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【心響】そば粉パンの悲劇 【オリジナル】
【心響】そば粉パンの悲劇 【オリジナル】
覚えていますか?そば粉パン?
作曲:ベース・ギター・打ち込み:うさぎラビット
作詞:電子P
モデル: れんくう式kokone V1.02、レンにゃ & くうわんこ
うさぎラビットオリジナルボカロ曲マイリスト:
http://www.nicovideo.jp/mylist/38574099
電子Pのマイリスト:
https://www.nicovideo.jp/user/13402019
Two Time Transit 再録【 オリジナル 】 by kunatomix
#レゲエ (再録再upです)
Two time transit まばゆい海
そして2人だけ 言葉無くして
同じ景色 漂うだけでいい
Do not disturb このままfeel love
予定とりやめて ルームサービス
まばゆいサンシャイン 夢のサボタージュ
帰りたくない気持ち 迫りくるビザの期限
たたずむバルコニー もう少しこのままで
包み込むマジックアワーに
紫のハーバーライト
また一つ日が暮れる チャンスは明日だけ
市場の中 探したけど
何処にも見当たらず ロコの娘にも
尋ねたけど 誰も分からない
贈り物は 形じゃない
胸の奥にある sweet sour gimlet
傾けあって 今夜こそキメて
Two time transit【 オリジナル 】 by kunatomix
#レゲエ
Two time transit まばゆい海
そして2人だけ 言葉無くして
同じ景色 漂うだけでいい
Do not disturb このままfeel love
予定とりやめて ルームサービス
まばゆいサンシャイン 夢のサボタージュ
帰りたくない気持ち 迫りくるビザ期限
たたずむバルコニー もう少しこのままで
暮れていくマジックアワーに
紫のハーバーライト
また一つ日が暮れる チャンスは明日だけ
市場の中 探したけど
何処にも見当たらず ロコの娘にも
尋ねたけど 誰も分からない
贈り物は 形じゃない
胸の奥にある sweet sour gimlet
傾けあって 今夜こそキメて
一寸先は闇 2024年1月23日 / 44A
こんにちは、昔作った歌を少し変えて歌って見ました。まぁずっと一寸先は闇なのですが、特に最近、能登で地震があって多くの被害がありましたし、正月の4時といったら団欒で酒でも飲んだり、子供はお年玉もらってなんてことが大半でしょう。それが大地震でそれどころじゃなくなって。そういうことでしょうね。まぁいいこともあるでしょうけどね。そんなわけで先程、奥能登ではないですが能登の中間にある七尾に行って歩いて色々見てきました。地割れが多くて道が波打った所をもうコンクリートでなおした感じです。奥能登の方は地面の隆起やら津波などもありさらに酷い被害にあったと思います。例えばボランティアに行けるような状態までいければいいなと思います。
ライチ(IA 自作曲)
波は鮮やかに オレンジ染まって
遠く眺めたら 1日が終わる
甘い香りのコテージで 今夜はふたり
ここに隠れて とろけていましょう
赤いライチのカクテルを 君とふたつ
余計な事は 忘れていましょう
風は涼やかに 静けさ運んで
そっと委ねたら 漂って宇宙
そして飛行機が 横切る音が
星に聴こえたら 探して見つけて
椅子を離れたら 隣に座って
君と頬染めて 唇かさねて
ハメられた!レゲエ.sunoAI 4曲
投稿者:ラスタマン拓也
ルーツレゲエっぽいやつを4曲ほど
一番びっくりしたのは「Lord,have mercy」
よく曲の最初に言うラダマーシーを再現できたこと
もしこの曲から続きたい人はコメントで書いてくれればURLをツイートします
コメントくれた方ありがとう、まだまだ改良の余地あり これから作る人は日時を入れないほうがいいよ
【鉄道PV】さよなら三鷹跨線人道橋
跨線橋から中央線と三鷹車両センターが一望できた。
そんな地元の人達だけじゃなく鉄道ファンからも愛された三鷹跨線橋も、2023年12月10日をもって閉鎖。
12月11日からは撤去工事が始まる。
約93年の歳月に終止符を打つ。
地元民じゃないがお世話になりました、ありがとう。
ジャングルジム - BIBLO(AWAKE MONSTER)
【鉄道PV】VSEロマンスカーにつたえきれない
2006年に初乗車して、それから小田急ロマンスカーに乗る時はVSE50000形ほぼ一択で新宿~箱根湯本をスーパーはこね、はこね、ホームウェイで17年程乗ってました。
最後の乗車は2023年の某団臨で乗ったり撮ったり堪能しました。
ありがとうVSE、今度は海老名で逢おうな。
つたえきれない - SHOCK EYE,TAK-Z
私のジャマイカ滞在記 最終回 / 44A
日本に着いた。
成田空港から東京へ向かう列車内はどんよりとしており、周囲の人々は皆、疲れ切っているように見えた。これはジャマイカのバス内の雰囲気とは大きく異なっていた。ジャマイカではバスの中でたいていダンスホールレゲエが流れていたが、ここはその対照的な光景だった。
ニューヨークの人々も、親しみやすい人が多かったことを思い出す。その点で、日本人はぐったりしているように見えた。
