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子は不要 『徒然草 気まま読み』#33
今回扱うのは、第六段。
冒頭で「我が身のやんごとなからんにも、まして數ならざらんにも、子といふもの無くてありなん」
と言い切る兼好。
前回扱った段では「妻を持ってはならぬ」と断言し、さらにここでは、身分が高い人だろうと、取るに足らないものであろうと関係なく、「子は不要」だと断言する。
しかも、子は不要とする根拠が、功成り名を遂げた人の中で子のいなかった者の例ばかり集めてきたり、聖徳太子について史実ではない伝説のエピソードを持ってきたりと、こじつけ感がハンパない。
いったいどうしたんだ、兼好!?
しかしこれも徒然草の味わいの一つ。ここでこう言っているからと言って、それが絶対だと兼好自身も考えていたとは限らない。柔軟性を持って読んで行こう。
猫又出現! 『徒然草 気まま読み』#34
今回扱うのは、第八十九段。
山奥に猫又という妖怪がいて、人を食うそうだとある人が言うと、またある人が、山奥でなくても、この辺でも年を取った猫が妖怪になって、人を食うらしいぞとある人が言う。
そんな話を聞いたある法師が、自分のように独り歩きをする者は気を付けないといけないぞと思っていたところ…
昔の話というなかれ。このような話が誰からともなく広がっていく様は、現在の「都市伝説」なんかにもそっくり。
そして、すっかり信じ込む人もいる一方で、兼好はじつに冷ややかな視線を向けている。
これも、今とあんまり変わらないようで…
伊勢から上京した鬼 『徒然草 気まま読み』#35
今回扱うのは、第五十段。
一部を紹介すると…
應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ参るべし。たゞ今はそこそこに」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。
前回に続いて、現在の「都市伝説」を思わせる話。
伊勢から女の鬼を連れて京に上った者がいるという噂がたち、噂が噂を呼んで、京の都は騒然。
珍しいものが見れると「鬼見」に繰り出す人もいて…
前回お見せできなかった「猫又」の絵や、「鬼」のイメージの変遷がわかる絵などもお目にかけます!
子を持つべし 『徒然草 気まま読み』#36
今回扱うのは、第百四十二段。
一部を紹介すると…
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷の恐ろしげなるが、傍(かたへ)にあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、物のあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。
確か以前に扱った段では、「絶対に子供なんて持つものじゃない」と言ってたはずだが? と思った人もいるかもしれないが、これは矛盾というわけではない。兼好はケース・バイ・ケースでその時の心の赴くように書いていて、この人の場合は、子を持ってこそ人の心がわかったのだと言っているのである。
そして話はさらに続き、恥ずべきことをする人、罪を犯す人を無下に非難するのはよくない、そうするには、その人なりの事情があることを考えるべきだと説き、些細なことから話がどんどん深くなっていく。これぞ徒然草の醍醐味。
綽名から逃げられない 『徒然草 気まま読み』#37
今回扱うのは、第四十五段。
全文を紹介すると…
公世(きんよ)の二位の兄に、良覺僧正と聞えしは極めて腹惡しき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「切杭(きりくひ)の僧正」と言ひけり。愈(いよいよ)腹立ちて、切杭を掘りすてたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池(ほりけ)の僧正」とぞいひける。
あだ名をつけられやすい人って、いる。
それはその人のキャラクターのためであって、当人がいかに気に入らなくても、そのあだ名で呼ばれないようにするための工夫をいくらやろうとも、そのキャラクターが変わらない限り一切無駄なのです!
悪筆を憚らず 『徒然草 気まま読み』#38
今回扱うのは、第三十五段。
非常に短いので、全文を紹介すると…
手の惡(わろ)き人の、憚らず文かきちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさし。
字の下手な人が、それを気にせず文を書くのはいいことである。見苦しいと思って人に代筆をさせるのは嫌味なものである。
今ではワープロもあるわけだが、手紙で気持ちを伝えようと思ったらやはり本人の肉筆。字の上手い下手など関係ない。
現在でもすんなり通じる兼好の美意識。
ついでに、字の上手い下手を巡って現在一年がかりでもめている泉美家のエピソードも登場します。
稽古の心得 『徒然草 気まま読み』#39
今回扱うのは、第百五十段。
一部をを紹介すると…
能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。
ちょっと厳しいことを言っているが、言われてみればそのとおり。
こっそり練習して、上手くなったら発表しようなんて思っている人は、何事も身につけられた試しはない。
どんなに下手であろうと、失敗しようと、恥をかこうと、構わずに披露してみることこそが重要。
これ、「ゴー宣道場」にも通じる話なので、今度参加する人は見ておいてくださいね!
