キーワード 平治の乱 が含まれる動画 : 58 件中 1 - 32 件目
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アンチネトウヨシリーズ第二回 天皇考 保元・平治の乱偏2-2
【天皇考】天皇とは日本人にとって何か?(シリーズ第二回)保元・平治の乱に見る
"治天の君”のイス取りゲームのイス状態(一体天皇・上皇の権威なんてあったのか?)
sm19193725(2-1)sm19193874(2-2)
Pちゃんのコミュニティ
co569686(グローバリズムと日本【政治:経済枠】)
アンチネトウヨシリーズ第二回 天皇考 保元・平治の乱偏2-1
【天皇考】天皇とは日本人にとって何か?(シリーズ第二回)保元・平治の乱に見る
"治天の君”のイス取りゲームのイス状態(一体天皇・上皇の権威なんてあったのか?)
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co569686(グローバリズムと日本【政治:経済枠】)
【続歴戦文化祭】保元・平治の乱 以仁王挙兵編 ~源頼政と封獣ぬえ
「こまっちゃんマジ天使」「死神だよ」
そんな動画全5話中最終話。めっちゃ長くてごめんなさい。
ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございます。
日本史×東方ネタは色々考えてはいるので、機会があればまたお会いしましょう。
むしろプロットお譲りしますので誰か描いて
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② → sm12838323
第3話 平治の乱編① → sm12896661
第4話 平治の乱編② → sm13009623
最終話 以仁王挙兵編 この動画
mylist/25966434
【追記】ヘコヘコさん、Thinkerさん、むぅさん、のこのこEXさん、MPokさん、宣伝ありがとうございます!!
【訂正】4:46 ご指摘のとおり「となう」です キャー恥ずかしい
Year of Begnion 645-648 from Diaros - Path 13 "Clash"
平治の乱から861年、『ファウスト 第一部』初演から192年、パーソナルコンピュータ「Lisa」発売から37年、天皇陛下の婚約決定から28年、年始から19日目、ねこぢるの誕生日、ヴァルター・シュピースの命日、空気清浄機の日、カラオケの日に。
『ファイアーエムブレム 蒼炎の軌跡』の単なるプレイ動画です。
最初の注意をよく読んでください。
従ってください。
『蒼炎の軌跡』 公式サイト:https://www.nintendo.co.jp/ngc/gfej/
『Master of Epic』 公式サイトhttps://moepic.com
回線と私が生きていれば、かろうじて蒼炎中はエターならない。
sm37988207:前 | mylist/68126694 | 次:sm38199628
【続歴戦文化祭】保元・平治の乱 平治の乱編① ~源頼政と封獣ぬえ
今回のぬえちゃん成分は前半に集中しています。
源頼政とぬえちゃんのお話全5動画中第3話。
お借りした素材類は最終話エンディングでまとめてクレジットします。
※武士が諱でお互いを呼び合ったり、天皇の諡を生前から使ってたりしますが
この辺厳密に考証すると、テキスト書いてるうp主が混乱するので
大目に見てあげてください
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② → sm12838323
第3話 平治の乱編① この動画
第4話 平治の乱編② → sm13009623
最終話 以仁王挙兵編 → sm13054386
mylist/25966434
【歴戦文化祭】孫魯班 前編 修正版
この動画は歴戦文化祭4日目第18幕の動画です
中継動画から次の時間枠の動画に飛んで下さい
困った時はwikiへ→http://www37.atwiki.jp/nikorekipt/pages/1.html
実況中継板→http://bbs.nhs.konigstiegel.com/headline/
4日目20:30中継動画:sm12836702
<その他時間の中継動画>mylist/22244364
<この枠の他の動画>
太閤アイドルマスターその30.5:sm12835861
保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ:sm12836188
<その他の参加者様動画>mylist/22244357
歴戦文化祭第18幕 孫魯班 前編の修正版となります。
運営の不手際により本動画の未修正版を企画当日に公開しておりました。
製作者のネコミミ于禁氏、並びに視聴者の皆様に御迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
後編 修正版 sm12873564
【歴戦文化祭】孫魯班 前編
この動画は歴戦文化祭4日目第18幕の動画です
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4日目20:30中継動画:sm12836702
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<この枠の他の動画>
保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ:sm12836188
太閤アイドルマスターその30.5:sm12835861
<その他の参加者様動画>mylist/22244357
孫魯班・後編 sm12837083
孫魯班・後編 修正版 sm12873564
孫魯班・前編 修正版 sm12872836
【続歴戦文化祭】保元・平治の乱 平治の乱編② ~源頼政と封獣ぬえ
「鵺」が現われた時の天皇、近衛天皇と二条天皇はどちらも若くして亡くなっています(17歳と22歳)
でも「鵺」が退治されてるなら、この死の犯人はぬえちゃんじゃなくね?
