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【続歴戦文化祭】保元・平治の乱 以仁王挙兵編 ~源頼政と封獣ぬえ
「こまっちゃんマジ天使」「死神だよ」
そんな動画全5話中最終話。めっちゃ長くてごめんなさい。
ここまでお付き合いくださった皆様、本当にありがとうございます。
日本史×東方ネタは色々考えてはいるので、機会があればまたお会いしましょう。
むしろプロットお譲りしますので誰か描いて
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② → sm12838323
第3話 平治の乱編① → sm12896661
第4話 平治の乱編② → sm13009623
最終話 以仁王挙兵編 この動画
mylist/25966434
【追記】ヘコヘコさん、Thinkerさん、むぅさん、のこのこEXさん、MPokさん、宣伝ありがとうございます!!
【訂正】4:46 ご指摘のとおり「となう」です キャー恥ずかしい
【歴戦文化祭】保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ
この動画は歴戦文化祭4日目第18幕の動画です
中継動画から次の時間枠の動画に飛んで下さい
困った時はwikiへ→http://www37.atwiki.jp/nikorekipt/pages/1.html
実況中継板→http://bbs.nhs.konigstiegel.com/headline/
4日目20:30中継動画:sm12836702
<その他時間の中継動画>mylist/22244364
<この枠の他の動画>
太閤アイドルマスターその30.5:sm12835861
孫魯班 前編:sm12872836
<その他の参加者様動画>mylist/22244357
【続歴戦文化祭】保元・平治の乱 平治の乱編① ~源頼政と封獣ぬえ
今回のぬえちゃん成分は前半に集中しています。
源頼政とぬえちゃんのお話全5動画中第3話。
お借りした素材類は最終話エンディングでまとめてクレジットします。
※武士が諱でお互いを呼び合ったり、天皇の諡を生前から使ってたりしますが
この辺厳密に考証すると、テキスト書いてるうp主が混乱するので
大目に見てあげてください
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② → sm12838323
第3話 平治の乱編① この動画
第4話 平治の乱編② → sm13009623
最終話 以仁王挙兵編 → sm13054386
mylist/25966434
【歴戦文化祭】保元・平治の乱 保元の乱編② ~源頼政と封獣ぬえ
なんでぬえちゃんが「源三位頼政の弓」持ってるんだろうね?
というお話の全5動画中第2話。長くなりすぎて文化祭枠に入り切れてねー!
運営さんごめんなさい。
お借りした素材類は最終話でまとめてクレジットします。
※崇徳院をパロディし奉る度胸がないので皇室関係者はあんまり出てきません。
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② この動画
第3話 平治の乱編① → sm12896661
第4話 平治の乱編② → sm13009623
最終話 以仁王挙兵編 → sm13054386
mylist/25966434
【続歴戦文化祭】保元・平治の乱 平治の乱編② ~源頼政と封獣ぬえ
「鵺」が現われた時の天皇、近衛天皇と二条天皇はどちらも若くして亡くなっています(17歳と22歳)
でも「鵺」が退治されてるなら、この死の犯人はぬえちゃんじゃなくね?
「老獪な政治家」とされる源頼政だけど、記録に残る行動を追う限りではどう見ても典型的な脳筋源氏武士。
政治的な参謀がいたのかもね?
そんな動画全5話中4話。
お借りした素材類は最終話エンディングでまとめてクレジットします。
第1話 保元の乱編 → sm12836188
第2話 保元の乱編② → sm12838323
第3話 平治の乱編① → sm12896661
第4話 平治の乱編② この動画
最終話 以仁王挙兵編 → sm13054386
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【追記】レイさん、brainburstさん、宣伝ありがとうございます!!
【歴戦文化祭】孫魯班 前編
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保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ:sm12836188
太閤アイドルマスターその30.5:sm12835861
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孫魯班・後編 sm12837083
孫魯班・後編 修正版 sm12873564
孫魯班・前編 修正版 sm12872836
新・平家物語 総集編 前篇 9
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【歴戦文化祭】孫魯班 前編 修正版
この動画は歴戦文化祭4日目第18幕の動画です
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太閤アイドルマスターその30.5:sm12835861
保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ:sm12836188
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歴戦文化祭第18幕 孫魯班 前編の修正版となります。
運営の不手際により本動画の未修正版を企画当日に公開しておりました。
製作者のネコミミ于禁氏、並びに視聴者の皆様に御迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
後編 修正版 sm12873564
信長の野望 天下創世PK 合戦トライアル 日本史編 後三年の役
合戦トライアルの動画が見当たらなかったのでうpしました。見落としているだけだったらすいません、その時は蔑んでやってください。とりあえず日本史編は全て攻略、うpする予定です。■本動画の目的は「合戦トライアル攻略の一手順の紹介」にあります。にも関わらずPC版を手に入れたのがごく最近のため、操作が怪しい部分が多々ございます。何卒ご了承下さい。■ご挨拶のようなもの~ステージ選択(0:00~1:46) 部隊紹介(1:54~2:41) 合戦(2:41~5:50) 合戦評価~次回予告(5:52~6:46) ※字幕のご指摘ありがとうございます。次の動画より、大きめのものに修正致します。 ■保元・平治の乱→sm12178466 源平合戦→sm12186757 南北朝の戦い→sm12196807 応仁の乱→sm12720169 合戦トライアル一覧→mylist/21308695 河野家プレイ一覧→mylist/1172155
新・平家物語 総集編 前篇 8
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3分で歴代天皇紹介シリーズ! 「77代目 後白河天皇」
少し遅いですが、新年明けましておめでとうございます!
