タグ 徒然草 が登録されている動画 : 205 件中 97 - 128 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
客の心得 『徒然草 気まま読み』#63
今回扱うのは、第百七十段。
最初の部分のみ紹介すると…
さしたる事なくて人の許(がり)行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。
大した用もなく人を訪ねるのはよくない。用があって行ったとしても、用事がすんだらすぐ帰るべきである。
…とは言っているが、一度言ったことを杓子定規に何でもかんでもに当てはめるということはせず、一見、矛盾しているようなことをすぐ後に書いたりするのも徒然草。
ここでは、「客に行くとき」と「客を迎えるとき」で違うことを言っている。またそれが、兼好法師の懐の深さなのかも。
めでたい秋の月 『徒然草 気まま読み』#64
今回扱うのは、第二百十二段。
全文を紹介すると…
秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべきことなり。
秋の月はほかの季節と違ってことさらに美しいという日本人の美的感覚は、いつできたのだろうか?もしかしたらそれは、徒然草のこの段の影響かもしれない。
さらに話は広がって、昨年の天皇陛下御即位の「祝賀御列の儀」について触れる。
秋の月は特別という感覚と、祝賀御列の儀の際の皇后陛下のご表情や、天皇陛下のふるまいに感じた思いとの、その共通点とは?
過ぎたる欲望を捨てよ 『徒然草 気まま読み』#65
今回扱うのは、第二百四十二段。
全文を紹介すると…
とこしなへに、違順につかはるゝ事は、偏(ひとえ)に苦樂の爲なり。樂といふは好み愛する事なり。これを求むる事 止(や)む時無し。樂欲(ごうよく)するところ、一つには名なり。名に二種あり。行跡と才藝との誉(ほまれ)なり。二つには色欲、三つには味(あじわい)なり。萬の願ひ、この三つには如(し)かず。これ顛倒の相より起りて、若干(そこばく)の煩ひあり。求めざらむには如かじ。
ラス前で、特に心がこもっている感じもする一段。
これが徒然草で最後まで残ったテーマと言えるかもしれない。<br>人の欲望には限りがない。名誉欲、色欲、そして食欲。
これが過ぎると、人は不幸になる。
徒然草に通して書かれてきたリアルな人間観察・分析の中に、仏教の教えや兼好の価値観が端的に表れている。
大事なことを後に回すな 『徒然草 気まま読み』#66
今回扱うのは、第四十九段。
前段を紹介すると…
老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
人生の誤りとは、重要なことを後回しにして、どうでもいいことを優先してやることである。
今はその時ではない、いずれ時が来たらやろう、などと言っていたら、結局やらないうちにこの世を去ることになってしまう。その時に後悔したところで、どうにもならないのだ。
兼好は「仏道」について言っているが、これはもちろん、何についても言えること。人は時間を無限に持っているわけではなく、いつも死が隣にあることを意識していないと、何もしないで人生を終えることになってしまう。
後段では、兼好のちょっと狂的な感覚がうかがえるエピソードが紹介される。
道具の品格は持ち主の人格 『徒然草 気まま読み』#67
今回扱うのは、第八十一段。
前段を紹介すると…
屏風・障子などの繪も文字も、かたくななる筆樣(ふでやう)して書きたるが、見にくきよりも、宿の主人(あるじ)の拙く覺ゆるなり。
屏風や障子の絵や文字が、まずい筆つきで書かれていると、それが見苦しいというよりも、そんな調度品を使っている主人がつまらない人物に思えてくる。
持っているもの、使っているものによって、その人の人格が測られてしまうものだ…
いろんな場面で今でも起こりそうなことだけれども、心当たりはないでしょうか?