命長ければ、辱(はじ)多し 『徒然草 気まま読み』#40
今回扱うのは、第七段。
全文を紹介すると…
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに、物の哀れもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなり行くなん、浅ましき。
徒然草の中でも特に美文で格調の高い段。
ただひたすら生きることのみに執着していたら、千年生きても足りないと思うだろう。
限りある命を受け入れることができるか?
永遠の命を手に入れるよりも、大切なこととは何か?
手塚治虫の『火の鳥』などのテーマに受け継がれていく、人生・生命に関する哲学。
さらには、日本人の感覚の底にある「永遠」の目指し方などについても語ります。
愛欲の道 『徒然草 気まま読み』#41
今回扱うのは、第九段。
一部を紹介すると…
事に觸れて、うちあるさまにも、人の心をまど(惑)はし、すべて女の、うちとけたる寝(い)も寝(ね)ず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬ業にもよく堪へ忍ぶは、たゞ色を思ふがゆゑなり。
女性の色香ほど人を惑わすものはない。
その色欲の止めがたいことは、他のどんな欲望とも比較にならず、老人も若者も、智者も愚者も変わりがないと力説する兼好。
女の色香が人を惑わす力の強さについて、未だにどの研究者にも出典がわからない形容句を用いて警告を発する兼好。
兼好…いったい、女性と何があった?
【ゆっくりと学ぶ日本の古典】 徒然草 《序段&第一段》
こんにちは!授業は退屈でも、試験前に勉強してみると意外と面白い古典文学を、ゆっくりで再現しました。初回は徒然草です!なんとか243段までいけたらいいな…
枕の方角 『徒然草 気まま読み』#42
今回扱うのは、第百三十三段。
全文を紹介すると…
夜(よ)の御殿(おとゞ)は東御枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拜は辰巳に向はせ給ふ。南にはあらず。
どちらに頭を向けて寝るのがいいのか。
徒然草の時代からいろいろと言われていて、特に「北枕」は忌み避けられていた。
些細なことではあるけれども、そんな生活感覚がわかる一篇。
【ゆっくりと学ぶ日本の古典】 徒然草 《第二段~第六段》
ゆっくりで徒然草を再現するプロジェクト
BGMを選ぶのが難しい…
目次
第二段「君主のあり方」
第三段「男子と恋愛」
第四段「仏教に真剣」
第五段「引きこもり」
第六段「反出生主義」
序段&第一段→sm35557887
シリーズ【ゆっくりと学ぶ日本の古典】→series/55677
謎のなぞなぞ 『徒然草 気まま読み』#43
今回扱うのは、第百三十五段。
藤原資季(すけすえ)大納言入道という人物が、宰相中将・源具氏(ともうじ)に対して、「おまえさんの尋ねる程度のことなら、どんなことだって答えてみせよう」と言ったことが発端となり、話が大きくなって、御前にて争うことになり、もし資季が具氏の尋ねる問いに答えられなければ、ご馳走をするということになった。
そこで具氏が尋ねたのは、幼い時から聞いていたが、未だにわからないなぞなぞの答え。
そのなぞなぞとは
「馬のきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」
資季はついに答えられず、具氏の勝ちとなったのだが、それで、このなぞなぞの答えは?
男として願わしいこと 『徒然草 気まま読み』#44
今回扱うのは、第一段。
有名な「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて…」の序段に続く第一段で兼好が語ることは、やはり「つかみ」を意識してか、人として、男として、望ましいこと、願わしいことは何だろうかという、間口の広い題材となっている。
一部を紹介すると…
人は、かたち・有樣の勝(すぐ)れたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(むか)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心(こころ)劣りせらるゝ本性(ほんじゃう)見えんこそ、口をしかるべけれ。
人品(しな)・容貌(かたち)こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なくなりぬれば、しな(=人品)くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
兼好の思う、いい男の条件が、かなり具体的に語られている。これが『徒然草』の「入り口」である!