去年投稿すればピンポイントだったのに、と思いつつ今年も頑張っていきます!
あの平清盛や源頼朝たちと渡り合った「乱世の最高権力者」のお話です。
流石に内容が濃かったので、各時代の詳細はこの後に即位した各天皇の動画で触れていきます。
●後白河 (ごしらかわ) 天皇 基本プロフィール
父 鳥羽天皇 (第四皇子) 母 藤原璋子 (待賢門院、藤原公実娘)
在位 1155年 ~ 1158年 (4年間)
生涯 1127年 ~ 1192年 (66歳)
●1代目 神武天皇 → sm33459779
76代目 近衛天皇 → sm41089283 78代目 二条天皇 → sm41675793
●このころの世界
1156年 オーストリア辺境伯が公国に格上げとなる
1157年 大セルジューク朝が事実上滅亡する
1157年 ブランデンブルク辺境伯領が設置される
●参考文献一覧 (下の方に掲載する予定です)
https://inocchi-douga.com/tennou/heian3.html
●3分天皇紹介リスト → mylist/62530271
●いのっちHP! → https://inocchi-douga.com/
●ついったー https://twitter.com/inocchi_0515
●世界史べーた(仮)関連
公式チャンネル! https://www.youtube.com/channel/UCnxv3wrfIYWh7jMQcoNbFwQ
公式HP! https://sekaishi-beta.com
公式ツイッター! https://twitter.com/sekaishibeta
【歴戦文化祭】太閤アイドルマスター30.5
この動画は歴戦文化祭4日目第18幕の動画です
中継動画から次の時間枠の動画に飛んで下さい
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4日目20:30中継動画:
<その他時間の中継動画>mylist/22244364
<この枠の他の動画>
保元・平治の乱 保元の乱編 源頼政と封獣ぬえ:sm12836188
孫魯班 前編:sm12872836
<その他の参加者様動画>mylist/22244357
信長の野望 天下創世PK 合戦トライアル 日本史編 南北朝の戦い
何の変哲も無いプレイ動画へようこそ。ほとんどの人があっさりとクリアするであろう例のステージです。さすがに短すぎたので、おまけという名の水増し。 ステージ選択~部隊紹介(0:00~0:47) 合戦(0:47~2:02) 合戦評価~次回予告(2:02~2:46) おまけ(2:47~8:44) 後三年の役→sm12162296 保元・平治の乱→sm12178466 源平合戦→sm12186757 応仁の乱→sm12720169 合戦トライアル一覧→mylist/21308695 河野家プレイ一覧→mylist/1172155
新・平家物語 総集編 前篇 10
平治の乱、勃発する 前sm12714561 次sm12714634 前篇mylist/22097276 後篇mylist/22097303
3分で歴代天皇紹介シリーズ! 「78代目 二条天皇」
お父さん(後白河天皇)に比べて評判が良かった天皇ですが、「親不孝」という評価も昔からあったようです(『源平盛衰記』[鎌倉時代に成立])。
巻き込まれた側近たちは不憫なのか自業自得なのか...
●二条 (にじょう) 天皇 基本プロフィール
父 後白河天皇 (第一皇子) 母 藤原懿子 (藤原経実娘)
在位 1158年 ~ 1165年 (8年間)
生涯 1143年 ~ 1165年 (23歳)
●1代目 神武天皇 → sm33459779
77代目 後白河天皇 → sm41650975 79代目 六条天皇 → sm41703814
●このころの世界
1159年 ザクセンのハインリヒ獅子公がリューベックを建設する
1160年 南宋で会子が紙幣として発行される
1163年 パリのノートルダム大聖堂が着工される
●参考文献一覧 (下の方に掲載する予定です)
https://inocchi-douga.com/tennou/heian3.html
●3分天皇紹介リスト → mylist/62530271
●いのっちHP! → https://inocchi-douga.com/
●ついったー https://twitter.com/inocchi_0515
●世界史べーた(仮)関連
公式チャンネル! https://www.youtube.com/channel/UCnxv3wrfIYWh7jMQcoNbFwQ
公式HP! https://sekaishi-beta.com
公式ツイッター! https://twitter.com/sekaishibeta
信長の野望 天下創世PK 合戦トライアル 日本史編 応仁の乱
何の変哲も無いプレイ動画へようこそ。前回からかなり間が空いてしまいました。お待たせして申し訳ございません。手順はいくつか試しましたが、結局オーソドックスな方法に落ち着きました。動画内で「合戦トライアル日本史編は終了です。」って二回言ってますけど気にしないで下さい、大事なことなんですきっと・・・※0:39~40頃に音楽が一瞬乱れます、理由はわかりませんが仕様です。※ステージ選択~部隊紹介(0:00~1:16) 合戦(1:16~2:55) 合戦評価~次回予告(2:55~4:05) 後三年の役→sm12162296 保元・平治の乱→sm12178466 源平合戦→sm12186757 南北朝の戦い→sm12196807 合戦トライアル一覧→mylist/21308695 河野家プレイ一覧→mylist/1172155 ※Q ps2版九州やってくれー A すいません、PS2版はうpできる環境に無くて・・・
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第159回:盤上遊戯】
邪魔者は我が世界から消えてなくなれ!
