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今でしょ!「徒然草 気まま読み」#104
今回扱うのは、五十九段。
前半部分を紹介すると…
大事を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
ここでは具体的には出家を決意した人について語っているが、現代の我々の心構えとしても完全に通用する。
何か大事なことをやろうと決心しながらも、いざ実行に移そうとすると何かと気にかかることがあってなかなか踏み出せないということはある。
しかし、そんなことを言っていたら、一生いつまでもできっこない。いつやるの?今でしょ!
…と、ここまでなら、塾の講師からでも聞きそうな話だが、見どころは後半。
今すぐやるしかない、その理由として兼好が言うことは実に激烈!
そう考えれば、確かに今すぐやるしかない!
ピアノバラードを作ろうとしたけど歌詞が思い浮かばないから徒然草で作ったら冒頭の一節入れ忘れたので喋ったらライブっぽくなった
セルフ2匹目のどじょう
ピアノバラードを作ろうとしたけど歌詞が思い浮かばないから徒然草で作ったら冒頭の一節入れ忘れたので喋ったらライブっぽくなった曲です。
前作(竹取物語)はこちら→sm37020642
歌詞:「徒然草」(吉田兼好・冒頭部分)
音楽:ヨガマット
イラストは全て「いらすとや」様よりお借りしています。
※ 本作品は制作の都合上、一部誤解を招きやすい表現がございます。原作の題は「徒然草」であり、冒頭の「つれづれなるままに」ではございません。「題名を勘違いして国語のテストで誤答してしまった」等のトラブルには一切責任を負いかねます。
楽譜:https://twitter.com/yogamatsongs/status/1318890324828114944?s=20
off vocal:https://piapro.jp/t/s1Hd
投稿オリジナル曲:https://www.nicovideo.jp/mylist/59587138
twitter:https://twitter.com/yogamatsongs
母の教育「徒然草 気まま読み」#103
今回扱うのは、百八十四段。
鎌倉幕府の執権・相模守時頼の母、松下禪尼のエピソード。
時頼を招く際、すすけた障子の破れたところだけを、禪尼自ら貼り替えていた。
そんな仕事は禪尼自らする必要もないし、そもそも破れたところだけを一コマ一コマ貼り替えるよりも、全部貼り替えた方が簡単できれいなのに、なぜわざわざそんな手間のかかることをしなければならないのか、と問われて、禪尼が答えたこととは?
幕府の最高権力者に上り詰めた息子に対してなお、むしろそのような立場になったからこそ、母として見せておきたかった態度とは何か?
人の心の弱さ「徒然草 気まま読み」#102
今回扱うのは、五十八段。
冒頭のみ紹介すると…
「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり人に交はるとも、後世を願はむに難かるべきかは」と言ふは、更に後世知らぬ人なり。
仏門に入って修行をしているからといって、物欲など世俗の価値観、欲求から離れられるわけではないと、兼好はいう。
確かに現実はそのとおりで、人の心は弱い。この段の兼好は、人の心の弱さには寛容である。
しかし、だからといって、決して仏道を歩むことが無意味だと言っているわけではない。
人の心の弱さを認めた上で、さらにその先がある。
知らぬ道 『徒然草 気まま読み』#101
今回扱うのは、五十七段。
全文を紹介すると…
人のかたり出でたる歌物語の、歌のわろきこそ本意なけれ。すこしその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。
すべていとも知らぬ道の物がたりしたる、かたはらいたく聞きにくし。
自分の専門分野でもないのに、一知半解の知識を知ったかぶって話すことは見苦しい。
徒然草では繰り返し語られているテーマだが、今回の段は短い文章の中により端的に表現されている。
誰にでも覚えのありそうなこと。くれぐれも注意しましょう。
死は今にも 『徒然草 気まま読み』#100
徒然草気まま読み、スタートして2年、ついに100回到達!