「老獪な政治家」とされる源頼政だけど、記録に残る行動を追う限りではどう見ても典型的な脳筋源氏武士。
政治的な参謀がいたのかもね?
そんな動画全5話中4話。
お借りした素材類は最終話エンディングでまとめてクレジットします。
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② → sm12838323
第3話 平治の乱編① → sm12896661
第4話 平治の乱編② この動画
最終話 以仁王挙兵編 → sm13054386
mylist/25966434
【追記】レイさん、brainburstさん、宣伝ありがとうございます!!
【歴戦文化祭】保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ
この動画は歴戦文化祭4日目第18幕の動画です
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4日目20:30中継動画:sm12836702
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太閤アイドルマスターその30.5:sm12835861
孫魯班 前編:sm12872836
<その他の参加者様動画>mylist/22244357
【歴戦文化祭】保元・平治の乱 保元の乱編② ~源頼政と封獣ぬえ
なんでぬえちゃんが「源三位頼政の弓」持ってるんだろうね?
というお話の全5動画中第2話。長くなりすぎて文化祭枠に入り切れてねー!
運営さんごめんなさい。
お借りした素材類は最終話でまとめてクレジットします。
※崇徳院をパロディし奉る度胸がないので皇室関係者はあんまり出てきません。
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② この動画
第3話 平治の乱編① → sm12896661
第4話 平治の乱編② → sm13009623
最終話 以仁王挙兵編 → sm13054386
mylist/25966434
【歴戦文化祭】太閤アイドルマスター30.5
この動画は歴戦文化祭4日目第18幕の動画です
中継動画から次の時間枠の動画に飛んで下さい
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実況中継板→http://bbs.nhs.konigstiegel.com/headline/
4日目20:30中継動画:
<その他時間の中継動画>mylist/22244364
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保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ:sm12836188
孫魯班 前編:sm12872836
<その他の参加者様動画>mylist/22244357
【ゆっくり解説】平清盛【偉人列伝】
sm35829639←前 次→sm35898617
リサイズ時の画像サイズを考慮しておらず数枚の画像がおかしくなってます、すみません、、、
親知らずが痛く投稿するのを忘れてました・・・
すみません!!
コメントで指摘されてるとうり平治の乱のところの
息子の重盛と父親の忠盛を間違えてましたm(__)m
お借りした音楽サイト
・甘茶の音楽工房 様
・音の園 様
・魔王魂 様
・効果音ラボ 様
・DOVA-SYNDROME 様
素晴らしい音楽ありがとうございます!。
【MoE?】編集の彼方に Listener of Epoch - Other Days 04
平治の乱終結から864年、官営八幡製鐵所操業開始から123年、アポロ14号月面着陸から53年、X線天文観測衛星「ぎんが」打上げから37年、年始から36日目、又吉イエスの誕生日、貴家堂子の命日、エコチュウの日、ピカチュウの日に。
自分で作るより、人に作らせた方が面白いのできるよね!
と思って、人様にMoE動画を作らせようという、傲岸不遜な動画だよ。
そろそろ知識の無さが露呈する
sm43218029:前 | mylist/ | 次:sm43589846
「保元・平治の乱」第99回黒田裕樹の歴史講座 6/8
この動画は第99回黒田裕樹の歴史講座「日本古代史その7 ~院政と平氏の隆盛~」のうち「保元・平治の乱」の講演を、令和5(2023)年12月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
http://1000000reki.jugem.jp/
ブログ「黒田裕樹の歴史講座」
http://rocky96.blog10.fc2.com/
「黒田裕樹の歴史講座」講演申し込みサイト
https://kokuboukai.com/category/history-study-session/kuroda-hiroki/
黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
https://www.mag2.com/m/0001672748
#黒田裕樹
#保元の乱
#平治の乱
#平清盛
#源義朝
#黒田裕樹の歴史講座
結月ゆかりのざっくりわかる中世史解説part3「保元・平治の乱と平家の台頭」
この動画はNHK大河「平清盛」と「鎌倉殿の13人」を応援しています。
前→https://www.nicovideo.jp/watch/sm38240825
次→来月?