僅か5歳で天皇に即位した第74代天皇:鳥羽天皇。
鳥羽天皇が14歳の時に祖父:白河法皇の養女であった藤原璋子(院号:待賢門院)が入内。
その翌年には中宮(天皇の妻)となった。
その後すぐに息子の崇徳天皇に譲位するが、白河法皇の院政全盛期であった為に鳥羽上皇には実権は無かった。
白河法皇崩御後は今度は鳥羽上皇の院政の時代となり、白河法皇の養女であった藤原璋子は冷遇。
代わりに寵愛されたのが藤原得子(ふじわらの/とくし[なりこ])(院号:美福門院)である。
得子は藤原の生まれではあるものの上流貴族とは程遠く、本来皇后になれる身分ではなかったが
鳥羽上皇に強く愛され、後の第76代天皇となる近衛天皇を出産。
鳥羽上皇は自身と得子の息子を天皇にするために崇徳天皇(藤原璋子との子)を除した。
親族の後ろ盾が無い得子は自身の基盤を保つために政敵であった璋子を呪詛の疑いで追放し
自身に都合の良いように養子を取るなど、御家のためにも自身のためにも手段を選ばなかった。
得子が招いた皇族血脈の混乱によって次期天皇争い:保元の乱が発生。
ここでは本来敵側である清盛・義朝側に肩入れして勝利に貢献。
続く平治の乱では本来味方である義朝から鞍替えして清盛側に付いて勝利に導いたが
同年、得子は病死した。
その後、武士による統治が始まっていくが
保元の乱の発生自体が得子の処世術ゆえに起こった乱であるために
得子は貴族政治の終焉を招いた人物として後生に名を残した。
結果的に朝廷内の混乱を発生させたことから三大妖怪:玉藻前のモデルは美福門院とされている。
英傑大戦内でもこの2名は各台詞がどれも同一の意味となっており
彼女の全体イラストでは装束に日本古代文字(ホツマ文字)で「たまも」と書かれている。
※あくまでモデルなので「きんとき」と同じく同時使用は可能である。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第153回:不離一体】
もう離れません、一緒に行きましょう!
伊豆国豪族、伊東祐親の娘:八重姫。源頼朝の最初の妻である。
同じく伊豆国豪族であった鎌倉幕府初代執権:時政の義妹(正室の妹)であり
第二代執権:北条義時の叔母にあたる。
伊豆国豪族であった伊東祐親は平氏に属する立場であり
平治の乱にて敗れて伊豆に流された河内源氏嫡流:源頼朝の監視役であった。
(同じく頼朝の監視役であった伊豆国豪族の北条家に似た立ち位置と言える)
後に北条政子と婚約する頼朝。北条家は最終的にそれを認める形を取ったが
北条家とは逆に断固として源氏との交流を拒んだのが伊東祐親であった。
伊東祐親が都市警護の任で上洛している際に頼朝-八重姫の間に男児が生まれた。
京から戻った伊東祐親はこれに激怒。
(監査役の自身の娘が、監視対象との間に男児を設けたのだから当然である)
平家にこのことが知れたら一大事であるとすぐさま男児を処刑。
さらに頼朝の暗殺に動いたが、頼朝は北条時政の邸宅に逃げ込み難を逃れた。
(これにより、源頼朝と北条政子の縁が出来たわけだが・・モテすぎではないだろうか)
この後の八重姫がどうなったかは諸説あるが、一説では
ほとぼりが冷めた後に恋しい頼朝の様子をこっそり見に行った八重姫であったが
頼朝と政子が恋仲となっており子供まで授かって仲睦まじく暮らしている場面を見てしまった為
悲観の末、伊東屋敷へ帰ることはなく入水自殺したとされる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第156回:英俊豪傑】
軽い軽い!端武者ごとき、重忠の敵ではない!!