私はサニーさんと会う約束をしていた。東京のどこかで待ち合わせをする予定だったが、具体的な場所はほとんど忘れてしまっていた。それでも、サニーさんやアイナ、ジャーゴンさん、サニーさんの妹さんを含む多くの人々が集まってくれた。
私は東京特有の路上で、ビールケースを椅子に見立てた居酒屋で、目を輝かせながらジャマイカの話をした。酔っ払っていたが、サニーさんやジャーゴンさんも喜んでくれていたようだが、その話の詳細は覚えていない。
そして、ジャマイカから帰国した私は、路地裏で立ち小便をしてしまった。みんな、私がジャマイカで何を学んでいたのだろうと疑問に思ったかもしれない。ここは日本だ、ジャマイカのやり方は通用しない。みんな心の中ではそう思っていただろうが、その時ばかりはジャマイカのバイブスに満ちた私を歓迎してくれた。それはリスペクトだった。
そう、大切なのは何を学び、どこでどう活かすかだ。残念ながら、私はレゲエ的な意味でそれを活かすことはできなかった。
その後、石川県に戻った。良い思い出だけが残った。
仕方がない、しかし、それが夢だったので、それで良しとする。
私は成人式の際、あまり友達がいないと感じていた。完全にではないが、これが私の居場所でないと思っていた。そして、ドレッドヘアのジャマイカ人の友達を作り、誰かに自慢してやろうと夢見ていた。
それを実現できた。それだけで、私のジャマイカ留学は大成功だったと言ってもいいだろう。
終わり。
私のジャマイカ滞在記番外編② / 44A
ニューヨークでの記憶は断片的だが、鮮明な一部が心に刻まれている。食事はあまり取らず、思いつくままに入ったマクドナルドで、ジャマイカでの経験と同じように、黒人の少年にカンフーの真似をされてからかわれたことを覚えている。街の弁当屋で買った見たこともないような不味い弁当を、宿に持ち帰って食べたが、あれは一体何だったのだろう。
その夜、宿に泊まっていたレゲエ好きの兄ちゃんたちと一緒にイベントに行った。どこかのビルの中で行われていたそのイベントでは、ガーネットシルクやモーガンヘリテージの曲が流れていた。フロアにはドレッドヘアの黒人たちが大勢おり、彼らの目は今まで見たどの目よりもギラギラと輝いていて、何か悪そうな雰囲気を醸し出していた。これがニューヨークのジャマイカ人の姿なのかもしれない。
次の日は霧に包まれた街を歩き回った。まさにニューヨークの象徴的な風景だ。敷居が高くてほとんどの店には入らなかったが、ただ街を見ているだけで心は躍った。そして、訪れることが絶対に外せない場所があった。それはメトロポリタンミュージアムだ。子供の頃にテレビで見たあの場所。館内は本当に広く、世界各国の美術品が展示されていた。
私のジャマイカ滞在記番外編① / 44A
ジャマイカからの帰り道、私の足はマイアミを経由してニューヨークへと向かっていた。マイアミの暑さから一転、ニューヨークの肌寒さは私にスーツケースの中からダウンジャケットを取り出させた。
ニューヨークと聞けば、誰もが夢のような場所を想像するだろう。実際にその地を踏むと、そこはまさに近代的な都市の姿をしていた。異国での旅に慣れた私は、A列車かC列車に乗り、ラブリッシュのニューヨーク支店を目指した。ジャマイカ滞在中、オーナーに頼んでいたおかげでスムーズに移動できた。
アメリカに住む黒人の方々は、親切で心温かい。飛行場で迷っていた私を案内してくれたり、列車を降りた後も別の人が道を教えてくれた。ブルックリンの人々は、実はとても親切なのだ。
ジャマイカで覚えた感謝の言葉を口にしながら、目指す場所に着いたのは、まさにニューヨークらしい建物が立ち並ぶアベニューだった。薄暗い階段を登り、ピンポンを鳴らすと、ドミトリーの管理人が出迎えてくれた。そこは二段ベッドのある部屋で、数人が寝泊まりしていた。
そして彼らは、レゲエを愛し、留学や旅行でここに来ている人々だった。男女の区別なく、みな同じ情熱を共有しているように思えた。
私のジャマイカ滞在記 ㉒ / 44A
さらばジャマイカ
慣れ親しんだ土地を離れるとき、その別れをどう受け止めたのか、今となってははっきりとは覚えていない。ウィリーとは会って話をしたのだろうか。リッキーベンズには何と言ったのだろうか。彼らにとっては、日常の一部が消えただけのことで、深くは感じていなかったのかもしれない。
夜中か、あるいは朝方、ラブリッシュの運転手であるアイジャに空港までの送迎を依頼していた。愛想のいいニット帽をかぶったラスタの彼と、車中で何を話したのか、それとも無言で過ごしたのか。ダウンタウンのダンスに寄るという粋な計らいをしてくれたが、そこは男女がワイニーして盛り上がるいつもの光景だった。パサパサとは通り過ぎるという意味で、私は文字通りその時間を通り過ぎた。涙はあったのだろうか、忘れてしまった。アイジャとの別れ際、互いにヤーマンと言い交わし、私は空港へと向かった。彼が最後の友人になるとは思ってもみなかったが、彼は長いこと見送ってくれたように思う。今となっては、彼に最大のリスペクトを感じている。
ジャマイカに着いた初日、迎えに来てくれたのはウィリアムさんだった。彼は「ウェルカム トゥ ジャマイカ」と言った。その日の夕方、キングスゲートのラスタは「ロンコム」と言った。それは久しぶりという意味だろうか。リッキーベンズやウィリーは分かれ際に「レター」と言うが、それは「後で」という意味なのだろうか。
しかし、なんとなくもう彼らに会うことはないような気がする。時間が経つにつれて、日本で心が変わってしまった自分と、再びジャマイカに行けるようなお金もないからだ。
