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玉は淵になぐべし 『徒然草 気まま読み』#75
今回扱うのは、第三十八段。
冒頭部分を紹介すると…
名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、煩ひを招く媒(なかだち)なり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
この段には、兼好法師の極めてラジカルな面が表れている。
そこには、序に「徒然なるままに」というような、することもなく手持ち無沙汰だから書いているといった感覚とは全く異なる、尖った若々しい感性がある。
そしてそれは、真に人生を大切に考え、人生を輝かせることを阻んでいるのは何なのかということを真剣に考えたからこそ到達した心境なのである!
無駄話 『徒然草 気まま読み』#74
今回扱うのは、第百六十四段。
全文を紹介すると…
世の人相(あい)逢ふ時、しばらくも默止することなし。必ず言葉あり。そのことを聞くに、おほくは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。これを語る時、互の心に無益のことなりといふことを知らず。
前回紹介した第二百三十三段にも、「言葉すくなからんには如かじ」と自制の勧めがあったように、兼好法師は無駄に口数が多い人を特に嫌う。
この段でも、短い文章で無駄話をすることを手厳しく非難しているのだが、ふと考えてみると、そう言っている兼好に対してもちょっと疑問が…。
人から非難されない言動 『徒然草 気まま読み』#73
今回扱うのは、第二百三十三段。
全文を紹介すると…
萬の科(とが)あらじと思はば、何事にも誠ありて、人を分かず恭(うやうや)しく、言葉すくなからんには如かじ。男女・老少、みなさる人こそよけれども、ことに若くかたちよき人の、言うるはしきは、忘れがたく、思ひつかるゝものなり。
よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき、所得(ところえ)たるけしきして、人をないがしろにするにあり。
兼好法師の人生哲学がよく表れているといえる段。
物事に対して、人と接するに際してどうあるべきか。
若い人に向けた眼差しも注目すべきところ。
さらに、「言葉すくなからんには如かじ」という自制の勧めは、今日こそ肝に銘じるべきことではないだろうか?
デジャヴ体験 『徒然草 気まま読み』#72
今回扱うのは、第七十一段。
後半部分を紹介すると…
またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
デジャヴ、何かの折に「既視感」を覚えるということはよくあるものだが、そのことについて文章に書かれたものとしては、極めて古いものといえる。
前段は兼好法師の独特な感性による、そして後段はわりと普遍的な感覚のデジャブについて語られる。
些細なこと、取るに足らないことと思われそうなことにも注目し、書き留めていることもまた、兼好法師の特徴であり「徒然草」の面白さのひとつ。
形から心へ 『徒然草 気まま読み』#71
今回扱うのは、第百五十七段。
最初の部分を紹介すると…
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてんと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。仮りにも不善のたはぶれをなすべからず。
現代人の感覚だと、ものを書こうという心が先で筆を執り、音楽を奏でようという心が先で楽器を持つという順番なのだが、ここで兼好が言っているのはその逆。
これは、近代的人間像をひっくり返す考え方であり、現象と心理は別ではないのである。
そして話は、ミス日本ファイナリストへのレクチャーについても及んでいくのだが、その関連は?
雪の朝の手紙 『徒然草 気まま読み』#70
今回扱うのは、第三十一段。
全文を紹介すると…
雪の面白う降りたりし朝、人の許(がり)いふべき事ありて文をやるとて、雪のことは何ともいはざりし返事に、「この雪いかゞ見ると、一筆のたまはせぬ程の、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは、かへすがえす口惜しき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。
雪の降る趣深い朝に送った手紙のやり取りをめぐる、ちょっとしゃれたお話。ほんの些細な出来事なのだが、それを印象に留めて書き記している兼好法師の情緒がしのばれ、その手紙の相手の人となりや、関係性までいろいろ想像したくなってくる、微笑ましい一段。
負けじと打つべきなり 『徒然草 気まま読み』#69
今回扱うのは、第百十段。
全文を紹介すると…
雙六(すぐろく)の上手といひし人に、その術(てだて)を問ひ侍りしかば、「勝たんとうつべからず、負けじとうつべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりとも遲く負くべき手につくべし」といふ。
道を知れる教(おしえ)、身を修め、國を保たむ道も、またしかなり。
「雙六(すぐろく)」とは現在の「すごろく」とは違って、博打の一種。
兼好はその名人に、負けない秘訣を尋ねる。
そしてその答えは、現代の勝負師もよく口にするようなことだった。
歌の文句にもある「勝つと思うな、思えば負けよ」である。
博打うちの言うことからも貴重な教えを見出す兼好。
ところがその兼好が、実は博打うちをどう思っていたかというと…
身に虱あり、君子に仁義あり 『徒然草 気まま読み』#68
今回扱うのは、第九十七段。
全文を紹介すると…
其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。國に賊あり。小人に財(ざい)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。
いかにも兼好法師らしい、一筋縄ではいかない、不思議な文章。
「そのものにとりついて、そのものを弱らせ、ダメにしてしまうものは数限りなくある。」
なるほど、それはそうだろう。
「身に虱あり」「家に鼠あり」「國に賊あり」
これは説明されなくても、そのとおり。
「小人に財あり」
ちょっとひねってきたな。でもそうかも。
ここまではいいのだが、後の二つは、一体どういう意味!?
