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「保元・平治の乱」第99回黒田裕樹の歴史講座 6/8
この動画は第99回黒田裕樹の歴史講座「日本古代史その7 ~院政と平氏の隆盛~」のうち「保元・平治の乱」の講演を、令和5(2023)年12月に新たに収録したものです。
動画のレジュメは「黒田裕樹の百万人の歴史講座」から入手できます。ぜひご加入ください。過去からの全てのレジュメを読むことができます。今なら20,000円で永久会員です!
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黒田裕樹の歴史講座・メルマガ編
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第199回:平家打倒の檄「一ノ谷の戦い 平氏軍」】
気高き武士よ、今こそ立ち上がる時ぞ!
平安中期、土蜘蛛退治、酒呑童子退治の伝説を持つ武将:源頼光。
そしてその源頼光の直系の玄孫にあたる武将が源頼政である。
頼光が没してから80年ほど時が流れて平安後期に入った頃
宮中に鵺(ぬえ)という妖怪が出現した為、鵺退治を源頼光の直系の玄孫:源頼政が担った。
頼政は源氏家宝の雷上動という弓を用いて鵺を撃ち落とした。(頼政の鵺退治伝説)
源平合戦の前日譚となる保元の乱では後白河天皇側に付き勝利。
続く平治の乱では源氏側の源義朝には従わずに、平清盛側に付いて(※)勝利。
(※頼政は尊王派である為、天皇・上皇に対して貴族を担いで乱を起こした義朝に従う義理が無い)
平氏の世になった状態で、当時としては長寿の75歳になった頼政は源氏が賜った位としては
史上初の従三位へ昇格して源氏初の昇殿を許される身分となった為、「源三位」の通称を得た。
平清盛の信任を得たことでこの身分にまで登りつめたのだが、問題が発生する。
朝廷(天皇)に仕える身分であるはずの平氏が法皇を幽閉して
完全に朝廷を牛耳り(治承三年の政変)明らかに天皇を軽んずる姿勢を取ったのである。
これに対して頼政は激しく怒った。(ただし、これは反平家となった説の一つである)
(平治の乱では平家に従ったわけではなく。「天皇に味方する」のが頼政の行動理念に見える)
平家によって得た身分という恩よりも源氏の使命を重く見た頼政は、後白河法皇の第三皇子・以仁王と結託。
平家打倒の令旨を全国の諸勢力に送る計画を実行していたが、これが露見してしまう。
平家の討伐軍を察知した頼政は以仁王と合流して、宇治川にて平家軍と対峙。(宇治川の橋合戦)
平家物語での兵力記述では源頼政1000に対して平家軍28000。
戦力差30倍近くでは戦にならず、頼政は以仁王の脱出を最優先として奮戦するも追い詰められ自刃。
以仁王も軍勢に追いつかれて討ち取られる結果となった。
しかし、この事件を発端にして日本各地での反平家諸勢力の武力蜂起が開始され
後の世で「源平合戦」と呼ばれる内乱が発生し、頼政の平家打倒の檄を発端にして平家は滅ぶこととなった。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【MoE?】編集の彼方に Listener of Epoch - Other Days 04
平治の乱終結から864年、官営八幡製鐵所操業開始から123年、アポロ14号月面着陸から53年、X線天文観測衛星「ぎんが」打上げから37年、年始から36日目、又吉イエスの誕生日、貴家堂子の命日、エコチュウの日、ピカチュウの日に。
自分で作るより、人に作らせた方が面白いのできるよね!
と思って、人様にMoE動画を作らせようという、傲岸不遜な動画だよ。
そろそろ知識の無さが露呈する
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第180回:五条橋の小天狗「幕末の風雲児争奪戦」】
天地全てが、牛若の征く道と知れ!
河内源氏六代目棟梁:源義朝。その九男:源義経。幼名を牛若丸。稚児名を遮那王。
母は義朝の側室:常盤御前。後の鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝は彼の異母兄である。
義経の人生の転換期は「平治の乱」である。
この戦いを引き起こした上で敗れた父:義朝は郎党の身内に討たれるに至った。
母:常盤御前と共に避難するも祖母(常盤御前の母)が人質に取られたことで平家側に降伏。
父の罪を子に被せなかった清盛の恩情によって助命され、鞍馬寺に預けられ、遮那王の名を与えられた。
(伝説では、この時に鞍馬山に住む鞍馬天狗に剣術修行を施されたとされる)
成長後、京に降りた牛若丸は、町民から噂を聞きつけた。
「京都五条橋にて道行く武士を襲って武器を奪い続ける謎の男がいる」と。
雅に横笛を吹きながら五条橋に向かうと、破戒僧、荒法師のような男が立っていた。
噂通り、太刀を置いていくことを迫られた牛若丸はこれを拒否。
怒った荒法師は薙刀で牛若丸を斬りつけたがヒラリヒラリと身をかわし
果ては橋の欄干を飛び跳ねて、荒法師の攻撃は全く当たらなかった。
疲れ果てた荒法師は、牛若丸に降参。そこで牛若丸はこの豪傑を臣に置くことを決めた。
その男の名は武蔵坊弁慶。
栄光を手にした後に破滅へと向かう牛若丸こと源義経がその生涯を終える直前まで
命を懸けて戦い続けた忠臣との出会いであった。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第172回:忠臣の昂陣】
父上、我ら平氏は朝廷をお護りする家です。お目覚め下さい!
我ら平氏が敵を平らげる!
史上初の武家政治を作り出した平清盛。その長男:平重盛。
清盛と清盛の最初の妻との間に出来た長子であり保元の乱/平治の乱に従軍し武功を上げた。
特に平治の乱では、源義朝の長男である義平軍と交戦。
※清盛vs義朝の互いの長男である重盛vs義平の状態。敵軍側に義平がいる場合は開幕特殊台詞となる
また、その際の特殊台詞は平治の乱で義朝軍の鎮圧にあたっての史書での発言
「年号は平治、都は平安、我らは平氏、ならば敵を平らげよう!」を元としており
本文冒頭の計略台詞(「平」氏が「平」げる)もセガが勝手にダジャレを言わせてるわけではない。
重盛は、清盛の長男(=嫡男)として本来はその跡目を継ぐ最有力者である人物である。
しかし、母方の家格がそれほど高くはなく、それに引きずられる形で冷遇。
そんな肩身の狭さでも清盛-朝廷間の仲の取り持ちに心を擦り減らしていたが
自身と親密であった朝廷との取り次ぎ役が打倒平氏の首謀者であった事件(鹿ケ谷の陰謀)が発生し
平家一門内での立場が完全に無くなってしまう悲劇に陥ってしまう。
こうした心労が重なり、重盛は清盛よりも先に病死してしまう。
その後、清盛は完全に暴走状態に陥り、朝廷から政治の実権を奪い取る「治承三年の政変」が発生。
これらの朝廷を蔑ろにした平氏の横暴は、後の平氏打倒の号令「以仁王の令旨」に繋がっていく。
・・・重盛という朝廷との調整役を失ったことが、平家滅亡の始まりとなったのである。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第160回:謀将の密計】
うるせぇうるせぇ!やったもん勝ちだぁ!