100回を記念して、今回扱うのは、第四十一段。
全文を紹介すると…
五月(さつき)五日、賀茂の競馬(くらべうま)を見侍りしに、車の前に雜人(ざふにん)たち隔てて見えざりしかば、各々(おのおの)下りて、埒(らち)の際によりたれど、殊に人多く立ちこみて、分け入りぬべき様もなし。
かゝる折に、向ひなる楝(あふち)の木に、法師の登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう眠(ねぶ)りて、堕ちぬべき時に目を覺す事度々なり。これを見る人嘲りあざみて、「世のしれ物かな。かく危(あやふ)き枝の上にて、安き心ありて眠るらんよ」と言ふに、わが心にふと思ひし儘に、「我等が生死(しゃうじ)の到來、唯今にもやあらむ。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事は猶まさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「誠に然こそ候ひけれ。尤も愚かに候」と言ひて、皆後を見返りて、「こゝへいらせ給へ」とて、所を去りて、呼び入れはべりにき。
かほどの理、誰かは思ひよらざらむなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸にあたりけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。
ひとつ間違えれば死にかねない危険なことをやっている人を見て笑っている人達に、死を人ごとのように思って、一日が平穏無事に過ごせるものと思ったら大間違いだ、死は誰にも、今すぐ訪れてもおかしくないものなのだぞと諭す兼好。
何度も『徒然草』で繰り返される死生観だが、この段で面白いのはここから。
諭された人の態度や、その人たちに対する兼好の見方などが、いずれも味わい深い。
そして、言われてみなけりゃ気づかない、ちゃっかりした話だったりもする。
何かわけがあったか? 『徒然草 気まま読み』#99
今回扱うのは、第十段。
一部を紹介すると…
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、長閑(のどやか)に住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきらゝかならねど、木立ちものふりて、わざとならぬ庭の草も心ある樣に、簀子(すのこ)・透垣(すいかい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
兼好の思考の柔軟さがよく見える一段。
仏教の無常観から、人の住まいなど仮の宿りだと思う一方で、その中に趣のある様子を見れば、心を動かされる。
とはいえ、あまりに凝り過ぎたものを見ると、それは見苦しいと感じる。
そして後半ではある故事について、語り伝えられてきて評価の定まったことについても、ふとしたことから再考の必要があるのではと思いつく。
固定観念に縛られずに感じ、考え続けた姿勢がうかがわれる。
達人の発言 『徒然草 気まま読み』#98
今回扱うのは、第二百六段。
一部を紹介すると…
徳大寺右大臣殿、檢非違使の別當のとき、中門にて使廳の評定行はれけるほどに、官人 章兼が牛はなれて、廳のうちへ入りて、大理の座の濱床の上にのぼりて、にれ うち噛みて臥したりけり。重き怪異なりとて、牛を陰陽師のもとへ遣すべきよし、おのおの申しけるを、父の相國聞きたまひて、「牛に分別なし、足あらば、いづくへかのぼらざらん。
昔の人間、特に6世紀以上も前の兼好の時代の人は、みんな迷信深く非科学的なものを信じていたかのようなイメージを持ちがちだが、さにあらず。
その時代においても、非常に合理的な考え方をする人はいたし、兼好は特にそういうエピソードを好んでいた。
翻って現在、コロナ禍に大騒ぎしている人々は、いったいどれだけ合理的にものを考えていると言えるのだろうか?
花は盛りのみか 『徒然草 気まま読み』#97
今回扱うのは、第百三十七段。
冒頭部分のみ紹介すると…
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を戀ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。
徒然草の中でも最も長文の一段。
その内容も、徒然草全体のエッセンスともいうべきものとなっている。
花は盛りのときだけを、月は曇りなく輝いているときだけを見るものだろうか?いや、決してそうではないという、兼好法師の美意識が存分に語られる。
そして終盤ではややいきなりテーマが変わり、兼好法師の死生観が語られる。
誰も死から逃れられるものはない。いま生きているのは偶然であり、若くても強くても、死は不意にやってくる。
ひたすら死から目を背ける生命至上主義の現代人は、これをどう読むのだろうか?
