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【神道シリーズ・シーズン3】第49回・植芝盛平の生涯【後編】
第一次大本弾圧事件を難なく逃れた植芝盛平は、1924年(大正13年)2月、出口王仁三郎が仮出獄の身でありながらも、満蒙の地に宗教国家の建設を目指して満州に渡り、盛平もそれに随伴することとなった。張作霖配下の馬賊・盧占魁(ろ せんかい)の率いる「西北自治軍」と共にモンゴルへ向かうが、盧の独走を疑った張の策謀により幾度も死の危機に晒されることになり、張作霖軍からの銃撃にも合うが、その時は盛平は敵弾が来る前に「光のツブテ」が飛んでくるのが見え、それを避けることで敵弾から逃れるという体験をした。このパインタラ事件と呼ばれる事件で、盛平を含む王仁三郎一行は九死に一生を得る体験をするが、無事帰国した後は、王仁三郎は霊界物語の著述に精を出し、植芝盛平は、その霊界物語に影響を受けながら柔術の研鑽と弟子の指導に専念した。
しかし、満州で経験した「光のツブテ」は、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」幻影に襲われるという神秘体験とともに起こり、これが気の妙用という武術極意に達することとなる、盛平は、これを黄金体体験と呼び、自らの合気道を創設するための大きな開眼となったのである。
その後、後に起こる第二次大本教弾圧事件を予見した王仁三郎の勧めもあり1927年(昭和2年)より東京へ移住することとなり、同時に柔術師匠の武田惣角から次第に距離を置くようになった。
1931年(昭和6年)48歳。新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りから「地獄道場」と呼ばれる。この頃の教授対象は皇族・華族・軍人・警察官・実業家・武道家の子弟など一部の層に限られた。入門に当たっては身元の確かな2人以上の保証人を条件とし、無頼の輩に悪用されぬよう公開を厳しく制限した。また軍部の要請で、陸軍戸山学校・憲兵学校・中野学校・海軍大学校などで武術指導を行った。
その後、国情は日中戦争、太平洋戦争と日本が深く大戦にのめり込んで行く中、陸海軍の幹部軍人を始め、軍人を中心とした合気道の訓練の師範として次々と要請があり、盛平はそうした軍人らの稽古、訓練に多忙な日々を過ごして行った。
太平洋戦争終戦の1945年(昭和20年)東京の本部道場は空襲による焼失を免れるも、62歳になった盛平のところには、道場への避難民収容や復員した弟子たちが集まり、岩間の道場と東京の本部道場の復興に努め、どちらも復興を果たし、ここに東京と岩間を軸に戦後皇武会の活動が始まった。
1948年(昭和23年)2月9日に「皇武会」は「財団法人合気会」(初代理事長・富田健治)と改称、岩間の合気苑を本部とし、改めて文部省の認可を受け、この時はじめて正式に「合気道」を名乗るようになり、盛平は初代合気道「道主」となった。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第59回・生長の家の分裂
戦前は、昭和5年の結成以来ずっと一枚岩だった生長の家は、戦後になると全国で左翼学生運動が燃え上がった1960年代以降、新興宗教界でも既成仏教界でも宗教を否定するこうした左翼運動の拡散に危機感を抱き、保守勢力が大同団結を求められる中、教団内でもこうした保守運動に積極的に参加して行こうという反主流派と、あくまで信仰活動を中心に進める本部派主流派の間で大きな亀裂が入り、内部対立と教団分裂のうねりは次第に高まって行った。
1960年には谷口雅春総裁を中心に生長の家青年会とそれを母体とした学生組織、生長の家学徒連盟、所謂、生学連が形成され、これは全国の左翼学生運動に対抗する意味で活動を始め、1966年には教団に所属する長崎大学の2名の学生、安藤巌と椛島有三が中心となり、全国の右派系学生の横断組織、全国学協を立ち上げ、さらには1970年には椛島がその全国学協の中から左翼学生と戦う組織、日本青年協議会を立ち上げた。
そして、この動きは、全国学協の後裔組織として、より過激な反憲学連が形成されたが、これは、戦後の連合国主導の政策に反対するヤルタ・ポツダム体制打倒を目指すと同時に、かねてからの谷口雅春の大日本帝国憲法の復活を目指すものとして設立された。
しかし、こうした日本の右派学生運動を組織した生長の家の青年たちは、やがて、日本の保守政治を大きく動かす方向に動いて行く。
この反憲学連が結成された1974年には、谷口雅春らが中心となり、曹洞宗、臨済宗、統一教会、日蓮宗などの宗教保守勢力を集めて「日本を守る会」が結成され、さらには、1881年には
当時参議院議員であった生長の家信者の村上正邦らが中心となり、「日本を守る国民会議」が結成された。
しかし、このような生長の家の保守的傾斜も、1983年になると、優生保護法廃止に消極的な自民党に失望した谷口雅春は政策を急転換し、生長の家政治連盟や生学連を解散させ、本来の信仰中心の教団運営の方へシフトし、この流れは、1985年の谷口雅春の死を境に主流派と反主流派の決定的な決裂へと進み、2002年には「谷口雅春先生に学ぶ会」と「ときみつる会」という二つの会派が分離独立した。
その後、2008年以降第三代総裁に就任した谷口雅宣は、教団の一切の政治的かかわりを断ち、
環境問題やヴィーガニズムや反原発などの環境左派としての教団活動へと舵を取って行ったのである。
メインシーズン3の三章前半見たぞ!まさかの女王と三軸にまたがる群像劇の行方は?!けもフレ1,2を観たことがない素人が考察しながらけもフレ3やってく実況part270
まさか舞台のあらすじでネタバレ喰らうとは思いませんでした()
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【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第51回・岡本天明と日月神示【後編】
岡本天明は、22歳から48歳までの26年間を大本で過ごし、45歳の時に千葉の印旛沼の麻賀多神社で初めての自動書記を行ってから49歳にして初めて自らの教団「ひかり教会」を立ち上げた。65歳まで生きた天明が自らの教団を主宰したのは16年間で、この間、昭和23年と昭和26年を除いた昭和19年から昭和27年までの延べ7年間と昭和33年と昭和34年に補巻1巻、さらにその2年後の8巻を含めた全42巻の「日月神示」が自動書記で綴られた。そこで語られた事は、終戦の1年前になされた日本敗戦の予言と、さらに戦後の日本の輝かしい奇蹟の復興が予言されており、さらには、いずれ世界中に地球規模の自然災害が起こり、さらにはそのあとで欧米やソ連がこぞって日本に攻めてきて日本は大混乱に陥ると予言している。天明は、世の立替えはこれまでに6回あったと言い、今度の7度目の立替えこそが最後の大建替えとなり、ミロクの世はそのあとに迫っていると言った。ただ、その最後の建直しである7度目の建直しの時に絶対に武力で敵に勝とうとしてはならない、あくまで相手を諭していけるだけの身魂磨きに励むことこそ日本人が務めるべき事だと主張する。これはまさに出口王仁三郎の霊界物語における身魂磨き、言向け和しの重要性の限りなく続く強調を彷彿させるものだが、天明は、今度の7度目の建直しの時には、現界のみならず天界・霊界・幽界・限界を通じて起こる大峠、つまり大天変地異であり、邪霊・邪神・悪神と正しい神・正神との戦いはこの4界を通じてこれまでにない熾烈なものになると予言した。天明はその前兆として富士山の大爆発を予言したが、これはまだ今日に至るまでその予言は実現していない。信者の中には神戸大震災や東北大震災を日月神示で予言してる自然大災害と解釈する人たちもいるが、富士山の大爆発については予兆さえもいまだに見えてない。晩年の天明はひたすら俳画やクレパス画など自ら得意とする絵画活動に没頭し、昭和34年には、東京、大阪、ニューヨークで相次ぎ自作の展覧会を開いた。天明の日月神示は、出口王仁三郎の霊界物語の続編と解釈する信者たちもいるが、第二次大本弾圧事件後、出口王仁三郎が保釈仮釈放になっていた昭和17年、亀岡の中矢田農園を二度訪ねた天明は王仁三郎に面会を拒否されたが、その理由はいまだに不明のままである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第50回・岡本天明と日月神【前編】