道具の品格は持ち主の人格 『徒然草 気まま読み』#67
今回扱うのは、第八十一段。
前段を紹介すると…
屏風・障子などの繪も文字も、かたくななる筆樣(ふでやう)して書きたるが、見にくきよりも、宿の主人(あるじ)の拙く覺ゆるなり。
屏風や障子の絵や文字が、まずい筆つきで書かれていると、それが見苦しいというよりも、そんな調度品を使っている主人がつまらない人物に思えてくる。
持っているもの、使っているものによって、その人の人格が測られてしまうものだ…
いろんな場面で今でも起こりそうなことだけれども、心当たりはないでしょうか?
大事なことを後に回すな 『徒然草 気まま読み』#66
今回扱うのは、第四十九段。
前段を紹介すると…
老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
人生の誤りとは、重要なことを後回しにして、どうでもいいことを優先してやることである。
今はその時ではない、いずれ時が来たらやろう、などと言っていたら、結局やらないうちにこの世を去ることになってしまう。その時に後悔したところで、どうにもならないのだ。
兼好は「仏道」について言っているが、これはもちろん、何についても言えること。人は時間を無限に持っているわけではなく、いつも死が隣にあることを意識していないと、何もしないで人生を終えることになってしまう。
後段では、兼好のちょっと狂的な感覚がうかがえるエピソードが紹介される。
過ぎたる欲望を捨てよ 『徒然草 気まま読み』#65
今回扱うのは、第二百四十二段。
全文を紹介すると…
とこしなへに、違順につかはるゝ事は、偏(ひとえ)に苦樂の爲なり。樂といふは好み愛する事なり。これを求むる事 止(や)む時無し。樂欲(ごうよく)するところ、一つには名なり。名に二種あり。行跡と才藝との誉(ほまれ)なり。二つには色欲、三つには味(あじわい)なり。萬の願ひ、この三つには如(し)かず。これ顛倒の相より起りて、若干(そこばく)の煩ひあり。求めざらむには如かじ。
ラス前で、特に心がこもっている感じもする一段。
これが徒然草で最後まで残ったテーマと言えるかもしれない。<br>人の欲望には限りがない。名誉欲、色欲、そして食欲。
これが過ぎると、人は不幸になる。
徒然草に通して書かれてきたリアルな人間観察・分析の中に、仏教の教えや兼好の価値観が端的に表れている。
めでたい秋の月 『徒然草 気まま読み』#64
今回扱うのは、第二百十二段。
全文を紹介すると…
秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべきことなり。
秋の月はほかの季節と違ってことさらに美しいという日本人の美的感覚は、いつできたのだろうか?もしかしたらそれは、徒然草のこの段の影響かもしれない。
さらに話は広がって、昨年の天皇陛下御即位の「祝賀御列の儀」について触れる。
秋の月は特別という感覚と、祝賀御列の儀の際の皇后陛下のご表情や、天皇陛下のふるまいに感じた思いとの、その共通点とは?