伊豆国豪族:北条時政。後の北条得宗家初代当主にして鎌倉幕府初代執権。
平治の乱に敗れた河内源氏の嫡流、源頼朝が伊豆国へ流された際に北条家はこの監視役にあたった。
そんな中で長女:政子が頼朝と恋仲となってしまった為に、当初これに猛反対するが
最終的に二人の仲を許して源頼朝の義父として源氏と交友するに至る。
壇ノ浦の戦いで平氏が滅んだ後に、源頼朝の命によって京の守護を担い朝廷との交渉役を務め
1185年 後白河法皇に対して幕府政権に不可欠な「守護・地頭の設置」を認めさせた。
(現代教育ではかつて鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年としていたが
現在では「守護・地頭の設置=日本各地の統治・税収権を得た」1185年が鎌倉幕府の成立年とされている)
そして1199年、義理の息子でもあった源頼朝が死去。
これを契機に鎌倉幕府内で権力闘争が発生し
時政は嫡男である義時と共に北条家によって幕府を牛耳ろうと画策。
「梶原景時の弾劾」「比企能員の暗殺」
手段を選ばずに政敵を排除し続けた北条氏は権力を増し続けて
頼朝の息子である第2代将軍である源頼家を廃するほどになっていった。
その後、時政の娘婿:平賀朝雅と、畠山重忠の嫡男:畠山重保が酒宴の席で喧嘩を起こし
これを見た時政の後妻である「牧の方」は自身の娘婿を支持。
牧の方の進言によって時政は畠山重忠に叛意有りと虚報を流して討伐隊を編成。
義時にも命じて畠山重忠を討ち取ったが、これは虚報であったことが発覚し
義時は義兄弟であった重忠の首を前にして、父:時政との対立を決意した。
幕府内の人心を失い焦った時政は牧の方と共謀して平賀朝雅を将軍に擁立させようとするが
義時・政子という自身の子たちに妨害され、御家人の大多数が義時を支持したことにより
時政は強制的に出家させられて追放。元の伊豆の地で隠居生活を送り
そのまま、やっと掴んだはずの栄華とはほど遠い僻地にて死去した。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第159回:盤上遊戯】
邪魔者は我が世界から消えてなくなれ!
僅か5歳で天皇に即位した第74代天皇:鳥羽天皇。
鳥羽天皇が14歳の時に祖父:白河法皇の養女であった藤原璋子(院号:待賢門院)が入内。
その翌年には中宮(天皇の妻)となった。
その後すぐに息子の崇徳天皇に譲位するが、白河法皇の院政全盛期であった為に鳥羽上皇には実権は無かった。
白河法皇崩御後は今度は鳥羽上皇の院政の時代となり、白河法皇の養女であった藤原璋子は冷遇。
代わりに寵愛されたのが藤原得子(ふじわらの/とくし[なりこ])(院号:美福門院)である。
得子は藤原の生まれではあるものの上流貴族とは程遠く、本来皇后になれる身分ではなかったが
鳥羽上皇に強く愛され、後の第76代天皇となる近衛天皇を出産。
鳥羽上皇は自身と得子の息子を天皇にするために崇徳天皇(藤原璋子との子)を除した。
親族の後ろ盾が無い得子は自身の基盤を保つために政敵であった璋子を呪詛の疑いで追放し
自身に都合の良いように養子を取るなど、御家のためにも自身のためにも手段を選ばなかった。
得子が招いた皇族血脈の混乱によって次期天皇争い:保元の乱が発生。
ここでは本来敵側である清盛・義朝側に肩入れして勝利に貢献。
続く平治の乱では本来味方である義朝から鞍替えして清盛側に付いて勝利に導いたが
同年、得子は病死した。
その後、武士による統治が始まっていくが
保元の乱の発生自体が得子の処世術ゆえに起こった乱であるために
得子は貴族政治の終焉を招いた人物として後生に名を残した。
結果的に朝廷内の混乱を発生させたことから三大妖怪:玉藻前のモデルは美福門院とされている。
英傑大戦内でもこの2名は各台詞がどれも同一の意味となっており
彼女の全体イラストでは装束に日本古代文字(ホツマ文字)で「たまも」と書かれている。
※あくまでモデルなので「きんとき」と同じく同時使用は可能である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第157回:奉武の飛翔】
我が飛翔より、この戦は始まるぅぅ!!
相模国豪族:三浦義明の末子にして十男:三浦義連。
佐原城を拠点としたことから佐原義連と称され、三浦義澄の弟にあたる。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
三浦氏は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ
源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。
その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。
身内であろうと疑わしきは罰するほど猜疑心の強い頼朝は寝所護衛者を厳選。
佐原義連はその武勇と誠実な人柄から寝所警護の十一人に選出され近衛衆となった。
後に源義経軍に従い参戦した一ノ谷の戦いの勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」では
崖の急さに怖気づく坂東武者を鼓舞するため真っ先に駆け下り、勝利を引き寄せたという。
治承・寿永の乱、奥州合戦で武功を上げた義連は陸奥国会津四郡を与えられた。
没年は正確には不明だが、少なくとも75歳まで生きたとされており兄と同じく長寿であった。
後に三浦一族は鎌倉幕府内の政権争いで滅亡することとなるが
この佐原氏の血筋は残っており会津蘆名氏として戦国時代にも残る大名となった。
(佐原義連の孫の代から蘆名氏となり、15代ほど後にKNGM兄貴が活躍する)
三浦一族の例に漏れず非常に神仏に対する信心が深く、自ら満願寺を創建。
観世音菩薩立像・地蔵菩薩立像・不動明王立像・毘沙門天立像等が安置されており
現在でも国家指定の重要文化財、市指定の重要文化財となっている。
これがイラスト内の佐原義連の背にある千手観音菩薩の腕群の由来である。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第156回:英俊豪傑】
軽い軽い!端武者ごとき、重忠の敵ではない!!