古きをのみぞ慕わしき 『徒然草 気まま読み』#45
今回扱うのは、第二十二段。
全文を紹介すると…
何事も、古き世のみぞ慕はしき。今樣は、無下(むげ)に卑しくこそなり行くめれ。かの木の道の匠(たくみ)のつくれる美しき器(うつはもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
文の詞などぞ、昔の反古(ほうご)どもはいみじき。たゞいふ詞も、口惜しうこそなりもて行くなれ。古(いにしえ)は、「車もたげよ」「火掲げよ」とこそいひしを、今様の人は、「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。「主殿寮人數(とのもりょうにんじゅ)だて」といふべきを、「立明し白くせよ。」と言ひ、最勝講なるをば、「御講(みかう)の廬(ろ)」とこそいふべきを、「講廬(こうろ)」と言ふ、口をしとぞ、古き人の仰せられし。
兼好の美意識がよく表れた一段。
言葉は時代によって変化していくが、兼好は昔ながらの正式な言い方を尊重する。
何でもかんでも古いものがいいと言ってしまうと何も前には進まないけれども、新しい時代になって行くと失われるものがあるということは、はっきり意識しておく必要があるのではないだろうか?
蜜柑に興醒め 『徒然草 気まま読み』#46
今回扱うのは、第百三十三段。
全文を紹介すると…
神無月(かみなづき)の頃、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遙かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋(うず)もるる筧(かけい)の雫ならでは、露おとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に、菊・紅葉など折りちらしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
かくても在られけるよと、あはれに見る程に、かなたの庭に大きなる柑子(こうじ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりを嚴しく圍ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覺えしか。
風流な情景描写が美文で綴られ、その光景が目に浮かぶよう。…と思ったら、その後に続く描写の落差に、思わず笑ってしまう一段。多分、兼好もそのギャップを目立たせようとして、前半を殊更に美文で描写したのではないか? そんな茶目っ気も感じさせられます。
臨機応変 『徒然草 気まま読み』#47
今回扱うのは、第二百十三段。
全文を紹介すると…
御前の火爐(かろ)に火おく時は、火箸して挾む事なし。土器(かはらけ)より、直ちにうつすべし。されば、轉び落ちぬやうに、心得て炭を積むべきなり。
八幡(やはた)の御幸に供奉の人、淨衣(じょうえ)を著て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白き物を著たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。
何事も、杓子定規に固定した考えで行動してはいけない。
しきたりというものは、それぞれに意味があって定められているものではあるが、いつどんな場合でもそのとおりにやらなければならないというわけではない。
その場の状況によって、多少正式とは異なる形となっても認められるという、余裕や寛大さはあっていいもの。
兼好なりの自由さ、柔軟さが表れた一段。
その場にはその場に合わせた振る舞いというものがある。
小林秀雄の「徒然草」論 『徒然草 気まま読み』#48
今回は少し趣向を変え、徒然草の本文から離れて、昭和を代表する批評家、「批評」をジャンルとして確立し、文学であり芸術であるというレベルにまで高めた小林秀雄が、早くから徒然草を絶賛していたということを紹介する。
兼好が「徒然草」で書いていたことは「批評」であり、兼好こそが自らの先駆者であると小林は見ていたようだ。
その著作集『古典と伝統について』から、そんな小林秀雄の「徒然草」論を紹介する。
そして、最後に小林秀雄がイチ押しとして挙げる徒然草の段は…?
何事もあてにするな 『徒然草 気まま読み』#49
今回扱うのは、第二百十一段。
一部を紹介すると…
萬(よろず)の事は頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。
勢(いきお)ひありとて頼むべからず。こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず。時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとて頼むべからず。顔囘も不幸なりき。
何かをあてにする、誰かを頼りにするということをするから、それがうまくいかなかった時には、あてにしたものに対して恨みを持つということになる。始めから何もあてにしなければ、うまくいかなくても誰も恨まず、うまくいけば自然に感謝ができる。
あてにしないということは、寛容の心である。
そもそも、世の中に本当にあてにできるものなんてあるだろうか?
厳しいことを言っているが、この言葉に兼好が込めた、生きるうえで意識しておかなければならない心構えとは?