岡本天明は、1897年(明治30年)12月4日 - 岡山県浅口郡玉島(現、倉敷市玉島)で豪農であった家に、父岡本藤太郎、母弥栄の三人兄弟の二男として生まれたが、父親が酒造のビジネスに失敗した為に天明が17歳の時に神戸に移転し、その後、上京して明治大学の夜学に通ったが、学費を自分で稼ぐ為に栃木の足尾炭鉱や北海道の炭鉱で働いたが、生活が続かず、東京に戻った後、無一文であった為、神戸まで無銭旅行で帰る事となった。神戸に戻るとたまたま開かれていた大本の神戸講演会に参加し、そのまま大本に入信することとなった。大本に入ると、彼の画家としての美術的才能が認められ、大本が買収した大正日日新聞の美術記者として働くこととなり、その後、同社の系列の金沢の北国夕刊新聞の記者となり、一時期名古屋で大本とは無関係の名古屋新聞の記者となるが、その後、昭和5年1930年に東京に大本の世界愛善新聞社が出来ると出口日出麿の強い勧めで記者として入社することとなり、天明の東京生活が始まった。その後、天明は大本と提携した中国の道教系慈善団体・世界紅卍会にも入会し、フーチーという卜占法を学び、その中で天日津久神が千葉の麻賀多神社の境内で祀られてるという神示を得、同地に向かい、その神社を発見すると同時に初めての日月神示という自動書記現象を体験した。時は昭和10年の大本第二次弾圧事件を過ぎ、既に太平洋戦争末期の昭和19年になっていた。大本で自動書記を行った出口なおは艮の金神が憑依した時も記憶があったが、天明は自動書記が行われた時の記憶は無く、完全に天日津久神に体も意識も乗っ取られた状態で自動書記が行われた。しかし、日月神示は意味不明の文字記号の集合体で天明本人にも解読出来ず、天明の三番目の妻・三典による解析で解読は進むこととなった。天明が大本から独立して「ひかり教会」を創立し、日月神示の示す「大立て直し」の活動を始めたのは戦後2年後の昭和22年1947年になってからであった。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第37回・大本教と朝鮮半島
出口王仁三郎は、昭和10年1921年の第一次大本弾圧事件の後の入蒙以後からの5年間と、昭和10年1935年の第二次大本事件の2年前の1年間のトータル7年間に渡って自らが瞑想の中で見た霊界の様子を綴った
幽界物語全81巻を書き上げた。
大本では、霊界で起きた事件は大本で起き、さらに大本で起きたことは世界で起きると言う雛形論思想があり、故に幽界で起きた事は、たとえそれがいかに荒唐無稽な事であっても形を変えた比喩的な方法で大本、つまり顕界と言われる現実の世界でも形を変えて起こるのだと言う。
その幽界では、スサノオは天界より霊界のコーカサス地方に降臨し、カスピ海より西の中東からヨーロッパにかけての地域を統治していたが、数多くの邪神と戦う為に決意を新たにする為、母神のいる根堅洲国、つまり朝鮮半島に向かったが、その前に姉神のいる高天原、つまり、霊界における古代の富士山である綾部の弥仙山を訪ねたが、姉神天照は弟神が襲撃に来たと勘違いし、弟神スサノオが誠意を示すために姉神天照とカスピ海にて誓約を行う事となった。その後、スサノオは、根堅洲国である朝鮮に降り立ち、その地を長く治め、その後、息子の五十猛命とともに出雲に向かい、その後、オノコロ島と言われる日本列島を治めたと言う。
その霊界でのスサノオと朝鮮半島の歴史を反映するように、顕界、つまり現実世界の歴史では、大本の見解では、スサノオは、朝鮮半島のソシモリ、つまり、牛頭山である伽耶山に降り立ち、江原道を中心として伽耶を含む新羅を長らく治め、その後、息子の五十猛命とともに出雲に移り、日本の国造りに励んだと言う。
大本では、日本の古代国家は朝鮮の伽耶からの移民により成され、日本の皇統も檀君であるスサノオから続くものであり、日韓同祖論に基づく歴史観を持っている。
出口王仁三郎は、霊界で、ユダヤ人、トルキスタン人、コーカサス人、満蒙人、朝鮮人、日本人は同じセム語族に属するとという事実を見ており、一方、アラブ人、ペルシャ人、インド人、中国人はハム語族だとしている。
このセム語族説自体は王仁三郎の、霊界で見たとする妄想であるとしても、現在、日本の古代学者の間でも朝鮮南部の伽耶と呼ばれた地域から日本列島に移民した倭人たちが日本の古代国家を築いたのだというのは定説になりつつある。
しかし、この王仁三郎の霊界物語に始まる日韓同祖論は、その後、大本より派生した多くの平田神道系カルト教団にも引き継がれて行ったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第56回・谷口雅春と生長の家(その③)
谷口雅春の思想変遷は、浄土真宗の正信偈を何度も何度も棒読みさせられた少年時代から、トルストイの復活の中で提起された原罪と贖罪の問題、さらにオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の中で描かれる堪能的で耽美的で退廃的な世界への魅了との間で揺れた青春時代と、いかに生きるべきかという問題を抱えつつ、神霊治療に興味を持ったことがきっかけで入信した大本教では、霊界物語での霊界の世界と万教同根の思想を学びながらも、神仏など絶対的な存在と自分と言う個はどう関わりあうべきかという問いの答えは見つからぬまま大本脱会後も自分の問題意識は彷徨い続けていた。
貧困の中、宗教雑誌の翻訳などで糊口を凌いでいた谷口は、武者小路実篤の「新しき村」や西田天香の一燈園など、自らの私財をつぎ込んで建設したユートピア村に興味を示したが、武者小路の丸投げ式で失敗した「新しき村」や、自己犠牲を強いる西田の一燈園など、いずれにももろ手を挙げて賛同できぬまま、トルストイが投げかけたキリスト教の原罪と贖罪と人の生き方という問題は解決せぬまま再び原点に戻ってしまっていた。
そこで西田が出会ったのが、当時アメリカで一世風靡していたニューソートと言うキリスト教プロテスタント反カルバン派から発生した思想で、これは、西田にとってはコロンブスの卵に匹敵するほどの画期的な発想であった。
18世紀に北欧スウェーデンの科学者・スウェーデンボルグが自らの瞑想の中で見て来た霊界の世界では聖書に書かれてることとはまったく異なる世界で、そこでは創造神は全知全能でもなければ
特別な意識を持った存在ではなく太陽の光であり、その光はイエスも含めすべての人が平等に持っており、人はみな神の子であり、自身の中にある神をいかに生かして充実した人生を送るかが重要だと唱えた。このニューソートの思想は19世紀にはアメリカ大陸に伝わり、北米で一世風靡するが、20世紀の大正時代には日本にも伝わり、谷口にとってもこれまで持ち続けたキリスト教への問いの大きな答えを与えてくれるものになったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第39回・霊界物語(その②)
霊界物語は、内容は実に荒唐無稽な話の連続で、しかも、その勧善懲悪的なパターンは単調で始終一貫しており、正義が悪に対して力ではなく、事向け和しという、所謂、相手を諭して改心させる、という形で善に導いていくということがこの全81巻という冗長なストーリーの中で貫かれている。