里芋好きの智者 『徒然草 気まま読み』#96
今回扱うのは、第三十段。
冒頭部分を紹介すると…
眞乘院に、盛親僧都(じょうしんそうず)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝もとにおきつゝ、食ひながら書をも讀みけり。煩ふ事あるには、七日(なぬか)、二七日(ふたなぬか)など、療治とて籠り居て、思ふやうによき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、萬の病をいやしけり。人に食はすることなし。たゞ一人のみぞ食ひける。
仁和寺・眞乘院の盛親僧都という人の話。
冒頭から「やんごとなき智者」という、最大級の賛辞で紹介されているのだが、なぜだかこの人が「やんごとなき智者」であることを表す具体的な話はその後一切登場しない。
出てくる話は、どう見ても奇行としか言いようのないエピソードばかり。
それでも奇人変人ではなく、「やんごとなき智者」なのだという。
逆に、これだけの奇行をしていても人々に一目置かれているということ自体が「やんごとなき智者」の証なのか?
なんとも不思議な印象を残す一段。
専門家は大したものだ 『徒然草 気まま読み』#95
今回扱うのは、第五十一段。
全文を紹介すると…
龜山殿の御池に、大井川の水をまかせられむとて、大井の土民に仰せて、水車(みづぐるま)を作らせられけり。多くの錢(あし)を賜ひて、數日(すじつ)に營み出してかけたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、徒らに立てりけり。さて宇治の里人を召してこしらへさせられければ、やすらかに結(ゆ)ひて參らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るゝ事、めでたかりけり。萬にその道を知れるものは、やんごとなきものなり。
現代の「専門家」とか「有識者」とかいうものは、全然信用ならないものに成り下がっているが、兼好法師が生きた時代には、本当に真っ当な専門家がいた。
兼好はそういう尊敬すべき専門家やプロフェッショナルを称える文を何度も書いていて、これもそのひとつ。
本来、専門家とは大したものであるべきだという思いを込めつつ、読んでいこう。
宮中への憧れ 『徒然草 気まま読み』#94
今回扱うのは、第二十三段。
一部を紹介すると…
衰へたる末の世とはいへど、猶九重の神さびたる有樣こそ、世づかずめでたきものなれ。
露臺(ろだい)、朝餉(あさがれい)、何殿(でん)、何門などは、いみじとも聞ゆべし。怪しの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)、小板敷、高遣戸なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設けせよ」といふこそいみじけれ。
兼好は自分が生きる時代を「衰え行く末世」と認識していた。
だが、そんな末世においても、神々しさを保ち、世俗化していない、素晴らしきものこそが宮中であると兼好は言う。
これは、今日の我々が皇居に対して思うところと共通するものがあるのではないだろうか?
兼好が率直に宮中への思いを記しているところが興味深い。
慢心を戒める 『徒然草 気まま読み』#93
今回扱うのは、第百六十七段。
一部を紹介すると…
人としては、善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干(そこばく)の科(とが)あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。
いかにも兼好らしいというか、聞いて思わず「えっ?」と言いたくなるような、変わったことを言っている。
「他人よりも優れたものがあることは、大きな欠点である」というのだ。
兼好独特の、逆説的な話なのだが、さてその真意は?
兼好が共感した言葉 『徒然草 気まま読み』#92
今回扱うのは、第二十四段。
全文を紹介すると…
尊き聖のい云ひ置きけることを書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に會(あ)ひて覺えし事ども。
一 爲(し)やせまし、爲(せ)ずやあらましと思ふことは、おほやうは、爲ぬはよきなり。
一 後世を思はんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經(ぢきゃう)・本尊(ほぞん)にいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。
一 遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一 上臈は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
一 佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。
尊い僧が説いた法話集から、兼好が共感したものを5か条抜き書きしている。その選んだものが、いかにも兼好らしく、含蓄に富んだものばかり。
人の心のうつろい 『徒然草 気まま読み』#91
今回扱うのは、第二十六段。
全文を紹介すると…
風も吹きあへず移ろふ人の心の花に、馴れにし年月をおもへば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になり行くならひこそ、亡き人の別れよりも勝りて悲しきものなれ。
されば白き絲の染まむ事を悲しび、道の衢(ちまた)のわかれむ事を歎く人もありけんかし。堀河院(ほりかはのいん)の百首の歌の中に、
むかし見し妹が垣根は荒れにけり 茅花(つばな)まじりの菫のみして(=藤原公實の歌)
さびしきけしき、さること侍りけむ。
詩のように美しく、緊張感も漂っている一段。
人の心が変わって離れていくことは、死別するより悲しいものだ。
決して悟りすましていない兼好法師の傷つきやすい繊細な感覚と、ロマンチシズムにあふれた名文をじっくり味わってみよう。
神社のすすめ 『徒然草 気まま読み』#90
今回扱うのは、第二十四段。
全文を紹介すると…
齋王の、野の宮におはします有樣こそ、やさしく、面白き事の限りとは覺えしか。「經」・「佛」など忌みて、「中子(なかご)」、「染紙(そめがみ)」などいふなるもをかし。
すべて神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もたゞならぬに、玉垣しわたして、榊木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴船(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮(うめのみや)。
法師である兼好が、神社を褒めているというところが面白い。
しかも、最後に特によい神社を列挙していて、それがかなりの数に上っている。
果して、兼好は神社のどこにそんなに惹かれたのか?