ジャマイカはハリー・ベラフォンテが歌うほどロマンチックではなく、かなり騒がしい場所だった。それでも、そこで過ごした時間は私の物語の中でいつまでも色褪せない重要な一部となるに違いない。
私のジャマイカ滞在記 ㉑ / 44A
ジャマイカの日差しのもと、わたしの青春は、写真には残らない、ささやかな冒険の連続だった。自分の姿を捉えることには無頓着で、そのために残された数枚の写真は、とりとめもなく奇妙なものばかり。誰かがそれらを見たなら、わたしを誤解してしまうかもしれない。派手な外見とは裏腹に、わたしは無口で地味な男だったからだ。
ジャマイカに来て二ヶ月が経った頃、わたしの日常はリッキーベンズという男とその友達に彩られていた。彼のアーティストとしての才能は確かなもののそれごなかなか花開かないでいた。それでも彼のことを不思議に思いながらも魅了されていた。彼の家族とも親しくなり、小さな弟妹や母親に何度か会った。父親については、ニューヨークで悲劇的な最期を遂げたと聞いた。
彼の庭には昔使っていたというタクシーがあったが、彼がどうやって家族を養っているのかは、街の人々にはよく知られた謎の一つだった。彼の知人にはスタジオ経営者やダンサーがおり、街のあちこちに彼のビジネスの痕跡があった。
写真の中の背の高い男、レジャーはビデオカメラを持ち歩く男で、リッキーベンズのプロモーションビデオ撮影のためにいつも忙しく動いていた。屋上ビアホールでの撮影は夜遅くまで続き、わたしは機材運びを手伝っていた。レジャーは周囲の若者たちにも手伝いを促し、彼らに対する厳しい愛情を注いでいた。
撮影が終わると、夜更けにパーティへの誘いがあったが、わたしは疲れ果てていた。リッキーベンズは彼の部屋で眠るように言ってくれた。朝方、彼が帰宅する音で目を覚ますと、なぜか彼はわたしのポケットを探っていた。何が起こったのかを尋ねる前に、彼は何も言わずに部屋を出ていった。
何かを盗まれたわけではないが、その夜はジャマイカの普通の生活を垣間見たような気がした。その後すぐにわたしはリッキーベンズの家を離れたが、彼はバス停まで送ってくれ、別れ際に近くになっていたマンゴーをちぎり2人で食べあった。わたしたちが同じ29歳でありながら、あの夏はまるで少年のような無邪気な日々を過ごしていたことに、後になって気づいたのだった。
私のジャマイカ滞在記 ⑳ / 44A
空港での偶然の出会い。名は知らずとも、その青年の存在は僕の記憶に刻まれた。ジャマイカの光満ちる日々、僕は名も無き人々との断片的な交流に心を委ねていた。彼らは実際には名を持つ人々だが、僕の記憶の中では、ただの風景の一部として残っている。ある青年は空港で何かを言っていた。名前は覚えていないが、その一瞬の出会いが心に残っている。その他、お金を渋って返さなかった男、北海道出身の女性、日本で水商売をしているのかもしれないと耳にした話。彼らはすべて、ジャマイカでのほんの一コマだ。
ほとんどの滞在を日本人が経営する宿で過ごしながらも、日中はジャマイカ人と共に時間を過ごした。帰れば、いつも誰かがいて挨拶を交わし、時にはラップバトルのようなことに興じたこともあった。人それぞれの事情があり、短い滞在の人もいれば、長くいる人もいた。ジミー・クリフが歌う「Many Rivers to Cross」のように、僕たちの出会いも川の流れに任せた偶然の産物だ。
ボブ・マーリーのカレンダーをくれた青年もいたし、帰りのバスで僕に電話番号を窓ガラスに書いたサーファーの兄ちゃんもいた。そしてゲトーでの生活を夢見るドレッドヘアの男性、四国のラジオ番組に出る兄ちゃんと共に撮った写真がどこにあるのか、今となっては思い出すだけだ。
ラブリッシュのロビーで、パソコンに向かう僕のことを「パソコン小僧」と呼んだ女性もいた。僕が作業を終えると、彼女は既に眠っていて、僕は毛布を掛けてやりドミトリーに戻った。それも今は遠い思い出だ。
僕は何度も出会いと別れを繰り返してきた。それらの人々には名前があったが、今の僕にはもう、何年も前の名もなき思い出の中の人々に過ぎない。
私のジャマイカ滞在記 ⑲ / 44A
ジャマイカでの恋愛は、実際のところ、空白のままだった。私の話を読む人からすれば、何の面白味もない話だろう。日本には付き合っている人がいたにも関わらず、ダンスホールの賑わいやゲストハウスでの交流がそこにある。長い時間を共にして、何も起こらないのは、まるで奇跡のような話だ。けれども、その平淡さが、かすかながらも記憶に残っている。
時おり、日本人やジャマイカ人の若者と連絡先を交換したことはある。ただ、それが何らかの関係に発展することはなかった。振り返ると、一度だけ、向こうから連絡をくれた女性がいた。ジャマイカ人の警備員の女性だ。彼女との出会いはウィリーの紹介によるものだったが、それも長続きはしなかった。不思議なことに、ジャマイカのバスガイドにまで電話番号を聞かれ、交換したが、こちらから連絡を取ることは一度もなかった。その後、ふとした日に道端で彼女に見つけられ、「待てー」と大声で呼び止められたが、私は走ってその場を去った。
前にもどこかで書いたが、「レゲエが恋人さ」と言っていたあの人と、私の恋愛事情は何も変わらない。そう考えると、ウィリーだとかリッキーベンツとかの友人たちの方が、実は紳士かもしれない。