霊界物語の中で語られる死生観とは、現世界で死ぬと、現世界のパラレルワールドである霊界に送られ、その霊界の一部である中有界というところで、その人の生前の行いに即し、天界ないし地獄界、または現世界に戻されるかが決められる。その死者が生前善人であった場合は、中有界において審判の上、一途の川を渡り、天界に行くこととなり、生前悪人だった場合は三途の川を渡り、地獄界に落とされることとなる。
こうした死生観と存在論に基づき、ストーリーは、出口王仁三郎が、実際に自らの瞑想のうちに彼の霊眼で見てきた霊界の歴史が語られて行く。
霊界で、地球の国祖たるクニトコタチがウラル彦らによって隠退に追い込まれると、霊界の地球上では大峠と呼ばれる地球規模の大洪水が起き、それにより、現在の五大陸とムー大陸が形成されたと言う。
霊界以降の第7巻以降では、大洪水以降に新たな大陸構成になった霊界の地球上の話から始まり、ミロク大神である神素戔嗚尊は、正しい宗教である三五教を開き、地球上に存在していた3つの邪教、ウラル教、バラモン教、ウラナイ教との戦いを正しい神々や神人たちに指示し、物語全体が正しい教え三五教が3つの邪教を事向け和しという諭しにより改心させていく戦いというストーリーが延々と語られて行くこととなる。
霊界以降の第7巻以降では、大洪水以降に新たな大陸構成になった霊界の地球上の話から始まり、ミロク大神である神素戔嗚尊は、正しい宗教である三五教を開き、地球上に存在していた3つの邪教、ウラル教、バラモン教、ウラナイ教との戦いを正しい神々や神人たちに指示し、物語全体が正しい教え三五教が3つの邪教を事向け和しという諭しにより改心させていく戦いというストーリーが延々と語られて行くこととなる。
霊界でのイザナミの長子である大道別は、死後、その魂が日の出の神として蘇り、三五教の宣伝使のリーダーとして、三五教で宣伝使と言われる宣教師たちを束ね、北米を拠点とするウラル教やインドを拠点とするバラモン教やイランを拠点とするウラナイ教の邪教達を改心させていく戦いを続けた。
その後、果てしない三五教による邪教に対する事向け和しの戦いが続いていくのであった。
【神道シリーズ・シーズン3】第21回・千家尊福【後編】千家尊福の多忙数奇な人生
千家尊福は、1945年、 第79代出雲国造千家尊澄の長男として生まれ、22歳の時に明治維新を迎え、明治4年に26歳にして出雲国造を継ぎ、第80代出雲国造となった。その後、尊福は、宗教人としても歌人としても、また政治家として一世風靡する多忙多難で数奇な人生を送ることとなった。
明治42(1909)年、雑誌『太陽』5月号が、全国読者の10万人を越える投票結果により発表した「宗教界の泰斗」つまり、最も世間から重んぜられてる宗教家のランキングで尊福がダントツの1位となったように、明治末から大正初めにかけて千家尊福の名声は極めて高かったと言える。
尊福は、第80代出雲国造になると、さっそく国造改革に乗り出し、永く国造が就任時に火継儀式で起こした火で調理したものしか食べられなかったものを、これまでの永久ではなく、祭祀の前後のみ、とし、また、それまで国造はたとえ靴を履いていたとしても黒土、つまり地面を踏むことを許されなかったが、これも尊福は全面的に解除し、さらに、国造の死後に行われる水葬、つまり、池に死体を流す伝統も禁止した。
こうして尊福は、出雲国造を近代社会の中でも適応し、信仰を広めて行けるように時代に合った出雲信仰に改革して行ったのである。
そして、こうした尊福の改革は、出雲国造の活動範囲を飛躍的に広げ、結果、国造の尊福の生涯をかけて行った全国巡教の旅のを通じて明治23年には443万人の信者を獲得し、当時の日本の人口の約1割にまで達することになった。
明治15年の祭神論争の敗北までは、尊福は、国家公認の神社神道の祭神に天照と同格に大国主を祀る、顕幽二元論の出雲国学神道を浸透させることを図っていたが、祭神論争敗北後は、出雲大社教会を教派神道13派のひとつとして独自の宗教団体路線の道を歩むことを決めた。
明治18年、巡教の旅の最中、神戸から東京に向かう電車の中で偶然出合した初代内閣総理大臣の伊藤博文との対談を通じ政界から着目されることになった尊福は、元老院議官にいきなり登用されたのをきっかけに、この時43才で政界に入った尊福は、その後、帝国議会開設に伴い貴族院議員となり、埼玉・静岡県、東京府知事を歴任、司法大臣にも就くことになる。
貴族議員としては4期務めるが、それと同時に埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事との兼任時代も続き、多忙極める生活を送る中も出雲大社教の国造としての巡教活動は続き、やがて67歳で政界を完全に引退した後も、
出雲大社教総裁に就任して72歳で死去するまでの最後の6年間も休むことなく全国を巡教し、最後は大正7年(1918年)に東京の自宅で心臓麻痺で息を引き取った。
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ようやくシーズン3第3章の後半を観たぞ!ワオキツネザルは強くて女王は弱い?「あの子たち」って誰だ!?けもフレ1,2を観たことがない素人が考察しながらけもフレ3やってく実況part275
動画時間半端なく長くなっちゃった……許してクレメンス。
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【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第65回・神社本庁【前編】
戦前、日本の全国神社は、神社局の後継の神祇局が一元的に公的に管理していたが、終戦直後、GHQは、神道指令の発動により、その神祇局が廃止され、国家による神社管理支配を禁止した。それまで公務員的な立場にあった
神社の神職たちはいきなり民間の神社として独立することを余儀なくされ、
特に氏子人口の少ない地方神社は路頭に迷おうとしていた。そこで、戦前から活動していた三つの神道系組織によって新たな包括的な神社連合体の組織が提案された。それは、かつて明治期に神職の全国組合的な全国神職会の後裔組織である日本神祇会と、教派神道13派の一つで、伊勢講から発展した神宮教の流れである神宮奉斎会と、かつて出雲と伊勢の祭神論争が行われた神道事務局の後継組織である皇典講究所が合併統一して出来た神社本庁であった。GHQは、戦前の国家神道、つまり、神道を宗教と見做さず、単なる祭祀と見做したために当時の日本政府が掲げた政教分離や信教の自由に触れることなく全国神社の国家管理が出来るとした体制を警戒し、日本政府がこうした巧妙な抜け道を用いて再び軍国主義や国家主義のイデオロギーを国民に吹聴させない為にも国家によるありとあらゆる神社介入を禁止していた為、神社本庁は、民間の包括的宗教法人格を獲得することにより、戦前には国家が行ってきた神社管理を自らが一元的に国家神道的解釈のもと、つまり、神道を宗教と見做さず、祭祀のみを行う集団だという解釈で、全国神社の経営や人事権まで掌握することとなった。神社本庁は、所属神社の信仰内容は問わないということを前提のもと、祭祀を司る集団として、戦前の国家神道形式で所属神社の賽銭や寄付寄進による収入から多額の上納金を納めさせ、宮司などの人事に介入し、「信教の自由を侵すことなく」それらの神社を悉く支配下に置いた。
国家神道形式とは、形式上、伊勢神宮をトップに全国神社を格付けし、本庁が決めた社格の高い神社(現在では315社)から全国の末端に至る小規模の地方神社まですべてをその系列化に納め、伊勢神宮から配布された神宮大麻の札を販売し、その収益はすべて神宮に上納し、その上納金の半分を神社本庁が受け、それを様々な形で所属神社に再分配するという形を示す。神社本庁は、形式的な国家神道形式の復活だけでは飽き足らず、戦後、積極的に保守運動にも参加し、「日本を守る会」や「日本を守る国民会議」などの横断的保守連合組織に参加して「建国記念の日制定促進協議会」や「靖国神社国家護持法案」や「元号法制化国民会議」などの運動で生長の家や統一教会などとともに中心的な役割を果たした。
