キーワード 儒教 が含まれる動画 : 322 件中 65 - 96 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
【ゆっくり解説】ポーランドの大統領含む政府要人をたくさん乗せた飛行機がロシアで墜落したポーランド空軍Tu-154墜落事故
#ゆっくり解説 #航空機事故 #飛行機事故 #墜落事故 #事故と災害を解説するところ
ポーランド空軍Tu-154墜落事故を解説させてもらいました。
安田登 聞き手=山本貴光「禍の時代を生きるための古典講義――第4回『論語』を読む」(2020/7/15収録)@eutonie @yakumoizuru #ゲンロン200715
ゲンロンαにイベントのレポート記事を掲載しています。ぜひお読みください。
記事URL= https://genron-alpha.com/article20200720_01/
【収録時のイベント概要】
いよいよ最終回! 大好評シリーズを締めくくるのは『論語』!
第1回『古事記』、第2回『平家物語』、第3回『おくのほそ道』『鶉衣』と、さまざまな古典を読み解くことで、現代に生きるわれわれへのヒントを探ってきた「禍の時代を生きるための古典講義」シリーズ。講師を務める能楽師の安田登さん、聞き手を務める文筆家の山本貴光さんの刺激的なかけ合いと読み解きには、毎回大きな反響をいただいています(過去3回のアーカイブ動画はVimeoで公開しているほか、ゲンロンαにレポート記事を掲載しています)。
『論語』は、中国の春秋時代の思想家で、儒教の始祖である孔子と、その弟子たちとの問答などが集録された書物です。古来より、日本人の思想や生活習慣にも大きな影響を与え、多くの人々に読み継がれてきました。安田さんは『論語』をひも解く名手として知られ、『10のキーワードで味わう『論語』』『身体感覚で『論語』を読みなおす。』『あわいの時代の『論語』』『すごい論語』など、数々の著書を通して『論語』の新たな魅力を発信し続けています。
孔子が生きたのは、それまでの伝統的な価値観や制度が崩れ、社会が大きく変わっていく激動の時代でした。コロナ禍のいま『論語』を読み直すことで、どのような発見があるのか。シリーズを締めくくるに相応しい、白熱の講義をご期待ください!
禍の時代を生きるための古典講義 – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20200715/
「儒教」と矛盾する「宦官」の歴史[色即是空]【動画で語る世界の歴史】【ゆっくり解説】
[金弾直撃]
今回は、「宦官」の歴史です。特に中国のものが有名ですね。
かつての中国は、官僚になって朝廷に取り立てられるためには、ものすごく勉強して「科挙」に合格するか、「宦官」になって後宮で務めるか、みたいな時代がありました。
「科挙」は、儒教の「四書五経」を始めとして、ものすごい量の勉強をしなければ受かるものではなく、そのため、その教育費を捻出できない人は、自らを「去勢」して「宦官」になる人も多くいました。
しかし、実際には、死罪に次ぐ重い刑罰として、あるいは戦争に負けて捕虜になってしまい、去勢されて、後宮で働かされ、「人として扱われない」便利な、それこそ奴隷のような、あるいは奴隷以下の、モノのような扱いを受けるのが普通でした。
しかし、その「人扱いされなかった」宦官が歴史を動かした例は、中国に限らず、実は結構多いのです。
日本には「宦官」の制度がなかったのでイメージしにくいですが、世界史においては非常に重要な、この特殊な人達の歴史について、ご紹介したいと思います。
皆様の勉強の一助、あるいは雑談の種になれば幸いです。
#世界史 #教養 #宦官 #去勢 #刑罰 #後宮 #ハーレム #奴隷 #中国 #清 #秦 #始皇帝 #キングダム #趙高 #蔡倫 #曹操 #三国志 #鄭和 #永楽帝 #明 #麒麟 #キリン #イスラム #ローマ帝国
ゆっくり雑談 408回目(2021/9/3) 1989年6月4日は天安門事件の日 済州島四・三事件 保導連盟事件 ライダイハン コピノ コレコレア
まともな老人がまともな事を言っている。「このままでは韓国は共産化してしまう!」
それを聞いた儒教の国の連中のコメントは正に鬼畜!!