この話、自慢のつもりはない。ただの自己反省だ。あの時以来、色恋沙汰からますます遠ざかる一中年男の泣き言に過ぎない。
私のジャマイカ滞在記 ⑱ / 44A
ジャマイカの陽光のもと、ジャークチキンの香ばしい煙が青空を突き抜ける。通りを歩けば、ドラム缶で焼かれるチキンから立ち昇る匂いが、空腹を誘うリズムを奏でる。その煙は、この地の生活と深く結びつき、食の記憶を育む。
多くはジャークチキンをジャマイカ料理の代名詞とするが、私にとっては遠く離れた日本で味わったモモ肉のジャークチキンの味が、かけがえのないものである。その理由は単純で、日本風に調理したその料理が、家庭の味としての温かさを伝えてくれるからだ。そう、日本のラーメンがその起源の地を超えたように、私にとってのジャークチキンは日本で完成する。
しかし、ジャマイカでのジャークチキンは、その価格の安さとは裏腹に、コストコのチキンのあばら骨の部分のようなものや、ゲットーの露店で見る頭付きのグロテスクなもの、さらにはケチャップをかけただけの胸肉に比べると、この地で出会うフィッシュスープやミートパイのようなパティの方が、はるかに私の心を惹きつけた。
そして、なにより忘れられないのが、アキーアンドソルトフィッシュだ。ラブリッシュのジュンさんがゲストハウスで提供してくれたその料理は、ジャマイカの朝を象徴するかのように、素朴でありながら味わい深い。アキーの果肉は卵のような食感を持ち、塩漬けのタラと炒め合わせることで、忘れがたい美味しさを生み出していた。10年以上が経つが、その味は今も鮮明だ。おばちゃんが黄色いアキーを剥く光景も、ジャマイカの暮らしの一コマとして、私の心に焼き付いている。
その土地のマンゴーの木の下では、子供たちが柿泥棒のように果実をついばんでいた。ジャマイカの熱気と共に生きる彼らの姿は、いつまでも色褪せることのない風景として、私の記憶に留まっている。そんな日々を過ごしたジャマイカは、食文化だけでなく、そのすべてが、小さな宝石箱のように私の中にしまわれている。
私のジャマイカ滞在記 ⑰ / 44A
節度は万事において重要な要素であるが、メチャクチャな見た目をしているジャマイカ人にも、この節度は確かに存在する。それは特にラスタファリアンの間で顕著であり、彼らの間ではこれを「ヘビーマナーズ」と呼ぶことがある。土足でジャマイカの地に踏み入れる私たちだが、その地には古来から続く生活と風土が息づいている。レゲエを愛する私たちは、情報を通じてラスタや「ワンラブ」「ヤーマン」「ブレス」といった言葉の背後にある精神的な意味をある程度は知っていると自負している。
しかし、ジャマイカ全体がラスタファリアニズムで結ばれているわけではなく、中にはギャングになって金を稼ぐならず者も少なくない。節度が何を意味するのか、ジャマイカでそれを見極めるのは難しい。以前出会ったラスタのウィリーは、スーパーでビールを買い、飲む前に床に一滴垂らして神に捧げる儀式を行う。彼が本当に節度をわきまえているかは定かではないが、ポケットに銃を忍ばせていて脅してくるジャマイカ人に対して怒りを覚えたこともある。私は「ワンラブ」という言葉を合い言葉のように使い、ジャマイカで親しみを込めて交わしていたが、実際はすべての人がその精神を共有しているわけではなかった。
そんな中、私にも深く反省する出来事があった。それはラスタの日曜集会でのことだった。朝から夜遅くまで続く音楽とともに、厳かにダンスをする集まりである。緑のネックレスをしたエセ日本人である私は、ある少年に目をつけられた。ジャマイカの少年は日本人や他のアジア人を見るとカンフーを真似する習慣があるが、私も冗談で「アチョー」と返してしまった。すると少年は興奮し、「アチョー、俺の方が強い。ネックレスをよこせ」と迫ってきた。しかし、その場に「コラッ」という一喝が飛び、それは老年のラスタからのものだった。神聖な場での悪ふざけにのってはならないと気づいた私は、少年に緑のペンダントを渡して和解し、隅で静かに反省したのだった。
私のジャマイカ滞在記 ⑯ / 44A
ジャマイカでの2ヶ月間の滞在は、私にとって全く新しい体験だった。日本の地方都市の静けさとは異なり、ここでは日々がダンスイベントで色づいていた。太陽が燦々と輝く昼下がりであろうと、ジャマイカの夜が深まるころであろうと、私はダンスイベントに引き寄せられた。レゲエが好きな者として、その誘惑に抗うことはまず不可能だった。
イベントの流れは決まっていて、夜8時か9時に開始し、最初の1、2時間は古いレゲエ音楽が流れる。その後、朝まで続くエネルギッシュなダンスホールが始まる。私はよくそこを訪れ、始まるのを横目に見ながらも、いつの間にか疲れを感じて帰宅していた。心の奥底では、スカやロックステディ、ルーツレゲエ、ダブなど、ゆったりとした音楽をずっと聴いていたいと願っていた。
そんな私の願いを叶えるような場所が実際に存在した。レイタウンという、刑務所の近くで開催されるファウンデーションイベントだ。ある日、私は数人の日本人と共に乗り合いタクシーでその会場へと向かった。到着すると、そこは夢のような空間が広がっていた。多くのスピーカーからは昔ながらのレゲエ音楽が流れ、酒はたくさん飲むのではなく、ビールを一本手にゆったりと飲みながら踊る。そんなスローペースでレゲエを楽しむスタイルがそこにはあった。