また、現在295名の衆参両院議員を有する神道政治連盟国会議員懇談会もこの頃に形成され、一丸となって憲法改正の運動に突き進んでいる。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第47回・合気道と道教と山王神道
病弱だった植芝盛平がやがて小さな体で大男を軽々と投げ飛ばしてしまう合気道を創立するまでにはどのような経過があり、また、その合気道とはどのような思想の流れの中で形成されて行ったのか?その謎を解くところに今回の特集は焦点を当てる。植芝盛平は7歳の頃、近所の地元和歌山県田辺市の古義真言宗の地蔵寺の住職の藤本密乗の開く私塾で四書五経や真言密教の鎮魂法や祈祷を学び、また、32歳の時には移住した先の北海道遠軽の地で出会った大東流合気柔術の師範武田惣角から5年間、大東流合気柔術を学び、さらには、36歳の時には父の病気直しの為に大本教の本部のある綾部に出口王仁三郎を訪ねた時、出会った出口王仁三郎に感銘し、そのまま8年間綾部に住み込み、王仁三郎の、戦い回避を目指す言向け和しの無抵抗主義を学び、次第に盛平独自の合気道の道を開いていくこととなった。合気道の技のほとんどは大東流合気柔術から来てるが、その大東流合気柔術を可能にしたのは、創始者とされる鎌倉時代の新羅三郎を称した源義光が影響を受けた天台密教の作った神道理論、山王神道であった。山王神道は、真言宗系の両部神道とともに道教の影響を受けた中国の真言密教、天台教の影響を受けており、道教思想がその密教理論の中に展開されている。太極拳、少林拳、八掛掌、形意拳、心意拳などの中国武術は一様に道教の思想が根源にあり、日本の合気道や大東流合気柔術は天台系の山王神道を通じてこうした武術に繋がる道教思想を継承したのである。山王神道では、古事記・日本書紀では新羅王子、地方風土記では新羅の神とされる天日矛が日本に残した十種の神宝の中に中国武術に繋がる道教的思想を見出し、その中から鎌倉時代に大東流合気柔術が生まれ、そうして大正時代から昭和時代にかけては大東流や大本から独立した植芝盛平によって合気道は誕生した。平田系神道カルトの大本の流れを汲みつつ、一方で大東流や山王神道の中国道教の流れも汲む中、植芝盛平は、和合の精神を説き、人と競い合う事を好まれず、「自己の練磨」のみを目的とする試合無き武術、合気道の道を開いたのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第16回・本田親徳と鎮魂帰神法
明治以降、平田篤胤の思想の影響を受けた者たちは、基本的に、人は死後、地球上の周りにある幽界という空間を霊魂となって彷徨い、体は風、火、土、金というエレメントになって循環し、やがてはそれに魂が宿り、人間は再生する、という道教的な死生観と、地球を創生したのは日本の神のイザナギとイザナミであるからして、日本の天皇が全世界の上に総主として君臨すべし、という超誇大妄想的天皇世界総主論だけは引き継ぐという傾向を共有していたが、本田親徳は、平田思想の中でも特に人と神霊とのコミュニケーションに興味を持ち、その研究と実践のほとんどは神霊の人間への憑依を目指すことに向けられた。
死者や動物や神仏の憑依は修験道や民間信仰の間にも古くからあったが、そうした憑依が可能なのは特定の能力を持った者か、あるいは神や仏や死者などから指名された特定の人物に限られていたが、本田は、誰でも一定の術式に従って行えば神霊の人への降臨・憑依は可能であるとした。
本田は、神憑りには36通りの在り方があると言ったが、それを大きく3つに分類して、霊がいきなり憑依する場合、一部の素質のある人が一人で神霊を呼び寄せる場合、そして本田が提唱した審神者と神主を通じて、たとえ能力者や偶然の邂逅でなくても意識的に神霊を呼び寄せ憑依させることが可能な鎮魂帰神法があり、本田は自ら開発したこの鎮魂帰神法を通じ、神の言葉を直接聞くという方法で古事記理解の正誤を確認するという作業を行い、「難古事記」という著作にまとめた。
それによると、人はみな神の子であり、直霊という正しい心の霊を持ち、勇気と調和と愛と探求の心を呼び出す荒魂、和魂、幸魂、奇魂という四つの魂を持っているとし、善を行えばこれらの魂の量は増え、悪を行えば減るとした。
儒教の魂観の擦り直しと見れないこともないが、とにかく、本田の神霊降臨術・鎮魂帰神法は、その後、弟子の
長澤雄盾を通じ、大本教の出口王仁三郎や大本教を経た神道天行居の友清歓真ら多数の平田系神道カルト教祖たちに伝えられ、明治以降、古神道を名乗る平田派神道系カルトの中核的思想となって行った。
本田の鎮魂帰神法を継いだ者たちは、鎮魂帰神法とともに平田篤胤の超誇大妄想とも言える
天皇世界総主論、つまり、地球上の世界を創ったのは日本の神だから天皇が世界を治めるべきだと言う部分を強く受け継いでおり、彼らが本田の鎮魂帰神法による神託を担保とし、彼らはますます狂信的に持論にのめり込み、それは世界恐慌後の社会不安が広がる中、その狂気は国民を戦争の時代へと引き込んでいくこととなったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第31回・大本教・第一次大本弾圧事件前夜
大正7年1918年、大本教の初代教主出口なおが83歳で生涯を閉じるまで、大本ではなおのお筆先という全文ひらがなで書かれたメッセージノートが大本神諭として信仰の中心になっていたが、なおの死後は出口王仁三郎に実権が移り、さらに入信加入してきた神霊イデオローグの浅野和三郎や谷口正治らによって大本神諭は恣意的に解釈されるようなり、そうした背景の下、「大正10年立替え論」つまり大正10年に日本も世界も滅んでしまうという大予言が行われ、これに釣られて膨大な数の信者が日本全国的に増え、大正10年1921年の第一次大本弾圧事件の間接的原因ともなって行った。
かつて出口なおは、日露戦争の時に、この戦争が世界大戦に発展して世界は一度滅びると予想し、それが外れたために大本は一時崩壊状態になったが、今回の「立替え説」を教団では「二度目の世の立替え」と宣言し、今回もまた大きく予言が外れる事により多くの信者たちが大本を去ることとなった。
同時に、それまでなおの神諭の解釈を巡って王仁三郎と対立していた浅野や谷口や友清歓真らも大本を去り、それぞれ、心霊科学研究会、生長の家、神道天行居と言った各自の神道系カルト教団を形成して行った。
大正10年頃の社会状況は、第一次大戦が終わって3年経って急速に欧州への輸出が激減した為に町に失業者が溢れる一方、大戦以降高まった国民の所得急増に伴う米不足により、労働争議と米騒動が全国各地に広がり、次第に深まる世界情勢の暗雲の中、大本が発表した終末論「二度目の立替え」予言は膨大な数の人々の気持ちを引き付け、教団は急激に規模が膨張し、政府や警察は大本の動向に注目し、きっかけを見つけて弾圧する機会を虎視眈々と窺っていた。
大正10年1921年2月12日の未明、検事総長平沼騏一郎の指示をうけた京都府警察部長藤沼庄平は、予審判事・検事らとともに、武装警官200人を動員して大本をおそった。すなわち綾部・亀岡・京都・八木における20数ヵ所が、不敬罪および新聞紙法違反の容疑で家宅捜査され、筆先の全部と神体の一部が押収され、大阪梅田の大正日日新聞社に出務中の出口王仁三郎、および綾部に在宅していた浅野和三郎・吉田祐定の三幹部が検挙され、だだちに京都監獄未決監に収容された。そして三幹部は、不敬罪および新聞紙法違反の罪名で起訴されたのである。
敬神尊皇愛国を標榜する宗教団体の幹部が、こともあろうに、不敬罪という罪名で逮捕されるという皮肉的で前代未聞の大事件であった。
《閲覧注意》ガチシリーズ W-1 vs GTG対抗戦?! プロレスラー大和ヒロシ選手と心霊スポットに行ったら女の子の霊が寄ってきました?! R-1
ガチシリーズ シーズン3 #19
ガチシリーズ W-1 vs GTG対抗戦?!
