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平家物語の作者「徒然草気まま読み」#134
今回扱うのは、第二百二十六段。
前半を紹介すると…
後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
日本の軍記物語の代表作といっていい『平家物語』。
作者は不詳とされていて、その成立を巡っては特に国文学の世界ではずっと研究が積み重ねられてきた。
そしてその中で欠かせないのがこの『徒然草』の第二百二十六段。
兼好はここで『平家物語』の作者を名指ししているのだ。
果たしてその信憑性は?
常に議論を巻き起こしてきた、問題の段をご紹介。
勅書を持たる者は下馬せず 『徒然草 気まま読み』#19
今回扱うのは、第九十四段。
短いので全文を掲げると…
常磐井相國、出仕したまひけるに、勅書を持ちたる北面あひ奉りて、馬よりおりたりけるを、相國、後に、「北面なにがしは、勅書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか君に仕うまつり候ふべき」と申されければ、北面を放たれにけり。
勅書を馬の上ながら捧げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。
朝廷のトップである太政大臣・西園寺実氏が朝廷に出てきた時、上皇の手紙を持った武士が乗った馬と出会った。武士は馬から降りて礼儀を示したが、その行為がけしからんと、西園寺はその武士の職を解いてしまった。それはなぜか?
天皇・上皇の権威とはどのように担保されてきたのかがうかがえるエピソード。
身に虱あり、君子に仁義あり 『徒然草 気まま読み』#68
今回扱うのは、第九十七段。
全文を紹介すると…
其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。國に賊あり。小人に財(ざい)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。
いかにも兼好法師らしい、一筋縄ではいかない、不思議な文章。
「そのものにとりついて、そのものを弱らせ、ダメにしてしまうものは数限りなくある。」
なるほど、それはそうだろう。
「身に虱あり」「家に鼠あり」「國に賊あり」
これは説明されなくても、そのとおり。
「小人に財あり」
ちょっとひねってきたな。でもそうかも。
ここまではいいのだが、後の二つは、一体どういう意味!?
「尊い罵倒」徒然草気まま読み#122
今回扱うのは、第百六段。
一部をご紹介すると…
高野の證空上人京へ上りけるに、細道にて馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口引きける男あしく引きて、聖の馬を堀へ落してけり。聖、いと腹あしく咎めて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子〔四衆とも云ふ、釋迦の弟子の四種〕はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞〔俗のまゝなる男の佛弟子〕は劣り、優婆塞より優婆夷〔俗のまゝの女の佛弟子〕は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀に蹴入れさする、未曾有の惡行なり。」
高野山の身分の高い僧侶である證空上人が京に上った時の話。細い道でトラブルに遭ってしまった上人、思わず逆上してしまって…
徳を積み、いとやんごとなき位に就いた僧侶といえども、とっさの時にはどんな言動をするかわからない。むしろ、何の修行もしていない無学な男の自然な態度の方が超然としているようにさえ見える。
ふとしたことから人の本性が現れる瞬間、まさに兼好の「大好物」ともいえる場面を描いた一段。
「乗馬の達人」徒然草気まま読み#126
今回扱うのは、第百八十五段。
全文をご紹介すると…
城(じゃうの)陸奧守泰盛〔城は出羽秋田城、城介で陸奧守を兼ねた、義景の子、北條時宗の舅〕は雙なき馬乘なりけり。馬を引き出でさせけるに、足をそろへて閾(しきみ)をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり。」とて鞍を置きかへ〔他の馬へ置きかへる〕させけり。また足を伸べて閾に蹴あてぬれば、「これは鈍くして過ちあるべし。」とて乘らざりけり。道を知らざらむ人、かばかり恐れなむや。
天下無双の馬乗りのエピソード。
名人であるからこそ、事前に慎重な判断をしてから場に臨むもの。
そこが達人の達人たるゆえんである。
ほかのいろんなジャンルにおいても、同じことが言えるのではないだろうか?
旅の効用 『徒然草 気まま読み』#30
今回扱うのは、第十五段。
全文を紹介すると…
いづくにもあれ、暫し旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。
そのわたり、こゝかしこ見ありき、田舎びたる所、山里などは、いと目馴れぬことのみぞ多かる。都へたよりもとめて文やる。「その事かの事、便宜に忘るな」など、言ひやるこそをかしけれ。
さやうの所にてこそ、萬に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人・かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。
寺・社などに、忍びてこもりたるもをかし。
普通なら、旅に出ることの目的は、行った先の珍しいものや風光明媚な景色など、普段触れることのないものを見て、そこに価値を見出すことにあると思うところだが、やはり兼好は違う。
兼好は、旅に出て日常から切断されることで、むしろ日常の価値を再発見するところに意味があるという。
言われてなるほどと思う、旅の値打ちとは?