客の心得 『徒然草 気まま読み』#63
今回扱うのは、第百七十段。
最初の部分のみ紹介すると…
さしたる事なくて人の許(がり)行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。
大した用もなく人を訪ねるのはよくない。用があって行ったとしても、用事がすんだらすぐ帰るべきである。
…とは言っているが、一度言ったことを杓子定規に何でもかんでもに当てはめるということはせず、一見、矛盾しているようなことをすぐ後に書いたりするのも徒然草。
ここでは、「客に行くとき」と「客を迎えるとき」で違うことを言っている。またそれが、兼好法師の懐の深さなのかも。
古典のすすめ 『徒然草 気まま読み』#62
今回扱うのは、第十三段。
全文を紹介すると…
ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。
文は文選(もんぜん)のあはれなる卷々、白氏文集(=白樂天の詩文集)、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。
「読書のすすめ」という題にしてもいいのだが、引き合いに出されているのはすべて古典である。
それにつけても問題なのは現代の、「古典のすすめ」どころか「読書」そのものが廃れてしまっている傾向である。
読書の魅力を小学生くらいのうちに味わっておかないと、読書の習慣をつけるのは難しい。
これは親と学校が頑張らなければならないことなのだが…
嘘の世の中 『徒然草 気まま読み』#61
今回扱うのは、第七十三段。
最初の一文だけ紹介すると…
世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
「世の中に語り伝えられていることは、真実は面白くないからだろうか、多くは皆ウソである」
強烈な皮肉から始まり、世の中にどれほど嘘が蔓延しているか、どのようにして嘘が広まって、信じられてしまうのかといったことを、さまざま実例を挙げていく。
人の言うことに対してリアルに、シビアに、クールに向き合う姿勢が見えるが、しかし、それだけで終わらないのが徒然草。
そこに兼好法師の知性と理性を感じる洞察がある。
心を慰めるもの 『徒然草 気まま読み』#60
今回扱うのは、第二十一段。
前段部分を紹介すると…
萬の事は、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものは有らじ」と言ひしに、またひとり、「露こそあはれなれ」と爭ひしこそ、をかしけれ。折にふれば何かはあはれならざらん。
ある人は、見て最も心を慰められるものは月だといい、ある人は露だと言い争う。
現代では考えられない論争で、時代の違いを感じさせられるが、逆に言えば現代人は何もせずに花鳥風月を眺めるような「すき間の時間」を持つ心の余裕を失っているのではないだろうか?
酒の功罪 『徒然草 気まま読み』#59
今回扱うのは、第百七十五段。
この段は徒然草の中でも突出して、最も長い。
その長文で兼好が語っていることは、とにかく酒というものがいかに有害で、酒のみがみっともなく、はた迷惑で、一切いいことなんかないということ。
よくもこれだけ思いつくなというくらいのお酒の悪口をつらつら書き並べていて、酒のみにとっては耳が痛すぎてもう聞きたくないと思いそうなところだが、終盤になってくると論調が変わってきて…
どんなに問題があっても捨てがたい魅力があるもの、それが酒!
盃の酒を少し残す 『徒然草 気まま読み』#58
今回扱うのは、第百五十八段。
全文を紹介すると…
「杯の底を捨つることは、いかゞ心得たる」と、ある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當(ぎょうたう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道なり。流れを殘して、口のつきたる所をすゝぐなり」とぞ仰せられし。
この当時、盃で酒を回し飲みするときには、注がれた酒を飲み干さずに、少し残してそれを捨ててから次の人に渡すという習慣があった。それはなぜか?
ある人のいう答えに、兼好法師は納得したからそれを書き記したのだろう。
一説には、その人の説明は誤りだとも言われているが、その真偽はともかく、兼好が納得したことには共感できるのでは?
凶相の理由 『徒然草 気まま読み』#57
今回扱うのは、第百四十六段。
全文を紹介すると…
明雲座主、相者(さうじゃ)に逢ひ給ひて、「己(おのれ)若し兵仗の難やある」と尋ねたまひければ、相人、「實(まこと)にその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり」と申しけり。はたして矢にあたりて失せ給ひにけり。
「虫の知らせ」というものがある。
する必要がないはずの心配が、心の中に沸いてきて、不安でしょうがなくなってきたりする。
それはほんの気のせい、取り越し苦労か?
いや、そんな不安を感じた時点で、実は危機的状況になっているのだ…という、ちょっと怖くなってくる話。
神になった業平 『徒然草 気まま読み』#56
今回扱うのは、第六十七段。
一部を紹介すると…
賀茂の岩本、橋本は、業平・實方(藤原實方)なり。人の常にいひ紛(まが)へ侍れば、一年(ひととせ)參りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止(とゞ)めて、尋ね侍りしに、「實方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、『橋本や、なほ水の近ければ』と覺え侍(はべ)る。吉水和尚の、
月をめで花をながめし古(いにしえ)の やさしき人は こゝにあり原
と詠みたまひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、己(おのれ)らよりは、なかなか御存じなどもこそさぶらはめ」と、いと忝(うやうや)しく言ひたりしこそ、いみじく覺えしか。
上賀茂神社の岩本社には、在原業平が祀られている。
実在の人間を神として祀っているわけである。
人をご祭神とする神社といえば、まず思い浮かぶのが靖国神社。他には楠正成を祀る楠公神社などがあるが、これは明治以降の政治目的によってつくられた、新しい信仰だなどと非難する者がいる。
しかし、人を神とするのは決して「新しい伝統」ではないのだ。
心惑わす色欲 『徒然草 気まま読み』#55
今回扱うのは、第八段。
全文を紹介すると…
世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥え膏(あぶら)づきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。
時代を超えた古典には、現代にもそのまま通用する普遍性がある。
そしてその作者について、何世紀も前の人とは思えないような親しみを感じるところがある。
今回紹介する段は、まさにその二つの特徴が良く表れている。
とにかく、人間というものは「色欲」には逆らえない。
これはまさしく兼好の人間観察からも、そしておそらく兼好自身の体験からも導かれた、どんなに時代が移っても変わらない真理!