鎌倉御家人の代表格:畠山重忠。
誠実にして清廉潔白、質実剛健の武士を絵に描いたような人物であり「坂東武者の鑑」と評される。
元は源義朝に従った坂東武者であったが、平治の乱にて義朝が討ち取られると一時平家へと従った。
それから20年後、源頼朝が挙兵すると平家方として初め参戦。
頼朝軍と合流しようとした三浦軍と交戦し、三浦家当主、三浦義明を討ち取った。
この後、再起を図った頼朝に対しては由緒ある白旗を持参して速やかに降伏したとされる。
(ここらへんの状況は、梶原景時と似た立ち回りを取っている)
木曽義仲軍との戦いでは男顔負けの武力を持つ巴御前と一騎討ちを行い
剛力自慢の巴御前を力で上回り、巴御前の鎧を素手で引き裂く膂力を見せて一騎討ちを制した。
続く一ノ谷の戦いでは勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」にて
真っ先に飛び出して行った佐原義連に続いて
重忠は馬が怪我をしてはいけないと言って「馬を抱えて崖を下っていった」とされる。
平家が滅んだ後は鎌倉有力御家人として梶原景時の排斥を求める連判状にも協力。
しかし、自身の嫡子:畠山重保と北条時政の娘婿:平賀朝雅が酒席にて口論となり
これを境にして政敵であった北条時政が畠山重忠に謀反の疑いをかけた。
時政はまず重保を暗殺して、重忠を別件にて鎌倉へ参集するように使いを出した。
鎌倉幕府参集が自身を討ち取るための罠であり
北条軍が自身に差し向けられたことに気付いた重忠は北条軍に立ち向かうことを決意。
兵力100人程度の配下と共に戦うが、衆寡敵わず戦死した。
この畠山重忠の乱は鎌倉幕府の忠臣を失う結果となり
虚偽の謀反の疑いであったことがわかったことで義時は父:時政と対立。
さらに時政の暴挙とも言えるこの事件によって時政から人心が一斉に離れていくこととなった。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第138回:与一の目覚め】
与一、一世一代の戦いだ。風よ!黙って矢を運べ!!
平安時代に名を起こし、後に明治士族にまで歴史を残す下野国那須郡:那須氏。
一世一代の偉業を成し遂げ那須氏の興隆を果たした弓の名手:那須与一宗隆(なすの/よいち/むねたか)
(与一とは名前というよりも「余一」を指す。十一男を指す通称である)
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
源平合戦と称される治承・寿永の乱に兄:那須十郎為隆(名の通り十男)と共に源氏方として参戦。
その他9人の兄は平氏方に属した為に兄弟間で争う形となった。
与一の名を日本最高の弓使いとして後世に名を知らしめたのは「屋島の戦い」での出来事。
一時休戦中であった源平軍であったが、戦乱であっても貴族的な催しを重んじる平家側は
突如、小船から美女を出して、棒に立てた扇子を掲げさせた。
「源氏が神の加護を受けた強兵と言うならば当ててみよ」という挑発である。
義経は戦の吉凶を決めるこの挑発に対して那須十郎為隆を射手に選出するが戦傷を理由に辞退。
自分以上の弓使いであると弟を推挙し、この一世一代の大役を那須与一が担うこととなった。
これに失敗すればその場で自害する覚悟のもと南無 八幡大菩薩と祈り
扇子に向けて弦を引き絞り、矢を放った。結果は・・・見事一射で命中。
源氏側は当然として平氏側もこの神業を敵ながら天晴れであると大盛り上がりとなった。
あくまで戦争中であることを忘れて船正面に出てきて舞い踊った平氏軍兵士もいたが
義経の命令による与一の第二射によって討ち取られたという。
「我が軍は精鋭強兵、そして神の加護がある」と確信した源氏軍はこの後、平氏軍を散々に打ち破った。
この大役を見事に果たした与一には5ヵ国に跨っての恩賞地が与えられ
さらには平氏側についた九人の兄たち全員に特赦が掛けられた。
与一は総勢十名の兄を差し置いて那須家当主となり、那須氏隆盛の礎となった。
屋島の戦いでのたった一射・・ただし神業的な一射によって那須氏勃興を果たし
「日本最高の弓使い:那須与一」の名が残ることとなったのである。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第83回:野望の果て】
果ては殺戮、果ては冷たき星、全ては源氏の天下のため・・ッ!