プロレスラー大和ヒロシ選手と心霊スポットに
行ったら女の子の霊が寄ってきました?! R-1
ガチシリーズです!
今回、何と?!
W-1所属 大和ヒロシ選手が
ガチシリーズに殴り込みです!
本物ですがな!
よーし!
リングを心霊スポットに変えて対抗戦だ!
さて、対抗戦第一戦目は
カーブの先に幽霊が出るというトンネルです
そこには何が?!本物のプロレスラーと
謎に迫ります!
絶対、大和選手をビビらせます!
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【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)王仁三郎の死と戦後の大本
昭和25年1945年8月15日の日本の敗戦以降、10月17日には第二審まで有罪になっていた王仁三郎ら大本幹部たちは敗戦による大赦令で二審の有罪判決がすべて無効になり、翌年からは愛善苑という名称でどこの教団の傘下ではない完全独立した宗教法人として教団活動を再開することとなった。
しかし、戦後の大本の再開は、実は再開と言うよりも新生と言った方が相応しいほどの一大方針転換であった。
戦前に大本の昭和神聖会が掲げた皇道大本主義や弥勒革命論は完全に放棄し、一方で大正時代より根付いていた
万教同根主義に基づく世界宗教連合運動や、陶芸、短歌、詠歌、書道などの芸術創作活動に重点を置き、戦前とは打って変わり、世直しのような政治活動とは完全に距離を置いた新しい宗教活動が開始された。
王仁三郎は「芸術は宗教の母である」とし、大正時代より学んでいた楽焼という、ろくろを使わず、内窯と言われる小さな窯を使った陶器制作に精を出し、京都から持ち込んだ10-15年分の陶芸材料を1年で使い果たしてしまうほど楽焼茶碗の作品作りに熱中した。
王仁三郎の作品は専門家から高く評価され、陶原評論家の加藤義一郎氏に「耀盌」と命名され、その後、国内外から高い芸術的価値を認められた。
しかし、王仁三郎は、1946年(昭和21年)8月、脳溢血で倒れ、2年後の1948年(昭和23年)1月19日には遂に帰らぬ人となり76年の波乱に満ちた生涯を閉じた。
その後、大本は王仁三郎の反戦平和人類宗教平等主義を引き継ぎ、戦後の着実な発展を続けたが、1980年代になると教祖の継承問題をめぐって三つの教団に分裂することとなる。
第3代教主の直日の第4子で長男の京太郎が二代目王仁三郎を襲名する意思を明らかにすると、王仁三郎の3女の八重野の息子・和明(やすあき)と直日の長女で教祖後継者であった直美の夫の栄二が強く反発し、教祖直日のナンバー2の京太郎は栄二と和明の役職を解任した上で両者を教団から追放し、教祖継承者には直美が外され、直日の3女の聖子(きよこ)に変更された。
追放された和明と栄二はそれぞれに大本本部を相手に地位確認の訴訟を起こすが、この裁判は10年に渡って争われた後、栄二と和明はともに訴訟を取り下げた上で、それぞれ愛善苑と大本信徒連合会という別教団を立ち上げ、大本主流と袂を分かつこととなった。
現在の大本は戦前の最盛期の勢いには遠く及ばないものの、平田神道系カルトからは決別し、出口なおの時代の万教同根主義と反戦人類平等主義が貫かれることになったのである。
「けものフレンズ3」実況 2023 5月18日
メインストーリーシーズン3第2章 5-6話 ネタバレ注意 など
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【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第30回・大本教(なおと王仁三郎との「火と水の戦い」)
もともと出口なおの時代には、艮の金神のなおに対する憑依によりなおに書かせた筆先により、ありとあらゆる外国のやりかたに反対し、外国を真似たり媚びたりする態度を日本人がやめなければ日本は世界の戦争に巻き込まれ、世界とともに崩壊するという警告アピールであった。
なおの筆先は艮の金神のメッセージだとは言うが、それはまさに明治以降、西洋化近代化に日本全体が邁進する中で取り残され、見捨てられた底辺民衆たちは、新たに勃興してきた財閥や、その財閥と結託した政治家たちにより搾取され、使い捨てられ、その財閥・政治家たちは外国と結託し、自分たちの利益だけの為に弱者の立場を顧みず、まったく悪神に支配された世の中になってしまったと言う。
この世の中を立て直すためには、日本人はありとあらゆる外国由来のものを使うのを止め、本来の日本人の価値観の原点に戻るべきだという警告であった。
そしてその外国のやり方という言葉の中には、電気、鉄道、洋服、洋食などからマッチや漢字までもが含まれていた。 過激すぎると言うほど徹底した反近代主義、反文明主義である。
一方、なおと出会った王仁三郎は、本田霊学の鎮魂帰神法を始め、大石凝の弥勒菩薩降臨論や竹内文書の奇想天外な宇宙論や歴史観などを吸収しており、素朴な民衆の立場を代弁するなおと国学的な霊学的立場に立つ王仁三郎との間には相克があり、徹底的な反文明主義・反西洋主義に固執するなおや金光教出身の信者たちは王仁三郎の合理的な合法的宗教団体組織論のみならず、国学や古事記・日本書紀の神々と言った底辺庶民たちにとってはまったくなじみのないものを採り入れてくやり方がまさになおのいう「外国のやり方」に映り、反王仁三郎派の信者たちは王仁三郎を綾部から追放してしまった。
しかし、日露戦争を通じて世界は崩壊するというなおの予言は日本の勝利によって外れ、結果、ほとんどの信者たちはなおに失望して大本を去って行き、王仁三郎が綾部に戻ってくると、今度は王仁三郎のペースで大本再建は進み、いよいよ、大石凝によって王仁三郎に注入されていた弥勒菩薩降臨による世界救済論は大本の教義の中心を占めるようになり、その背景には、日本による世界征服こそ弥勒菩薩降臨の前提条件になるという弥勒革命論が拡大浸透し、それは、その後、軍人らの強い支持を集めると同時に政府や官憲の監視対象となり、やがて訪れる二度の大本大弾圧の原因ともなっていったのである。
「けものフレンズ3」実況 2023 2月24日
メインストーリー シーズン3 1章「かがやき の ふるところ」3話-4話 ネタバレ注意 など
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【神道シリーズ・シーズン3】第57回・谷口雅春と生長の家(その④)
谷口雅春は、青春時代に出会ったトルストイの「復活」のキリスト教における原罪と贖罪の問題に対する解決を求めて、大本入信後も、西田天香の一燈園への体験入園など、贖罪を求めた原始的共同村参加など解決無きまま彷徨っていたが、大本を脱退した大正11年にたまたま古本屋で見つけたアメリカのニューソート信者ホムルスの本に出合うとこれまでの考え方と生き方がいきなり一変することとなった。
キリスト教プロテスタント改革派であるカルバン派から発生した批判派は自らニューソートと名乗り、もともとヨーロッパで発生したその思想は19世紀に北米に広がり、20世紀に入ると日本にも流入して来ていた。
同じキリスト教徒でありながらニューソートは聖書の原罪説や贖罪説の一切を否定し、神の予定調和説さえも全面否定し、神とは自ら意思を持たぬ宇宙創造主であるとし、故に人は神に縛られるのではなく、人の中にある神の創造力を生かしていかに有意義な人生を送るべきかに主眼がおかれていた。
仏教思想に造詣の深かった谷口は、このニューソートの宇宙観や神観を仏教思想の無明や唯識論に充て辞め、究極、目的を持たぬ創造神は仏教でいうところの無明そのものだと結論付けた。
しかし、無明で予定調和を求めぬ創造神は生きと生けるものすべてにその無明の神性を与えているので人は自らの内にあるその神性に目覚め、いかに有効に活用して健康で幸せな生活を送れるようにすべきが谷口の関心の中心となっていった。