観客は多かったが、自己主張することなくただ踊っている。しかし、マントを纏い、ターバンを巻き、デジタルカメラを持って歩いている一人の人物がいた。彼は確実に目立っていたが、それはジューニアリード本人であると思われた。彼のヒット曲「ワン・ブロード」が流れる中、彼はそこにいて観光客を驚かせていたに違いない。また、ビーニマンの姿も見たが、彼らはとてもわかりやすい存在だった。今になって思うのは、握手をしてもらうべきだったということだ。それが私のレイタウンでの貴重な思い出である。
私のジャマイカ滞在記 ⑮ / 44A
日本人の中でも特に、私はレゲエ音楽の生きた証人の一人と言えるだろう。レゲエをこよなく愛し、そのビートに合わせて人生を踊る全ての人々がそうであるように、私もまた、その一人だった。私の記憶には、2008年にジャマイカのモンテゴベイで行われたビッグイベント「ワールドクラッシュ」の日付までも鮮明に残っている。私はラブリッシュという場所に滞在しており、そこにいた他の滞在者やジュンさんと共に、キングストンからモンテゴベイへと乗り合いタクシーで向かったのだ。初めて訪れたモベイの夜は景色を記憶に留めることなく過ぎ、目に焼き付いたのは広い校庭に設けられたイベント会場と、そこに集まる人々の喧騒のみだった。
それにもかかわらず、私たちは好きな場所を見つけ、音楽の熱気に身を任せた。そんな中で、私たち日本人の誇りであるマイティクラウンが出場していたのだ。彼らは記事にもある通り、クラッシュで見事優勝を果たした。詳細は省くが、その時の興奮といったら筆舌に尽くしがたい。私はジャマイカに来て以来、外国人でありながらもレゲエの文化を学び、育てられた。マイティクラウンの堂々とした態度は、自信に満ち溢れていて、私に大きな勇気を与えてくれた。レゲエは世界中に広がり、ジャマイカ人だけのものではなく、全世界の人々のものになっていた。日本はその文化を引き継ぎ、さらに発展させていることを強く実感した。
私のジャマイカ滞在記 ⑭ / 44A
ジャマイカの日本人①
私はジャマイカ滞在の期間の大半を日本人が経営する宿で過ごしました。その中で特に思い出深いのは、アイシャハウスとラブリッシュです。
最近では、YouTubeで簡単にジャマイカの映像を見ることができますが、当時小さかったラブリッシュのジュンさんの息子さんが成人になって大きくなっているのを見て驚きました。それは私たちが歳をとったということを実感させられる出来事ですが、短い期間でも両宿での出会いと別れがありました。
特にラブリッシュのテラスでは、当時新たにフリーになったばかりのある女子アナウンサーが、毎日ノートパソコンに向かっている光景が印象的でした。彼女は素性を隠してはいましたが、非常にオープンな人でした。私たちにはその辺りの道案内などをしてくれました。おそらく彼女にとってはそこで普通に過ごすことができたのでしょう。そのため、私たちもあえて余計なことを聞かないようにしました。
私のジャマイカ滞在記 ⑬ / 44A
縁というものは、夫婦に限らず、袖を触れあっただけでも前世からの縁と言われます。
私がレゲエのイベントに足を運び始めた頃、大阪のムーズバーイエローでのイベントに誘われたことがありました。石川県から何度か大阪のダンスイベントに参加しており、私が口でレゲエを歌っていると話していたため、新進のアーティスト向けのダンスイベントに誘われたのだと思います。そのイベントには色々な思い出があるので詳しくは触れませんが、特に印象に残っているのは、「タカハシマンです、よろしく!」と挨拶してくれた人と、その日のゲストスターであった吉本興業のレゲエアーティスト、ユカさんとツネさんのコンビ、スノッブです。二人はとても親しみやすく、会場の外の廊下で色々と話をしてくれました。私はその場のノリで、石川県でのイベントに二人を招待すると伝えました。
時が流れ、私は20代の最後の3月にジャマイカを訪れ、アイシャハウスというゲストハウスに滞在しました。そこで再びユカさんと会い、彼女は私を覚えていてくれました。ツネさんも相変わらずクールで、ジャマイカでのスノッブのパフォーマンスは素晴らしかった。彼らは20年前にはレゲエDJ風の漫才をし、10年前にはダンサーとして活動していました。今回、ユカさんに再び出会えたことは私にとって幸運でしたが、残念ながらそれが最後の再会となりました。インターネットのニュースでユカさんが亡くなったという報道を見たのです。私がレゲエから離れてしまうと、他の人たちとも疎遠になってしまうのではないかと懸念しています。しかし、これはジャーガイダンスの導き、つまり縁というものだと感じます。かつて出会った人々と再会する機会があれば、その縁を大切にしたいと思います。
ちなみに、ジャマイカで「イエローチョイス」というイベントが開催され、日本人参加者はスピーカーの搬入を手伝っていました。その際、端正なルックスの青年が近寄ってきて「タカハシマンです、よろしく」と挨拶してきたのは、とても印象的でした。
私のジャマイカ滞在記 ⑫ / 44A
ジャマイカのパワースポット
「JAMAICA」とは、神様が創造された地を意味する。遥か昔、この島はインディアンによって美しく守られていた。しかし、コロンブスの到来とともに、その平和は破られた。彼らは抹殺され、やがてこの地は怪物王モーガンが支配するポートロイヤル、悪の巣窟と化した。