清和源氏を祖とし、武士の棟梁と称される河内源氏。その第六代目棟梁:源義朝。
後に平氏と戦いを繰り広げる源頼朝や源義経といった次代の英傑達の父である。
幼少期・少年期は現在の千葉県周辺で過ごす。
成長後は関東圏における武士団(坂東武者)を統率して名を馳せた。
(これにより源氏は東日本を中心に拠点基盤を形成することとなる)
その活躍ぶりは京にも届いたことが義朝の京進出に繋がり
院近臣の家系である由良御前を妻としたことで影響力を急激に高めていった。
そんな時に発生したのが皇族を含めた朝廷内の権力争いを発端とした保元の乱である。
後白河天皇と崇徳上皇を担いだ貴族たちの代理戦争を担うこととなった義朝は後白河天皇側に付き
崇徳上皇側に付いた父:為義や、弟:為朝と争うこととなるが、平清盛らと協力してこれに勝利。
戦功を元に上皇側に付いた父や弟たちの助命嘆願を申し出るがその多くは処刑されてしまった。
上記の遺恨は当然義朝の心に残り、さらには恩賞の差、伊勢平氏との格差、それらの不満が積み重なっていった。
さらに時が経ち、後白河天皇が上皇となったのち再度朝廷内の派閥争いから平治の乱が発生。
後白河上皇が寵愛する僧侶「信西」と、それまで朝廷で絶大な権威を誇った「藤原信頼」の派閥争いであり
平清盛は信西側へ付いたが、後白河上皇へ上記の恨みがあったとされる義朝は藤原信頼側に付いた。
義朝は清盛の留守を狙って後白河上皇/二条天皇を軟禁。さらには信西を攻めて自害に追い込んだが
このクーデター行為の知らせを聞いた清盛はすぐに軍勢を編成して京に戻ることとなった。
義朝のこの行動は隠密裏に少数で決起したものであり、軍と呼べるものではなかった。
(国家レベルの動員を行ったものではなく一族衆や自身近臣のものだけで構成されたものだった)
さらには軟禁していた後白河上皇/二条天皇が脱出してしまった為に一気に窮地に立たされ、信頼一派はすぐに鎮圧されてしまう。
義朝は鎌田政清の家人宅へ逃げ延びたが、恩賞目当てに裏切られ殺害されたという。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第128回:混然たる号令】
私の号令を聞いてくれぇ・・・聞けったら聞けよぉぉぉぉぉ!!
河内源氏六代目棟梁:源義朝。その六男:源範頼。
母は義朝の側室:遠江国池田宿遊女(正確な身分等は不明)。
源頼朝(三男)の異母弟にあたり、源義経(八男)の異母兄にあたる。
平治の乱で没落した源義朝率いる河内源氏。
戦いには加わらなかった非戦闘員の義朝の息子たちは清盛の恩情によって死罪を免れ
後白河法皇近臣:藤原範季の下で養育。名を一字もらい「範頼」となった。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
義朝の息子として、そして頼朝の弟として頼朝挙兵に呼応して参戦。
頼朝と不和が発生した木曽義仲に対して、義経と共に討伐に向かい宇治川の戦いにて圧倒的兵力差によって義仲軍を叩き潰した。
続く平氏との戦いとなる「一ノ谷の戦い」においても大将として出陣。
奇軍を担当する義経と、正軍を担当する範頼の連携によって快勝を収め
最終戦となる「壇ノ浦の戦い」においても
水軍を担当する義経と、陸軍を担当する範頼の連携で勝利を収めた。
戦後、頼朝は武家による中央政権の確立に動き、諸将の独断行動を禁止とした。
一説では頼朝は平氏との戦いの時点で義経の独断専行を危険視していた為に義経を処断したとされる。
これを見た範頼は頼朝からの目付役に行動を逐一相談して対応を仰いでいたが
源頼朝が暗殺されたという誤報が彼の運命を狂わせた。
源範頼が北条政子(頼朝正室)に宛てた励ましの手紙に
「兄がいなくても私がいるので源氏は大丈夫です(要約)」と書いていたことで
源氏を乗っ取ろうとしている謀反疑惑が浮上してしまう。
範頼謀反の疑いは頼朝の中で徐々に膨れ上がりついには範頼を伊豆流刑に処し
範頼は流刑先で誅殺されたとも自刃したとも伝わる。
長兄の英傑大戦:mylist/73130055
【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第139回:奉武の指揮】
三浦の加護を!君たちにも授けよう!!
相模国三浦郡、現在の三浦半島を拠点とした豪族武士:三浦氏。
平安時代末期に源氏に仕えるが、源流は平氏であったとされる。
その三浦氏第五代当主:三浦義澄。第四代当主、三浦義明の次男である。
平治の乱にも源義平軍に属して参戦していたが、河内源氏当主:義朝が敗れ討たれると関東まで落ち延びた。
その後、兄が戦傷が元で死去した為に次男である義澄が家督を継いだ。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
三浦義済は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ
源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。
その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。
以降の一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いにも参戦して武功を上げ、頼朝の家臣として確固たる地位を築いた。
鎌倉幕府完成後は鎌倉殿の13人メンバーの一人に数えられ、梶原景時の鎌倉追放に加担。
その後まもなく病死したが、当時としては非常に長寿な74歳の生涯であった。
(だが、鎌倉幕府の政権争いで残念ながら三浦氏はその後、滅亡してしまう・・)
英傑大戦内では「三浦」に非常に強い誉れを感じているふしがあるが、これは三浦半島に
源氏ゆかりの寺社(大椿寺、本瑞寺、見桃寺、海南神社、三浦三十三観音等)が多数存在している為
三浦にはそれら仏や神々の加護があることに由来していると思われる。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第115回:興隆の承伝「禁門の変 長州軍」】
我が身、天下へ飛翔する!