参考文献
呉座 勇一著「陰謀の日本中世史」
和田 英松著「新訂 官職要解」
坂井 孝一著「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」
川合 康「日本中世の歴史④ 源平の内乱と公武政権」
いのっちさんの動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37594847
使用楽曲
NHK大河ドラマ「平清盛」サウンドトラック
使用画像
一部コンテンツツリーに記載。wikipediaコモンズ。
不備があれば改訂します。
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第153回:不離一体】
もう離れません、一緒に行きましょう!
伊豆国豪族、伊東祐親の娘:八重姫。源頼朝の最初の妻である。
同じく伊豆国豪族であった鎌倉幕府初代執権:時政の義妹(正室の妹)であり
第二代執権:北条義時の叔母にあたる。
伊豆国豪族であった伊東祐親は平氏に属する立場であり
平治の乱にて敗れて伊豆に流された河内源氏嫡流:源頼朝の監視役であった。
(同じく頼朝の監視役であった伊豆国豪族の北条家に似た立ち位置と言える)
後に北条政子と婚約する頼朝。北条家は最終的にそれを認める形を取ったが
北条家とは逆に断固として源氏との交流を拒んだのが伊東祐親であった。
伊東祐親が都市警護の任で上洛している際に頼朝-八重姫の間に男児が生まれた。
京から戻った伊東祐親はこれに激怒。
(監査役の自身の娘が、監視対象との間に男児を設けたのだから当然である)
平家にこのことが知れたら一大事であるとすぐさま男児を処刑。
さらに頼朝の暗殺に動いたが、頼朝は北条時政の邸宅に逃げ込み難を逃れた。
(これにより、源頼朝と北条政子の縁が出来たわけだが・・モテすぎではないだろうか)
この後の八重姫がどうなったかは諸説あるが、一説では
ほとぼりが冷めた後に恋しい頼朝の様子をこっそり見に行った八重姫であったが
頼朝と政子が恋仲となっており子供まで授かって仲睦まじく暮らしている場面を見てしまった為
悲観の末、伊東屋敷へ帰ることはなく入水自殺したとされる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第115回:興隆の承伝「禁門の変 長州軍」】
我が身、天下へ飛翔する!
平氏興隆の祖:平正盛の嫡子、平忠盛。日本史上初の武家政権を確立させた平清盛の父である。
(清盛の実父かどうかは諸説あるが群雄伝では清盛の実父ではないとする説を採用
清盛は、忠盛に下賜された「祇園女御の妹と白河法皇の子[※]」という設定になっている)
※[下賜された時に既に白河法皇の子を妊娠していた]というもの
父:正盛が検非違使・追捕使(当時の警察のようなもの)を担い
盗賊捕縛、海賊退治、朝敵とされた面々を討伐して伊勢平氏の活動基盤を確立。
その任を忠盛が引き継ぎ、朝廷においての伊勢平氏の立ち位置を大きく改善した。
そしてとうとう伊勢平氏において初めて「昇殿(内裏清涼殿:殿上の間に立ち入ること)」を許された。
(貴族以外はまず立ち入れない朝廷政務の領域に、武士である平氏が踏み込んだということである
貴族たちはこの平氏の台頭が面白くなく、忠盛の身体的特徴[※斜視]を馬鹿にしていたと記録が残る)
この昇殿を許された頃、貴族:藤原家の娘である「藤原宗子(後の池禅尼)」を妻とすることで
親族血縁による影響力を展開することにも成功する。
また、商才にも優れていた忠盛は日宋貿易にも力を入れた。
貿易がもたらす富による経済基盤は平氏勃興を成すうえでの最大の要因であったともされる。
その後、順調に出世を重ねていくが、平氏の最盛期は見ぬまま58歳で死去。
死後、伊勢平氏棟梁は清盛が引き継ぎ、保元の乱・平治の乱の勝者となった清盛は天下に飛躍した。
※斜視:両目の焦点が合わず目標物に対する視線が合わない身体的特徴。
(群雄伝においてもこの身体的特徴を嘲笑われるシーンがある)
イラストでは片目を隠しており、暗にこれを表現したものとなっている。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
信長の野望 天下創世PK 合戦トライアル 日本史編 南北朝の戦い
何の変哲も無いプレイ動画へようこそ。ほとんどの人があっさりとクリアするであろう例のステージです。さすがに短すぎたので、おまけという名の水増し。 ステージ選択~部隊紹介(0:00~0:47) 合戦(0:47~2:02) 合戦評価~次回予告(2:02~2:46) おまけ(2:47~8:44) 後三年の役→sm12162296 保元・平治の乱→sm12178466 源平合戦→sm12186757 応仁の乱→sm12720169 合戦トライアル一覧→mylist/21308695 河野家プレイ一覧→mylist/1172155
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第84回:栄耀栄華】
俺たち武士が、このデッカイ天下を持ち上げてやるんだッ!!