鎌倉御家人の代表格:畠山重忠。
誠実にして清廉潔白、質実剛健の武士を絵に描いたような人物であり「坂東武者の鑑」と評される。
元は源義朝に従った坂東武者であったが、平治の乱にて義朝が討ち取られると一時平家へと従った。
それから20年後、源頼朝が挙兵すると平家方として初め参戦。
頼朝軍と合流しようとした三浦軍と交戦し、三浦家当主、三浦義明を討ち取った。
この後、再起を図った頼朝に対しては由緒ある白旗を持参して速やかに降伏したとされる。
(ここらへんの状況は、梶原景時と似た立ち回りを取っている)
木曽義仲軍との戦いでは男顔負けの武力を持つ巴御前と一騎討ちを行い
剛力自慢の巴御前を力で上回り、巴御前の鎧を素手で引き裂く膂力を見せて一騎討ちを制した。
続く一ノ谷の戦いでは勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」にて
真っ先に飛び出して行った佐原義連に続いて
重忠は馬が怪我をしてはいけないと言って「馬を抱えて崖を下っていった」とされる。
平家が滅んだ後は鎌倉有力御家人として梶原景時の排斥を求める連判状にも協力。
しかし、自身の嫡子:畠山重保と北条時政の娘婿:平賀朝雅が酒席にて口論となり
これを境にして政敵であった北条時政が畠山重忠に謀反の疑いをかけた。
時政はまず重保を暗殺して、重忠を別件にて鎌倉へ参集するように使いを出した。
鎌倉幕府参集が自身を討ち取るための罠であり
北条軍が自身に差し向けられたことに気付いた重忠は北条軍に立ち向かうことを決意。
兵力100人程度の配下と共に戦うが、衆寡敵わず戦死した。
この畠山重忠の乱は鎌倉幕府の忠臣を失う結果となり
虚偽の謀反の疑いであったことがわかったことで義時は父:時政と対立。
さらに時政の暴挙とも言えるこの事件によって時政から人心が一斉に離れていくこととなった。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第155回:義仲四天王】
義仲様、最期まで供を致します!
来い!弓矢がお待ちかねだ!
お前たちの相手は俺だ!
地獄谷へ落ちたな!あとは狩るだけだ!!
木曽の選ばれし剛勇!義仲四天王!!
力を合わせて、敵をぶっ倒すぜぇぇぇ!!
平治の乱から25年。「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布した際
木曽地方から破竹の勢いで京へ攻め入り平氏を四散させた英傑:木曽義仲。
義仲の義父:中原兼遠の実子である中原兼平(今井兼平)。
その兄にあたる中原兼光(樋口兼光)。
僅か300の兵で義経軍2万5千人に立ち向かった根井行親。
同じく父と共に戦った行親の六男、楯親忠。
木曽義仲挙兵から付き従い、倶利伽羅峠の戦いの劇的勝利を初めとした義仲軍の快進撃に貢献。
そして義仲と共に死を迎えた4人。彼らを称して「義仲四天王」と後世に伝えられる。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第153回:不離一体】
もう離れません、一緒に行きましょう!
伊豆国豪族、伊東祐親の娘:八重姫。源頼朝の最初の妻である。
同じく伊豆国豪族であった鎌倉幕府初代執権:時政の義妹(正室の妹)であり
第二代執権:北条義時の叔母にあたる。
伊豆国豪族であった伊東祐親は平氏に属する立場であり
平治の乱にて敗れて伊豆に流された河内源氏嫡流:源頼朝の監視役であった。
(同じく頼朝の監視役であった伊豆国豪族の北条家に似た立ち位置と言える)
後に北条政子と婚約する頼朝。北条家は最終的にそれを認める形を取ったが
北条家とは逆に断固として源氏との交流を拒んだのが伊東祐親であった。
伊東祐親が都市警護の任で上洛している際に頼朝-八重姫の間に男児が生まれた。
京から戻った伊東祐親はこれに激怒。
(監査役の自身の娘が、監視対象との間に男児を設けたのだから当然である)
平家にこのことが知れたら一大事であるとすぐさま男児を処刑。
さらに頼朝の暗殺に動いたが、頼朝は北条時政の邸宅に逃げ込み難を逃れた。
(これにより、源頼朝と北条政子の縁が出来たわけだが・・モテすぎではないだろうか)
この後の八重姫がどうなったかは諸説あるが、一説では
ほとぼりが冷めた後に恋しい頼朝の様子をこっそり見に行った八重姫であったが
頼朝と政子が恋仲となっており子供まで授かって仲睦まじく暮らしている場面を見てしまった為
悲観の末、伊東屋敷へ帰ることはなく入水自殺したとされる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第150回:得宗の指願「破天荒争奪戦」】
俺が許可する・・!不穏分子を排除せよ!!
北条得宗家第2代当主にして、鎌倉幕府第2代執権:北条義時。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公。
北条政子の弟にして、鎌倉幕府初代将軍:源頼朝の義弟にあたる。
伊豆国豪族:北条時政(北条得宗家初代当主、鎌倉幕府初代執権)の次男として生まれ
平治の乱に敗れた河内源氏の嫡流、源頼朝が伊豆国へ流された際に北条家はこの監視役にあたった。
後に姉の政子が頼朝と婚約した為、源氏と北条家は奇妙な交友関係を築くこととなった。
源氏挙兵の緒戦「石橋山の戦い」での敗戦で時政の長男:宗時が戦死したことで嫡男格となり
壇ノ浦の戦いで平氏を破ったことで源氏による天下草創が進められ、その近臣に取り立てられた。
頼朝が死去すると鎌倉殿の13人の一人として幕府内の政権争いを北条家が制すことに尽力。
第二代将軍:頼家と時政の不和が発生すると、頼家を擁立した比企家を滅ぼし、頼家も暗殺。
この時は親子で共同戦線を張っていたが、義時の義兄弟であった畠山重忠を征伐したことで
時政と義時の対立が発生。姉:政子と共に時政の追放を計画した。
畠山重忠は鎌倉幕府の忠臣であり、それをあやふやな疑いで討伐した時政を支持する者は少なかった。
幕府内御家人の多くは義時に付き、時政はそのまま失脚/追放となった。
その後、北条家打倒を掲げて挙兵した和田氏も滅亡に追い込んだ。
第三代将軍:源実朝が暗殺されると、第4代将軍に頼朝の親戚であった藤原氏から藤原頼経を置いた。
当時1-2歳であった頼経は完全にお飾りであり、ここで執権が実質的にトップとなる執権政治を完成。
後に幕府の台頭を面白く思わない後鳥羽上皇による「承久の乱」が発生するが
初代将軍:頼朝の正室にして姉の政子による演説もあって鎌倉御家人の一致団結に成功し
朝廷軍を完膚なきまでに撃破して、処罰を与えた。
平安時代において公家の駒でしかなかった武士。(群雄伝の平氏伝・源氏伝の1章が顕著)
その「武士が皇族を処罰する」という完全に立場が入れ替わったことを世に知らしめたのである。
武士の世になったことを天下に示した義時は、承久の乱から3年後にこの世を去った。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第147回:尼将軍の魂陣】
深き哀しみを越え、私は再び戦いに出る!