ダウンタウンは今もその名残を残し、ギャングが治める恐ろしい場所となっている。それでも、聖域を求める者はブルーマウンテンの山を目指す。霞に包まれた神聖なラスタの村、白人に立ち向かった奴隷たちの村マルーンがある。私はラスタの村にホームステイをした。壁紙にはエンペラーセラシエの肖像画が勇ましく掲げられており、ボブ・マーリーアンドウェイラーズを思い起こさせた。
滞在先を紹介してくれた日本人女性と何を話したかは忘れたが、おそらくこの村に寄付をしてほしいという話だったろう。村人はドラム缶でバナナを煮込み、栄養ドリンクを作り下界に売りに行っていた。他の産業はほとんど見当たらない。
ある日、バナナを混ぜていた男が、遠く離れた上方の家にいる男と大声で話す姿に遭遇した。彼らの声は「ヤガヨー」という掛け声で、まるで「何か用か」と怒鳴っているかのようだった。その声には圧倒的なパワーがあった。
夜は、ヤムイモを練って作った餅のようなものが入ったスープをいただいた。正直、これは私の苦手なジャマイカ料理だった。しかしジャマイカのおばちゃんたちは、この料理のおかげでジャマイカの陸上選手が速いと言っていた。それは彼らのソウルフードだ。
翌朝、朝靄の中でみんなが掃除をしていた。私も手伝うべきだったが、彼らは客人には頼まなかった。私はただ、それを眺めていた。その時、私は自分がいけずな男だと感じた。
ブルーマウンテンでの滞在は規則正しいリズムで終わったが、なんとも言えないパワーを感じた。下界に戻り、初めて撮った写真は七色の美しいものだった。ジャマイカから帰った後、それをトートバッグにしようと思ったが、見当たらない。それはまるで、神通力を得たかのようなひと時だった。
私のジャマイカ滞在記 ⑪ / 44A
ジャマイカの隠れた力 - ブルーマウンテンの奥深く
富士山、長野の分杭峠、そして聖域の岬。これらは日本の三大パワースポットとして知られている。聖域の岬は特に、修験道者たちの修行の地として昔から知られており、その神秘性から「能登」という名が生まれたという。
しかし、今回私が探求するのは、遠く離れたジャマイカのパワースポットである。私がこの地で感じた唯一の確信は、ブルーマウンテンの存在であった。この地は、世界的に有名なコーヒー豆の産地であり、私もその豊かな自然に魅了されていた。一度、UCCのジャマイカ人職員と共に乗り合いタクシーでその登山道へと向かったことを覚えている。コーヒーの実は、赤く成熟していても生で食べるには美味しくない。しかし、焙煎されることで、あの香り高いコーヒー豆へと変貌を遂げるのだ。
どれくらい登ったのか記憶にないが、標高が高くなるにつれ、熱帯のジャマイカでさえも肌寒く感じられた。幸い、私はパーカーとニット帽を着用していたが、足元は何故かジャマイカで購入した国旗模様の草履であった。足に豆を作りながらも、コーヒーの木を眺めつつ、一歩一歩山を登り続けた。
何合目かも分からない高さに達した時、突然声をかけられた。声の主は、日本人女性で、今回のオプションツアーの依頼主だった。名前は失礼ながら忘れてしまったが、彼女はブルーマウンテンの村で結婚し、暮らしているとのことだった。
この出会いは偶然だったのか、それとも何か運命的なものだったのか。ブルーマウンテンの神秘は、ただの地理的な特徴に留まらず、人々の心にも深く影響を与えているようだった。私はその日、ただコーヒー豆の産地を訪れただけではなく、人生の奥深い真実に一歩近づいたような感覚を覚えている。
私のジャマイカ滞在記⑩ / 44A
ジャマイカの不良たち
かつて、私はリッキーベンツたちと交流していたおかげで、様々なレゲエの関係者から声をかけられるようになった。今思い返すと、私は当時のドキュメンタリーを自らのカメラで撮影するという野心を持っていた。いつしか、そのカメラは私の日常の一部となり、あらゆる出来事を記録していた。ストーンラブスタジオでのパワーマンやジョーリコショット、そして当時名前の知らない売り出し中のアーティストたちの姿も、私のレンズを通して捉えられていた。何かとインタビューし、録画していたものだ。
その後、彼らと再会したのは、私が一人で訪れた野外ダンスでのことだった。公民館の庭に万国旗が飾られた、ある種異国情緒あふれる会場での出来事だ。まばらな客たちが微かにざわめき始め、私はふとした拍子に誰かに突き飛ばされ、よろめいてしまった。後ろ姿を見ると、先の出会いで知った若いアーティストの姿があり、さらに彼を取り巻く20人ほどの集団が、風を切るように会場前方へと歩を進めていた。そして、その先陣を切るのは、日本でも話題になることの多いダンスホールレゲエのイケイケアーティスト、ヴァイブスカーテルだった。彼は手にウイスキーやブランデーを持ち、それを口に含んだ後、突如ステージに上がり、自然とマイクを手渡されてパフォーマンスを始めた。客たちは興奮し、様々な歓声を上げた。私は鳥肌が立ち、あれこそが飛ぶ鳥を落とす勢いのアーティスト、ヴァイブスカーテルだと感動しながらも、少し怯えを感じた。
そして、これは日本に帰ってから知ったことだが、私を突き飛ばした犯人はポップコーンという名の、後にジャマイカだけでなく世界でも人気を博することになるアーティストだったのだ。
私のジャマイカ滞在記⑨ / 44A
ワイニーと私②
物事はふとした瞬間に逆転することがある。その変化には、仲間の影響が大いに関わっているのだ。リッキーベンツ達との出会いは、彼らが悪友と呼ばれることもあったが、決して性根が悪いわけではない。彼らとの交流は私にとって良い経験だったと言えるだろう。