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男:平清盛。
母については不明。一説では白河法皇の落胤(認知されない子)であるとも
実は忠盛とは血は繋がっていないとも伝わっているが、事実定かではない。
(群雄伝では祗園女御の妹と白河法皇の子であるという説を採用している)
公家貴族や朝廷の小間使いでしかなかった「武士」という存在の身分を改めさせ
日本史上初の太政大臣にまで上り詰めて武士政権を確立させた武士ある。
朝廷内の権力争いを発端とした保元の乱。
平氏・源氏ともに二分したこの派閥争いでは源義朝と協力してこれに勝利。
さらに時が経ち、後白河天皇が上皇となったのち再度朝廷内の派閥争いから平治の乱が発生。
清盛の留守を狙った義朝のクーデター行為に対して、清盛はすぐに軍勢を編成して京に戻り鎮圧。
ただ一つ、平清盛は優しすぎた。源義朝の嫡男を流罪で済ませてしまったのである。
「平家にあらずんば人にあらず」
平治の乱から二十年に渡り、平家の隆盛はその極みに達していた。
朝廷内の平氏の台頭が面白くない貴族たちが決起する前に粛清した「鹿ヶ谷事件」
かつて支持した後白河上皇との対立。院政を遮断させた「治承三年の政変」
これらの事件を経て、平家へ反旗を翻す諸勢力が各地に発生。
それら反:平家勢力を束ねるのはもう一つの武家である源氏。
そして源氏を束ねる男は、かつて自身が見逃した・・源義朝の嫡男:源頼朝だった。
(これが、倒した敵の男児は必ず殺すのが武士の習いとなった原因である)
各地で反平家の声が高まる中、清盛は熱病を発してこの世を去った。
「おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し」
それから4年後、かつて隆盛を誇っていた平家は連敗を重ね、壇ノ浦にて滅亡することとなる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第126回:賢尼の後ろ盾】
さぁ行ってこい!お前たちがこの国を護るんだよ・・!
源義朝の時代、坂東武者の統率に成功。武蔵国にもその勢力を伸ばしていた。
武蔵国代官:比企遠宗(ひき とおざね)。別名:比企掃部允(ひき かもんのじょう)。
その正室、比企尼(ひきのあま)。源頼朝の乳母の一人である。
※比企尼の父母および出自、さらに本名に関しては不明。
源義朝が平治の乱にて破れ死亡。その嫡子である源頼朝は平清盛継室:池禅尼の助命嘆願もあり
死罪は免れるものの伊豆への流罪となった。
かつて坂東武者を統率した義朝の縁から比企尼は伊豆への援助を20年間続けた。
(平氏の世となっている状況で、これを理由にして何らかの嫌がらせや処罰が
下ることも十分に有り得る状況で20年間にも渡って頼朝への援助を続けたのである)
後に「以仁王(もちひとおう)」から平家打倒の号令が発布されると
瞬く間に日本各地から反平家の軍勢が一斉蜂起を開始。
それまで栄華を誇っていた平家は約5年後に滅亡することとなる。
比企家の「源氏を影からずっと支え続けていた恩義」に報いる形として
男児に恵まれなかった比企尼の娘や孫娘を源氏重役の正室として迎えさせ
比企家の断絶対策として頼朝は自身の甥を養子に取らせた。
それが後の鎌倉殿の13人の一人、比企能員(ひきよしかず)である。
(ただし、この後の比企能員がどうなったかというと・・・後のカード追加にて主役足り得るかもしれない)
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第157回:奉武の飛翔】
我が飛翔より、この戦は始まるぅぅ!!