そして、このような体の人であれば、もう一層逆らえない…と言っているあたり、それは兼好の好みでは?と、隠しきれない人間性が滲んでいるところが、なんとも微笑ましい!
競争の弊害 『徒然草 気まま読み』#54
今回扱うのは、第百三十段。
結論部分を紹介すると…
人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがらに爭ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。
勝負ごとに入れ込むことの不毛を兼好は説く。
ただ勝ち負けにこだわって快感を得るということは、負けた人に不快感を味わわせて喜ぶということであり、徳に背くし、長く恨みを買うことも多く、いいことがない。
だから人に勝ちたいと思うのなら、学問をしてその智で勝てという、兼好の深い洞察。
古典に対する造詣が非常に深かった作家・田辺聖子が『古典の森へ』で語った徒然草評もご紹介!
潮時を知る 『徒然草 気まま読み』#53
今回扱うのは、第百二十六段。
短いので全文を紹介すると…
「博奕(ばくち)の負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに逢ひては、打つべからず。立ち歸り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり」と、あるもの申しき。
「あるもの申しき」の「あるもの」とは誰かはわからないが、熟練のギャンブラーらしい。
負けが込んで、有り金はたいて最後の勝負に出ようとしている人を相手にしては、打ってはいけないという。その理由は?
単にギャンブルのことには留まらない、いつの時代にも通用する処世術が短い文章で語られる、これぞ徒然草の魅力。
「富む」とは何か 『徒然草 気まま読み』#52
今回扱うのは、第百二十三段。
重要な部分を紹介すると…
人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ふ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかに過(すぐ)すを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを、驕(おごり)とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせん。
衣食住に「医」を加えているところが兼好独自の考え。この4つが揃っていれば「富」、それが満たされないのが「貧」、それ以上のものを求めるのが「驕」。実に明快な、兼好ならではの人生の価値観。
法然の教え 『徒然草 気まま読み』#51
今回扱うのは、第三十九段。
全文を紹介すると…
或人、法然上人に、「念佛の時、睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覺めたらむ程、念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定(いちじょう)と思へば一定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。
また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」とも言はれけり。是も亦尊し。
親鸞の師である浄土宗の開祖・法然。
その法然の教えを、実に徒然草的な、味わい深い筆致で紹介している。
厳しい修行を必要としない、念仏を唱えれば往生ができるという教えであるにもかかわらず、念仏の時に睡魔に襲われて行がおろそかになるという相談をする者がいた。
それに対する法然の答えに注目するあたりに、多くの衆生に救いの門を開こうという法然の姿勢に対する兼好の共感が見られる。
空のなごり 『徒然草 気まま読み』#50
今回扱うのは、第二十段。
全文を紹介すると…
某(なにがし)とかやいひし世すて人の、「この世のほだし もたらぬ身に、たゞ空のなごりのみぞ惜しき。」と言ひしこそ、まことにさも覺えぬべけれ。
ワンセンテンスの、短い段。
この某という人物とは誰か? 「空のなごり」とは何のことか?
諸説あるのだが、ここはそれにはあまりこだわらずに、自分なりの解釈をしてみよう。
いろんな解釈ができて、それぞれに味わい深い感覚を持つことができるだろう。
何事もあてにするな 『徒然草 気まま読み』#49
今回扱うのは、第二百十一段。
一部を紹介すると…
萬(よろず)の事は頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。
勢(いきお)ひありとて頼むべからず。こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず。時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとて頼むべからず。顔囘も不幸なりき。
何かをあてにする、誰かを頼りにするということをするから、それがうまくいかなかった時には、あてにしたものに対して恨みを持つということになる。始めから何もあてにしなければ、うまくいかなくても誰も恨まず、うまくいけば自然に感謝ができる。
あてにしないということは、寛容の心である。
そもそも、世の中に本当にあてにできるものなんてあるだろうか?