【関連動画】
言論統制を喜ぶ国民性:sm39239660
韓国で働く外国人の末路:sm38040467
家出少女には売春強制:sm37691244
きめえマンオープニング:sm38940542
YouTube上のセーフな話チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCjSNLMlaGwq9C1BafK0vh9w
YouTube上の告知チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCSBY4-4lDfLLi7bq3diVHnA
YouTube上のサブチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCLB3-9hl2H4h1drSThv0y-A
Rumble上のサブチャンネル
https://rumble.com/user/Saku
ニコニコ動画上の他のシリーズも宜しくね。
https://www.nicovideo.jp/user/81752108/series
【神道シリーズ・シーズン2】第40回・熊沢蕃山【後編】人物史編(あえて選んだ不器用な生き方)
熊沢蕃山は、元和5年(1619年)京都稲荷(現・京都府京都市下京区)の浪人であった父・野尻藤兵衛一利と母・亀女の6人兄弟の長男として生まれたが、口減らしのため8歳の時、母方の祖父、熊沢守久の養子となり熊沢姓を名乗るようになった。
15歳の時、池田輝政の女婿であった丹後国宮津藩主京極高広の紹介で輝政の孫である備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕したが、寛永14年(1637年)島原の乱に参陣することを願い出たが受け入れられず一旦は池田家を離れ、近江国桐原(現・滋賀県近江八幡市)の祖父の家へ戻り、その時、同じ近江の小川村に帰郷していた中江藤樹の門下に入り陽明学を学ぶことなったが、ここで蕃山の思想の基礎が築かれることなった。
藤樹への入門が功を奏し、再び京極高広の紹介で岡山藩に出仕することとなったが、当時の藩主・池田光政は陽明学に傾倒しており、また中江藤樹の信奉者でもあったことから蕃山を大歓迎して迎えた。
その後、光政と蕃山は最強のタッグを組み、儒教的経世救民論による藩政改革を推し進めて行き、
大飢饉や大洪水の被害を最小限にとどめるよう農民の生活を中心に考えた徳政を進めて行った。
しかし、陽明学的立場より身分の上下無関係に藩内の役職者たちに手厳しい指導と批判を続けたため、藩内の保守派から猛烈な反発を受け、39歳にして隠居することを余儀なくされた。
岡山藩を去った蕃山は、その後、京都、明石と居住地を変えて行くが、50歳で明石に移転して以降は厳しく藩主光政や、かつての盟友だった津田重二郎たちを批判するようになり、池田光政と蕃山の関係は悪化の一途を辿って行った。
やがて明石も追われた蕃山は、大和国の郡山(現・奈良県大和郡山市)へ移り住み、自らの思想の仕上げ作業とも言える著作活動を続け、67歳にして、中国の呉の泰伯イコールアマテラス論を格子とする儒教的神道論の書かれた「三輪物語」や、69歳にして幕府の参勤交代制度の批判や武士の帰農主義などを書いた「大学或門」を著し、結局後者の「大学或門」が幕府批判と取られた為、
古河藩預かりの蟄居謹慎の処分を受け、古河の地で残りの4年間の人生を過ごす事となった。
陽明学の至良知にこだわったが故に、せっかくの幕府の将軍指南役の職のオファーも断り、さらには生涯蟄居という割に合わない処遇を受けてしまうという、ある意味、才能に溢れながらも不器用な人生を送ってしまった熊沢蕃山であった。
『舌尖上の中国 第三期』第八話「合」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP8 合 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=W4f26oKLHM8
中国の歴史は、南北の交流、多民族の融合、東西の収束が特徴です。独自の歴史的進化は、常に食文化の融合と流動の重要な原動力となっています。人の移動は食の再生をもたらし、時空を超えてその生命力を発揮してきました。今日のテクノロジーの進歩は、世界に未曾有の変化をもたらしました。食卓の新しい変化も、時代の流れを感じさせます。今回は中国の人口移動と、それが現代人の食生活にどのような影響を与えているかに焦点を当てます。そして、これらの食品が人々の嗜好や気質にどのような影響を与え、変化させているのか。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
『舌尖上の中国 第三期』第七話「生」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP7 生 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=Nj0BmKpTozI
季節の移り変わりとともに、中国の農業は自然のリズムに合わせて行われます。 世界無形文化遺産である「二十四節気」は、中国人が農耕や生活の指針として用いた独自の体系であり、中国の食文化や知恵を反映したものでもあります。今でも中国人は春には大地を耕し、夏には働き、秋には収穫し、冬には身を隠すというように、季節に合わせて飲食を続けています。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
『舌尖上の中国 第三期』第六話「酥」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP6 酥 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=9FY1pExFk70