相模国豪族:三浦義明の末子にして十男:三浦義連。
佐原城を拠点としたことから佐原義連と称され、三浦義澄の弟にあたる。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
三浦氏は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ
源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。
その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。
身内であろうと疑わしきは罰するほど猜疑心の強い頼朝は寝所護衛者を厳選。
佐原義連はその武勇と誠実な人柄から寝所警護の十一人に選出され近衛衆となった。
後に源義経軍に従い参戦した一ノ谷の戦いの勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」では
崖の急さに怖気づく坂東武者を鼓舞するため真っ先に駆け下り、勝利を引き寄せたという。
治承・寿永の乱、奥州合戦で武功を上げた義連は陸奥国会津四郡を与えられた。
没年は正確には不明だが、少なくとも75歳まで生きたとされており兄と同じく長寿であった。
後に三浦一族は鎌倉幕府内の政権争いで滅亡することとなるが
この佐原氏の血筋は残っており会津蘆名氏として戦国時代にも残る大名となった。
(佐原義連の孫の代から蘆名氏となり、15代ほど後にKNGM兄貴が活躍する)
三浦一族の例に漏れず非常に神仏に対する信心が深く、自ら満願寺を創建。
観世音菩薩立像・地蔵菩薩立像・不動明王立像・毘沙門天立像等が安置されており
現在でも国家指定の重要文化財、市指定の重要文化財となっている。
これがイラスト内の佐原義連の背にある千手観音菩薩の腕群の由来である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第132回:蛇智奸佞】
「武士」という毒を如何に使いこなすかが、腕の見せ所よ・・!
後の征夷大将軍:源頼朝の第一の郎党と称される武将:梶原景時。
坂東武者であった梶原氏は源氏の家人として仕えていたが平治の乱で源義朝が討たれた為に
一時平家に従う姿勢を取っていた。
後に平家打倒の為に頼朝が挙兵。これに対して梶原景時は大庭軍と協力して頼朝軍を撃破した。
山中に逃げた頼朝を発見するが、そもそもが源氏の家人であった景時はこれを敢えて見逃し
その後、再起を果たした頼朝に速やかに降伏して源氏勢力に付いた。
平氏での戦いでは諸将が「○○で戦って勝った」という報告しか上げないことに対して
景時だけは戦の詳細や物事の日時を細かく記した報告書を提出しており
これにより細やかな報告を重要視する頼朝の信頼を得た。(彼の落城台詞はこの逸話の再現である)
頼朝の信任厚い景時は、主君の命であればどんなことでも遂行した。
謀反の疑い有りとされた上総広常を双六の最中に突如誅殺したこともその一環である。
主君の為に汚れ役を買って出ていた景時に対して、周囲からの恨み妬みは集中していった。
(義経との確執も有名で、彼の讒言が、頼朝が義経を討つ決定的出来事になったとも言われている)
鎌倉幕府発足後、鎌倉殿の13人の一人に数えられるが、彼は周りからの恨みと嫉妬を買いすぎていた。
頼朝死後、幕府家臣:結城朝光を誹謗したことを切っ掛けにして御家人諸将が結託して
諸将66名による連判状が提出され、景時の排斥を求めた。
景時はこれに一切の弁明をせずに重役の位置から身を下ろすが
さらに謀反の疑い有りと疑いを掛けられて諸将連合軍に追討を受ける。
瞬く間に一族郎党を含めて景時も討ち取られ梶原家は滅亡に至った。
この「梶原景時の変」を皮切りに、頼朝死後の権力争いが繰り広げられることなる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第147回:尼将軍の魂陣】
深き哀しみを越え、私は再び戦いに出る!
