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平家物語の作者「徒然草気まま読み」#134
今回扱うのは、第二百二十六段。
前半を紹介すると…
後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
日本の軍記物語の代表作といっていい『平家物語』。
作者は不詳とされていて、その成立を巡っては特に国文学の世界ではずっと研究が積み重ねられてきた。
そしてその中で欠かせないのがこの『徒然草』の第二百二十六段。
兼好はここで『平家物語』の作者を名指ししているのだ。
果たしてその信憑性は?
常に議論を巻き起こしてきた、問題の段をご紹介。
「エビデンスを重んじた僧侶」徒然草気まま読み#132
今回扱うのは、第二百二段。
一部を紹介すると…
竹谷の乘願房、東二條院へ參られたりけるに、「亡者の追善には何事か勝利多き。」と尋ねさせ給ひければ、「光明眞言、寶篋印陀羅尼。」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ
「エビデンス」と「僧侶」、何か不思議な取り合わせだが、時代に関係なく大切な、それでいてなかなかできない態度の取り方について教えてくれる一段。
特に、宗教者がこのような態度を示したということには、なかなか考えさせられるものがある。
浄土宗の法師が、亡き人の供養において、優れて益のあるものは何かと問われて、真言宗の呪語を挙げた。
なぜ浄土宗の念仏を挙げないのかと問いかける弟子たちに法師が語ったこととは?
「皇室スキャンダルと国民」 第96回ゴー宣道場2/2
2021年4月11日開催。
日本海側で初・新潟圏ゴー宣道場としての開催。
戦後、数限りなく繰り返されてきた「皇室スキャンダル」報道。
そのほとんどは根も葉もないデマだったが、これによって何度も大衆による皇室バッシングが誘発された。
今回は門下生有志の尽力によって収集されたの皇室スキャンダル記事を笹師範がまとめ上げた力作資料から、平成以降の皇室バッシングの変遷とその傾向を分析する。
小室圭さんバッシングによって、皇室バッシングは最終形態ともいうべき新たな、そして皇室の存亡にまで関わる危険極まりない域に達してしまった。しかも大衆は全くその自覚も無く、娯楽として消費し、忘れ去るだけなのだ。これを放置していたら、皇室は国民に滅ぼされる!
pdf資料はこちらから
https://www.gosen-dojo.com/wp-content/uploads/c89fea11020533495da318cf59b353ce.pdf
第2部は倉持師範が携わるグローバル・ダイニング訴訟の経緯とその意義について考える。
「皇室スキャンダルと国民」 第96回ゴー宣道場1/2
2021年4月11日開催。
日本海側で初・新潟圏ゴー宣道場としての開催。
戦後、数限りなく繰り返されてきた「皇室スキャンダル」報道。
そのほとんどは根も葉もないデマだったが、これによって何度も大衆による皇室バッシングが誘発された。
今回は門下生有志の尽力によって収集されたの皇室スキャンダル記事を笹師範がまとめ上げた力作資料から、平成以降の皇室バッシングの変遷とその傾向を分析する。
小室圭さんバッシングによって、皇室バッシングは最終形態ともいうべき新たな、そして皇室の存亡にまで関わる危険極まりない域に達してしまった。しかも大衆は全くその自覚も無く、娯楽として消費し、忘れ去るだけなのだ。これを放置していたら、皇室は国民に滅ぼされる!
pdf資料はこちらから
https://www.gosen-dojo.com/wp-content/uploads/c89fea11020533495da318cf59b353ce.pdf
第2部は倉持師範が携わるグローバル・ダイニング訴訟の経緯とその意義について考える。
「悪事のついで」徒然草気まま読み#131
今回扱うのは、第二百九段。
全文を紹介すると…
人の田を論ずるもの、訟(うた)へにまけて嫉(ねた)さに、その田を刈りて取れとて、人をつかはしけるに、まづ道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは。」といひければ、刈るものども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらむ。」とぞいひける。ことわりいとをかしかりけり。
田んぼの所有権をめぐる争いで訴訟を起こし、負けた男がその腹いせに、人を使ってその田の稲を刈り取ってしまおうとした。
ところが命じられた者たちが、その道すがらにある無関係の田の稲まで刈り取ろうとしたので、それを止めようとしたら思わぬ「正論」で反論されてしまう。
ちょっとした小噺みたいな滑稽味のある一段。
しかもこの話には、一説には意外な解釈もあって…
第97回ゴー宣道場 語らいタイム
第97回ゴー宣道場は令和3年5月3日憲法記念日、東京都内で開催された。
テーマは「憲法は今、生きているかーーコロナ禍、自衛権、天皇」
今回の白眉は何といっても会場ゲストの慶應義塾大学教授・横大道聡氏の発言。
話し方は穏やかではあるが、その内容はかなり激しい。
その考え方は、ゴー宣道場の方向性ともほぼ一致する。
そして、日本国憲法にある「公共の福祉」という言葉の正体には、思わず目からウロコ!