そして、この時代の仏教と神社の関係性は?
などなど、興味深い話が登場!
恋の深淵 『徒然草 気まま読み』#89
今回扱うのは、第二百四十段。
全体に名文だが、特に格調の高い結論部分だけ紹介すると…
梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣(みかき)が原の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。
うまくいく恋などつまらない、障害があってこそ恋は燃え上がる。
当時の寿命を考えると既に「老人」の域に入っていたはずの兼好だが、恋について語る感覚は若者のようにロマンティックである。
それは、現在の人間よりも情熱的だとさえいえるものがある。
興味の湧いた人は、ぜひ全文を原文で読んでみよう!
空振りの話 『徒然草 気まま読み』#88
今回扱うのは、第五十四段。
途中まで紹介すると…
御室(おむろ)に、いみじき兒のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむと企(たく)む法師どもありて、能あるあそび法師どもなど語らひて、風流の破籠(わりご)やうのもの、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、雙(ならび)の岡の便りよき所に埋(うづ)み置きて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、兒をそゝのかし出でにけり。
前回・前々回に続いて、今回も仁和寺の法師の失敗談。
そんなに、仁和寺には変わった法師が多かったのだろうか?「御室」は仁和寺の別称。出家後の宇多天皇が、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室御所」と呼ばれる。
そんな皇室ともゆかりの深い寺なのだが、当時の寺は女人禁制、男だけの世界。
そこには、ある種の同性愛的な感覚があった。
ある時、仁和寺にたいそう評判の稚児がいた。法師たちは、その稚児の気を引きたくてしょうがなく、一計を案じる。
なんだか僧侶というより、ほとんど男子高校生みたいなノリなのだが、はたしてどうなる?
酒の大失敗 『徒然草 気まま読み』#87
今回扱うのは、第五十三段。
途中まで紹介すると…
これも仁和寺の法師、童の法師にならむとする名殘とて、各遊ぶことありけるに、醉ひて興に入るあまり、傍なる足鼎をとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入ること限りなし。
しばし奏でて後、拔かむとするに、大かた拔かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせむと惑ひけり。
前回に続いて、今回も仁和寺の法師の話。
仁和寺には変わった法師が多いのか? と思わせる、愉快そうな話かと思ったら、だんだんシャレにならないことになっていく。それでも途中までは滑稽味も漂っているのだが、その行き着く先は…
第84回で扱った第八十七段とも共通する酒をめぐる失敗談だが、酒によるちょっとの気のゆるみが、下手をしたら命とり。くれぐれも酒には気をつけよう!
先達はいてほしい 『徒然草 気まま読み』#86
今回扱うのは、第五十二段。
全文を紹介すると…
仁和寺に、ある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心憂く覺えて、ある時思ひたちて、たゞ一人徒歩(かち)より詣でけり。極樂寺・高良(こおら)などを拜みて、かばかりと心得て歸りにけり。さて傍(かたへ)の人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊(たふと)くこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へまゐるこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
すこしの事にも先達(せんだち)はあらまほしきことなり。
普通は書きそうなところをあえて書かずに読者に想像させる兼好の絶妙さに、思わず笑ってしまう。
そしてこれは、今でもよく起こりうる「旅行あるある」でもある。
やっぱり、ガイドはいた方がいい!