身に虱あり、君子に仁義あり 『徒然草 気まま読み』#68
今回扱うのは、第九十七段。
全文を紹介すると…
其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。國に賊あり。小人に財(ざい)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。
いかにも兼好法師らしい、一筋縄ではいかない、不思議な文章。
「そのものにとりついて、そのものを弱らせ、ダメにしてしまうものは数限りなくある。」
なるほど、それはそうだろう。
「身に虱あり」「家に鼠あり」「國に賊あり」
これは説明されなくても、そのとおり。
「小人に財あり」
ちょっとひねってきたな。でもそうかも。
ここまではいいのだが、後の二つは、一体どういう意味!?
負けじと打つべきなり 『徒然草 気まま読み』#69
今回扱うのは、第百十段。
全文を紹介すると…
雙六(すぐろく)の上手といひし人に、その術(てだて)を問ひ侍りしかば、「勝たんとうつべからず、負けじとうつべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりとも遲く負くべき手につくべし」といふ。
道を知れる教(おしえ)、身を修め、國を保たむ道も、またしかなり。
「雙六(すぐろく)」とは現在の「すごろく」とは違って、博打の一種。
兼好はその名人に、負けない秘訣を尋ねる。
そしてその答えは、現代の勝負師もよく口にするようなことだった。
歌の文句にもある「勝つと思うな、思えば負けよ」である。
博打うちの言うことからも貴重な教えを見出す兼好。
ところがその兼好が、実は博打うちをどう思っていたかというと…
雪の朝の手紙 『徒然草 気まま読み』#70
今回扱うのは、第三十一段。
全文を紹介すると…
雪の面白う降りたりし朝、人の許(がり)いふべき事ありて文をやるとて、雪のことは何ともいはざりし返事に、「この雪いかゞ見ると、一筆のたまはせぬ程の、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは、かへすがえす口惜しき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。
雪の降る趣深い朝に送った手紙のやり取りをめぐる、ちょっとしゃれたお話。ほんの些細な出来事なのだが、それを印象に留めて書き記している兼好法師の情緒がしのばれ、その手紙の相手の人となりや、関係性までいろいろ想像したくなってくる、微笑ましい一段。
形から心へ 『徒然草 気まま読み』#71
今回扱うのは、第百五十七段。
最初の部分を紹介すると…
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてんと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。仮りにも不善のたはぶれをなすべからず。
現代人の感覚だと、ものを書こうという心が先で筆を執り、音楽を奏でようという心が先で楽器を持つという順番なのだが、ここで兼好が言っているのはその逆。
これは、近代的人間像をひっくり返す考え方であり、現象と心理は別ではないのである。
そして話は、ミス日本ファイナリストへのレクチャーについても及んでいくのだが、その関連は?
デジャヴ体験 『徒然草 気まま読み』#72
今回扱うのは、第七十一段。
後半部分を紹介すると…
またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
デジャヴ、何かの折に「既視感」を覚えるということはよくあるものだが、そのことについて文章に書かれたものとしては、極めて古いものといえる。
前段は兼好法師の独特な感性による、そして後段はわりと普遍的な感覚のデジャブについて語られる。
些細なこと、取るに足らないことと思われそうなことにも注目し、書き留めていることもまた、兼好法師の特徴であり「徒然草」の面白さのひとつ。
人から非難されない言動 『徒然草 気まま読み』#73
今回扱うのは、第二百三十三段。
全文を紹介すると…
萬の科(とが)あらじと思はば、何事にも誠ありて、人を分かず恭(うやうや)しく、言葉すくなからんには如かじ。男女・老少、みなさる人こそよけれども、ことに若くかたちよき人の、言うるはしきは、忘れがたく、思ひつかるゝものなり。
よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき、所得(ところえ)たるけしきして、人をないがしろにするにあり。
兼好法師の人生哲学がよく表れているといえる段。
物事に対して、人と接するに際してどうあるべきか。
若い人に向けた眼差しも注目すべきところ。
さらに、「言葉すくなからんには如かじ」という自制の勧めは、今日こそ肝に銘じるべきことではないだろうか?