しかもこのことは、憲法学者なら誰でも知っているが、誰も言わないという事実に驚かされる。
他にも様々な学びがあったゴー宣道場。
何よりも、緊急事態宣言下で350人収容の拡大版を滞りなく開催できたこと自体が素晴らしかった!
そんな大きな収穫の数々を振り返る語らいタイム!
「珍しい鳥獣は不要」徒然草気まま読み#130
今回扱うのは、第百二十一段。
冒頭部分を紹介すると…
養ひ飼ふものには馬、牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなむ。
極めて合理的に、不要なものははっきり不要だと判断を下す兼好法師。
前回はむやみに有難がられていた「舶来品」を要らないと断定したが、続いて今回は、家畜・ペットなどの動物について語っている。
ここで注目したいのは、兼好法師の動物に対する想像力の深さとそれに基づく優しさ。
なぜ兼好は珍しい鳥獣を飼うことに異議を唱えているのか?
それは、単に無駄だとか、役に立たないとかいう理由ではないのである。
「舶来品は不要」徒然草気まま読み#129
今回扱うのは、第百二十段。
全文を紹介すると…
唐の物は、藥の外はなくとも事かくまじ。書どもは、この國に多くひろまりぬれば、書きも寫してむ。もろこし船の、たやすからぬ道に、無用のものどものみ取り積みて、所狹く渡しもて來る、いと愚かなり。遠きものを寶とせずとも、また得がたき寶をたふとまずとも、書にも侍るとかや。
舶来品をありがたがる傾向は、兼好法師の時代にもあったようだ。
この時代に重宝された海外の文物といえば、もちろんシナ渡来のものということになるわけだが、あくまでも本質的なことを重んじる兼好法師、シナのものだからということだけでありがたがることはない。国内のもので十分だと一蹴である。
とはいえ、決して「排外主義」的な感覚で言っているわけではないというところにも注目しよう。
「祟りを怖れるな」徒然草気まま読み#128
今回扱うのは、第二百七段。
全文を紹介すると…
龜山殿〔嵯峨龜山の仙洞御所〕建てられむとて、地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなは)數もしらず凝り集りたる塚ありけり。この所の神なりといひて、事の由申しければ、「いかゞあるべき。」と敕問ありけるに、「ふるくよりこの地を占めたるものならば、さうなく掘り捨てられがたし。」とみな人申されけるに、この大臣一人、「王土に居らむ蟲、皇居を建てられむに、何の祟りをかなすべき。鬼神は邪なし。咎むべからず。唯皆掘りすつべし。」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井川に流してけり。更にたゝりなかりけり。
天皇の御所を建てるための地ならしをしていたところ、大きな蛇がうじゃうじゃいる塚があった。
蛇を神として崇め怖れる信仰から、これを掘って捨てることは憚られると、誰もが言っていたが…
中世の人は誰もが迷信深かったかというと、そんなことはない。合理的な考え方をする人はこの時代にもいたし、もっとさらに時代をさかのぼっても合理的な人がいたことが、文献に残されている。
逆に現代が合理的な人ばかりかというと、決してそんなことはないわけで…
第96回ゴー宣道場 語らいタイム
第96回ゴー宣道場は令和3年4月11日(日)、新潟市内で開催された。
テーマは「皇室スキャンダルと国民」
初の新潟開催、テーマが皇室ということで、会場が埋まるかどうかが心配されたが、結果は満席、しかも地元新潟の参加者が半数を占め、これだけでも大成功。
会場は熱気にあふれ、10代の子供も熱心に参加していた。
延々と続けられている皇室バッシング記事について、その変遷をここまで明確に分析した研究はおそらくこれが初めて。入念に下調べをした門下生の努力が見事に結実した。
さらに第2部では、倉持麟太郎師範が弁護団長を務めるグローバルダイニング訴訟における、重要なポイントを確認。
語らいタイムでは、そんな道場を振り返り、会場からのアンケートを紹介し、さらに道場本編で触れられなかったことについても語る!