しかし、その神性に目覚めてそれを自分の為に生かして行く方法はニューソートとは大きく異なり、単なる啓発トレーニングではなく、真言密教の阿字観や天台宗の月輪観や密教の普賢延命菩薩法などを通じて如意宝珠を得るという観想法などを中心に修練法を仏教的なそれに結び付けて行った。その後、聖書や仏典や古事記やコーランなどを声を出して読んだり、静坐や瞑想することもその修練の中に含めている。
こうした実に平和的な思想を持つ生長の家にも、日中戦争が拡大するなか、いよいよ太平洋戦争に突入すると、谷口にも戦争協力の圧力がかかることになったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第60回・長澤雄盾・水谷清・岡田茂吉・九鬼盛隆・鬼倉足日公
平田篤胤にルーツを持つ平田系神道カルトは、明治以降の展開として、その中核になったのは、平田の死者の黄泉がえりや死者の生まれ変わりなどの体験に基づいた幽界研究にルーツを持つ霊界と現界との交流を目指す本田親徳の確立した本田霊学・鎮魂帰神法にあり、この神憑依法を駆使することにより、古事記に登場する神々を降ろし、実際にインタビューしてみると実は古事記に書かれたことはすべてデタラメで、実は、篤胤が言っていたように宇宙を創ったのも地球や月や太陽を創ったのも日本の神々で、気も遠くなるような太古の時代には地上には日本しかなく、日本の天皇が全世界を君臨しており、世界中の人たちは日本の神道を信仰していたと言う。
しかし、長い長い歴史の中で地上は乱れ、神道は間違って伝わり、それがキリスト教になったり仏教になったり儒教や道教になったりとし、まるで世界は仏教で言うところの末法の世の厭離穢土となってしまったと言う。
こうした超誇大妄想といういうべきオカルト的新興宗教勢力はみずからを古神道と名乗り、この信念の下、言霊学や神代文字や神霊学などを産みだし、このスピリチャリズムは、世界大戦や世界恐慌の中で混乱した当時の日本社会の中で軍人を中心に多くの信者が集まり、太古の日本や世界天皇としての天皇の復活など、ウルトラ国粋主義者たちの間で強い支持者たちを集めた。
長澤雄盾は、本田霊学の直系の継承者として大本の出口王仁三郎らに鎮魂帰神法を伝え、水谷清は、大石凝眞素美の言霊学を伝え、九鬼盛隆は、道教仙術家として長澤から鎮魂帰神法を学び、浅野和三郎は、著名な翻訳家・英文学者でありながら息子の病気をきっかけに神霊療法に興味を持ち、大本に入信するが、後に心霊科学研究所を設立し、日本におけるスピリチャリズムの先駆けとなった。岡田茂吉は大本教を経たのち、自らの神秘体験を通じて世界救世教を設立する。鬼倉足日公は、右翼団体玄洋社のメンバーで朝鮮や中国大陸で様々な諜報活動に励んでいたが、やがて神祇伯の白川伯家神道の復活を目指し、すめら教を創立した。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第35回・第二次大本弾圧事件
1935年(昭和10年)12月8日、警官隊500人が綾部と亀岡の聖地を急襲した。当局は大本側が武装していると信じており、警官達は決死の覚悟であったが大本の施設をいざ急襲してみると、竹槍一本見つからず、幹部も信徒も全員が全くの無抵抗であった。王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。6日間の捜索で5万点の証拠品を押収し、取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、検束や出頭を命令された信徒は3000人に及び、最終的に987人が検挙され、318人が検事局送致、61人が起訴された。
この逮捕の後、特別高等警察の激しい拷問で起訴61人中16人が死亡している。
20名の信者が獄死あるいは発狂したと伝えられ、 異端審問とも言われた。王仁三郎の後継者と目された娘婿・出口日出麿は拷問により精神的異常をていし、王仁三郎は「日出麿は竹刀で打たれ断末魔の悲鳴あげ居るを聞く辛さかな」と辛い心境を詠った。しかし、こうした厳しい取調べにも関わらず転向者は少なく、王仁三郎・すみ夫妻のカリスマと人間性が信者達の抵抗を支えた。内務省警保局長の唐沢俊樹は京都府会議事堂で全国特高課長を集め「大本教は地上から抹殺する方針である」「わが国教と絶対相容れず、許すべからざる邪教」と宣言したが、翌日二・二六事件が勃発して現地視察も祝宴も取りやめとなった。つまり、第二次大本弾圧は226事件をまたいで行われたのだ。
後に同事件で逮捕・処刑された北一輝は大本と軍部の関係について訊問され、「大本教は邪霊の大活動」と述べて関連性を否定した。しかし、北は第二次大本弾圧の1週間前に王仁三郎にクーデター資金5億円を要求して断られており、しかも大本にも多くの皇道派将校が出入りしていたことから当局は一層大本と北の周辺を厳重に調査を進めていた。
しかし、当局が革新軍部と右翼勢力が大本事件に関係する可能性はなくなったと判断したためさらなる強硬手段を準備していた。
裁判前にも関わらず、政府は亀山城址にあった神殿をダイナマイトで爆破し、綾部や地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分し、人類愛善会など大本関連団体も解散や活動停止に追い込まれ、出版物も全て発行禁止処分となった。
【神道シリーズ・シーズン3】第13回・三河大浜騒動(浄土真宗の反撃)
明治新政府は、寺院統廃合と神仏分離政策、および、宮中、伊勢神宮、全国神社の祭祀統一などにより、欧米のキリスト教のような一神教的神道国家の形成を目指したが、そこに大きく立ちはだかったのは浄土真宗とその膨大な数の門徒たちであった。
新政府は寺院の数を減らしたり、寺院を神社に変えたりすることにより仏教の弱体化と国家が直接管理する全国神社により「神道国家日本」を目指したが、その過程で多くの真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などの寺院が廃寺化されたが、それはすべて朝廷の命令の下にという口実で強権を持って進められた。
しかし、阿弥陀如来以外を信仰対象としない浄土真宗にはもともと権現とか明神と言った神祇信仰は持たなかった為、国家神道を押し付ける新政府の政策には強く抵抗した。
寺院統廃合政策に対して浄土真宗は全国で抵抗を続けたが、明治4年(1972年)2月に富山で2000人以上の真宗門徒農民の一斉蜂起が起きた翌月の3月には三河の大浜で真言宗僧侶や門徒農民数千人による大浜騒動が起き、暴動自体は鎮圧されたものの、それにより大浜での寺院統廃合および神道化政策は中止となり、この動きは全国的な真言宗の抵抗運動に大きな弾みをつけると同時に、新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈運動に対して大きなブレーキをかけて行くこととなった。
現在の愛知県碧南市、西尾市、安城市を含む三河大浜の地域は、当時、千葉県に本拠地を置く菊間藩の遠隔飛び地として菊間藩の管轄下にあり、藩は、平田国学の門下生で小参事の服部純を大浜の寺院統合および神道化政策のトップとして派遣した。
この動きに不満を訴えた大浜の真宗寺院の僧侶たちは暮戸会所に集まり、藩の本部である大浜陣屋に談判に出かけることを決めたが、その道中、多数の真宗門徒農民たちが集まり、談判団の数は数千人に膨れ上がり、僧侶たちは彼らに解散を求めたが応じず、結局大浜陣屋北の片山家庄屋で暴動となり、藩側が砲撃により鎮圧に乗り出すこととなった。
結果は、事態の大きさに対して藩側の処罰は予想よりはるかに軽く、このことからしても真宗を挑発することの恐怖感を藩が感じていたことを物語る。
新政府の強引ともいえる国家神道化計画は、当時東部中国地方から畿内、中部地方全域、そして関東の一部にまで勢力を持ち、当時の人口の三分の一から二分の一近くを占める真宗門徒たちを無視して進めることはできず、結果、神道化政策もかなり形骸化される結果となったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第62回・儒教招魂社/靖国神社その②