無駄話 『徒然草 気まま読み』#74
今回扱うのは、第百六十四段。
全文を紹介すると…
世の人相(あい)逢ふ時、しばらくも默止することなし。必ず言葉あり。そのことを聞くに、おほくは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。これを語る時、互の心に無益のことなりといふことを知らず。
前回紹介した第二百三十三段にも、「言葉すくなからんには如かじ」と自制の勧めがあったように、兼好法師は無駄に口数が多い人を特に嫌う。
この段でも、短い文章で無駄話をすることを手厳しく非難しているのだが、ふと考えてみると、そう言っている兼好に対してもちょっと疑問が…。
玉は淵になぐべし 『徒然草 気まま読み』#75
今回扱うのは、第三十八段。
冒頭部分を紹介すると…
名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、煩ひを招く媒(なかだち)なり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
この段には、兼好法師の極めてラジカルな面が表れている。
そこには、序に「徒然なるままに」というような、することもなく手持ち無沙汰だから書いているといった感覚とは全く異なる、尖った若々しい感性がある。
そしてそれは、真に人生を大切に考え、人生を輝かせることを阻んでいるのは何なのかということを真剣に考えたからこそ到達した心境なのである!
情けある三蔵 『徒然草 気まま読み』#76
今回扱うのは、第八十四段。
全文を紹介すると…
法顯(ほふげん)三藏の天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ、心弱き氣色を人の國にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融僧都、「優に情ありける三藏かな」といひたりしこそ、法師の樣(よう)にもあらず、心にくく覺えしか。
三蔵とは、経(きょう)(=仏の説法の集成)・律(=仏徒の戒律の集成)・論(=経・律に対する注釈的研究成果)の三つの仏教の聖典に深く通じた高僧のこと。
西遊記の「三蔵法師」で有名だが、「三蔵」は人名ではなく、「三蔵法師」と言われる人は多くいる。
そんな数ある三蔵の中の一人のエピソードに対して兼好が感想を述べている。
高僧といえども人の子、という暖かい目を向けている一方、なんとも皮肉のこもった表現をさりげなく交えているところにもご注目。
見苦しきこと 『徒然草 気まま読み』#77
今回扱うのは、第百十三段。
前半を紹介すると…
四十(よそぢ)にも餘りぬる人の、色めきたる方、自ら忍びてあらんは如何はせん。言(こと)に打ち出でて、男・女のこと、人の上をもいひ戲(たは)るゝこそ、似げなく、見苦しけれ。
四十歳も過ぎた人が…という書き出しだが、人生百年時代の現代と違って、当時の40代はもう老境。
そんないい歳をした人が、こんなことをしているのは見苦しいという兼好法師の美意識がうかがえるのだが、その一方で、鎌倉時代でも、老人と言われる世代でもこんな人はいたんだなあ、人間って変わらないなあ、なんて見方もできて、ちょっと微笑ましくもある一段。
神無月をめぐって 『徒然草 気まま読み』#78
今回扱うのは、第二百二段。
前半を紹介すると…
十月を神無月と云ひて、神事に憚るべき由は、記したるものなし。本文も見えず。たゞし、當月、諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。
十月のことを「神無月」というが、その由来は何か?
実はこれには現在も、定説はない。
兼好法師はこの問題について、推測ではなくあくまでも根拠のある答えを求める。
それは歴史学における「史料批判」と同様のアプローチで、後の文献史学や実証主義にも通じる、批判的知性を感じさせる。
そしてさらには「神無月」について、徒然草にしか残されていないのだが、おそらくこの時代にはそういわれていたのだろうということがわかる、ちょっと意外な話も。
気を回しすぎるな 『徒然草 気まま読み』#79
今回扱うのは、第二百三十一段。
園の別当入道という、類ない料理の名人がいた。ある時、立派な鯉が手に入ったので、みな別当入道の包丁さばきを見たいと思ったのだが、それを言い出せなくて躊躇していたところ、別当入道はその空気を察して、自ら理由を作って料理を買って出た。
皆、その心遣いにさすがだとうなったのだが、その話を聞いた北山太政入道は、全く違う評価を下した。
いかにも日本人らしい、人に対する気遣い、心遣い。
決してそれ自体がいけないというわけではないのだが、それをするにもセンスというものが要る。
そこがスベると、かえって鼻につくものになってしまう。
なかなか微妙で、機微に触れるエピソード。
無責任な詮索 『徒然草 気まま読み』#80
今回扱うのは、第七十七段。
全文を紹介すると…
世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさに言ひあへること、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内(あない)知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられね。ことに、かたほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、わがことと尋ね聞き、如何でかばかりは知りけむと覺ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。
いまで言うなら週刊文春?