伊豆国豪族:北条氏。北条時政の娘、北条政子。
日本初の武士政権組織:鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝の正室である。
平治の乱にて河内源氏:源義朝が討ち取られ、義朝の嫡男たる頼朝は伊豆へ流された。
その頼朝の監視役となったのが伊豆国の地方官僚であった政子の父:北条時政であった。
当時の政子は4歳、頼朝は14歳であったが、20年にも及ぶ流刑の中で二人は恋仲となった。
出会いから16年後に、政子は周囲の反対を押し切って頼朝と婚約。
(北条氏は平氏の分流であり、本来敵対関係の源氏嫡流との結婚は当然ながら反感を受ける)
頼朝との仲は大変仲睦まじく、二男二女を授かった。
壇ノ浦の戦いにて平氏が滅び、奥州藤原氏を滅ぼして東国に政権を集約したのも束の間
頼朝は征夷大将軍に任命されてから7年後に病死してしまう。
この頃、政子は夫の死を切っ掛けに出家して尼となったが
初代将軍の正室であり第二代将軍(および第三代将軍)の母として「尼御台」の通称を得て
鎌倉政権内で大きな発言権を有した。
(尼御台:戦国期における寿桂尼と同じ敬称。貴人正室への敬称として「御台所」があり
その対象が出家している尼であった場合のもの。英傑大戦では両名とも井上喜久子さんが演じている)
時が経ち、源頼朝の遺児である第二代将軍も第三代将軍も悲劇の結末を遂げる。
鎌倉幕府内の内部政争を見て、これを好機と政権を取り戻す為に
執権:北条義時(政子の弟)打倒を掲げて後鳥羽上皇が挙兵(承久の乱)
朝廷に付くか幕府に付くか、御家人は揺れに揺れるが、幕府の危機に政子が立ち上がった。
「最期の詞(ことば)」と呼ばれる演説を行い、源氏恩顧の将へ一致団結を促したのである。
朝廷軍兵力の10倍にも及ぶ源氏恩顧の将兵(総兵力19万)の動員に成功した幕府軍は朝廷軍に圧勝。
以後、鎌倉幕府は朝廷を監視する目的で六波羅探題を設置した。
そして、承久の乱から4年後、69歳の天寿を全うして、鎌倉幕府を護った女傑はこの世を去った。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第159回:盤上遊戯】
邪魔者は我が世界から消えてなくなれ!
僅か5歳で天皇に即位した第74代天皇:鳥羽天皇。
鳥羽天皇が14歳の時に祖父:白河法皇の養女であった藤原璋子(院号:待賢門院)が入内。
その翌年には中宮(天皇の妻)となった。
その後すぐに息子の崇徳天皇に譲位するが、白河法皇の院政全盛期であった為に鳥羽上皇には実権は無かった。
白河法皇崩御後は今度は鳥羽上皇の院政の時代となり、白河法皇の養女であった藤原璋子は冷遇。
代わりに寵愛されたのが藤原得子(ふじわらの/とくし[なりこ])(院号:美福門院)である。
得子は藤原の生まれではあるものの上流貴族とは程遠く、本来皇后になれる身分ではなかったが
鳥羽上皇に強く愛され、後の第76代天皇となる近衛天皇を出産。
鳥羽上皇は自身と得子の息子を天皇にするために崇徳天皇(藤原璋子との子)を除した。
親族の後ろ盾が無い得子は自身の基盤を保つために政敵であった璋子を呪詛の疑いで追放し
自身に都合の良いように養子を取るなど、御家のためにも自身のためにも手段を選ばなかった。
得子が招いた皇族血脈の混乱によって次期天皇争い:保元の乱が発生。
ここでは本来敵側である清盛・義朝側に肩入れして勝利に貢献。
続く平治の乱では本来味方である義朝から鞍替えして清盛側に付いて勝利に導いたが
同年、得子は病死した。
その後、武士による統治が始まっていくが
保元の乱の発生自体が得子の処世術ゆえに起こった乱であるために
得子は貴族政治の終焉を招いた人物として後生に名を残した。
結果的に朝廷内の混乱を発生させたことから三大妖怪:玉藻前のモデルは美福門院とされている。
英傑大戦内でもこの2名は各台詞がどれも同一の意味となっており
彼女の全体イラストでは装束に日本古代文字(ホツマ文字)で「たまも」と書かれている。
※あくまでモデルなので「きんとき」と同じく同時使用は可能である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第134回:興隆の軌跡】
平家の誇りを守りたくば、この知盛に続け!!