「事を成し遂げるには」徒然草気まま読み#127
今回扱うのは、第百八十八段。
冒頭を紹介すると…
ある者、子を法師になして、「學問して因果の理〔佛教の一教義、善因に善果、惡因に惡果ある理〕をも知り、説經などして世渡るたづき〔方法手段〕ともせよ。」といひければ、教のまゝに説經師にならむ爲に、まづ馬に乘りならひけり。
徒然草の中でも最も長文ではあるが、言いたいことは極めてシンプルで明快。
何か成し遂げたいことがあったら、回り道をしてはいけない、先送りにしてはいけない、やるなら今しかない! ということを、様々な例を出して説いている。
今やらなければならないことをやる、それ以外のことは思い切って捨てる。
それができる人が、事を成し遂げる人なのだ!
「乗馬の達人」徒然草気まま読み#126
今回扱うのは、第百八十五段。
全文をご紹介すると…
城(じゃうの)陸奧守泰盛〔城は出羽秋田城、城介で陸奧守を兼ねた、義景の子、北條時宗の舅〕は雙なき馬乘なりけり。馬を引き出でさせけるに、足をそろへて閾(しきみ)をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり。」とて鞍を置きかへ〔他の馬へ置きかへる〕させけり。また足を伸べて閾に蹴あてぬれば、「これは鈍くして過ちあるべし。」とて乘らざりけり。道を知らざらむ人、かばかり恐れなむや。
天下無双の馬乗りのエピソード。
名人であるからこそ、事前に慎重な判断をしてから場に臨むもの。
そこが達人の達人たるゆえんである。
ほかのいろんなジャンルにおいても、同じことが言えるのではないだろうか?
「宝剣と御剣」徒然草気まま読み#125
今回扱うのは、第百七十八段。
全文をご紹介すると…
ある所の侍(さぶらひ)ども、内侍所〔宮中内侍所、鏡を奉安せる所〕の御(み)神樂を見て人に語るとて、「寶劒〔三種の神器の一なる天叢雲劒〕をばその人ぞ持ち給へる。」などいふを聞きて、内裏なる女房の中に、「別殿の行幸(ぎゃうかう)には、晝御座(ひのござ)の御劒(ぎょけん)にてこそあれ。」と忍びやかにいひたりし、心憎かりき。その人、ふるき典侍なりけるとかや。
宮中の故実に関わるお話。
宝鏡を安置している内侍所で行われる御神楽を見たある侍が、貴重な経験に興奮し、そのことについて話をしていたが、知識が足りないため間違ったことを言っていた。
それが耳に入った女官、その間違いを訂正しながら、侍が気を悪くしないようにしようとして行ったこととは?
細やかな心配りも、そしてそこに共感する兼好にも微笑ましさを感じる一段。
「コロナ禍と女性の地位向上」 第95回ゴー宣道場2/2
2021年2月14日開催。
昨年6月の第89回道場に続いて、金塚彩乃弁護士をゲストに迎える。
金塚氏による基調講演は「コロナ禍の女性-フランスを例に」と題し、コロナ禍における日本の状況、男女格差とフランスの状況を比較する。
1965年まで、既婚女性は法律上、自分の配偶者の許可なしに働いたり銀行の口座からお金を引き出すことはできなかったほどの男尊女卑社会だったフランスが、現在ここまで男女格差を解消してきたのは、これを実現しようという政治家の確固たる意志があったからだった。
改めて日本の現状が浮き彫りになるとともに、学ぶべき点も見えてくる。
そして最終盤においては、森喜朗元首相のいわゆる「女性蔑視発言」を巡って議論が紛糾。大幅に時間を延長しても収拾しない大波乱に。
「コロナ禍と女性の地位向上」 第95回ゴー宣道場1/2
2021年2月14日開催。
昨年6月の第89回道場に続いて、金塚彩乃弁護士をゲストに迎える。
金塚氏による基調講演は「コロナ禍の女性-フランスを例に」と題し、コロナ禍における日本の状況、男女格差とフランスの状況を比較する。
1965年まで、既婚女性は法律上、自分の配偶者の許可なしに働いたり銀行の口座からお金を引き出すことはできなかったほどの男尊女卑社会だったフランスが、現在ここまで男女格差を解消してきたのは、これを実現しようという政治家の確固たる意志があったからだった。
改めて日本の現状が浮き彫りになるとともに、学ぶべき点も見えてくる。
そして最終盤においては、森喜朗元首相のいわゆる「女性蔑視発言」を巡って議論が紛糾。大幅に時間を延長しても収拾しない大波乱に。
レジュメはこちら!