よくわからない超意訳 徒然草 #3 - 第十~十一段
教科書でも習う兼好法師の『徒然草』を手書き紙芝居動画で超意訳してみた。
第十段「家居のつきづきしく」:#0:08
第十一段「神無月のころ」:#5:17
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注:参考文献を元にした悪意ある独自解釈が含まれています。信じないで下さい。
臨機応変 『徒然草 気まま読み』#47
今回扱うのは、第二百十三段。
全文を紹介すると…
御前の火爐(かろ)に火おく時は、火箸して挾む事なし。土器(かはらけ)より、直ちにうつすべし。されば、轉び落ちぬやうに、心得て炭を積むべきなり。
八幡(やはた)の御幸に供奉の人、淨衣(じょうえ)を著て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白き物を著たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。
何事も、杓子定規に固定した考えで行動してはいけない。
しきたりというものは、それぞれに意味があって定められているものではあるが、いつどんな場合でもそのとおりにやらなければならないというわけではない。
その場の状況によって、多少正式とは異なる形となっても認められるという、余裕や寛大さはあっていいもの。
兼好なりの自由さ、柔軟さが表れた一段。
その場にはその場に合わせた振る舞いというものがある。
人から非難されない言動 『徒然草 気まま読み』#73
今回扱うのは、第二百三十三段。
全文を紹介すると…
萬の科(とが)あらじと思はば、何事にも誠ありて、人を分かず恭(うやうや)しく、言葉すくなからんには如かじ。男女・老少、みなさる人こそよけれども、ことに若くかたちよき人の、言うるはしきは、忘れがたく、思ひつかるゝものなり。
よろづのとがは、馴れたるさまに上手めき、所得(ところえ)たるけしきして、人をないがしろにするにあり。
兼好法師の人生哲学がよく表れているといえる段。
物事に対して、人と接するに際してどうあるべきか。
若い人に向けた眼差しも注目すべきところ。
さらに、「言葉すくなからんには如かじ」という自制の勧めは、今日こそ肝に銘じるべきことではないだろうか?
古典のすすめ 『徒然草 気まま読み』#62
今回扱うのは、第十三段。
全文を紹介すると…
ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。
文は文選(もんぜん)のあはれなる卷々、白氏文集(=白樂天の詩文集)、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。
「読書のすすめ」という題にしてもいいのだが、引き合いに出されているのはすべて古典である。
それにつけても問題なのは現代の、「古典のすすめ」どころか「読書」そのものが廃れてしまっている傾向である。
読書の魅力を小学生くらいのうちに味わっておかないと、読書の習慣をつけるのは難しい。
これは親と学校が頑張らなければならないことなのだが…
「清げなる男」徒然草気まま読み#118
今回扱うのは、第四十三段。
短いので、全文をご紹介。
春の暮つかた、のどやかに艷なる空に、賤しからぬ家の、奧深く木立ものふりて、庭に散りしをれたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子を皆下して、さびしげなるに、東にむきて妻戸のよきほどに開(あ)きたる、御簾のやぶれより見れば、かたち清げなる男(をのこ)の、年二十ばかりにて、うちとけたれど、心にくくのどやかなる樣して、机の上に書をくりひろげて見居たり。いかなる人なりけむ、たづね聞かまほし。
徒然草の中でも、いったい何が言いたいんだろうと首をかしげてしまう、なんとも不可解な話。
ある晩春の頃、のどかで優雅な雰囲気の空の下を歩いていた兼好。特に気になる家が目に入って、それで取った行動とは…?
もしかして兼好って、アブナイ人だったのか?
あまりに奇妙なため、様々な解釈を生んでいる異色の段。
こんな一面もあったのかという、不思議な兼好をご紹介。
人の心のうつろい 『徒然草 気まま読み』#91
今回扱うのは、第二十六段。
全文を紹介すると…
風も吹きあへず移ろふ人の心の花に、馴れにし年月をおもへば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になり行くならひこそ、亡き人の別れよりも勝りて悲しきものなれ。
されば白き絲の染まむ事を悲しび、道の衢(ちまた)のわかれむ事を歎く人もありけんかし。堀河院(ほりかはのいん)の百首の歌の中に、
むかし見し妹が垣根は荒れにけり 茅花(つばな)まじりの菫のみして(=藤原公實の歌)
さびしきけしき、さること侍りけむ。
詩のように美しく、緊張感も漂っている一段。
人の心が変わって離れていくことは、死別するより悲しいものだ。
決して悟りすましていない兼好法師の傷つきやすい繊細な感覚と、ロマンチシズムにあふれた名文をじっくり味わってみよう。
無責任な詮索 『徒然草 気まま読み』#80
今回扱うのは、第七十七段。
全文を紹介すると…
世の中に、そのころ人のもてあつかひぐさに言ひあへること、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内(あない)知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそうけられね。ことに、かたほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、わがことと尋ね聞き、如何でかばかりは知りけむと覺ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。
いまで言うなら週刊文春?