世の中で話題になっていることについて、関係もない人がその事情について、人に語り伝えるなどということが、兼好法師の時代にもよくあったらしい。
さて、ではそういうことについて、兼好法師はどのように思っていたのだろうか?
話題の扱い方 『徒然草 気まま読み』#81
今回扱うのは、第七十八段。
全文を紹介すると…
今樣の事どもの珍しきを、いひ廣め、もてなすこそ、又うけられね。世にこと古(ふ)りたるまで知らぬ人は、心にくし。今更の人などのある時、こゝもとに言ひつけたる言種(ことぐさ)、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見あはせ、笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず、よからぬ人の、必ずあることなり。
今回も前回に続いて、「情報」というものはどう扱うべきと兼好が考えていたかがうかがい知れる段。新しいもの、珍しいものにすぐ飛びついて「拡散」させることは好ましくないと考えているところなどはいかにも兼好らしい。
でも、「新しもの好き」もそんなに悪くはないんじゃないかなあ…?
物知り顔はしない 『徒然草 気まま読み』#82
今回扱うのは、第七十九段。
全文を紹介すると…
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ。片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる氣色、かたくななり。
よく辨(わきま)へたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。
ものをよく知っているのはいいことではあるけれども、本当に立派な人は、いかにも自分はものを知っているという様子でそれを話すだろうか?
今回も兼好の美意識が短い文章によく表れる。
決して厳しく非難するようなことでもないけれども、しかしそれは、野暮じゃないか?
ちょっと心しておいたほうがいいかも。
季節の移り変わり 『徒然草 気まま読み』#83
最初は、徒然草とは関係ないけれども『新しい公民教科書』の宣伝から。
「新しい歴史教科書をつくる会」による検定合格本教科書の市販本が5月20日、自由社から発売された。
中学生だけではなく、政治家を含む大人たちが知っておかなければならない政治と社会の仕組みを学ぶ初めての教科書。
文科省は教科書検定において、検閲といっていいほどの過酷な検定意見をつけてきた。市販本の巻末には「特別報告」として、執筆者による論考と実際の検定意見、検定で全面削除された原文を掲載。現在の文科省がどうなっているのかを知るにも最適の書となっている。
そして今回扱うのは、第十九段。
冒頭だけ紹介すると…
折節の移り変わるこそ、物ごとに哀れなれ。
「物の哀れは秋こそまされ」と、人ごとに言ふめれど、それも然(さ)るものにて、今一きは心も浮きたつものは、春の景色にこそあめれ。鳥の聲などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やゝ春ふかく霞みわたりて、花もやうやう氣色(けしき)だつほどこそあれ、折しも雨風うちつゞきて、心あわたゞしく散りすぎぬ。青葉になり行くまで、萬(よろづ)にただ心をのみぞ悩ます。
兼好法師にとっての春夏秋冬それぞれの季節の魅力が、美しい調べで綴られる。
それは既に古典に何度も書かれていることで、全く目新しいことではないけれども、それでもかまわないから書く! という割り切り方も面白い。
文章から情景がありありと伝わってくる描写など、ぜひ原文で味わっていただきたい一段。
徒然草 序文
徒然草を一段ずつ解説していきます。たまに雑談をします。
聞き流すだけでいつのまにか徒然草読破!
