みがあり、単に頑迷固陋に古いものを固守することを推奨しているわけでもないし、その一方で、予測不可能な未来に対しては慎重に臨むべきだと諭す意味も含まれている!
果たしてそれを、読み取れるか?