伊豆国豪族:北条氏。北条時政の娘、北条政子。
日本初の武士政権組織:鎌倉幕府の初代征夷大将軍、源頼朝の正室である。
平治の乱にて河内源氏:源義朝が討ち取られ、義朝の嫡男たる頼朝は伊豆へ流された。
その頼朝の監視役となったのが伊豆国の地方官僚であった政子の父:北条時政であった。
当時の政子は4歳、頼朝は14歳であったが、20年にも及ぶ流刑の中で二人は恋仲となった。
出会いから16年後に、政子は周囲の反対を押し切って頼朝と婚約。
(北条氏は平氏の分流であり、本来敵対関係の源氏嫡流との結婚は当然ながら反感を受ける)
頼朝との仲は大変仲睦まじく、二男二女を授かった。
壇ノ浦の戦いにて平氏が滅び、奥州藤原氏を滅ぼして東国に政権を集約したのも束の間
頼朝は征夷大将軍に任命されてから7年後に病死してしまう。
この頃、政子は夫の死を切っ掛けに出家して尼となったが
初代将軍の正室であり第二代将軍(および第三代将軍)の母として「尼御台」の通称を得て
鎌倉政権内で大きな発言権を有した。
(尼御台:戦国期における寿桂尼と同じ敬称。貴人正室への敬称として「御台所」があり
その対象が出家している尼であった場合のもの。英傑大戦では両名とも井上喜久子さんが演じている)
時が経ち、源頼朝の遺児である第二代将軍も第三代将軍も悲劇の結末を遂げる。
鎌倉幕府内の内部政争を見て、これを好機と政権を取り戻す為に
執権:北条義時(政子の弟)打倒を掲げて後鳥羽上皇が挙兵(承久の乱)
朝廷に付くか幕府に付くか、御家人は揺れに揺れるが、幕府の危機に政子が立ち上がった。
「最期の詞(ことば)」と呼ばれる演説を行い、源氏恩顧の将へ一致団結を促したのである。
朝廷軍兵力の10倍にも及ぶ源氏恩顧の将兵(総兵力19万)の動員に成功した幕府軍は朝廷軍に圧勝。
以後、鎌倉幕府は朝廷を監視する目的で六波羅探題を設置した。
そして、承久の乱から4年後、69歳の天寿を全うして、鎌倉幕府を護った女傑はこの世を去った。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第139回:奉武の指揮】
三浦の加護を!君たちにも授けよう!!
相模国三浦郡、現在の三浦半島を拠点とした豪族武士:三浦氏。
平安時代末期に源氏に仕えるが、源流は平氏であったとされる。
その三浦氏第五代当主:三浦義澄。第四代当主、三浦義明の次男である。
平治の乱にも源義平軍に属して参戦していたが、河内源氏当主:義朝が敗れ討たれると関東まで落ち延びた。
その後、兄が戦傷が元で死去した為に次男である義澄が家督を継いだ。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
三浦義済は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ
源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。
その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。
以降の一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いにも参戦して武功を上げ、頼朝の家臣として確固たる地位を築いた。
鎌倉幕府完成後は鎌倉殿の13人メンバーの一人に数えられ、梶原景時の鎌倉追放に加担。
その後まもなく病死したが、当時としては非常に長寿な74歳の生涯であった。
(だが、鎌倉幕府の政権争いで残念ながら三浦氏はその後、滅亡してしまう・・)
英傑大戦内では「三浦」に非常に強い誉れを感じているふしがあるが、これは三浦半島に
源氏ゆかりの寺社(大椿寺、本瑞寺、見桃寺、海南神社、三浦三十三観音等)が多数存在している為
三浦にはそれら仏や神々の加護があることに由来していると思われる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第138回:与一の目覚め】
与一、一世一代の戦いだ。風よ!黙って矢を運べ!!
平安時代に名を起こし、後に明治士族にまで歴史を残す下野国那須郡:那須氏。
一世一代の偉業を成し遂げ那須氏の興隆を果たした弓の名手:那須与一宗隆(なすの/よいち/むねたか)
(与一とは名前というよりも「余一」を指す。十一男を指す通称である)
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
源平合戦と称される治承・寿永の乱に兄:那須十郎為隆(名の通り十男)と共に源氏方として参戦。
その他9人の兄は平氏方に属した為に兄弟間で争う形となった。
与一の名を日本最高の弓使いとして後世に名を知らしめたのは「屋島の戦い」での出来事。
一時休戦中であった源平軍であったが、戦乱であっても貴族的な催しを重んじる平家側は
突如、小船から美女を出して、棒に立てた扇子を掲げさせた。
「源氏が神の加護を受けた強兵と言うならば当ててみよ」という挑発である。
義経は戦の吉凶を決めるこの挑発に対して那須十郎為隆を射手に選出するが戦傷を理由に辞退。
自分以上の弓使いであると弟を推挙し、この一世一代の大役を那須与一が担うこととなった。
これに失敗すればその場で自害する覚悟のもと南無 八幡大菩薩と祈り
扇子に向けて弦を引き絞り、矢を放った。結果は・・・見事一射で命中。
源氏側は当然として平氏側もこの神業を敵ながら天晴れであると大盛り上がりとなった。
あくまで戦争中であることを忘れて船正面に出てきて舞い踊った平氏軍兵士もいたが
義経の命令による与一の第二射によって討ち取られたという。
「我が軍は精鋭強兵、そして神の加護がある」と確信した源氏軍はこの後、平氏軍を散々に打ち破った。
この大役を見事に果たした与一には5ヵ国に跨っての恩賞地が与えられ
さらには平氏側についた九人の兄たち全員に特赦が掛けられた。
与一は総勢十名の兄を差し置いて那須家当主となり、那須氏隆盛の礎となった。
屋島の戦いでのたった一射・・ただし神業的な一射によって那須氏勃興を果たし
「日本最高の弓使い:那須与一」の名が残ることとなったのである。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第135回:冥冥たる戦】
冥冥たる戦の先には、再生が待っておるぞぉ!