リッキーベンツは、通りすがりの女の子に対しても「プリティガール」と声をかけるタイプだった。エクスペンシブは痩せ型で純朴な青年だが、ラバダブになると積極的で勇ましい姿を見せた。ナディは、日本人宿のラブリッシュにも出入りする親切なドレッドヘアの持ち主だった。他にも印象的な人物はたくさんいるが、特に奥さんが日本人のマリモという名前は印象的で、よく覚えている。
その頃、私はそういったメンツと一緒に様々なダンスイベントに足を運んでいた。ある日のファイアーリンクスのダンスイベントでは、道路上で人々が集まり、ダンスホールレゲエのリズムに合わせて踊っていた。リンクスは音楽をかけ、MCが煽るスタイルで盛り上がりを見せていた。そして、ある時刻になると、ワイニーをして自慢する時間が訪れた。MCは「ワーッ」と叫びながら煽り立てていた。
その矛先が何故か私に向けられ、「ジャパニーズ、ようこそー、ジャマイカギャル」と叫びながら、「ワイニーしろー」と促された。頭が真っ白になりながらも、私は前にいた大柄な女性に対して瞬間的に腰を振った。するとMCは「グワーージャパニーズ」と叫び、会場全体からは轟音のような歓声が沸き起こった。
しかし、その女性は振り返って私を睨みつけ、観衆の中にいた顔見知りの日本人女性達は遠目から冷ややかな目で私を見ていた。それでも、私がその場を歩くと、周りからは英雄のように声をかけられた。翌日からはリッキーベンツ達の話題の種にもなったのだ。
これが、私がジャマイカ人の心をつかんだ瞬間の出来事である。
私のジャマイカ滞在記⑧ / 44A
ワイニーと私① 私はこのジャマイカ滞在記をいつか電子書籍にして出版しようと思うのだが、本当に人生の中での色褪せないネタの宝庫に飛び込んだようなものである。 アオイサンゴ礁の海に浮かぶ島国、ここに飛行機が、到着したときは、周りから拍手が沸き起こり、この国で今から起こる私のエピソードを祝福しているかのごとくであった。 しかし、ひとは十人十色思いもそれぞれ、多くの女子はこの国にロマンスを求めているのではないかと感じさせたし、私についてはラスタなどレゲエの持つ精神的な側面に期待を抱いていた。だから最初に飛行場に着いたとき、白人の若い女子が何やらニコニコと私に話しかけてきたが、私はたどたどしい英語で返すとすぐに顔色を変えて去っていった苦い記憶が思い出される。私は奥手なのだ。 しかし、現在のジャマイカという国はボブ・マーリーの崇高なイメージを看板とする精神的な国である一方で社交的を通り越したワイニー天国という側面を合わせ持っていた。 そして多くの女子、特に日本人の女の子はワイニーやレゲエダンスを求めてジャマイカを訪れている子が大半だった。その証拠としては日本人女子の大半がホットパンツを履いていた。私はラブリッシュやアイシャハウスといった日本人が経営するゲストハウスに2ヶ月の大半を滞在するにいたったのだが、そこのロビーで交流した話の内容は、「ダンスでジャマイカ人にワイニーされたよ。まるで熱帯の嵐が私たちを包み込んだみたいだった」と興奮して話しているのを、私は平静を装って聞いていた者だった。
私のジャマイカ滞在記⑦ / 44A
ジャマイカ、ストーンラブスタジオの近くにある小さなスタジオ、7star general studio。僕がそこに足を踏み入れたのは、15年前のことだった。その時の僕の姿は、彼らがよく使う言葉で言えば、ほぼ黒人のような姿になっていた。
それはリッキーベンツという男からの招待に応じて訪れた場所だった。彼の名を耳にした時、心の中で小さな熱が湧き上がった。僕が求めていたのは、まさにこういう環境だったからだ。
7star general studioの庭には、名もなきアーティストたちが集まり、サイファーで自分のスキルを磨いていた。僕もその中の一人として、日本で作った「アリが十匹ありがとう」という歌を披露した。それはある意味、場を“ボス”にするための僕の魔法だった。その歌がリッキーベンツの耳に入り、彼は僕をスタジオの中へと連れて行った。
そこで僕が出会ったのは、社長のla lewisだった。彼は白のスーツに身を包んだ、まるで実業家のような風格を持つ男だった。その男は、僕に突如として歌を披露するよう要求してきた。緊張の中、僕は日本で受けた「パジャマパーティー」という歌を普通の声量で歌い上げた。しかし、それはla lewisの期待に応えるものではなかった。彼の顔には失望の色が浮かび上がり、僕を社長室から退出させた。
外に出たところ、リッキーベンツが待っていた。彼の顔には、なぜこんなことになったのかという不思議そうな表情が浮かんでいた。しかし、彼は突如として僕に「俺が特訓してやるから、弟子になれ」と言い放った。
それからの僕の日々は、レゲエの歌の修行の日々となった。リッキーベンツとの特訓の中で、彼と僕は同じ年だということを知った。それは、僕の人生の中での新たな章の始まりだった。
私のジャマイカ滞在記⑥ / 44A
ネットのニュースで、エレルイスの名前が風のように聞こえてきたとき、私は少し驚いた。2023年、あの7stergeneralスタジオのオーナー、エレルイスが詐欺の疑いで逮捕されたというニュースだった。驚くのは、私が彼に初めて出会ったのが2009年、もう14年以上も前のことだったからだ。