背景は京都 石清水八幡宮 楼門と廻廊。acsunifu23さんによる写真ACからの写真。
有り難き志 『徒然草 気まま読み』#85
今回扱うのは、第四十七段。
全文を紹介すると…
ある人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「嚔(くさめ)嚔」といひもて行きければ、「尼御前(あまごぜ)何事をかくは宣(のたま)ふぞ」と問ひけれども、答へもせず、猶(なお)言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹だちて、「やゝ、鼻ひたる(くしゃみをする)時、かく呪(まじな)はねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかし」といひけり。
有り難き志なりけんかし。
ある老尼の、ちょっと不可解な行動。
なぜ彼女はそれをやっていたのか?
その老尼の行為をどう解釈し、どういう感想を持つかは、人によって分かれるところ。
そもそも、原文も写本によっては最後の「有り難き志」が「わりなき志」になっているものもあり、正反対の解釈も可能となっている。
しかし、これはやっぱり「有り難き志」と取るべきでは?
酒乱に気をつけろ 『徒然草 気まま読み』#84
今回扱うのは、第八十七段。
結論は、最初の一行。
下部(しもべ)に酒のまする事は心すべき事なり。
下僕に酒を飲ませる時には、注意しなければならない。
これに続いて、その結論に至らしめるエピソードが語られる。京に住む具覺坊という遁世僧、宇治の親戚のところへ行くための迎えの馬が遣わされてきたので、長い道中のこととて、気を利かせたつもりで馬の口取りの男に酒を一杯勧めた。
ところがこの男、ちょいと一杯のつもりがぐいぐいやり出し、しかもとんでもない酒乱だったものだから、本当にシャレにならないことになってしまう…
お酒を勧めるなら、まず相手をよく見てからにしましょう!
徒然草 第二段
「使えねえ政治家とは。」兼好法師は言いました。
徒然草を一段ずつ解説していきます。たまに雑談をします。
聞き流すだけでいつのまにか徒然草読破!
中学高校の勉強や話のネタにも使えます。
徒然草 序文
徒然草を一段ずつ解説していきます。たまに雑談をします。
聞き流すだけでいつのまにか徒然草読破!
中学高校の勉強や話のネタにも使えます。
季節の移り変わり 『徒然草 気まま読み』#83
最初は、徒然草とは関係ないけれども『新しい公民教科書』の宣伝から。
「新しい歴史教科書をつくる会」による検定合格本教科書の市販本が5月20日、自由社から発売された。
中学生だけではなく、政治家を含む大人たちが知っておかなければならない政治と社会の仕組みを学ぶ初めての教科書。
文科省は教科書検定において、検閲といっていいほどの過酷な検定意見をつけてきた。市販本の巻末には「特別報告」として、執筆者による論考と実際の検定意見、検定で全面削除された原文を掲載。現在の文科省がどうなっているのかを知るにも最適の書となっている。
そして今回扱うのは、第十九段。
冒頭だけ紹介すると…
折節の移り変わるこそ、物ごとに哀れなれ。
「物の哀れは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それも然(さ)るものにて、今一きは心も浮きたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやうやう氣色(けしき)だつほどこそあれ、折しも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になり行くまで、萬(よろづ)にただ心をのみぞ悩ます。
兼好法師にとっての春夏秋冬それぞれの季節の魅力が、美しい調べで綴られる。
それは既に古典に何度も書かれていることで、全く目新しいことではないけれども、それでもかまわないから書く! という割り切り方も面白い。
文章から情景がありありと伝わってくる描写など、ぜひ原文で味わっていただきたい一段。
物知り顔はしない 『徒然草 気まま読み』#82
今回扱うのは、第七十九段。
全文を紹介すると…
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ。片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる氣色、かたくななり。
よく辨(わきま)へたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。
ものをよく知っているのはいいことではあるけれども、本当に立派な人は、いかにも自分はものを知っているという様子でそれを話すだろうか?
今回も兼好の美意識が短い文章によく表れる。
決して厳しく非難するようなことでもないけれども、しかしそれは、野暮じゃないか?