河内源氏五代目棟梁:源為義。その十男:源行家。母は不明。
六代目棟梁:義朝や鎮西八郎:為朝の弟にあたり、源頼朝や源義経の叔父にあたる。
現在の和歌山県:熊野新宮に住んでいたため新宮十郎と呼ばれ、後に新宮行家を名乗った。
平治の乱にて義朝が破れ、河内源氏は大きく衰退。
非参戦者であれば罪に問われる者は少なく、行家は平氏の隆盛をただ見続ける立場にあった。
(平家物語では平治の乱にて義朝側として参戦していたとされているが、具体的な活動内容が無く
参戦者の戦後処刑を考えると、行家が処刑されない理由が不明。恐らくは平家物語の創作である)
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
この際、平家追討の令旨を日本各地の源氏及び反平家勢力に配り挙兵を促したのが新宮行家である。
各地での挙兵を促した後に、自勢力からも挙兵するも、緒戦で連敗を喫してしまう。
甥の頼朝を頼るが所領問題で間もなく不仲となり対立した為、甥の木曽義仲を頼り
(禁断の甥頼り二度打ち)
義仲と共に入京するも、義仲との序列問題で不仲となった為に対立。後に京を脱出した。
(禁断の甥不仲二度打ち)
脱出先で平氏軍に遭遇して敗走。さらに義仲からの追討軍に遭遇してさらに敗走した。
頼朝の命によって義仲軍が討たれると、これを好機として帰京するも
頼朝傘下とはならずに独立勢力となって平家討伐にも加わらなかった。
(これにより元から不仲であった頼朝の不信感ゲージがMAXになるのは言うまでもない)
源氏でありながら鎌倉傘下とならない行家に対して、頼朝はとうとう討伐軍を編成。
行家は頼朝と不仲であった義経側に協力するが徐々に戦力を削がれて潜伏。
しかし、地元民から密告によって捕縛され、長男・次男と共に斬首となった。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第134回:興隆の軌跡】
平家の誇りを守りたくば、この知盛に続け!!
武士として異例の太政大臣まで上り詰めた平清盛。その四男:平知盛。
平時子の息子としては次男にあたり、同父母の兄は平宗盛。
源平合戦における源氏側の武を担ったのが源義経だとすれば
平家側の武を担ったのが平知盛であるとされ、共にERでの登場となった。
平治の乱後、平家の興隆はその極みに達して清盛の子であった知盛は従二位:中納言まで昇進したが
「以仁王による平家打倒の号令」が発布されると日本各地で反平家勢力が挙兵。
その最中で総合指揮を取るべき清盛が病死した為に
時子長男の宗盛は政治、知盛は軍事の中枢として平家一門の旗振りを行った。
(平家物語の中で宗盛は武士の棟梁の器ではない愚物として扱われ
その後の軍記でも捕虜になった後の命乞いの醜さなどから全く評価されていないこともあり)
実質的に平家一門を連れて各地で戦ったのは知盛であるとされている。
(その関係から2コスERの知盛に対して、宗盛は1コスNと、平家大将としての格差が大きい)
勢いに押された平家は京を追われ、各地での連敗によってとうとう本州最西端の壇ノ浦まで追い詰められる。
そこで知盛は総大将の一角として奮戦するが、周辺各地の豪族が源氏側に付き
どうあがいても勝ち目が無いことを悟った知盛は兵士へ停戦を命令。
「源氏側兵士にも平氏側兵士にも家族がいて、勝敗の決まった無駄な戦闘で死ねばその家族が悲しむ」と。
その後、平家一門の入水自殺を見届け、自身も二層の鎧と錨を体に巻きつけ
「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して一族の後を追って入水して自害。
敗れはしたものの、武に長け指揮に長け、勇ましくそして優しい英傑の死であった。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第132回:蛇智奸佞】
「武士」という毒を如何に使いこなすかが、腕の見せ所よ・・!
後の征夷大将軍:源頼朝の第一の郎党と称される武将:梶原景時。
坂東武者であった梶原氏は源氏の家人として仕えていたが平治の乱で源義朝が討たれた為に
一時平家に従う姿勢を取っていた。
後に平家打倒の為に頼朝が挙兵。これに対して梶原景時は大庭軍と協力して頼朝軍を撃破した。
山中に逃げた頼朝を発見するが、そもそもが源氏の家人であった景時はこれを敢えて見逃し
その後、再起を果たした頼朝に速やかに降伏して源氏勢力に付いた。
平氏での戦いでは諸将が「○○で戦って勝った」という報告しか上げないことに対して
景時だけは戦の詳細や物事の日時を細かく記した報告書を提出しており
これにより細やかな報告を重要視する頼朝の信頼を得た。(彼の落城台詞はこの逸話の再現である)
頼朝の信任厚い景時は、主君の命であればどんなことでも遂行した。
謀反の疑い有りとされた上総広常を双六の最中に突如誅殺したこともその一環である。
主君の為に汚れ役を買って出ていた景時に対して、周囲からの恨み妬みは集中していった。
(義経との確執も有名で、彼の讒言が、頼朝が義経を討つ決定的出来事になったとも言われている)
鎌倉幕府発足後、鎌倉殿の13人の一人に数えられるが、彼は周りからの恨みと嫉妬を買いすぎていた。
頼朝死後、幕府家臣:結城朝光を誹謗したことを切っ掛けにして御家人諸将が結託して
諸将66名による連判状が提出され、景時の排斥を求めた。
景時はこれに一切の弁明をせずに重役の位置から身を下ろすが
さらに謀反の疑い有りと疑いを掛けられて諸将連合軍に追討を受ける。
瞬く間に一族郎党を含めて景時も討ち取られ梶原家は滅亡に至った。
この「梶原景時の変」を皮切りに、頼朝死後の権力争いが繰り広げられることなる。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第128回:混然たる号令】
私の号令を聞いてくれぇ・・・聞けったら聞けよぉぉぉぉぉ!!
河内源氏六代目棟梁:源義朝。その六男:源範頼。
母は義朝の側室:遠江国池田宿遊女(正確な身分等は不明)。
源頼朝(三男)の異母弟にあたり、源義経(八男)の異母兄にあたる。
平治の乱で没落した源義朝率いる河内源氏。
戦いには加わらなかった非戦闘員の義朝の息子たちは清盛の恩情によって死罪を免れ
後白河法皇近臣:藤原範季の下で養育。名を一字もらい「範頼」となった。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
義朝の息子として、そして頼朝の弟として頼朝挙兵に呼応して参戦。
頼朝と不和が発生した木曽義仲に対して、義経と共に討伐に向かい宇治川の戦いにて圧倒的兵力差によって義仲軍を叩き潰した。
続く平氏との戦いとなる「一ノ谷の戦い」においても大将として出陣。
奇軍を担当する義経と、正軍を担当する範頼の連携によって快勝を収め
最終戦となる「壇ノ浦の戦い」においても
水軍を担当する義経と、陸軍を担当する範頼の連携で勝利を収めた。
戦後、頼朝は武家による中央政権の確立に動き、諸将の独断行動を禁止とした。
一説では頼朝は平氏との戦いの時点で義経の独断専行を危険視していた為に義経を処断したとされる。
これを見た範頼は頼朝からの目付役に行動を逐一相談して対応を仰いでいたが
源頼朝が暗殺されたという誤報が彼の運命を狂わせた。
源範頼が北条政子(頼朝正室)に宛てた励ましの手紙に
「兄がいなくても私がいるので源氏は大丈夫です(要約)」と書いていたことで
源氏を乗っ取ろうとしている謀反疑惑が浮上してしまう。
範頼謀反の疑いは頼朝の中で徐々に膨れ上がりついには範頼を伊豆流刑に処し
範頼は流刑先で誅殺されたとも自刃したとも伝わる。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第126回:賢尼の後ろ盾】
さぁ行ってこい!お前たちがこの国を護るんだよ・・!