https://www.gosen-dojo.com/wp-content/uploads/be61bc2c88cca2bde929483e2d5c457a.pdf
新潟道場に集まれ!
日本海側で初となる第96回ゴー宣道場は4月11日、新潟で開催される。
テーマは「皇室スキャンダルと国民」
秋篠宮さまの言葉から天皇陛下の言葉まで、メディアはいちいち曲解して、デタラメな憶測を流している。
眞子さまと小室圭氏との関係も、とにかく破たんさせようと悪意の記事ばかり書きなぐって、それに大衆が反応して、バッシングだらけである。
何でここまで底意地が悪く、皇室を貶めたいのだろうか?
極左勢力が暗躍しているのではないかと思うほどである。
国民は果たして皇室を戴く資格があるのだろうか?
女性宮家はどうなるのか?
愛子さまは皇太子になれるのか?
最新の情報と、皇室の歴史と伝統からの考察によって、皇室と日本の未来を思い描こう!
参加応募締切は3月31日。
お申し込みはこちら!
https://www.gosen-dojo.com/application/
「小野小町の偽書」徒然草気まま読み#124
今回扱うのは、第百七十三段。
全文をご紹介すると…
小野小町がこと、極めてさだかならず。衰へたるさまは、玉造といふ文に見えたり。この文清行(きよゆき)が書けりといふ説あれど、高野大師の御作(おんさく)の目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後のことにや、なほおぼつかなし。
絶世の美女として名高い小野小町だが、その晩年は美貌も衰え、極めて不遇だったと伝えられている。
その様子を書いたとされるのが『玉造小町壯衰書』という漢文の著作だが、現在ではこれは小野小町のことを書いたものではないとされている。
そして、『玉造』が小野小町に関しては「偽書」であるとした、最初かも知れない指摘が徒然草のこの段。では、その根拠は?
日本における、極めて古い文献検証の一例をご紹介。
「若者と老人」徒然草気まま読み#123
今回扱うのは、第百七十二段。
一部をご紹介すると…
若き時は血氣内にあまり、心物に動きて、情欲おほし。身をあやぶめて碎け易きこと、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて寶を費し、これを捨てて苔の袂にやつれ、勇める心盛りにして物と爭ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず
若者と老人の比較、考察をする一段。
若者は何かと血気にはやって「若気の至り」というようなことをやってしまうものだが、老いると精神が衰え、そう心を動かすこともなくなるもの。
ただ、老人には決して若者には及ばぬものがあり、若者には決して老人にはない優れたものがある…というのだが、若者の利点は現代でも変わらないのに対して、老人の利点の方は、現代には果たして存在しているだろうか…?