中学高校の勉強や話のネタにも使えます。
徒然草 第二段
「使えねえ政治家とは。」兼好法師は言いました。
徒然草を一段ずつ解説していきます。たまに雑談をします。
聞き流すだけでいつのまにか徒然草読破!
中学高校の勉強や話のネタにも使えます。
酒乱に気をつけろ 『徒然草 気まま読み』#84
今回扱うのは、第八十七段。
結論は、最初の一行。
下部(しもべ)に酒のまする事は心すべき事なり。
下僕に酒を飲ませる時には、注意しなければならない。
これに続いて、その結論に至らしめるエピソードが語られる。京に住む具覺坊という遁世僧、宇治の親戚のところへ行くための迎えの馬が遣わされてきたので、長い道中のこととて、気を利かせたつもりで馬の口取りの男に酒を一杯勧めた。
ところがこの男、ちょいと一杯のつもりがぐいぐいやり出し、しかもとんでもない酒乱だったものだから、本当にシャレにならないことになってしまう…
お酒を勧めるなら、まず相手をよく見てからにしましょう!
有り難き志 『徒然草 気まま読み』#85
今回扱うのは、第四十七段。
全文を紹介すると…
ある人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「嚔(くさめ)嚔」といひもて行きければ、「尼御前(あまごぜ)何事をかくは宣(のたま)ふぞ」と問ひけれども、答へもせず、猶(なお)言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹だちて、「やゝ、鼻ひたる(くしゃみをする)時、かく呪(まじな)はねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかし」といひけり。
有り難き志なりけんかし。
ある老尼の、ちょっと不可解な行動。
なぜ彼女はそれをやっていたのか?
その老尼の行為をどう解釈し、どういう感想を持つかは、人によって分かれるところ。
そもそも、原文も写本によっては最後の「有り難き志」が「わりなき志」になっているものもあり、正反対の解釈も可能となっている。
しかし、これはやっぱり「有り難き志」と取るべきでは?
先達はいてほしい 『徒然草 気まま読み』#86
今回扱うのは、第五十二段。
全文を紹介すると…
仁和寺に、ある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心憂く覺えて、ある時思ひたちて、たゞ一人徒歩(かち)より詣でけり。極樂寺・高良(こおら)などを拜みて、かばかりと心得て歸りにけり。さて傍(かたへ)の人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊(たふと)くこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へまゐるこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
すこしの事にも先達(せんだち)はあらまほしきことなり。
普通は書きそうなところをあえて書かずに読者に想像させる兼好の絶妙さに、思わず笑ってしまう。
そしてこれは、今でもよく起こりうる「旅行あるある」でもある。
やっぱり、ガイドはいた方がいい!
背景は京都 石清水八幡宮 楼門と廻廊。acsunifu23さんによる写真ACからの写真。
酒の大失敗 『徒然草 気まま読み』#87
今回扱うのは、第五十三段。
途中まで紹介すると…
これも仁和寺の法師、童の法師にならむとする名殘とて、各遊ぶことありけるに、醉ひて興に入るあまり、傍なる足鼎をとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入ること限りなし。
しばし奏でて後、拔かむとするに、大かた拔かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせむと惑ひけり。
前回に続いて、今回も仁和寺の法師の話。
仁和寺には変わった法師が多いのか? と思わせる、愉快そうな話かと思ったら、だんだんシャレにならないことになっていく。それでも途中までは滑稽味も漂っているのだが、その行き着く先は…
第84回で扱った第八十七段とも共通する酒をめぐる失敗談だが、酒によるちょっとの気のゆるみが、下手をしたら命とり。くれぐれも酒には気をつけよう!