点心は中華料理の重要な要素であり、その長い歴史、洗練された味、多様性、多彩な風味で知られています。飲茶が人々に愛されるのは、その美味しさに加えて、中国人のより良い生活への願望や期待を表しているからです。時代の変化や人の風俗を反映して、今でも中国人にとって欠かせない贈り物となっている中国のお菓子の数々をご紹介します。お菓子は、人の祝祭の日に寄り添い、あらゆる生命の成長と完成を見守っていると言えます。それは幸福の象徴であり、愛と助け合いの精神の象徴でもあります。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
『舌尖上の中国 第三期』第五話「食」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP5 食 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=_e7AzzwpDUM
中国の食文化には独特の個性があり、ユニークな価値観があります。何千年もの間、食は中華文化に不可欠な要素であり、切り離すことはできません。 中国人は食を通して世界を認識し、把握しています。今回のエピソードでは、食の中の人間的要素にスポットを当て、人と食の関係に焦点を当てます。家族の存続や一族の栄光のために、食は中華文化の存続の基礎を形成し、中国人々は食を通して人生の真の意味を見出しています。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
『舌尖上の中国 第三期』第四話「養」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP4 养 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=H-Z0MFCL1Sg
中国人は健康のために食べることで、植物学、医学、栄養学の独自のシステムを開発し、自然の哲学に恵まれた料理を生み出しました。食は義を養い、身近にある普通の食材には健康の神秘が宿り、中華民族々の心身の平安への道を守っています。漢方薬と中華料理、医食同源の考え方は、中国の人々の食生活に深く影響を与えており、これらの意味のある食品は、中国の食卓で最もユニークなシステムを形成しています。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
『舌尖上の中国 第三期』第三話「宴」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP3 宴 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=OTDXJFWRrlg
中国人は喜びや悲しみ、冠婚葬祭、社交の場を、人間関係を深めるために、いわゆる飲食に向けていたので、その結果、ごちそうや集まりのスタイルが大きく発展したのです。人々は食べ物と社交を密接に結びつけ、食べ物や飲み物には家族や国家、世界平和の約束が込められていました。宴会を通じて、人々は食べることを楽しむだけでなく、親睦と調和を図ったのです。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
『舌尖上の中国 第三期』第二話「香」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP2 香 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=gTCdJtNxvBQ
中国の豊かな天然資源は、様々なユニークなスナック食品を生み出しました。これらのスナック食品は、多くの場合、地元で調達され、最も親しみやすく、地域の特徴を喚起するものであり、中国の食文化において重要な位置を占め、活力を与えています。その土地の特徴を最も身近に感じさせ、中国の食文化の中で重要な位置と活力を持っています。その土地の物質的、社会的生活を反映した魅力的なフォークロアのシンボルとなっています。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
【神道シリーズ・シーズン2】第39回・熊沢蕃山【前編】理論・思想編(陽明学と万物同胞兄弟論)
熊沢蕃山は、26歳の時に地元近江の国に住む近江聖人と言われた中江藤樹に入門を願った時、藤樹は36歳で、ちょうど藤樹は当時朱子学と陽明学のはざまに立ち、蕃山の入門を何度か拒んだのは藤樹自身が自身の思想的転換期の迷いの中にあったことも原因の一つだと言われる。
蕃山は武家の家に生まれ、それまでに四書五経の素養は十分にあったものの、本格的に朱子学や陽明学を学んだのは藤樹の門下生になってからであった。
中江藤樹の陽明学は結局最終的に中国の古代神・上帝・太乙神の信仰に向かい、直接的に社会変革運動を行う活動家たちへの影響は無かったが、弟子の蕃山はその後、積極的に藩主や時の政権に対して批判的な言論活動を行い、自らの扶持を失い、家族にも生活苦を強い、最後は蟄居生活を強いられることとなった。
しかし、そうした蕃山の、才能がありながら自ら苦汁を舐める生活を強いるという実に不器用な生き方は、その思想とともに幕末になると再び脚光を浴びるようになり、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰らが彼の思想に傾倒するようになり、倒幕の原動力となっていくのだが、果たして熊沢蕃山の陽明学はどのように彼らに影響を与えたのであろうか?