世の中で話題になっていることについて、関係もない人がその事情について、人に語り伝えるなどということが、兼好法師の時代にもよくあったらしい。
さて、ではそういうことについて、兼好法師はどのように思っていたのだろうか?
情けある三蔵 『徒然草 気まま読み』#76
今回扱うのは、第八十四段。
全文を紹介すると…
法顯(ほふげん)三藏の天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ、心弱き氣色を人の國にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、弘融僧都、「優に情ありける三藏かな」といひたりしこそ、法師の樣(よう)にもあらず、心にくく覺えしか。
三蔵とは、経(きょう)(=仏の説法の集成)・律(=仏徒の戒律の集成)・論(=経・律に対する注釈的研究成果)の三つの仏教の聖典に深く通じた高僧のこと。
西遊記の「三蔵法師」で有名だが、「三蔵」は人名ではなく、「三蔵法師」と言われる人は多くいる。
そんな数ある三蔵の中の一人のエピソードに対して兼好が感想を述べている。
高僧といえども人の子、という暖かい目を向けている一方、なんとも皮肉のこもった表現をさりげなく交えているところにもご注目。
よくわからない超意訳 徒然草 #0 - 序・第一段
教科書でも習う兼好法師の『徒然草』を手書き紙芝居動画で超意訳してみた。
序段「つれづれなるままに…」:#0:08
第一段「いでや、この世に生れては…」:#0:58
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注:参考文献を元にした悪意ある独自解釈が含まれています。信じないで下さい。
待つのは老いと死「徒然草気まま読み」#136
今回扱うのは、第七十四段。
前半部分を紹介すると…
蟻の如くに集りて、東西にいそぎ南北に走る。貴(たか)きあり、賎しきあり、老いたるあり、若きあり、行く所あり、歸る家あり、夕にいねて朝に起く。營む所何事ぞや。生を貪り利を求めてやむ時なし。
徒然草の基調を為しているといえる一段。
どんな人にとっても確実なことは、老いと死が必ず訪れることである。
この現実に向き合わずに日々を過ごしている人が、いかに多いことだろうか?
コロナ禍で初めて自分の死を意識して、パニックを起こしてコロナ脳になり、いや、死にたくない、ゼロコロナだ! と血迷っている現代の人々を兼好が見たら、どう思うだろうか?
だが一方で兼好は、決して虚無感に浸っていたわけではない。
一筋縄ではとらえきれぬ、その人生観・死生観とは?
狆(チン)に似た僧侶「徒然草気まま読み」#148
今回扱うのは、第百二十五段。
前半を紹介すると…
人に後れて、四十九日(なゝなぬか)の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも殊に今日は尊くおぼえ侍りつる。」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は。」といひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。
いつの時代にも、決して悪気はないのだろうが、徹底的に空気が読めず、完全に的外れな発言をして場を白けさせてしまう人というのはいるもの。
故人の四十九日の法要に、ある高僧を招いたところ、その説法が素晴らしく、皆涙を流して聞き入った。
僧が帰った後も、その感動冷めやらない人々が口々にその思いを語っていたところ、空気の読めない人が一人いて…
前回紹介した話に引き続き、兼好のツッコミが楽しい。この段は後半の話と合わせてツッコミニ連発!
人の臨終の有様「徒然草気まま読み」#158
今回扱うのは、第百四十三段。
全文を紹介すると…
人の終焉の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず。」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相を語りつけ、いひし言(ことば)も擧止(ふるまひ)も、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。この大事は、權化の人も定むべからず、博學の士もはかるべからず、おのれ違ふ所なくば、人の見聞くにはよるべからず。
人の臨終の様子を語り伝える時に、たとえほめそやすつもりでも、話を盛って伝えることは決してその人の本位に沿うことではないとたしなめる兼好。
そもそも、人がどのように訪れるかなどは、誰にも予想することはできない。ただその人の日ごろの心がけに違わぬ形で迎えられれば、それでいい。
常に死が自分の身近に、しかも後ろにあるという捉え方をしている兼好の考えがよく表れた、短いながらも味わい深い一段。
枕の方角 『徒然草 気まま読み』#42
今回扱うのは、第百三十三段。
全文を紹介すると…
夜(よ)の御殿(おとゞ)は東御枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拜は辰巳に向はせ給ふ。南にはあらず。
どちらに頭を向けて寝るのがいいのか。
徒然草の時代からいろいろと言われていて、特に「北枕」は忌み避けられていた。
些細なことではあるけれども、そんな生活感覚がわかる一篇。
良き細工 『徒然草 気まま読み』#20
今回扱うのは、第二百二十九段。
すごく短いので全文を掲げると…
よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀が刀はいたく立たず。
これで全文。
しかしこれだけで、優れた表現をするには何が大事なことなのかということを考えさせられる。
良い細工をするには、少し切れ味の鈍い刀を使う。
それはなぜ?