「尊い罵倒」徒然草気まま読み#122
今回扱うのは、第百六段。
一部をご紹介すると…
高野の證空上人京へ上りけるに、細道にて馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口引きける男あしく引きて、聖の馬を堀へ落してけり。聖、いと腹あしく咎めて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子〔四衆とも云ふ、釋迦の弟子の四種〕はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞〔俗のまゝなる男の佛弟子〕は劣り、優婆塞より優婆夷〔俗のまゝの女の佛弟子〕は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀に蹴入れさする、未曾有の惡行なり。」
高野山の身分の高い僧侶である證空上人が京に上った時の話。細い道でトラブルに遭ってしまった上人、思わず逆上してしまって…
徳を積み、いとやんごとなき位に就いた僧侶といえども、とっさの時にはどんな言動をするかわからない。むしろ、何の修行もしていない無学な男の自然な態度の方が超然としているようにさえ見える。
ふとしたことから人の本性が現れる瞬間、まさに兼好の「大好物」ともいえる場面を描いた一段。
「いないはずの人の手助け」徒然草気まま読み#121
今回扱うのは、第百一段。
全文をご紹介すると…
ある人、任大臣の節會の内辨〔節會の時、承明門内の諸事を掌る役〕を勤められけるに、内記〔中務省の官吏、詔敕を作り禁中の記事などを録す(*る)役〕のもちたる宣命〔任大臣の辭令をかいたみことのり〕を取らずして堂上せられにけり。きはまりなき失禮(しちらい)なれども、たちかへり取るべきにもあらず、思ひ煩はれけるに、六位の外記〔太政官の官大小公事の詔書奏文を案じ局中に記録する役〕康綱〔中原康綱〕、衣被の女房をかたらひて、かの宣命をもたせて、しのびやかに奉らせけり。いみじかりけり。
ある人が大臣に任命されて、そのお祝いの格式ある宴が催される際に、最も大切な大臣任命の辞令を書いたみことのりを持たないで宮中に参上してしまった。
大変な失態であるが、かといって、今さら取りに帰るわけにもいかない。この窮状を救ったのは、「そこにいないはずの人」だった!
「虚空よくものを容る」徒然草気まま読み#120
今回扱うのは、第二百三十五段。
一部をご紹介すると…
主(ぬし)ある家には、すゞろなる人、心の儘に入り來る事なし。主(あるじ)なき所には道行人(みちゆきびと)みだりに立ち入り、狐梟やうの者も、人氣(げ)にせかれねば、所得顔に入り住み、木精(こだま)などいふけしからぬ形もあらはるゝものなり。
人の心に関する、ちょっと面白い分析。
心に様々な思念が浮かんで気持ちが揺らぐことがあるのはなぜだろう?
仏門に入りながら、なお情緒豊かに様々なことを思い感じ取ってきた兼好だからこそ思い至った、心の謎についての詩的な考察。
「笛を吹く男」徒然草気まま読み#119
今回扱うのは、第四十四段。
一部をご紹介すると…
怪しの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色合定かならねど、つやゝかなる狩衣に濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、さゝやかなる童一人を具して、遙かなる田の中の細道を、稻葉の露にそぼちつゝ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かむかた知らまほしくて、見送りつゝ行けば、笛を吹きやみて、
前回、徒然草の中でも何が言いたいのか理解しかねる異色の段を紹介したが、今回はそのすぐ次の段。
そしてこれがまた、前段と同様の不可解な話。
よく読んでみると、兼好は相当おかしなことをやっているのだが、本人はそれを自覚もしていない様子で風流を味わっている。
二段続けてこんな話が出て来るとは、兼好法師って、こういう奇行をする癖があったのだろうか?
「清げなる男」徒然草気まま読み#118
今回扱うのは、第四十三段。
短いので、全文をご紹介。
春の暮つかた、のどやかに艷なる空に、賤しからぬ家の、奧深く木立ものふりて、庭に散りしをれたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子を皆下して、さびしげなるに、東にむきて妻戸のよきほどに開(あ)きたる、御簾のやぶれより見れば、かたち清げなる男(をのこ)の、年二十ばかりにて、うちとけたれど、心にくくのどやかなる樣して、机の上に書をくりひろげて見居たり。いかなる人なりけむ、たづね聞かまほし。
徒然草の中でも、いったい何が言いたいんだろうと首をかしげてしまう、なんとも不可解な話。
ある晩春の頃、のどかで優雅な雰囲気の空の下を歩いていた兼好。特に気になる家が目に入って、それで取った行動とは…?
もしかして兼好って、アブナイ人だったのか?