源義朝の時代、坂東武者の統率に成功。武蔵国にもその勢力を伸ばしていた。
武蔵国代官:比企遠宗(ひき とおざね)。別名:比企掃部允(ひき かもんのじょう)。
その正室、比企尼(ひきのあま)。源頼朝の乳母の一人である。
※比企尼の父母および出自、さらに本名に関しては不明。
源義朝が平治の乱にて破れ死亡。その嫡子である源頼朝は平清盛継室:池禅尼の助命嘆願もあり
死罪は免れるものの伊豆への流罪となった。
かつて坂東武者を統率した義朝の縁から比企尼は伊豆への援助を20年間続けた。
(平氏の世となっている状況で、これを理由にして何らかの嫌がらせや処罰が
下ることも十分に有り得る状況で20年間にも渡って頼朝への援助を続けたのである)
後に「以仁王(もちひとおう)」から平家打倒の号令が発布されると
瞬く間に日本各地から反平家の軍勢が一斉蜂起を開始。
それまで栄華を誇っていた平家は約5年後に滅亡することとなる。
比企家の「源氏を影からずっと支え続けていた恩義」に報いる形として
男児に恵まれなかった比企尼の娘や孫娘を源氏重役の正室として迎えさせ
比企家の断絶対策として頼朝は自身の甥を養子に取らせた。
それが後の鎌倉殿の13人の一人、比企能員(ひきよしかず)である。
(ただし、この後の比企能員がどうなったかというと・・・後のカード追加にて主役足り得るかもしれない)
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第123回:武皇の大恩命】
源氏の旗に集いし武者たちよ!我らの力を示す時は来たッ!!
河内源氏六代目棟梁:源義朝。その三男:源頼朝。幼名:鬼武者。
母は義朝の正室:由良御前。源平合戦の英雄:源義経は彼の異母弟にあたる。
源義朝と由良御前の間に生まれ、兄が二人(義平・朝長)いるものの
貴族出身の正室の男児であった為に最有力世継ぎ候補として英才教育を施された。
後に平治の乱で父:義朝が朝敵として討たれ、さらに自身の兄2人も討たれた為に名実ともに嫡男格となった。
平清盛はこの河内源氏の次期棟梁になるであろう男児に、可能な限りの慈悲を与えて伊豆への流刑とした。
伊豆へ流されて20年後、「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
これに呼応して父:義朝の時代から配下に置いた坂東鎌倉周辺の豪族武者に決起を呼びかけた。
さらにここで源氏に朗報が入る。「平家の総大将たる平清盛が病死した」と。
最高権力者の病没の混乱の中で源義仲(木曽義仲)が平家を京から追い出すことに成功するも
頼朝との敵対者を庇護した為に対立。頼朝は従兄弟でもある義仲を軍勢を以って討ち取った。
さらに平家追討を行い、最後は壇ノ浦にて義経・範頼軍が平家を滅ぼした。
それから源氏の世になり、1185年幕府を設立後も頼朝は義仲への処遇同様に同族への警戒を怠らず
壇ノ浦の英雄であった義経・範頼に謀反の疑いを掛けて誅殺。
1192年に征夷大将軍に就任し、封建制度を作り出して武家による統治を行えるようにしてからこの世を去ったが
独裁を防ぐ目的で設立された13人の合議制(鎌倉殿の13人)によって将軍の実権はその後無くなった。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第122回:朔陣の修羅】
迅速こそ勝利への道!朔陣の精鋭よ、突き進め!
河内源氏六代目棟梁:源義朝。その九男:源義経。幼名を牛若丸。稚児名を遮那王。
母は義朝の側室:常盤御前。後の鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝は彼の異母兄である。
義経の人生の転換期は「平治の乱」である。
この戦いを引き起こした上で敗れた父:義朝は郎党の身内に討たれるに至った。
母:常盤御前と共に避難するも祖母(常盤御前の母)が人質に取られたことで平家側に降伏。
父の罪を子に被せなかった清盛の恩情によって助命され、鞍馬寺に預けられ、遮那王の名を与えられた。
(伝説では、この時に鞍馬山に住む鞍馬天狗に剣術修行を施されたとされる)
兄:源頼朝が平氏打倒の為に挙兵した際、これに呼応して義経も馳せ参じ
「治承・寿永の乱」通称:源平合戦と呼ばれる日本各地で大規模な内乱が発生したのである。
隆盛を誇っていた平家は日本各地で蜂起した反平家勢力に徐々に押され
義経は「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」にて奇襲戦法により平家を撹乱。
源平最後の戦いとなる「壇ノ浦の戦い」では源氏水軍総大将として平氏水軍総大将「平知盛」を相手取って戦い
平家一の猛将平教経を軽々と煙に巻く八艘飛びを披露するに至った。
かくして平家を打ち倒して源氏の世になったのも束の間
(原因は諸説あるが)大将である兄:頼朝と、義経の間に不和が生じる。
勢力・発言力に大きく勝る頼朝は義経に朝敵の烙印を押して徐々に追い詰め
衣川の戦いによって義経側の兵及び主だった郎党のほとんどを始末した。
追い詰められた義経は最後に正妻と娘を殺害直後に自刃。31歳の生涯を閉じた。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第115回:興隆の承伝「禁門の変 長州軍」】
我が身、天下へ飛翔する!
平氏興隆の祖:平正盛の嫡子、平忠盛。日本史上初の武家政権を確立させた平清盛の父である。
(清盛の実父かどうかは諸説あるが群雄伝では清盛の実父ではないとする説を採用
清盛は、忠盛に下賜された「祇園女御の妹と白河法皇の子[※]」という設定になっている)
※[下賜された時に既に白河法皇の子を妊娠していた]というもの
父:正盛が検非違使・追捕使(当時の警察のようなもの)を担い
盗賊捕縛、海賊退治、朝敵とされた面々を討伐して伊勢平氏の活動基盤を確立。
その任を忠盛が引き継ぎ、朝廷においての伊勢平氏の立ち位置を大きく改善した。
そしてとうとう伊勢平氏において初めて「昇殿(内裏清涼殿:殿上の間に立ち入ること)」を許された。
(貴族以外はまず立ち入れない朝廷政務の領域に、武士である平氏が踏み込んだということである
貴族たちはこの平氏の台頭が面白くなく、忠盛の身体的特徴[※斜視]を馬鹿にしていたと記録が残る)
この昇殿を許された頃、貴族:藤原家の娘である「藤原宗子(後の池禅尼)」を妻とすることで
親族血縁による影響力を展開することにも成功する。
また、商才にも優れていた忠盛は日宋貿易にも力を入れた。
貿易がもたらす富による経済基盤は平氏勃興を成すうえでの最大の要因であったともされる。
その後、順調に出世を重ねていくが、平氏の最盛期は見ぬまま58歳で死去。
死後、伊勢平氏棟梁は清盛が引き継ぎ、保元の乱・平治の乱の勝者となった清盛は天下に飛躍した。
※斜視:両目の焦点が合わず目標物に対する視線が合わない身体的特徴。
(群雄伝においてもこの身体的特徴を嘲笑われるシーンがある)
イラストでは片目を隠しており、暗にこれを表現したものとなっている。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第84回:栄耀栄華】
俺たち武士が、このデッカイ天下を持ち上げてやるんだッ!!
伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男:平清盛。
母については不明。一説では白河法皇の落胤(認知されない子)であるとも
実は忠盛とは血は繋がっていないとも伝わっているが、事実定かではない。
(群雄伝では祗園女御の妹と白河法皇の子であるという説を採用している)
公家貴族や朝廷の小間使いでしかなかった「武士」という存在の身分を改めさせ
日本史上初の太政大臣にまで上り詰めて武士政権を確立させた武士ある。
朝廷内の権力争いを発端とした保元の乱。
平氏・源氏ともに二分したこの派閥争いでは源義朝と協力してこれに勝利。
さらに時が経ち、後白河天皇が上皇となったのち再度朝廷内の派閥争いから平治の乱が発生。
清盛の留守を狙った義朝のクーデター行為に対して、清盛はすぐに軍勢を編成して京に戻り鎮圧。
ただ一つ、平清盛は優しすぎた。源義朝の嫡男を流罪で済ませてしまったのである。
「平家にあらずんば人にあらず」
平治の乱から二十年に渡り、平家の隆盛はその極みに達していた。
朝廷内の平氏の台頭が面白くない貴族たちが決起する前に粛清した「鹿ヶ谷事件」
かつて支持した後白河上皇との対立。院政を遮断させた「治承三年の政変」
これらの事件を経て、平家へ反旗を翻す諸勢力が各地に発生。
それら反:平家勢力を束ねるのはもう一つの武家である源氏。
そして源氏を束ねる男は、かつて自身が見逃した・・源義朝の嫡男:源頼朝だった。
(これが、倒した敵の男児は必ず殺すのが武士の習いとなった原因である)
各地で反平家の声が高まる中、清盛は熱病を発してこの世を去った。
「おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し」
それから4年後、かつて隆盛を誇っていた平家は連敗を重ね、壇ノ浦にて滅亡することとなる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第83回:野望の果て】
果ては殺戮、果ては冷たき星、全ては源氏の天下のため・・ッ!
清和源氏を祖とし、武士の棟梁と称される河内源氏。その第六代目棟梁:源義朝。
後に平氏と戦いを繰り広げる源頼朝や源義経といった次代の英傑達の父である。
幼少期・少年期は現在の千葉県周辺で過ごす。
成長後は関東圏における武士団(坂東武者)を統率して名を馳せた。
(これにより源氏は東日本を中心に拠点基盤を形成することとなる)
その活躍ぶりは京にも届いたことが義朝の京進出に繋がり
院近臣の家系である由良御前を妻としたことで影響力を急激に高めていった。
そんな時に発生したのが皇族を含めた朝廷内の権力争いを発端とした保元の乱である。
後白河天皇と崇徳上皇を担いだ貴族たちの代理戦争を担うこととなった義朝は後白河天皇側に付き
崇徳上皇側に付いた父:為義や、弟:為朝と争うこととなるが、平清盛らと協力してこれに勝利。
戦功を元に上皇側に付いた父や弟たちの助命嘆願を申し出るがその多くは処刑されてしまった。
上記の遺恨は当然義朝の心に残り、さらには恩賞の差、伊勢平氏との格差、それらの不満が積み重なっていった。
さらに時が経ち、後白河天皇が上皇となったのち再度朝廷内の派閥争いから平治の乱が発生。
後白河上皇が寵愛する僧侶「信西」と、それまで朝廷で絶大な権威を誇った「藤原信頼」の派閥争いであり
平清盛は信西側へ付いたが、後白河上皇へ上記の恨みがあったとされる義朝は藤原信頼側に付いた。
義朝は清盛の留守を狙って後白河上皇/二条天皇を軟禁。さらには信西を攻めて自害に追い込んだが
このクーデター行為の知らせを聞いた清盛はすぐに軍勢を編成して京に戻ることとなった。
義朝のこの行動は隠密裏に少数で決起したものであり、軍と呼べるものではなかった。
(国家レベルの動員を行ったものではなく一族衆や自身近臣のものだけで構成されたものだった)
さらには軟禁していた後白河上皇/二条天皇が脱出してしまった為に一気に窮地に立たされ、信頼一派はすぐに鎮圧されてしまう。
義朝は鎌田政清の家人宅へ逃げ延びたが、恩賞目当てに裏切られ殺害されたという。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【ボイパロイド】双葉湊音ちゃんに、まんが日本史の(仮題)反乱のテーマを歌ってもらった。
手持ちBGMを強化すべく
今や、まんが日本史BGM
ボイパロイド第一人者となった
双葉湊音ちゃんに、
(仮題)反乱のテーマを歌うてもらいます。
この曲は、日テレ系「まんが日本史」の、
次の場面など多数、主に反乱の場面で用いられました。
・恵美押勝の乱
・平治の乱
・加賀一向一揆
作曲:佐藤 健
音源取得方法:合法動画配信サービスを利用し場面を耳コピ
お借りしたもの
背景 平治の乱、蓮如上人…wikimedia
吉崎御坊…写真ac(撮影:花冠様)
双葉湊音立ち絵 im11114797 mochi0101_831様
いいね!ボタン im10742089 nakatomi様
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第81回:雪中の松柏】
たとえ木の中、雪の中~~ッ!