親しき人を見直す 『徒然草 気まま読み』#25
今回扱うのは、第三十七段。
全文を紹介すると…
朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時に、我に心をおき、ひきつくろへる様に見ゆるこそ、今更かくやはなどいふ人もありぬべけれど、猶げにげにしく、よき人かなとぞ覺ゆる。
疎き人の、うちとけたる事などいひたる、また、よしと思ひつきぬべし。
この段では、人間関係の距離感の取り方について考察する。
一見、今さら気を使わなくてもいいじゃないかと思えるような間柄の相手でも、その時に合わせて、しかるべき時に然るべき態度を取れるかどうかというのは重要なこと。
そこに、他人を他人として尊重した上で親しんでいるのか、そうではないのかということが表れる。
短い表現の中に、現在にも通用する教訓が語られている。
凶相の理由 『徒然草 気まま読み』#57
今回扱うのは、第百四十六段。
全文を紹介すると…
明雲座主、相者(さうじゃ)に逢ひ給ひて、「己(おのれ)若し兵仗の難やある」と尋ねたまひければ、相人、「實(まこと)にその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり」と申しけり。はたして矢にあたりて失せ給ひにけり。
「虫の知らせ」というものがある。
する必要がないはずの心配が、心の中に沸いてきて、不安でしょうがなくなってきたりする。
それはほんの気のせい、取り越し苦労か?
いや、そんな不安を感じた時点で、実は危機的状況になっているのだ…という、ちょっと怖くなってくる話。
「宝剣と御剣」徒然草気まま読み#125
今回扱うのは、第百七十八段。
全文をご紹介すると…
ある所の侍(さぶらひ)ども、内侍所〔宮中内侍所、鏡を奉安せる所〕の御(み)神樂を見て人に語るとて、「寶劒〔三種の神器の一なる天叢雲劒〕をばその人ぞ持ち給へる。」などいふを聞きて、内裏なる女房の中に、「別殿の行幸(ぎゃうかう)には、晝御座(ひのござ)の御劒(ぎょけん)にてこそあれ。」と忍びやかにいひたりし、心憎かりき。その人、ふるき典侍なりけるとかや。
宮中の故実に関わるお話。
宝鏡を安置している内侍所で行われる御神楽を見たある侍が、貴重な経験に興奮し、そのことについて話をしていたが、知識が足りないため間違ったことを言っていた。
それが耳に入った女官、その間違いを訂正しながら、侍が気を悪くしないようにしようとして行ったこととは?
細やかな心配りも、そしてそこに共感する兼好にも微笑ましさを感じる一段。
高名の木登り 『徒然草 気まま読み』#16
今回扱うのは、第百九段。
今回はお試し版無料公開。扱うのは、教科書にもよく掲載された「徒然草」でも特に有名な段。
名高い木登りという男が人に指示をして、高い木に登らせて梢を切らせたところ、高い場所でとても危険に見えたときには声をかけることもなく、降りてきて軒の高さぐらいになって「怪我をするな。気をつけておりなさい」と声をかけた。それはなぜかと兼好が問うと…。
厳しい身分社会の中にありながらも、身分の低い者の言葉といえども聴くべきものを逃さずに記し、評価した兼好の見識にも注目!
物知り顔はしない 『徒然草 気まま読み』#82
今回扱うのは、第七十九段。
全文を紹介すると…
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ。片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる氣色、かたくななり。
よく辨(わきま)へたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。
ものをよく知っているのはいいことではあるけれども、本当に立派な人は、いかにも自分はものを知っているという様子でそれを話すだろうか?
今回も兼好の美意識が短い文章によく表れる。
決して厳しく非難するようなことでもないけれども、しかしそれは、野暮じゃないか?