あまりに奇妙なため、様々な解釈を生んでいる異色の段。
こんな一面もあったのかという、不思議な兼好をご紹介。
「古さの名誉」徒然草気まま読み#117
今回扱うのは、第九十九段。
短いので、全文をご紹介。
堀河の相國は、美男のたのしき人にて、その事となく過差を好み給ひけり。御子基俊卿を大理(だいり)になして、廳務を行はれけるに、廳屋の唐櫃見苦しとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃は、上古より傳はりて、そのはじめを知らず、數百年を經たり。累代の公物、古弊をもちて規模とす。たやすく改められ難きよし、故實の諸官等申しければ、その事やみにけり。
どんなに経済的に裕福であろうと、あるいは権力を持っていようと、踏み越えられない一線がある。
簡単に変えてはいけないものがある。
そのことを、誰もが自然にわきまえていたということがわかる一段。
日本に保守主義というものがあるとしたら、その源流だともいえるような話だが、現代の日本の「保守」に、この感覚はあるだろうか?
「琵琶の名器を壊した話」徒然草気まま読み#116
今回扱うのは、第七十段。
短いので、全文をご紹介。
玄應の清暑堂の御遊に、玄上は失せにしころ、菊亭の大臣、牧馬を彈じ給ひけるに、座につきてまづ柱(ぢゅう)を探(さぐ)られたりければ、ひとつ落ちにけり。御懐(ふところ)に續飯(そくひ)をもち給ひたるにて付けられにければ、神供(じんぐ)の參るほどに よく干て、事故(ことゆえ)なかりけり。
いかなる意趣かありけん、物見ける衣被(きぬかづき)の、寄りて放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。
後醍醐天皇の大嘗祭の後の余興の催しで演奏される琵琶の名器が、壊されていた。
何の意図があったのか、ことによると、後醍醐天皇に対して何か思うところがあったのかとも考えられるが、ここではそれについては深く考察しない。
それよりも注目すべきは、琵琶を壊した者がどうやって侵入したのかだが、そのセキュリティ感覚の甘さというか、大らかさというかに驚かされる。
「配所の月」徒然草気まま読み#115
今回扱うのは、第五段。
短いので、全文をご紹介。
深う愁(うれえ)に沈める人の、頭(かしら)おろしなど、ふつゝかに思ひとりたるにはあらで、有るか無きかに門さしこめて、待つこともなく明し暮らしたる、さるかたにあらまほし。
顯基(あきもと の)中納言のいひけん、「配所の月、罪なくて見ん事」、さも覚えぬべし。
こういう生き方こそ望ましい、羨ましいと兼好法師が思う態度を語る。
中世の知識人たちにとって、憧れの境地とされたという、その生き方とは?
出家の身である兼好が、深い悲しみをどう受け止めるのがよいと見ていたのか。
小手先の対処などせず、包み隠さずふるまう兼好の生き方がよくわかって興味深い。
「コロナ後のリベラル」 第94回ゴー宣道場2/2
2020年12月6日開催。
「最も自由を愛するのはリベラルではなく、わしだった!」(小林よしのり)
コロナ禍は、日本の「リベラル」の本性を露わにした。
「自由」を第一の価値とするはずのリベラルが、コロナ感染防止の名の下には自由はいらないと言い、個人の自由を権力が制限することを容認したのだ!
基調講演は、著書『リベラルの敵はリベラル』(ちくま新書)で日本の「リベラル」の現状を突いた倉持麟太郎師範。ゲストは評論家・宇野常寛氏。
「もうリベラルって言葉を使うのはやめよう」
「いまいるのは『リベラルゾンビ』。リベラルはもう30年前に死んでいる」
「リベラルという『空位の玉座』が祭り上げられている』
…等々、宇野氏の鋭く刺激的なフレーズも続出。
全体主義が出来上がってしまった今こそ、「自由」「リベラル」を考え直そう!
レジュメはこちら!
https://www.gosen-dojo.com/wp-content/uploads/cc4f0db20b1d8f39bced8d6880a3fb70.pdf
「コロナ後のリベラル」 第94回ゴー宣道場1/2
2020年12月6日開催。
「最も自由を愛するのはリベラルではなく、わしだった!」(小林よしのり)
コロナ禍は、日本の「リベラル」の本性を露わにした。
「自由」を第一の価値とするはずのリベラルが、コロナ感染防止の名の下には自由はいらないと言い、個人の自由を権力が制限することを容認したのだ!
基調講演は、著書『リベラルの敵はリベラル』(ちくま新書)で日本の「リベラル」の現状を突いた倉持麟太郎師範。ゲストは評論家・宇野常寛氏。
「もうリベラルって言葉を使うのはやめよう」
「いまいるのは『リベラルゾンビ』。リベラルはもう30年前に死んでいる」
「リベラルという『空位の玉座』が祭り上げられている』
…等々、宇野氏の鋭く刺激的なフレーズも続出。
全体主義が出来上がってしまった今こそ、「自由」「リベラル」を考え直そう!