平氏興隆の祖:平正盛の嫡子、平忠盛。日本史上初の武家政権を確立させた平清盛の父である。
(清盛の実父かどうかは諸説あるが群雄伝では清盛の実父ではないとする説を採用
清盛は、忠盛に下賜された「祇園女御の妹と白河法皇の子[※]」という設定になっている)
※[下賜された時に既に白河法皇の子を妊娠していた]というもの
父:正盛が検非違使・追捕使(当時の警察のようなもの)を担い
盗賊捕縛、海賊退治、朝敵とされた面々を討伐して伊勢平氏の活動基盤を確立。
その任を忠盛が引き継ぎ、朝廷においての伊勢平氏の立ち位置を大きく改善した。
そしてとうとう伊勢平氏において初めて「昇殿(内裏清涼殿:殿上の間に立ち入ること)」を許された。
(貴族以外はまず立ち入れない朝廷政務の領域に、武士である平氏が踏み込んだということである
貴族たちはこの平氏の台頭が面白くなく、忠盛の身体的特徴[※斜視]を馬鹿にしていたと記録が残る)
この昇殿を許された頃、貴族:藤原家の娘である「藤原宗子(後の池禅尼)」を妻とすることで
親族血縁による影響力を展開することにも成功する。
また、商才にも優れていた忠盛は日宋貿易にも力を入れた。
貿易がもたらす富による経済基盤は平氏勃興を成すうえでの最大の要因であったともされる。
その後、順調に出世を重ねていくが、平氏の最盛期は見ぬまま58歳で死去。
死後、伊勢平氏棟梁は清盛が引き継ぎ、保元の乱・平治の乱の勝者となった清盛は天下に飛躍した。
※斜視:両目の焦点が合わず目標物に対する視線が合わない身体的特徴。
(群雄伝においてもこの身体的特徴を嘲笑われるシーンがある)
イラストでは片目を隠しており、暗にこれを表現したものとなっている。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第132回:蛇智奸佞】
「武士」という毒を如何に使いこなすかが、腕の見せ所よ・・!
後の征夷大将軍:源頼朝の第一の郎党と称される武将:梶原景時。
坂東武者であった梶原氏は源氏の家人として仕えていたが平治の乱で源義朝が討たれた為に
一時平家に従う姿勢を取っていた。
後に平家打倒の為に頼朝が挙兵。これに対して梶原景時は大庭軍と協力して頼朝軍を撃破した。
山中に逃げた頼朝を発見するが、そもそもが源氏の家人であった景時はこれを敢えて見逃し
その後、再起を果たした頼朝に速やかに降伏して源氏勢力に付いた。
平氏での戦いでは諸将が「○○で戦って勝った」という報告しか上げないことに対して
景時だけは戦の詳細や物事の日時を細かく記した報告書を提出しており
これにより細やかな報告を重要視する頼朝の信頼を得た。(彼の落城台詞はこの逸話の再現である)
頼朝の信任厚い景時は、主君の命であればどんなことでも遂行した。
謀反の疑い有りとされた上総広常を双六の最中に突如誅殺したこともその一環である。
主君の為に汚れ役を買って出ていた景時に対して、周囲からの恨み妬みは集中していった。
(義経との確執も有名で、彼の讒言が、頼朝が義経を討つ決定的出来事になったとも言われている)
鎌倉幕府発足後、鎌倉殿の13人の一人に数えられるが、彼は周りからの恨みと嫉妬を買いすぎていた。
頼朝死後、幕府家臣:結城朝光を誹謗したことを切っ掛けにして御家人諸将が結託して
諸将66名による連判状が提出され、景時の排斥を求めた。
景時はこれに一切の弁明をせずに重役の位置から身を下ろすが
さらに謀反の疑い有りと疑いを掛けられて諸将連合軍に追討を受ける。
瞬く間に一族郎党を含めて景時も討ち取られ梶原家は滅亡に至った。
この「梶原景時の変」を皮切りに、頼朝死後の権力争いが繰り広げられることなる。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第157回:奉武の飛翔】
我が飛翔より、この戦は始まるぅぅ!!