空振りの話 『徒然草 気まま読み』#88
今回扱うのは、第五十四段。
途中まで紹介すると…
御室(おむろ)に、いみじき兒のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむと企(たく)む法師どもありて、能あるあそび法師どもなど語らひて、風流の破籠(わりご)やうのもの、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、雙(ならび)の岡の便りよき所に埋(うづ)み置きて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、兒をそゝのかし出でにけり。
前回・前々回に続いて、今回も仁和寺の法師の失敗談。
そんなに、仁和寺には変わった法師が多かったのだろうか?「御室」は仁和寺の別称。出家後の宇多天皇が、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室御所」と呼ばれる。
そんな皇室ともゆかりの深い寺なのだが、当時の寺は女人禁制、男だけの世界。
そこには、ある種の同性愛的な感覚があった。
ある時、仁和寺にたいそう評判の稚児がいた。法師たちは、その稚児の気を引きたくてしょうがなく、一計を案じる。
なんだか僧侶というより、ほとんど男子高校生みたいなノリなのだが、はたしてどうなる?
恋の深淵 『徒然草 気まま読み』#89
今回扱うのは、第二百四十段。
全体に名文だが、特に格調の高い結論部分だけ紹介すると…
梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣(みかき)が原の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。
うまくいく恋などつまらない、障害があってこそ恋は燃え上がる。
当時の寿命を考えると既に「老人」の域に入っていたはずの兼好だが、恋について語る感覚は若者のようにロマンティックである。
それは、現在の人間よりも情熱的だとさえいえるものがある。
興味の湧いた人は、ぜひ全文を原文で読んでみよう!
神社のすすめ 『徒然草 気まま読み』#90
今回扱うのは、第二十四段。
全文を紹介すると…
齋王の、野の宮におはします有樣こそ、やさしく、面白き事の限りとは覺えしか。「經」・「佛」など忌みて、「中子(なかご)」、「染紙(そめがみ)」などいふなるもをかし。
すべて神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もたゞならぬに、玉垣しわたして、榊木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴船(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮(うめのみや)。
法師である兼好が、神社を褒めているというところが面白い。
しかも、最後に特によい神社を列挙していて、それがかなりの数に上っている。
果して、兼好は神社のどこにそんなに惹かれたのか?
そして、この時代の仏教と神社の関係性は?
などなど、興味深い話が登場!
人の心のうつろい 『徒然草 気まま読み』#91
今回扱うのは、第二十六段。
全文を紹介すると…
風も吹きあへず移ろふ人の心の花に、馴れにし年月をおもへば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になり行くならひこそ、亡き人の別れよりも勝りて悲しきものなれ。
されば白き絲の染まむ事を悲しび、道の衢(ちまた)のわかれむ事を歎く人もありけんかし。堀河院(ほりかはのいん)の百首の歌の中に、
むかし見し妹が垣根は荒れにけり 茅花(つばな)まじりの菫のみして(=藤原公實の歌)
さびしきけしき、さること侍りけむ。
詩のように美しく、緊張感も漂っている一段。
人の心が変わって離れていくことは、死別するより悲しいものだ。
決して悟りすましていない兼好法師の傷つきやすい繊細な感覚と、ロマンチシズムにあふれた名文をじっくり味わってみよう。
兼好が共感した言葉 『徒然草 気まま読み』#92
今回扱うのは、第二十四段。
全文を紹介すると…
尊き聖のい云ひ置きけることを書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草紙を見侍りしに、心に會(あ)ひて覺えし事ども。
一 爲(し)やせまし、爲(せ)ずやあらましと思ふことは、おほやうは、爲ぬはよきなり。
一 後世を思はんものは、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經(ぢきゃう)・本尊(ほぞん)にいたるまで、よき物を持つ、よしなきことなり。
一 遁世者は、なきに事かけぬやうをはからひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一 上臈は下臈になり、智者は愚者になり、徳人は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
一 佛道を願ふといふは、別のこと無し、暇ある身になりて、世のこと心にかけぬを、第一の道とす。
尊い僧が説いた法話集から、兼好が共感したものを5か条抜き書きしている。その選んだものが、いかにも兼好らしく、含蓄に富んだものばかり。