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「人の亡き跡」徒然草気まま読み#114
今回扱うのは、第三十段。
動画では冒頭部分だけのご紹介ですが、ここでは全文を掲載します。
人の亡き跡ばかり悲しきはなし。
中陰(ちゅういん)の程、山里などに移ろひて、便りあしく狹き所にあまたあひ居て、後のわざども營みあへる、心あわたゞし。日數(ひかず)の早く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日は、いと情なう、互にいふ事もなく、我かしこげに物ひきしたため、ちりち゛りに行きあかれぬ。もとの住家にかへりてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。「しかじかの事は、あなかしこ、跡のため忌むなる事ぞ」などいへるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覺ゆれ。
年月經ても、露(つゆ)忘るゝにはあらねど、去るものは日々に疎しといへる事なれば、さはいへど、その際(きは)ばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。骸(から)は、けうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。
思ひ出でて忍ぶ人あらむほどこそあらめ、そも又ほどなくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、哀れとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人は哀れと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も、千年を待たで薪にくだかれ、ふるき墳(つか)はすかれて田となりぬ。その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。
人の死というものについて、まず身内の葬儀の話から始まり、さらに年月を経ていくにつれての変化を語っていく。
決して長くはないこれだけの分量で、ここまでミクロからマクロまで視点を変化していく文章はなかなか見られるものではない。
徒然草の中でも屈指の名編、じっくり味わっていただきたい。
「はっきりと答えよう」徒然草気まま読み#113
今回扱うのは、第二百三十四段。
冒頭部分を紹介すると…
人の物を問ひたるに、知らずしもあらじ、有りのまゝにいはむはをこがましとにや、心まどはすやうに返り事したる、よからぬ事なり。
人がものを聞いて来た時は、それが誰でも知っているような、わかりきったことであっても、ぞんざいな答え方をしてはいけない。じっくり、はっきりと答えるべきであると兼好法師は言う。それはなぜなのか?
「ごーまんかましてよかですか?」に匹敵するような兼好の決めゼリフも登場し、日常で誰もがついやってしまいそうな行動を戒める。
「賢しらは見苦しい」徒然草気まま読み#112
今回扱うのは、第二百三十二段。
冒頭部分を紹介すると…
すべて人は、無智無能なるべきものなり。ある人の子の、見ざまなど惡しからぬが、父の前にて、人と物いふとて、史書の文をひきたりし、賢(さか)しくは聞えしかども、尊者の前にては、然(さ)らずともと覺えしなり。
最初の部分、決して全ての人は無知無能であるのが良い状態であると言っているわけではない。無知無能に見えるくらいがいい、という程度に解釈しておくべきだろう。
イケメンな人が、知識のあるところを見せようとして、賢そうに見せたとしても、さらに知識のある人の前においては、かえって見苦しくなってしまう。
若い人、見栄えのいい人には特に注意しておいた方がいいこととして、さらにエピソードを挙げて語っていくのだが、なんかそこに、兼好のひねくれた一面が見えるような、見えないような…?
第94回ゴー宣道場 語らいタイム
第94回ゴー宣道場は令和2年12月6日(日)東京都内で、宇野常寛氏をゲストに迎えて開催された。
テーマは「コロナ後のリベラル」
コロナ禍は、日本の自称リベラルが実は自由を全く大事に思っていない、ニセモノだらけであることを露わにした。
倉持師範の基調講演は、詳細にリベラルや保守といったものがたどって来た歴史的経緯を検証。
ゲストの宇野常寛氏は「もうリベラルという言葉を使うのはやめよう」「リベラルゾンビ」「空位の玉座としてのリベラル」等、痛烈な表現で現状を斬り、刺激的な議論が展開された。
質疑応答では、小学校の教師から、コロナ対応を巡る現場の苦悩の声が大きな共感を呼んだ。
そんな盛りだくさんで、ぎっちり内容の詰まった3時間で令和2年を締めくくった直後の語らいタイム。来年こそはコロナを終わらせて、次のステージに歩を進めよう!