靖国神社は、明治2年1869年、大村益次郎の献策のもと、明治天皇の勅許をうけて、東京九段の土地に東京招魂社として誕生し、明治12年1879年には社名を靖国神社と改め、中身は極めて儒教的な招魂社でありながら外装は神社の装いを採ることとなり、以後、戦前戦後を通じて戦没者の魂を招魂し、天皇の参拝を以って慰霊するという形式を続けていたが、この形式は戦後の1978年に第6代宮司の松平永芳がA級戦犯を合祀するまでは国内外からの干渉や非難批判を浴びる事なく粛々と続いていた。戦後の靖国神社は、いかにわだかまりなく天皇の参拝を続けることが出来るようになるかに焦点を置き、A級戦犯合祀には極めて慎重な姿勢を採ってきた。しかし、第5代宮司筑波藤麿が 1978年3月20日に急死すると、国内の要職にあった極右勢力は、右翼思想家の平泉たかしや元最高裁総裁の石田和外や元A級戦犯容疑者で参議院議員の青木一男らが強力に松平永芳を推し、結局同年に松平が第6代靖国神社宮司に就任することとなった。
松平は、特に、戦後、きゅうじょう事件と言って、昭和天皇を殺害して幼い皇太子を擁立して戦争継続を行うというクーデター計画を立てた陸軍将校たちを門下生に持つ極右思想家の平泉きよしの強い影響を受けており、この松平の代より極東軍事裁判批判や東京裁判史観批判や大東亜戦争肯定論などが訴えられるようになった。
松平は、入江すけまさ侍従を通じて、昭和天皇の側近である徳川侍従長にA級戦犯の意志を伝えたが、昭和天皇は徳川侍従長を始め、複数の侍従たちにA級戦犯合祀への不満を述べており、それが徳川侍従長から入江侍従を通じて松平宮司に伝わったものの、昭和天皇の意志は無視したままA級戦犯の合祀は実行された。
この事は、入江氏の死後、入江侍従日記から伝えられていたのだが、靖国支持派はこれを徳川侍従長の陰謀と受け止めていたものの、2000年代になってから卜部侍従日記や小林忍侍従日記や富田メモが発掘されることにより、徳川侍従長陰謀説は否定されることとなった。
いずれにせよ、靖国問題とはこの松平永芳宮司によるA級戦犯合祀から始まっており、靖国神社の歴史は松平前と松平後で分けられ、そしてこのことが靖国問題は永遠に解決できない問題としてしまったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第11回・奈良・京都における廃仏毀釈(伝統文化破壊と否定)
明治を迎えてから1200年以上の伝統を抱えてきた奈良・京都も激しい廃仏毀釈の影響を受けることになり、興福寺の広大な寺領の中で神の使いとして大切に飼われてきた鹿が殺され、すき焼きの肉にされたり、京都でも盆踊り、送り火、地蔵祭を始め、門松、端午の節句、七夕までをも禁止されるという、およそ京都の歴史や文化そのものまでも全否定するような極端な廃仏政策が強行された。
奈良では、藤原鎌足の菩提として、和銅3年(710年)の平城京遷都とともにほぼ同時期に建立された氏神社・春日大社と氏寺・興福寺は、明治前まで一体となって繁栄してきたが、慶応3年(1868年)の神仏混交禁止令により、両者を完全分離し、春日大社内の仏像・仏具を興福寺に移したのみならず、奈良県庁は興福寺の廃寺化を目指し、日吉社での暴力的な廃仏毀釈の知らせに恐れおののいていた興福寺の僧侶たちを還俗させ、寺から追い出し、無住にした後、県庁は、無住を理由に興福寺を廃寺とした。
廃仏毀釈のほとぼりが冷めたら再び出家して興福寺に戻りたいと願っていた還俗僧侶たちの希望を打ち砕くように、興福寺の仏像・仏具・堂宇などは悉く破壊され、シンボルであった五重塔さえ売却破却の危機に晒された。
一方、700年以上の歴史を持つ名刹で巨大寺院の真言宗・内山永久寺は、完全に破壊され、境内にあった布留大権現を祀る布留社が石上神宮にされ、一瞬にして歴史ある巨大寺院は消滅し、境内の一部が神社にされるという運命を辿ることとなった。
しかし、興福寺や内山永久寺での廃仏毀釈は、多くの国宝級の宝物が失われることとなり、破壊棄却のみならず、かろうじて難を逃れた仏像や宝物も国内のみならず、英国のロンドン美術館やアメリカのニューヨーク美術館などにただ同然で明け渡され、国内に残った堂塔、堂宇、仏像なども一部の収集家の手に渡り、やがて各地の美術館に保存されることとなった。
また、摂津国阿威山で没した藤原鎌足の遺骨が、鎌足の息子で、不比等の兄であった僧侶の定慧によって移された大和国の多武峰に建てられた妙楽寺は、その後、天台宗の寺院となったが、この1100年以上の歴史がある名刹寺院も
明治期に廃され、僧侶は還俗させられ、そのまま神職とされ、寺は仏像・仏具は廃棄されたものの、その建築物の立派さから破壊は免れ、寺院の建物はそのまま新設神社・談山神社とされてしまった。
この、古事記・日本書紀の神々にまったく無関係の妙楽寺は、明治政府によって一瞬にして神社にされてしまったのだ。
明治期には、こうした名刹の寺院が次々と廃寺になり、それが神社にされてしまうというパターンが続いたのだが、特に奈良では名刹中の名刹と言われる巨大寺院が破却されて神社にされてしまうところが多かった。
【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第64回・儒教招魂社・靖国神社その④
明治2年に東京招魂社として明治天皇の勅命により創建された時に合祀されたのは戊辰戦争での官軍の戦没者たちだけだったのが、明治14年に靖国神社と改名し、明治16年には幕末の薩長土佐の勤王の志士たちが国事殉難者として合祀され、本来であれば、天皇の為に戦って戦死、ないしは暗殺された者たちだけを天皇の忠臣の魂、つまり忠魂として祀り、天皇が親拝、つまり、直接参拝して顕彰慰霊するという性質の招魂社でったのだが、その後、日清日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵などと戦没者が急増するうちに、戦地での病没者や軍属たちで戦地で亡くなった者たちも祭神として祀られるようになり、第一次上海事変以降は司令官の責任自決までもをが合祀の対象となって行った。
日中戦争・太平洋戦争を経て終戦を迎えると戦没者の数は飛躍的に跳ね上がり、戦後の合祀作業は困難多忙を極めるものとなった。戦後は、GHQの指導下、政教分離の立場から日本政府と靖国神社側の協力関係は戦前のようにスムーズには行かず、大きな制約を受ける中、水面下で厚生省の引揚者援護局と、旧陸海軍で構成する復員局と靖国神社、3者の間で目立たぬよう粛々と戦没者情報の交換と靖国神社での合祀作業が続けられた。
戦前は、靖国神社そのものが内務省と陸海軍省の管轄下だった為、合祀作業はスムーズに進んでいたものの、戦後は、靖国神社は民間の単一宗教法人となり、陸海軍省は廃止され、内務省は厚生省として生まれ変わっており、新憲法下、政教分離の原則が厳しくなり、合意作業は困難を極めることとなった。
しかし、厚生省の援護局も、復員局も、そして靖国神社も旧陸海軍の軍人たちが主要なポストをしめており、そして、戦前と同様に合祀がそのまま遺族恩給支給の資格対象とされることから、政府と各都道府県と靖国神社の緊密な連携が必要とされた。
【会員見放題】怪談鬼3 Vol.2 村上ロック
◆怪談鬼3 Vol.2 村上ロック 『封じられし闇を語る者 闇に魅入られ 鬼となる』・・・実話怪談独り語りの「怪談鬼」シーズン3は一発勝負の生配信で、LIVE感覚あるリアルな語りを収録!▽今回は怪談ライブBAR〈スリラーナイト〉所属のプロ怪談師・村上ロック氏▽玄関ブザーの音が苦手なワケ・・・「ジーッ」▽人の血を吸った刀は・・・「軍刀」▽惨劇の跡地に・・・「帝銀事件」▽不条理怪談の真骨頂・・・「誕生日」▽その間取には住んじゃいけない・・・「鬼門」▽意外と披露する機会が少ない長尺怪談全5話に加え、各話考察と配信後のアフタートークも収録!