ちょっと心しておいたほうがいいかも。
話題の扱い方 『徒然草 気まま読み』#81
今回扱うのは、第七十八段。
全文を紹介すると…
今樣の事どもの珍しきを、いひ廣め、もてなすこそ、又うけられね。世にこと古(ふ)りたるまで知らぬ人は、心にくし。今更の人などのある時、こゝもとに言ひつけたる言種(ことぐさ)、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見あはせ、笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず、よからぬ人の、必ずあることなり。
今回も前回に続いて、「情報」というものはどう扱うべきと兼好が考えていたかがうかがい知れる段。新しいもの、珍しいものにすぐ飛びついて「拡散」させることは好ましくないと考えているところなどはいかにも兼好らしい。
でも、「新しもの好き」もそんなに悪くはないんじゃないかなあ…?
無責任な詮索 『徒然草 気まま読み』#80
今回扱うのは、第七十七段。
全文を紹介すると…
世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさに言ひあへること、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内(あない)知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられね。ことに、かたほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、わがことと尋ね聞き、如何でかばかりは知りけむと覺ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。
いまで言うなら週刊文春?
世の中で話題になっていることについて、関係もない人がその事情について、人に語り伝えるなどということが、兼好法師の時代にもよくあったらしい。
さて、ではそういうことについて、兼好法師はどのように思っていたのだろうか?
気を回しすぎるな 『徒然草 気まま読み』#79
今回扱うのは、第二百三十一段。
園の別当入道という、類ない料理の名人がいた。ある時、立派な鯉が手に入ったので、みな別当入道の包丁さばきを見たいと思ったのだが、それを言い出せなくて躊躇していたところ、別当入道はその空気を察して、自ら理由を作って料理を買って出た。
皆、その心遣いにさすがだとうなったのだが、その話を聞いた北山太政入道は、全く違う評価を下した。
いかにも日本人らしい、人に対する気遣い、心遣い。
決してそれ自体がいけないというわけではないのだが、それをするにもセンスというものが要る。
そこがスベると、かえって鼻につくものになってしまう。
なかなか微妙で、機微に触れるエピソード。
神無月をめぐって 『徒然草 気まま読み』#78
今回扱うのは、第二百二段。
前半を紹介すると…
十月を神無月と云ひて、神事に憚るべき由は、記したるものなし。本文も見えず。たゞし、當月、諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。
十月のことを「神無月」というが、その由来は何か?
実はこれには現在も、定説はない。
兼好法師はこの問題について、推測ではなくあくまでも根拠のある答えを求める。
それは歴史学における「史料批判」と同様のアプローチで、後の文献史学や実証主義にも通じる、批判的知性を感じさせる。
そしてさらには「神無月」について、徒然草にしか残されていないのだが、おそらくこの時代にはそういわれていたのだろうということがわかる、ちょっと意外な話も。
見苦しきこと 『徒然草 気まま読み』#77
今回扱うのは、第百十三段。
前半を紹介すると…
四十(よそぢ)にも餘りぬる人の、色めきたる方、自ら忍びてあらんは如何はせん。言(こと)に打ち出でて、男・女のこと、人の上をもいひ戲(たは)るゝこそ、似げなく、見苦しけれ。
四十歳も過ぎた人が…という書き出しだが、人生百年時代の現代と違って、当時の40代はもう老境。
そんないい歳をした人が、こんなことをしているのは見苦しいという兼好法師の美意識がうかがえるのだが、その一方で、鎌倉時代でも、老人と言われる世代でもこんな人はいたんだなあ、人間って変わらないなあ、なんて見方もできて、ちょっと微笑ましくもある一段。
情けある三蔵 『徒然草 気まま読み』#76
今回扱うのは、第八十四段。
全文を紹介すると…
法顯(ほふげん)三藏の天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ、心弱き氣色を人の國にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融僧都、「優に情ありける三藏かな」といひたりしこそ、法師の樣(よう)にもあらず、心にくく覺えしか。
三蔵とは、経(きょう)(=仏の説法の集成)・律(=仏徒の戒律の集成)・論(=経・律に対する注釈的研究成果)の三つの仏教の聖典に深く通じた高僧のこと。
西遊記の「三蔵法師」で有名だが、「三蔵」は人名ではなく、「三蔵法師」と言われる人は多くいる。
そんな数ある三蔵の中の一人のエピソードに対して兼好が感想を述べている。
高僧といえども人の子、という暖かい目を向けている一方、なんとも皮肉のこもった表現をさりげなく交えているところにもご注目。