空のなごり 『徒然草 気まま読み』#50
今回扱うのは、第二十段。
全文を紹介すると…
某(なにがし)とかやいひし世すて人の、「この世のほだし もたらぬ身に、たゞ空のなごりのみぞ惜しき。」と言ひしこそ、まことにさも覺えぬべけれ。
ワンセンテンスの、短い段。
この某という人物とは誰か? 「空のなごり」とは何のことか?
諸説あるのだが、ここはそれにはあまりこだわらずに、自分なりの解釈をしてみよう。
いろんな解釈ができて、それぞれに味わい深い感覚を持つことができるだろう。
法然の教え 『徒然草 気まま読み』#51
今回扱うのは、第三十九段。
全文を紹介すると…
或人、法然上人に、「念佛の時、睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覺めたらむ程、念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定(いちじょう)と思へば一定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。
また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」とも言はれけり。是も亦尊し。
親鸞の師である浄土宗の開祖・法然。
その法然の教えを、実に徒然草的な、味わい深い筆致で紹介している。
厳しい修行を必要としない、念仏を唱えれば往生ができるという教えであるにもかかわらず、念仏の時に睡魔に襲われて行がおろそかになるという相談をする者がいた。
それに対する法然の答えに注目するあたりに、多くの衆生に救いの門を開こうという法然の姿勢に対する兼好の共感が見られる。
「富む」とは何か 『徒然草 気まま読み』#52
今回扱うのは、第百二十三段。
重要な部分を紹介すると…
人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ふ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかに過(すぐ)すを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを、驕(おごり)とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせん。
衣食住に「医」を加えているところが兼好独自の考え。この4つが揃っていれば「富」、それが満たされないのが「貧」、それ以上のものを求めるのが「驕」。実に明快な、兼好ならではの人生の価値観。
潮時を知る 『徒然草 気まま読み』#53
今回扱うのは、第百二十六段。
短いので全文を紹介すると…
「博奕(ばくち)の負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに逢ひては、打つべからず。立ち歸り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり」と、あるもの申しき。
「あるもの申しき」の「あるもの」とは誰かはわからないが、熟練のギャンブラーらしい。
負けが込んで、有り金はたいて最後の勝負に出ようとしている人を相手にしては、打ってはいけないという。その理由は?
単にギャンブルのことには留まらない、いつの時代にも通用する処世術が短い文章で語られる、これぞ徒然草の魅力。
競争の弊害 『徒然草 気まま読み』#54
今回扱うのは、第百三十段。
結論部分を紹介すると…
人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがらに爭ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。
勝負ごとに入れ込むことの不毛を兼好は説く。
ただ勝ち負けにこだわって快感を得るということは、負けた人に不快感を味わわせて喜ぶということであり、徳に背くし、長く恨みを買うことも多く、いいことがない。
だから人に勝ちたいと思うのなら、学問をしてその智で勝てという、兼好の深い洞察。
古典に対する造詣が非常に深かった作家・田辺聖子が『古典の森へ』で語った徒然草評もご紹介!
心惑わす色欲 『徒然草 気まま読み』#55
今回扱うのは、第八段。
全文を紹介すると…
世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥え膏(あぶら)づきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。
時代を超えた古典には、現代にもそのまま通用する普遍性がある。
そしてその作者について、何世紀も前の人とは思えないような親しみを感じるところがある。
今回紹介する段は、まさにその二つの特徴が良く表れている。
とにかく、人間というものは「色欲」には逆らえない。
これはまさしく兼好の人間観察からも、そしておそらく兼好自身の体験からも導かれた、どんなに時代が移っても変わらない真理!
そして、このような体の人であれば、もう一層逆らえない…と言っているあたり、それは兼好の好みでは?と、隠しきれない人間性が滲んでいるところが、なんとも微笑ましい!