2009年春のキングストンは、今とは少し違う空気を持っていた。街を歩くと、未明の静けさの中でストーンラブのスタジオの近くを通りかかったことを思い出す。その時、7stergeneralスタジオの前で大きな声を耳にした。それがリッキーベンツの声で、彼は私をスタジオの中へと誘ってくれた。そこで、エレルイスという名前を初めて聞いた。彼はこの地の音楽シーンにおける重要な存在だった。
彼との出会いから数年が経ち、多くのことが変わった。しかし、エレルイスの逮捕は、私の心に深く刻まれた2009年の記憶と繋がっていた。彼のスタジオで過ごした日々は、今も私の心の中で鮮明に蘇る。
私のジャマイカ滞在記⑤ / 44A
人々はよく、「類は友を呼ぶ」と言う。でも、実際には、人の性格は、幼い頃のそれが大人になっても変わらないことが多い。私は基本的には穏やかな性格だが、時折、思いがけない一手を打つことがある。そんな私とは正反対で、常にスポットライトを浴びることを楽しむのが、レックスだった。
レックスは、日本のレゲエファンなら知らない人はいないだろう名前。彼は私とは対照的に、常に前向きで、何事も果敢に挑むタイプだった。そんな彼との出会いは、数年前のジャマイカのある日、アイシャハウスという宿でのことだった。
その日、部屋の前で日向ぼっこをしていると、隣の部屋からレックスがジャンベを持って出てきた。彼は私の部屋に招き入れられるような気配を放っていた。挨拶を交わすと、彼は椅子に座り、ジャンベのリズムを刻み始めた。私は、ジャマイカ特有の紙巻きたばこを手にしていた。それを彼に差し出すと、彼は一度それを解きほぐし、新しいリズラで丁寧に巻き直した。
太陽が降り注ぐ中、私たちはほとんど言葉を交わさず、ただジャンベの音色に身を委ねていた。煙が宙を舞いながら、時間がゆっくりと流れていくのを感じた。その後、彼が石川県に来てくれるように頼んだり(実際には頼んだことは一度もなかったが)、連絡先を交換したりした。
時は過ぎ、彼が出演するショーに私が足を運んだこともあったが、彼が私を覚えているかは定かではない。しかし、あの日のことは、何となくお互いに深い絆のようなものを感じたように思う。ジャマイカの日差しの中で交わした、小さなひとときの友情のエピソード。それが私の心の中に刻まれている。
私のジャマイカ滞在記④ / 44A
ジャマイカに足を踏み入れた時、私は多くの日本の常識が覆されることに驚きを隠せなかった。ジャマイカの人々は、400年にわたる奴隷制度の歴史を背負いながらも、その苦難を乗り越えてタフな精神を持って生きている。ウサイン・ボルトのような世界最速のアスリートが生まれるその土地で、体力的には日本の長寿文化には及ばないかもしれないが、身体能力の面では確かに一目瞭然だった。
ある噂によれば、ボルトは昼間は厳しい陸上の練習をこなし、夜はダンスイベントで情熱的に踊り続けるという。私も何度かダンスイベントに参加したものの、立ち眠りが得意というだけで、中途半端な状態で友人のウィリーに何度も起こされた。
ジャマイカ滞在中、私はいくつかの宿を転々とした。多くの場所は、日本人が経営するゲストハウスで、そこには日本人の旅行者たちとの交流の場があった。しかし、ウィリーと一緒に時間を過ごすうちに、私は彼らとの間に微妙なズレを感じるようになった。
ボブ・マーリーの「トーキンブルース」には、彼が石を枕にして寝ていたことが歌われている。その歌詞が示すような過酷な生活も、ジャマイカの一部だろう。
あの日から多くの年月が流れ、ウィリーとの連絡は途絶えてしまった。連絡することは手間もかかり、面倒だったからだ。私は彼がどうしているのか、時折思いを馳せる。ジャマイカで知り合った人々との別れは、永遠のもののように感じる。
一方、日本では違った。カメラマンの兄ちゃんとは、東京の展覧会で再会することができたし、有名なアーティストたちのイベントに足を運べば彼らとも再会することができた。しかし、ジャマイカでの友人たちとは、なかなか会えない。この感覚、これこそが「ジャーガイダンス」なのだろうか。
私のジャマイカ滞在記③ / 44A
シズラの日本ツアーが私のSNSのフィードを賑わせていた。47歳になった彼が、現場でのパフォーマンスの様子が毎日投稿され、その度に私の心は高まっていった。しかし、夜勤の都合で実際にライブに参加することは叶わなかった。予定表を目にする度、私の記憶は25年前へとタイムスリップした。
大阪・難波のタワーレコードで、私がシズラと初めて出会ったのは彼のアルバム「ブラックウーマンアンドチャイルド」を手に取った瞬間だった。その夏、22歳のシズラが「レゲエJAPANSPLASH」に出演するとのニュースを聞き、興奮のあまり一人でフェスに足を運んだ。しかし、彼のパフォーマンスは思っていたよりも控えめで、ブジュバントンやジュディモワットが観客を圧倒していた。
その後10年が過ぎ、私は再びシズラのライブを見る機会を得た。ジャマイカへの旅の途中、ウイリーというツアーガイドとともに、シズラが出演するイベントに行くことになった。長いバスの旅で、私の隣に座った子連れの母親は、子供を私の膝の上に乗せ、その子はドーナッツを食べていた。ウイリーは前方で賑やかに叫び声を上げていた。
イベント会場に到着し、明け方にシズラがステージに登場。10年前とは違い、彼の成長を感じる迫力のあるパフォーマンスに私は圧倒された。その後、会場を出ると、まだイベントは続いており、マイクから「ケイプルトンが登場するぞ」というアナウンスが流れ、観客の歓声が響き渡っていた。バス停に戻ると、ウイリーは近くの草むらで小便をしていた。