相模国豪族:三浦義明の末子にして十男:三浦義連。
佐原城を拠点としたことから佐原義連と称され、三浦義澄の弟にあたる。
平治の乱から20年後「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
三浦氏は早速、挙兵した頼朝軍に合流しようとしたが暴風雨により合流が遅れ
源平合戦緒戦「石橋山の戦い」に間に合わず、源氏はこれに大敗を喫してしまう。
その後、再起を図った頼朝にすぐに合流して平家打倒を周辺豪族に呼びかけた。
身内であろうと疑わしきは罰するほど猜疑心の強い頼朝は寝所護衛者を厳選。
佐原義連はその武勇と誠実な人柄から寝所警護の十一人に選出され近衛衆となった。
後に源義経軍に従い参戦した一ノ谷の戦いの勝敗を決定付けた急襲作戦「鵯越の逆落とし」では
崖の急さに怖気づく坂東武者を鼓舞するため真っ先に駆け下り、勝利を引き寄せたという。
治承・寿永の乱、奥州合戦で武功を上げた義連は陸奥国会津四郡を与えられた。
没年は正確には不明だが、少なくとも75歳まで生きたとされており兄と同じく長寿であった。
後に三浦一族は鎌倉幕府内の政権争いで滅亡することとなるが
この佐原氏の血筋は残っており会津蘆名氏として戦国時代にも残る大名となった。
(佐原義連の孫の代から蘆名氏となり、15代ほど後にKNGM兄貴が活躍する)
三浦一族の例に漏れず非常に神仏に対する信心が深く、自ら満願寺を創建。
観世音菩薩立像・地蔵菩薩立像・不動明王立像・毘沙門天立像等が安置されており
現在でも国家指定の重要文化財、市指定の重要文化財となっている。
これがイラスト内の佐原義連の背にある千手観音菩薩の腕群の由来である。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第134回:興隆の軌跡】
平家の誇りを守りたくば、この知盛に続け!!
武士として異例の太政大臣まで上り詰めた平清盛。その四男:平知盛。
平時子の息子としては次男にあたり、同父母の兄は平宗盛。
源平合戦における源氏側の武を担ったのが源義経だとすれば
平家側の武を担ったのが平知盛であるとされ、共にERでの登場となった。
平治の乱後、平家の興隆はその極みに達して清盛の子であった知盛は従二位:中納言まで昇進したが
「以仁王による平家打倒の号令」が発布されると日本各地で反平家勢力が挙兵。
その最中で総合指揮を取るべき清盛が病死した為に
時子長男の宗盛は政治、知盛は軍事の中枢として平家一門の旗振りを行った。
(平家物語の中で宗盛は武士の棟梁の器ではない愚物として扱われ
その後の軍記でも捕虜になった後の命乞いの醜さなどから全く評価されていないこともあり)
実質的に平家一門を連れて各地で戦ったのは知盛であるとされている。
(その関係から2コスERの知盛に対して、宗盛は1コスNと、平家大将としての格差が大きい)
勢いに押された平家は京を追われ、各地での連敗によってとうとう本州最西端の壇ノ浦まで追い詰められる。
そこで知盛は総大将の一角として奮戦するが、周辺各地の豪族が源氏側に付き
どうあがいても勝ち目が無いことを悟った知盛は兵士へ停戦を命令。
「源氏側兵士にも平氏側兵士にも家族がいて、勝敗の決まった無駄な戦闘で死ねばその家族が悲しむ」と。
その後、平家一門の入水自殺を見届け、自身も二層の鎧と錨を体に巻きつけ
「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して一族の後を追って入水して自害。
敗れはしたものの、武に長け指揮に長け、勇ましくそして優しい英傑の死であった。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第123回:武皇の大恩命】
源氏の旗に集いし武者たちよ!我らの力を示す時は来たッ!!
河内源氏六代目棟梁:源義朝。その三男:源頼朝。幼名:鬼武者。
母は義朝の正室:由良御前。源平合戦の英雄:源義経は彼の異母弟にあたる。
源義朝と由良御前の間に生まれ、兄が二人(義平・朝長)いるものの
貴族出身の正室の男児であった為に最有力世継ぎ候補として英才教育を施された。
後に平治の乱で父:義朝が朝敵として討たれ、さらに自身の兄2人も討たれた為に名実ともに嫡男格となった。
平清盛はこの河内源氏の次期棟梁になるであろう男児に、可能な限りの慈悲を与えて伊豆への流刑とした。
伊豆へ流されて20年後、「以仁王(もちひとおう)」が平家打倒の号令を発布。
これに呼応して父:義朝の時代から配下に置いた坂東鎌倉周辺の豪族武者に決起を呼びかけた。
さらにここで源氏に朗報が入る。「平家の総大将たる平清盛が病死した」と。
最高権力者の病没の混乱の中で源義仲(木曽義仲)が平家を京から追い出すことに成功するも
頼朝との敵対者を庇護した為に対立。頼朝は従兄弟でもある義仲を軍勢を以って討ち取った。
さらに平家追討を行い、最後は壇ノ浦にて義経・範頼軍が平家を滅ぼした。
それから源氏の世になり、1185年幕府を設立後も頼朝は義仲への処遇同様に同族への警戒を怠らず
壇ノ浦の英雄であった義経・範頼に謀反の疑いを掛けて誅殺。
1192年に征夷大将軍に就任し、封建制度を作り出して武家による統治を行えるようにしてからこの世を去ったが
独裁を防ぐ目的で設立された13人の合議制(鎌倉殿の13人)によって将軍の実権はその後無くなった。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第199回:平家打倒の檄「一ノ谷の戦い 平氏軍」】
気高き武士よ、今こそ立ち上がる時ぞ!