ちょっと心しておいたほうがいいかも。
日暮れて道遠し「徒然草気まま読み」#138
今回扱うのは、第百十二段。
冒頭を紹介すると…
明日は遠國(ゑんごく)へ赴くべしと聞かむ人に、心しづかになすべからむわざをば、人いひかけてむや。俄の大事をも營み、切(せち)に歎くこともある人は、他の事を聞き入れず、人のうれへよろこびをも問はず。問はずとてなどやと恨むる人もなし。
人は世俗のことを軽視するわけにはいかないし、それから簡単に逃れることはできない。
しかし、人生は短い。これでは、一生を些事に囚われて終わることになってしまう。
では、どう考えればいいのか?
兼好法師が我が身と人生を振り返って言っているとしか思えない、荒々しい魂の叫びを聴こう!
道具の品格は持ち主の人格 『徒然草 気まま読み』#67
今回扱うのは、第八十一段。
前段を紹介すると…
屏風・障子などの繪も文字も、かたくななる筆樣(ふでやう)して書きたるが、見にくきよりも、宿の主人(あるじ)の拙く覺ゆるなり。
屏風や障子の絵や文字が、まずい筆つきで書かれていると、それが見苦しいというよりも、そんな調度品を使っている主人がつまらない人物に思えてくる。
持っているもの、使っているものによって、その人の人格が測られてしまうものだ…
いろんな場面で今でも起こりそうなことだけれども、心当たりはないでしょうか?
よくわからない超意訳 徒然草 #1 - 第二~五段
教科書でも習う兼好法師の『徒然草』を手書き紙芝居動画で超意訳してみた。
第二段「いにしへのひじりの御代の」:#0:08
第三段「よろづにいみじくとも」:#2:09
第四段「後の世の事」:#4:07
第五段「不幸に愁に沈める人の」:#4:57
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注:参考文献を元にした悪意ある独自解釈が含まれています。信じないで下さい。
「悪事のついで」徒然草気まま読み#131
今回扱うのは、第二百九段。
全文を紹介すると…
人の田を論ずるもの、訟(うた)へにまけて嫉(ねた)さに、その田を刈りて取れとて、人をつかはしけるに、まづ道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは。」といひければ、刈るものども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらむ。」とぞいひける。ことわりいとをかしかりけり。
田んぼの所有権をめぐる争いで訴訟を起こし、負けた男がその腹いせに、人を使ってその田の稲を刈り取ってしまおうとした。
ところが命じられた者たちが、その道すがらにある無関係の田の稲まで刈り取ろうとしたので、それを止めようとしたら思わぬ「正論」で反論されてしまう。
ちょっとした小噺みたいな滑稽味のある一段。
しかもこの話には、一説には意外な解釈もあって…
栗ばかり食べる娘 『徒然草 気まま読み』#22
今回扱うのは、第四十段。
短いので全文を紹介すると…
因幡(いなば)の國に、何の入道とかやいふものの女、かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更に米(よね)のたぐひを食はざりければ、「かゝる異様のもの、人に見(まみ)ゆべきにあらず」とて、親ゆるさざりけり。
さてこの話、一体何を言おうとしているのか?
なぜ兼好法師は、この話を『徒然草』の一段に加えたのか?
実はこれ、未だにどの研究者も解明しておらず、有力な説さえ現れていない謎なのです!
潮時を知る 『徒然草 気まま読み』#53
今回扱うのは、第百二十六段。
短いので全文を紹介すると…
「博奕(ばくち)の負け極まりて、殘りなくうち入れむとせむに逢ひては、打つべからず。立ち歸り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よき博奕といふなり」と、あるもの申しき。
「あるもの申しき」の「あるもの」とは誰かはわからないが、熟練のギャンブラーらしい。
負けが込んで、有り金はたいて最後の勝負に出ようとしている人を相手にしては、打ってはいけないという。その理由は?
単にギャンブルのことには留まらない、いつの時代にも通用する処世術が短い文章で語られる、これぞ徒然草の魅力。
気を回しすぎるな 『徒然草 気まま読み』#79
今回扱うのは、第二百三十一段。
園の別当入道という、類ない料理の名人がいた。ある時、立派な鯉が手に入ったので、みな別当入道の包丁さばきを見たいと思ったのだが、それを言い出せなくて躊躇していたところ、別当入道はその空気を察して、自ら理由を作って料理を買って出た。
皆、その心遣いにさすがだとうなったのだが、その話を聞いた北山太政入道は、全く違う評価を下した。
いかにも日本人らしい、人に対する気遣い、心遣い。
決してそれ自体がいけないというわけではないのだが、それをするにもセンスというものが要る。
そこがスベると、かえって鼻につくものになってしまう。
なかなか微妙で、機微に触れるエピソード。