源義朝の側室にして、後の源義経の母:常盤御前。
(※同名ではあるが島津家の常盤御前[人魚の涙、海女の素潜り]とは無関係)
元は近衛天皇中宮:藤原呈子の召使いであり
平安京の美女1000人の中でも最も美しかった為、選ばれたと言われる。
後に源義朝の側室となり、年長の順で阿野全成(今若丸)源義円(乙若丸)、源義経(牛若丸)を産んだ。
平治の乱にて義朝が敗走し、逃走先で殺害された後は3人の子供の命を守るべく雪中での逃走劇を開始。
京から大和国(現在の奈良のあたり)まで避難したが、自身の母親が平氏に捕縛されてしまう。
この知らせを聞いて常盤御前は男子3人と自身が殺されることを承知で清盛と対面。
「息子たちが殺されるのはどうしても見ることが出来ないので自分を最初に殺してほしい」と語り
その言葉に感銘を受けた清盛によって全員助命されたという。(また、常盤御前は後に平清盛の妾となった)
この雪中の逃走は「常盤御前図絵馬」が文化遺産として残っており
英傑大戦での常盤御前の格好はこの絵馬の姿を元にデザインされている。
また、計略台詞の前半は「木の中」と言っており「火の中」ではない。
欅の絵馬(木)の中で、雪中を進んでいる文化遺産が現存していることから
自身の現在での姿(常盤御前図絵馬))由来で「たとえ木の中、雪の中」という台詞になっていると思われる。
びびるという現代語らしきものを使うが、びびるは学説としては江戸時代に出来た言葉である。
鎧の音が[びんびん]に聞こえたことから、びびるは平安時代にできた言葉という俗説があるため
平安時代の女性である常盤御前に敢えてびびるという言葉を使わせていると思われる。
イラスト・開幕台詞・落城台詞からはシリアスな女性の印象を受けるが
それと同時にユーモアに溢れるおもしろお姉さんとしてキャラ付けされていて可愛い。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
3分で歴代天皇紹介シリーズ! 「78代目 二条天皇」
お父さん(後白河天皇)に比べて評判が良かった天皇ですが、「親不孝」という評価も昔からあったようです(『源平盛衰記』[鎌倉時代に成立])。
巻き込まれた側近たちは不憫なのか自業自得なのか...
●二条 (にじょう) 天皇 基本プロフィール
父 後白河天皇 (第一皇子) 母 藤原懿子 (藤原経実娘)
在位 1158年 ~ 1165年 (8年間)
生涯 1143年 ~ 1165年 (23歳)
●1代目 神武天皇 → sm33459779
77代目 後白河天皇 → sm41650975 79代目 六条天皇 → sm41703814
●このころの世界
1159年 ザクセンのハインリヒ獅子公がリューベックを建設する
1160年 南宋で会子が紙幣として発行される
1163年 パリのノートルダム大聖堂が着工される
●参考文献一覧 (下の方に掲載する予定です)
https://inocchi-douga.com/tennou/heian3.html
●3分天皇紹介リスト → mylist/62530271
●いのっちHP! → https://inocchi-douga.com/
●ついったー https://twitter.com/inocchi_0515
●世界史べーた(仮)関連
公式チャンネル! https://www.youtube.com/channel/UCnxv3wrfIYWh7jMQcoNbFwQ
公式HP! https://sekaishi-beta.com
公式ツイッター! https://twitter.com/sekaishibeta
3分で歴代天皇紹介シリーズ! 「77代目 後白河天皇」
少し遅いですが、新年明けましておめでとうございます!
去年投稿すればピンポイントだったのに、と思いつつ今年も頑張っていきます!
あの平清盛や源頼朝たちと渡り合った「乱世の最高権力者」のお話です。
流石に内容が濃かったので、各時代の詳細はこの後に即位した各天皇の動画で触れていきます。
●後白河 (ごしらかわ) 天皇 基本プロフィール
父 鳥羽天皇 (第四皇子) 母 藤原璋子 (待賢門院、藤原公実娘)
在位 1155年 ~ 1158年 (4年間)
生涯 1127年 ~ 1192年 (66歳)
●1代目 神武天皇 → sm33459779
76代目 近衛天皇 → sm41089283 78代目 二条天皇 → sm41675793
●このころの世界
1156年 オーストリア辺境伯が公国に格上げとなる
1157年 大セルジューク朝が事実上滅亡する
1157年 ブランデンブルク辺境伯領が設置される
●参考文献一覧 (下の方に掲載する予定です)
https://inocchi-douga.com/tennou/heian3.html
●3分天皇紹介リスト → mylist/62530271
●いのっちHP! → https://inocchi-douga.com/
●ついったー https://twitter.com/inocchi_0515
●世界史べーた(仮)関連
公式チャンネル! https://www.youtube.com/channel/UCnxv3wrfIYWh7jMQcoNbFwQ
公式HP! https://sekaishi-beta.com
公式ツイッター! https://twitter.com/sekaishibeta
【妄想歴史映画CM】 頼朝の最強の兄! 我が名は悪源太!
えせイケボチー牛リーマンのアフレコ、というか演技をお楽しみいただく動画です。私が見たいテイストの歴史映画を妄想し、そのCM原稿を作って読んで私が満足する、というなんだかよくわからないシリーズです。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』ロス未だやまず…ということで今日も源平の合戦ネタをです。今日のテーマは源義朝の長男。と言っても頼朝ではないですよ。実は頼朝には二人お兄さんがいました。3男坊だったんですね。その頼朝のお兄さん(長男)こそが『鎌倉悪源太義平』。平治の乱などで活躍したものの、わずか20歳で世を去った若き猛将でした。そんな義平、強いだけでなくて、エピソードも豊富な人物なんですよね。
是非、そんな頼朝のかっこいいお兄さんを皆さんに知ってほしいという思いで作りました。短い動画ですので最後までお付き合いください!
【補足や注意】
・義平はお兄ちゃんではありますが母の身分の関係上、源氏の跡取として予定されていたのは頼朝でした。
・かなり大声を出すシーンもあり、マイクが割れることがありました。
音量を下げることで応急処置をしてはおりますが、ご注意ください。
0:00 挨拶・解説
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結月ゆかりのざっくりわかる中世史解説part3「保元・平治の乱と平家の台頭」
この動画はNHK大河「平清盛」と「鎌倉殿の13人」を応援しています。
前→https://www.nicovideo.jp/watch/sm38240825
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参考文献
呉座 勇一著「陰謀の日本中世史」
和田 英松著「新訂 官職要解」
坂井 孝一著「承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱」
川合 康「日本中世の歴史④ 源平の内乱と公武政権」
いのっちさんの動画
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37594847
使用楽曲
NHK大河ドラマ「平清盛」サウンドトラック
使用画像
一部コンテンツツリーに記載。wikipediaコモンズ。
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Year of Begnion 645-648 from Diaros - Path 13 "Clash"
平治の乱から861年、『ファウスト 第一部』初演から192年、パーソナルコンピュータ「Lisa」発売から37年、天皇陛下の婚約決定から28年、年始から19日目、ねこぢるの誕生日、ヴァルター・シュピースの命日、空気清浄機の日、カラオケの日に。
『ファイアーエムブレム 蒼炎の軌跡』の単なるプレイ動画です。
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『蒼炎の軌跡』 公式サイト:https://www.nintendo.co.jp/ngc/gfej/
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回線と私が生きていれば、かろうじて蒼炎中はエターならない。
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