平安中期、土蜘蛛退治、酒呑童子退治の伝説を持つ武将:源頼光。
そしてその源頼光の直系の玄孫にあたる武将が源頼政である。
頼光が没してから80年ほど時が流れて平安後期に入った頃
宮中に鵺(ぬえ)という妖怪が出現した為、鵺退治を源頼光の直系の玄孫:源頼政が担った。
頼政は源氏家宝の雷上動という弓を用いて鵺を撃ち落とした。(頼政の鵺退治伝説)
源平合戦の前日譚となる保元の乱では後白河天皇側に付き勝利。
続く平治の乱では源氏側の源義朝には従わずに、平清盛側に付いて(※)勝利。
(※頼政は尊王派である為、天皇・上皇に対して貴族を担いで乱を起こした義朝に従う義理が無い)
平氏の世になった状態で、当時としては長寿の75歳になった頼政は源氏が賜った位としては
史上初の従三位へ昇格して源氏初の昇殿を許される身分となった為、「源三位」の通称を得た。
平清盛の信任を得たことでこの身分にまで登りつめたのだが、問題が発生する。
朝廷(天皇)に仕える身分であるはずの平氏が法皇を幽閉して
完全に朝廷を牛耳り(治承三年の政変)明らかに天皇を軽んずる姿勢を取ったのである。
これに対して頼政は激しく怒った。(ただし、これは反平家となった説の一つである)
(平治の乱では平家に従ったわけではなく。「天皇に味方する」のが頼政の行動理念に見える)
平家によって得た身分という恩よりも源氏の使命を重く見た頼政は、後白河法皇の第三皇子・以仁王と結託。
平家打倒の令旨を全国の諸勢力に送る計画を実行していたが、これが露見してしまう。
平家の討伐軍を察知した頼政は以仁王と合流して、宇治川にて平家軍と対峙。(宇治川の橋合戦)
平家物語での兵力記述では源頼政1000に対して平家軍28000。
戦力差30倍近くでは戦にならず、頼政は以仁王の脱出を最優先として奮戦するも追い詰められ自刃。
以仁王も軍勢に追いつかれて討ち取られる結果となった。
しかし、この事件を発端にして日本各地での反平家諸勢力の武力蜂起が開始され
後の世で「源平合戦」と呼ばれる内乱が発生し、頼政の平家打倒の檄を発端にして平家は滅ぶこととなった。
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【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第122回:朔陣の修羅】
迅速こそ勝利への道!朔陣の精鋭よ、突き進め!
河内源氏六代目棟梁:源義朝。その九男:源義経。幼名を牛若丸。稚児名を遮那王。
母は義朝の側室:常盤御前。後の鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝は彼の異母兄である。
義経の人生の転換期は「平治の乱」である。
この戦いを引き起こした上で敗れた父:義朝は郎党の身内に討たれるに至った。
母:常盤御前と共に避難するも祖母(常盤御前の母)が人質に取られたことで平家側に降伏。
父の罪を子に被せなかった清盛の恩情によって助命され、鞍馬寺に預けられ、遮那王の名を与えられた。
(伝説では、この時に鞍馬山に住む鞍馬天狗に剣術修行を施されたとされる)
兄:源頼朝が平氏打倒の為に挙兵した際、これに呼応して義経も馳せ参じ
「治承・寿永の乱」通称:源平合戦と呼ばれる日本各地で大規模な内乱が発生したのである。
隆盛を誇っていた平家は日本各地で蜂起した反平家勢力に徐々に押され
義経は「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」にて奇襲戦法により平家を撹乱。
源平最後の戦いとなる「壇ノ浦の戦い」では源氏水軍総大将として平氏水軍総大将「平知盛」を相手取って戦い
平家一の猛将平教経を軽々と煙に巻く八艘飛びを披露するに至った。
かくして平家を打ち倒して源氏の世になったのも束の間
(原因は諸説あるが)大将である兄:頼朝と、義経の間に不和が生じる。
勢力・発言力に大きく勝る頼朝は義経に朝敵の烙印を押して徐々に追い詰め
衣川の戦いによって義経側の兵及び主だった郎党のほとんどを始末した。
追い詰められた義経は最後に正妻と娘を殺害直後に自刃。31歳の生涯を閉じた。
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信長の野望 天下創世PK 合戦トライアル 日本史編 源平合戦
何の変哲も無いプレイ動画へようこそ。動画の時間がだんだん短く・・・トライアル全体に言える事ですが、速攻以外ではほとんど金が貰えません。 ※ステージ開始~部隊紹介(0:00~0:50) 合戦(0:50~2:57) 評価~次回予告(2:57~3:35) 後三年の役→sm12162296 保元・平治の乱→sm12178466 南北朝の戦い→sm12196807 応仁の乱→sm12720169 合戦トライアル一覧→mylist/21308695 河野家プレイ一覧→mylist/1172155