一般的に熊沢蕃山は陽明学だとみられているが、果たして本当に彼は陽明学に触発されてああした彼の生き方をしたのだろうか?
実は、蕃山が傾倒したのは完全な陽明学ではなく、陽明学寄りの朱子学との折衷的な思想であった。
蕃山は、陽明学で言う、理が気に働きかけて易の64掛や朱子学の天動説に基づく形而上学的宇宙論を受ける一方、陽明学で言う致良知説も同時的に受け入れ、陽明学の心即理と言うよりも、朱子学的な性即理を陽明学的な致良知で達成しようと言うような発想で、儒教の根本的価値観である五常や五倫の窮理を追究するという姿勢は崩さなかった。
結局、中心的思想は、師の中江藤樹に倣い、朱子学の理気二元論と陽明学の理気一元論の中間を行く理気混淪論を採ったが、しかし、自分の心の良知に目覚め、行動を起こせばそれに連動して世の中はおろか自然万物までをも変えることができるという陽明学の万物一体の仁思想を支持し、そのエネルギーがその後幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えることになったのである。
『舌尖上の中国 第三期』第一話「器」
《舌尖上的中国》第三季 A Bite of China Ⅲ EP1 器 | CCTV纪录
https://www.youtube.com/watch?v=kCMIobW62dk
陶器や青銅、鉄や磁器など、中国の調理器具は、文明の発展とともに飛躍的に進歩し、新しい素材が発明・発見・応用され、焼く・蒸す・揚げるなどの調理方法が生まれました。調理法を生み出すのが調理器具であることもあれば、調理法の必要性が調理器具の革新を促すこともあります。中国人は長い歴史の中で、調理器具から食器に至るまで、素材を活かして最高の味を調理するための知恵と美意識を持った独自の道具を開発してきました。
天人合一という東洋の思想は、中国の食生活を時代に合わせて変化させ、賢くダイナミックなものにしています。漢方の栄養養生の教義は食材の使い方に新しい世界を生み出し、儒教の倫理観は心と家庭の味を食卓に届けています。中国の人々は歴史を洗い流し、時間と融合させてきました。何世代にもわたって中国の人々は、天と地の間で煙と火を上げ、心の底から料理を作り、自分の個性を示し、自分の所属を確認し、文明を築き、世界の不思議を理解し、把握してきました。中華料理は、伝統文化という肥沃な土壌で育ち、広い時間の中で、食べ物が与えてくれる貴重な栄養に感謝しながら食べています。食の美しさに目を向けると、遠くからでも中国文化の魂が見えてきます。
古事記 下巻 第3話 第十七代 履中天皇 第十八代 反正天皇 第十九代 允恭天皇 前編 ゆっくり歴史劇場(ゆっくり解説)
いつもご視聴、広告、コメントありがとうございます(^^)
次回は8/12木曜に古事記をアップ予定です
※コメ返し いつも諸説や注釈、面白コメ等、沢山ありがとうございます(≧▽≦)
あ、最初の※は四兄弟の特徴をを分かり易く私が書いただけで、古事記原文に放火魔とか書いてあるわけではないです
この三代はセットが覚えやすいと思ったので、三人セットで前編、後編としました
日本書紀は出来事の羅列なので、スルーが多いですw何事もなかったように進みますw
言われてみれば大国主の時も炎から助けましたね、それはたまたまですwちなみに、応神天皇の時に登場した阿知吉師と同一人物と言われます、なのでナズーリンです
古事記と日本書紀で名前が全然違う、あるあるですw