武士として異例の太政大臣まで上り詰めた平清盛。その四男:平知盛。
平時子の息子としては次男にあたり、同父母の兄は平宗盛。
源平合戦における源氏側の武を担ったのが源義経だとすれば
平家側の武を担ったのが平知盛であるとされ、共にERでの登場となった。
平治の乱後、平家の興隆はその極みに達して清盛の子であった知盛は従二位:中納言まで昇進したが
「以仁王による平家打倒の号令」が発布されると日本各地で反平家勢力が挙兵。
その最中で総合指揮を取るべき清盛が病死した為に
時子長男の宗盛は政治、知盛は軍事の中枢として平家一門の旗振りを行った。
(平家物語の中で宗盛は武士の棟梁の器ではない愚物として扱われ
その後の軍記でも捕虜になった後の命乞いの醜さなどから全く評価されていないこともあり)
実質的に平家一門を連れて各地で戦ったのは知盛であるとされている。
(その関係から2コスERの知盛に対して、宗盛は1コスNと、平家大将としての格差が大きい)
勢いに押された平家は京を追われ、各地での連敗によってとうとう本州最西端の壇ノ浦まで追い詰められる。
そこで知盛は総大将の一角として奮戦するが、周辺各地の豪族が源氏側に付き
どうあがいても勝ち目が無いことを悟った知盛は兵士へ停戦を命令。
「源氏側兵士にも平氏側兵士にも家族がいて、勝敗の決まった無駄な戦闘で死ねばその家族が悲しむ」と。
その後、平家一門の入水自殺を見届け、自身も二層の鎧と錨を体に巻きつけ
「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して一族の後を追って入水して自害。
敗れはしたものの、武に長け指揮に長け、勇ましくそして優しい英傑の死であった。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第138回:与一の目覚め】
与一、一世一代の戦いだ。風よ!黙って矢を運べ!!
平安時代に名を起こし、後に明治士族にまで歴史を残す下野国那須郡:那須氏。
一世一代の偉業を成し遂げ那須氏の興隆を果たした弓の名手:那須与一宗隆(なすの/よいち/むねたか)
(与一とは名前というよりも「余一」を指す。十一男を指す通称である)
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
源平合戦と称される治承・寿永の乱に兄:那須十郎為隆(名の通り十男)と共に源氏方として参戦。
その他9人の兄は平氏方に属した為に兄弟間で争う形となった。
与一の名を日本最高の弓使いとして後世に名を知らしめたのは「屋島の戦い」での出来事。
一時休戦中であった源平軍であったが、戦乱であっても貴族的な催しを重んじる平家側は
突如、小船から美女を出して、棒に立てた扇子を掲げさせた。
「源氏が神の加護を受けた強兵と言うならば当ててみよ」という挑発である。
義経は戦の吉凶を決めるこの挑発に対して那須十郎為隆を射手に選出するが戦傷を理由に辞退。
自分以上の弓使いであると弟を推挙し、この一世一代の大役を那須与一が担うこととなった。
これに失敗すればその場で自害する覚悟のもと南無 八幡大菩薩と祈り
扇子に向けて弦を引き絞り、矢を放った。結果は・・・見事一射で命中。
源氏側は当然として平氏側もこの神業を敵ながら天晴れであると大盛り上がりとなった。
あくまで戦争中であることを忘れて船正面に出てきて舞い踊った平氏軍兵士もいたが
義経の命令による与一の第二射によって討ち取られたという。
「我が軍は精鋭強兵、そして神の加護がある」と確信した源氏軍はこの後、平氏軍を散々に打ち破った。
この大役を見事に果たした与一には5ヵ国に跨っての恩賞地が与えられ
さらには平氏側についた九人の兄たち全員に特赦が掛けられた。
与一は総勢十名の兄を差し置いて那須家当主となり、那須氏隆盛の礎となった。
屋島の戦いでのたった一射・・ただし神業的な一射によって那須氏勃興を果たし
「日本最高の弓使い:那須与一」の名が残ることとなったのである。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第139回:奉武の指揮】
三浦の加護を!君たちにも授けよう!!
相模国三浦郡、現在の三浦半島を拠点とした豪族武士:三浦氏。
平安時代末期に源氏に仕えるが、源流は平氏であったとされる。
その三浦氏第五代当主:三浦義澄。第四代当主、三浦義明の次男である。
平治の乱にも源義平軍に属して参戦していたが、河内源氏当主:義朝が敗れ討たれると関東まで落ち延びた。
その後、兄が戦傷が元で死去した為に次男である義澄が家督を継いだ。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
三浦義済は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ
源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。
その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。
以降の一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いにも参戦して武功を上げ、頼朝の家臣として確固たる地位を築いた。
鎌倉幕府完成後は鎌倉殿の13人メンバーの一人に数えられ、梶原景時の鎌倉追放に加担。
その後まもなく病死したが、当時としては非常に長寿な74歳の生涯であった。
(だが、鎌倉幕府の政権争いで残念ながら三浦氏はその後、滅亡してしまう・・)
英傑大戦内では「三浦」に非常に強い誉れを感じているふしがあるが、これは三浦半島に
源氏ゆかりの寺社(大椿寺、本瑞寺、見桃寺、海南神社、三浦三十三観音等)が多数存在している為
三浦にはそれら仏や神々の加護があることに由来していると思われる。
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5-5 世界一わかりやすい 河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座
【第五章⑤ 土地制度の移り変わり3/保元の乱・平治の乱】
わかりやすい授業で有名な、河合敦先生の「世界一の授業」を再現した特別講座!