神になった業平 『徒然草 気まま読み』#56
今回扱うのは、第六十七段。
一部を紹介すると…
賀茂の岩本、橋本は、業平・實方(藤原實方)なり。人の常にいひ紛(まが)へ侍れば、一年(ひととせ)參りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止(とゞ)めて、尋ね侍りしに、「實方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、『橋本や、なほ水の近ければ』と覺え侍(はべ)る。吉水和尚の、
月をめで花をながめし古(いにしえ)の やさしき人は こゝにあり原
と詠みたまひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、己(おのれ)らよりは、なかなか御存じなどもこそさぶらはめ」と、いと忝(うやうや)しく言ひたりしこそ、いみじく覺えしか。
上賀茂神社の岩本社には、在原業平が祀られている。
実在の人間を神として祀っているわけである。
人をご祭神とする神社といえば、まず思い浮かぶのが靖国神社。他には楠正成を祀る楠公神社などがあるが、これは明治以降の政治目的によってつくられた、新しい信仰だなどと非難する者がいる。
しかし、人を神とするのは決して「新しい伝統」ではないのだ。
凶相の理由 『徒然草 気まま読み』#57
今回扱うのは、第百四十六段。
全文を紹介すると…
明雲座主、相者(さうじゃ)に逢ひ給ひて、「己(おのれ)若し兵仗の難やある」と尋ねたまひければ、相人、「實(まこと)にその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり」と申しけり。はたして矢にあたりて失せ給ひにけり。
「虫の知らせ」というものがある。
する必要がないはずの心配が、心の中に沸いてきて、不安でしょうがなくなってきたりする。
それはほんの気のせい、取り越し苦労か?
いや、そんな不安を感じた時点で、実は危機的状況になっているのだ…という、ちょっと怖くなってくる話。
盃の酒を少し残す 『徒然草 気まま読み』#58
今回扱うのは、第百五十八段。
全文を紹介すると…
「杯の底を捨つることは、いかゞ心得たる」と、ある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當(ぎょうたう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道なり。流れを殘して、口のつきたる所をすゝぐなり」とぞ仰せられし。
この当時、盃で酒を回し飲みするときには、注がれた酒を飲み干さずに、少し残してそれを捨ててから次の人に渡すという習慣があった。それはなぜか?
ある人のいう答えに、兼好法師は納得したからそれを書き記したのだろう。
一説には、その人の説明は誤りだとも言われているが、その真偽はともかく、兼好が納得したことには共感できるのでは?
酒の功罪 『徒然草 気まま読み』#59
今回扱うのは、第百七十五段。
この段は徒然草の中でも突出して、最も長い。
その長文で兼好が語っていることは、とにかく酒というものがいかに有害で、酒のみがみっともなく、はた迷惑で、一切いいことなんかないということ。
よくもこれだけ思いつくなというくらいのお酒の悪口をつらつら書き並べていて、酒のみにとっては耳が痛すぎてもう聞きたくないと思いそうなところだが、終盤になってくると論調が変わってきて…
どんなに問題があっても捨てがたい魅力があるもの、それが酒!
心を慰めるもの 『徒然草 気まま読み』#60
今回扱うのは、第二十一段。
前段部分を紹介すると…
萬の事は、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものは有らじ」と言ひしに、またひとり、「露こそあはれなれ」と爭ひしこそ、をかしけれ。折にふれば何かはあはれならざらん。
ある人は、見て最も心を慰められるものは月だといい、ある人は露だと言い争う。
現代では考えられない論争で、時代の違いを感じさせられるが、逆に言えば現代人は何もせずに花鳥風月を眺めるような「すき間の時間」を持つ心の余裕を失っているのではないだろうか?
嘘の世の中 『徒然草 気まま読み』#61
今回扱うのは、第七十三段。
最初の一文だけ紹介すると…
世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
「世の中に語り伝えられていることは、真実は面白くないからだろうか、多くは皆ウソである」
強烈な皮肉から始まり、世の中にどれほど嘘が蔓延しているか、どのようにして嘘が広まって、信じられてしまうのかといったことを、さまざま実例を挙げていく。
人の言うことに対してリアルに、シビアに、クールに向き合う姿勢が見えるが、しかし、それだけで終わらないのが徒然草。
そこに兼好法師の知性と理性を感じる洞察がある。
古典のすすめ 『徒然草 気まま読み』#62
今回扱うのは、第十三段。
全文を紹介すると…
ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。
文は文選(もんぜん)のあはれなる卷々、白氏文集(=白樂天の詩文集)、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。
「読書のすすめ」という題にしてもいいのだが、引き合いに出されているのはすべて古典である。
それにつけても問題なのは現代の、「古典のすすめ」どころか「読書」そのものが廃れてしまっている傾向である。
読書の魅力を小学生くらいのうちに味わっておかないと、読書の習慣をつけるのは難しい。
これは親と学校が頑張らなければならないことなのだが…