確かに、ヤマトタケルも厠で殺しましたね
応神天皇の時に論語(儒教)が伝わったので、儒教的価値観があったのかもですね、ま、この場合の反正天皇はこじつけ感しかないですがw
道中、仮宮を造り、また顔を覆うほどの大きな杯だったようです
天皇の諱は意味があるので、反正天皇は正しさに反するから来たのかもですね、あくまで想像ですが
でかすぎて、鬼のようですねw
平和な御世から一気に殺伐となりましたね、ちなみに兄弟間の皇位継承もこれが初です
【神道シリーズ・シーズン2】第38回・光格天皇と古儀復興
明和8年(1771年)、皇位継承直流より7親等離れた閑院宮典仁(すけひと)親王の第6子として生まれた祐宮(さちのみやや)親王は、21歳という若さで崩御された第118代天皇の御桃園帝の皇位継承者として白羽の矢があたるが、当時4世襲宮家の一つであった閑院宮が本流より離れていたことや、実母の身分が低かったことや、そして何より既に天台宗の寺院・聖護院に入寺して皇籍降下をしていたことなどから様々な異論は出ていたものの、直流よりはるかに離れすぎた伏見家本流の王子による継承は考えられず、結局9歳にして、御桃園前天皇の実の娘である欣子(よしこ)内親王に養子縁組する形で119代天皇の地位を継承することとなった。
9歳で即位した光格天皇は、11歳の頃より学者肌の公家たちを講師として「論語」や「孟子」「中庸」「大学」などの儒教の教育を徹底して受けることになり、これを通じて次第に儒教的君主論における天子としての自覚を深めて行った。
その光格天皇が17歳の時、長引いた天明の大飢饉の中困窮する京都の庶民たちが御所の千度参りの際に御所の周りに集まった6万人にも及ぶ民衆が直訴の内容を書いた紙で賽銭をくるみ投げ入れたことから天皇が幕府に民衆救済を申し入れたことが禁中並び公家諸法度に違反するとして問題となったが、事情が事情だけにやむを得ないとし、幕府側は天皇を諫めなかった一部の公家たちを処分はしたものの、緊急米として1500石を京都庶民に放出することなった。
また、同年に、5年前に京都大火で焼失した京都御所の復興において光格天皇は平安時代の復古調の御所の再現を要求したが、幕府の予算の関係で建材を倹約した状態での紫宸殿と清涼殿の復古調復興は認めたが、神嘉殿の復興は認められず、仮御所をその代用にするように命じられた。
新嘗祭や大嘗祭など応仁の乱以降中絶していた朝廷儀式は、徳川幕府が始まってからその朱子学的な天子君主論の建前から幕府が中心となって復興されてきたが、その後また何度か中断され、光格天皇の時代になり、新嘗祭が本来の神嘉殿で行われるよう完全復興を目指したが、結局、仮御所を神嘉殿として見立てて復興することとなった。
しかし、天皇とはならなかった実父の閑院宮典仁親王を上皇にしたいという尊号一件の問題については幕府に押し切られ、要求したこととの罰として大量の公家たちが幕府により処分されることとなった。
光格天皇は様々な朝廷古儀の復興を目指したが、それは必ずしも宮中儀礼だけではなく、宮中真言院、つまり、亡くなられた前天皇の後七日供養を行ったり、歴代天皇が真言密教形式の天皇灌頂という皇位継承の儀式を行う宮中の建物の復興や石清水八幡宮の臨時祭放生会、つまり仏式の儀礼などの復興も同時に求めていた。
【神道シリーズ・シーズン2】第36回・平田篤胤【中編】「霊能御柱」篤胤の宇宙観・死生観