厳しいことを言っているが、この言葉に兼好が込めた、生きるうえで意識しておかなければならない心構えとは?
小林秀雄の「徒然草」論 『徒然草 気まま読み』#48
今回は少し趣向を変え、徒然草の本文から離れて、昭和を代表する批評家、「批評」をジャンルとして確立し、文学であり芸術であるというレベルにまで高めた小林秀雄が、早くから徒然草を絶賛していたということを紹介する。
兼好が「徒然草」で書いていたことは「批評」であり、兼好こそが自らの先駆者であると小林は見ていたようだ。
その著作集『古典と伝統について』から、そんな小林秀雄の「徒然草」論を紹介する。
そして、最後に小林秀雄がイチ押しとして挙げる徒然草の段は…?
臨機応変 『徒然草 気まま読み』#47
今回扱うのは、第二百十三段。
全文を紹介すると…
御前の火爐(かろ)に火おく時は、火箸して挾む事なし。土器(かはらけ)より、直ちにうつすべし。されば、轉び落ちぬやうに、心得て炭を積むべきなり。
八幡(やはた)の御幸に供奉の人、淨衣(じょうえ)を著て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白き物を著たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。
何事も、杓子定規に固定した考えで行動してはいけない。
しきたりというものは、それぞれに意味があって定められているものではあるが、いつどんな場合でもそのとおりにやらなければならないというわけではない。
その場の状況によって、多少正式とは異なる形となっても認められるという、余裕や寛大さはあっていいもの。
兼好なりの自由さ、柔軟さが表れた一段。
その場にはその場に合わせた振る舞いというものがある。
蜜柑に興醒め 『徒然草 気まま読み』#46
今回扱うのは、第百三十三段。
全文を紹介すると…
神無月(かみなづき)の頃、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遙かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋(うず)もるる筧(かけい)の雫ならでは、露おとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に、菊・紅葉など折りちらしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
かくても在られけるよと、あはれに見る程に、かなたの庭に大きなる柑子(こうじ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりを嚴しく圍ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覺えしか。
風流な情景描写が美文で綴られ、その光景が目に浮かぶよう。…と思ったら、その後に続く描写の落差に、思わず笑ってしまう一段。多分、兼好もそのギャップを目立たせようとして、前半を殊更に美文で描写したのではないか? そんな茶目っ気も感じさせられます。
古きをのみぞ慕わしき 『徒然草 気まま読み』#45
今回扱うのは、第二十二段。
全文を紹介すると…
何事も、古き世のみぞ慕はしき。今樣は、無下(むげ)に卑しくこそなり行くめれ。かの木の道の匠(たくみ)のつくれる美しき器(うつはもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
文の詞などぞ、昔の反古(ほうご)どもはいみじき。たゞいふ詞も、口惜しうこそなりもて行くなれ。古(いにしえ)は、「車もたげよ」「火掲げよ」とこそいひしを、今様の人は、「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。「主殿寮人數(とのもりょうにんじゅ)だて」といふべきを、「立明し白くせよ。」と言ひ、最勝講なるをば、「御講(みかう)の廬(ろ)」とこそいふべきを、「講廬(こうろ)」と言ふ、口をしとぞ、古き人の仰せられし。
兼好の美意識がよく表れた一段。
言葉は時代によって変化していくが、兼好は昔ながらの正式な言い方を尊重する。
何でもかんでも古いものがいいと言ってしまうと何も前には進まないけれども、新しい時代になって行くと失われるものがあるということは、はっきり意識しておく必要があるのではないだろうか?
男として願わしいこと 『徒然草 気まま読み』#44
今回扱うのは、第一段。
有名な「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて…」の序段に続く第一段で兼好が語ることは、やはり「つかみ」を意識してか、人として、男として、望ましいこと、願わしいことは何だろうかという、間口の広い題材となっている。
一部を紹介すると…
人は、かたち・有樣の勝(すぐ)れたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(むか)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心(こころ)劣りせらるゝ本性(ほんじゃう)見えんこそ、口をしかるべけれ。
人品(しな)・容貌(かたち)こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なくなりぬれば、しな(=人品)くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
兼好の思う、いい男の条件が、かなり具体的に語られている。これが『徒然草』の「入り口」である!