参考書を片手に授業動画を見れば、古代~鎌倉時代の“苦手ポイント”がスッキリ解消します!!
『世界一わかりやすい 河合敦の 日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』(本体価格1,300円/河合敦 著/KADOKAWA中経出版 刊行/(C)2014 Atsushi Kawai)
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第155回:義仲四天王】
義仲様、最期まで供を致します!
来い!弓矢がお待ちかねだ!
お前たちの相手は俺だ!
地獄谷へ落ちたな!あとは狩るだけだ!!
木曽の選ばれし剛勇!義仲四天王!!
力を合わせて、敵をぶっ倒すぜぇぇぇ!!
平治の乱から25年。「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布した際
木曽地方から破竹の勢いで京へ攻め入り平氏を四散させた英傑:木曽義仲。
義仲の義父:中原兼遠の実子である中原兼平(今井兼平)。
その兄にあたる中原兼光(樋口兼光)。
僅か300の兵で義経軍2万5千人に立ち向かった根井行親。
同じく父と共に戦った行親の六男、楯親忠。
木曽義仲挙兵から付き従い、倶利伽羅峠の戦いの劇的勝利を初めとした義仲軍の快進撃に貢献。
そして義仲と共に死を迎えた4人。彼らを称して「義仲四天王」と後世に伝えられる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
5-6 世界一わかりやすい 河合敦の日本史B[原始~鎌倉]の特別講座
【第五章⑥ 保元の乱・平治の乱2/平氏政権のしくみ】
わかりやすい授業で有名な、河合敦先生の「世界一の授業」を再現した特別講座!
参考書を片手に授業動画を見れば、古代~鎌倉時代の“苦手ポイント”がスッキリ解消します!!
『世界一わかりやすい 河合敦の 日本史B[原始~鎌倉]の特別講座』(本体価格1,300円/河合敦 著/KADOKAWA中経出版 刊行/(C)2014 Atsushi Kawai)
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第172回:忠臣の昂陣】
父上、我ら平氏は朝廷をお護りする家です。お目覚め下さい!
我ら平氏が敵を平らげる!
史上初の武家政治を作り出した平清盛。その長男:平重盛。
清盛と清盛の最初の妻との間に出来た長子であり保元の乱/平治の乱に従軍し武功を上げた。
特に平治の乱では、源義朝の長男である義平軍と交戦。
※清盛vs義朝の互いの長男である重盛vs義平の状態。敵軍側に義平がいる場合は開幕特殊台詞となる
また、その際の特殊台詞は平治の乱で義朝軍の鎮圧にあたっての史書での発言
「年号は平治、都は平安、我らは平氏、ならば敵を平らげよう!」を元としており
本文冒頭の計略台詞(「平」氏が「平」げる)もセガが勝手にダジャレを言わせてるわけではない。
重盛は、清盛の長男(=嫡男)として本来はその跡目を継ぐ最有力者である人物である。
しかし、母方の家格がそれほど高くはなく、それに引きずられる形で冷遇。
そんな肩身の狭さでも清盛-朝廷間の仲の取り持ちに心を擦り減らしていたが
自身と親密であった朝廷との取り次ぎ役が打倒平氏の首謀者であった事件(鹿ケ谷の陰謀)が発生し
平家一門内での立場が完全に無くなってしまう悲劇に陥ってしまう。
こうした心労が重なり、重盛は清盛よりも先に病死してしまう。
その後、清盛は完全に暴走状態に陥り、朝廷から政治の実権を奪い取る「治承三年の政変」が発生。
これらの朝廷を蔑ろにした平氏の横暴は、後の平氏打倒の号令「以仁王の令旨」に繋がっていく。
・・・重盛という朝廷との調整役を失ったことが、平家滅亡の始まりとなったのである。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055