【出演】村上ロック
【11/27】「遊馬晃祐ch」第26回ゲスト新井將&釣本南~番組愛称が「遊仲」に決定!もっと仲良くなるよ♪SP~本編映像
11月27日に生放送した第26回ゲスト新井將&釣本南~番組愛称が「遊仲」に決定!もっと仲良くなるよ♪SP~本編映像をUP!
「遊仲」の愛称どおりに、遊馬さんがファンな皆さんと一緒に、仲良しな人たちとさらに仲良くなる番組としてお届け♪ ということで、ゲストに演劇「ハイキュー!!」で共演した新井將さん&釣本南さんが登場! 鉄壁ならぬ、鉄板の仲良しゲストをむかえ、3人とも遊馬さんの部屋に遊びに来たような男子トークで盛り上がりました。
さらに、「おもてなしcafe」が「お持ちよりcafe」になったり、自由にトークする遊馬さんにより、シーズン3らしく、どんどんと新たな要素が飛び出しました! 新鮮なトークをお楽しみください♪
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第58回・谷口雅春と生長の家(その⑤)
谷口雅春の生長の家は、万教帰一を唱えるが、しかし、その実態としては仏教とキリスト教の帰一のことを示しており、北米のニューソート思想によりこの二つは谷口流に融合されることとなる。ニューソートにより、本来キリスト教が持っていた人間の原罪論と贖罪論は否定され、絶対神で創造神であったゼウスの存在さえも否定され、創造神は人や宇宙に予定調和を求めるものではなく、人の中にも神の要素があることに目覚めることが大事だとされた。谷口もそのニューソートの思想を積極的に受け入れたが、ただ、人が自らの中にいる神や仏に目覚める為にはより仏教的な思想を採り入れる事が必要だとした。ニューソートや生長の家では自らの中にいる神に目覚めるためには神想法という瞑想的な方法を用いているが、ニューソートでは誘導付きの瞑想やイメージの視覚化などのテクニックを用いるの対して生長の家ではより仏教的な観想法を積極的に用いている。谷口は仏教思想への造詣が深く、真言密教の阿字観や天台密教の月輪観や浄土教の阿弥陀如来信仰などの思想も積極的に採り入れ、中でも谷口がもっとも重要視したのは法華経で、法華経の中で説かれる久遠仏の思想は、彼がニューソートと仏教を融合する上で特に大きな役割を果たした。万教帰一を唱える生長の家では、法華経やその他の仏教経典やキリスト教の新約聖書などを声を出して音読するのもその神想法に採り入れられている。生長の家では絶対神・創造神を生長の家の大神と呼んでいるが、その実態は、谷口が最初に神の子として覚醒した神戸の元住吉神社の元住吉大神としているが、実は、それが時に大日如来になったり、時に天御中主になったりと神の名称自体には一切こだわっていない。一方、谷口は、人間みな神の子という思想のもと、階級闘争という思想にも強く反対し、富者と貧者は争うべきではなく、おのおのが神の子であることを自覚することにより自然と富む者は貧しき者に与え、仕事のある者は仕事無き者とウォークシェアリングをすればよいと訴えた。谷口がこう訴えていたのは、昭和恐慌直後の昭和5年1930年であった。
マーベル・ピックアップ・ラジオ #120
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#17:25 今週のクマーヌ/センセプールの気になるトピックス!
#28:28 今週のリーフレビュー(IVX #5、アメイジング・スパイダーマン #24、エレクトラ #1、サンダーボルツ #10、キャプテン・アメリカ:スティーブ・ロジャース #12、サノス #4)
#53:54 今週の話題(ドラマ「エージェント・オブ・シールド」シーズン3のネタバレ感想! )
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【神道シリーズ・シーズン3】第1回・廃仏毀釈と平田国学の復古神道①
日本の歴史史上最大の汚点とされる廃仏毀釈は、大政奉還の翌年3月の慶応4年1868年3月に薩長新政府により神仏混淆禁止令がだされると翌4月に日吉社の社司・樹下茂国と生源寺希徳らが吉田神道配下の者たちで結成した神威隊40名を引き連れ、日吉社に祀られた仏像仏具経典などを破壊しつくした暴力的破壊活動を契機に明治元年以降の数年間に全国いくつかの地域で過激な寺院破壊活動が展開された事件のことを言う。
廃仏寺院統合の動きは明治前より水戸藩、岡山藩、薩摩藩、土佐藩、津和野藩などいくつかの朱子学・陽明学・国学の影響が強かった藩で江戸時代初期、中期、後期、末期から見られていたが、それらはあくまで寺院の統廃合であって仏像仏具什器などの破壊を意図するものではなかった。
しかし大政奉還後に始まった廃仏毀釈運動は仏教や僧侶たちに対する憎悪と嫌悪が動機となっており、この上からの仏教破壊活動は仏教を信仰する住民
との間に大きな摩擦を引き起こしていった。
廃仏毀釈運動の特徴は、長州・薩摩・津和野など陽明学国学の影響を強く受けた旧藩主や藩士たちがこぞって新政府の神仏分離政策を口実に各地で過激な仏教破壊活動を行い、仏教を信仰する村民たちや浄土真宗を中心とした仏教勢力からの根強い抵抗を受けることとなり、やがて新政府によってそうした破壊活動が罰せられることにより収束に向かった一連の暴力活動を指す。
廃仏毀釈活動は明治元年から4年ぐらいまでの間に集中し、明治9年にはほとんどの破壊活動は終了するが、
廃仏毀釈運動とは別に進められた神仏分離政策も地元の抵抗に会いながら新政府は朝廷からの命令という言葉を盾に強引に推し進め、結果、明治10年頃には日本の寺院の約半数は消滅し、さらに廃仏毀釈で失われた国宝クラスの文化財は日本の文化財全体の三分の二以上に及んだと言われる。
廃仏毀釈活動は、慶応4年の日吉社の仏像仏具経典破壊を引きりに明治元年から明治4年ぐらいにかけ、松本、苗木、佐渡、富山、隠岐などで特に酷い暴力的破壊活動が行われ、これらの破壊活動の首謀者は旧藩主、旧長州藩士、平田国学の影響を強く受けた旧幕臣らで、いずれのケースも平田国学という点で一つの線で結ばれている。
仏教の神・権現神や仏教帰依した氏神明神が長く定着していた日本の国土に平田国学の復古神道というこれまでの歴史に無かった新興宗教を強制的に根付かせる事が一連の破壊活動の根底にあった。
形式的には神仏分離という名目で過去に長く定着していた権現明神信仰を消し去り、新設神社に新たな由緒社伝を捏造したものの、それは同時に信仰の無い神社を増産していくことになったのである。