文化9年(1812年)、平田篤胤37歳のとき、相思相愛で結ばれた妻、織瀬を亡くし、これを契機に篤胤は亡き妻の死後のありかを気にかけ、間違っても師宣長が言うような黄泉の国という暗くて汚く恐ろしいところではなく、死後も自分の身の回りにいて自分を見守ってほしいという気持ちから人の死後の世界、幽冥界のイメージを作り上げ、「霊能御柱」という著書を書き上げた。
これは、篤胤の師である宣長の高弟子・服部中庸が宣長の著「古事記伝」の付録として書かれた宇宙形成論「三大考」をベースとして書かれているものだが、そもそも中庸自身も師宣長の宇宙観を逸脱して、
当時日本に流入した最新の西洋天文学の惑星宇宙の知識が導入されており、もともと一つであった天と地と泉、つまり、天津国と国津国と黄泉の国は、実は分離して太陽・地球・月となっており、
人は死ぬと黄泉の国、つまり月に行くのだという宇宙観・死生観になっていた。
篤胤は、この中庸の「三大考」という10段階の変化図を、人は死後黄泉の国、つまり月には行かず、あくまで人の住む地球上のどこかに魂だけは彷徨い続けるのだと言う幽冥界論を展開して書き換え、その10段階変化を自著「霊能御柱」の中に書き留めた。
自説をベースに書き換えられた服部中庸はそれでも篤胤に対して一定の理解を示したが、故・宣長の門人たちの間ではこうした篤胤による恩師宣長の根本思想、つまり、人は死後黄泉の国へ行くんだという主張を否定され、篤胤に対する反発は強まって行った。
篤胤の宇宙観や死生観は、仏経・儒教・道教陰陽五行、そしてキリスト教からの借用が多々見られるが、実は、これは借用というよりも、こうした宗教諸思想のいいとこ取りの総合作品と言った方が的確にその性質を示していると言える。
しかし、篤胤はそうした借用や盗用を否定し、彼に言わせれば、46億年前に宇宙や神々が誕生した時から神道はあり、仏経や儒教やキリスト教は、そうした皇国日本の神道が誤ってインドや中国や西洋に伝わったものだと主張し、皇国の神道がすべての宗教思想の起源であると居直り強弁するのであった。
古事記 中巻 第11話 第十五代 応神天皇 後編 ゆっくり歴史劇場(ゆっくり解説)
いつもご視聴、広告、コメントありがとうございます(^^)
今回で中巻は終わりです、次回から下巻になります
次回は7/15木曜に古事記をアップ予定です
※コメ返し いつも諸説や注釈、面白コメ等、沢山ありがとうございます(≧▽≦)
いつも、うぽつ、おつ、面白い等、とても嬉しいです、ありがとうございます(^^)
下巻も完走頑張ります(^^)
調べた限りでは、品陀も誉田も、ほむた、ほんだ、両方の読み方がある様です、前回の歌の時は、本の送り仮名が、ほんだ、だったので、ほんだ、と読みました、表記と読みで使い分けるとか言うわけではないかと思われます。
読み方難しいのが沢山です汗
論語(儒教)と千字文(漢字)と言う事です
ま、石が避けたわけではないかとw
応神天皇の御世は平和な時代の様ですね
鎧の上は4Lかもですねw
鎧が裏目に出たようです
赤玉素材はビー玉ですw
背景はイラストACの、茜さす様です
こういう差分好きですwそうか!岸辺露伴ですね!パンクロッカーかなんかかと思ってましたw
現在、比売許曽神社は下照比売命、姫嶋神社は阿迦留姫命が祭神ですが、古事記には比売碁曽神社に阿加流比売、と記載されています(日本書紀では逸話は似ているが、阿加流比売の名の記載は無く、比売語曽社となっています)
【神道シリーズ・シーズン2】第34回・山鹿素行の士道と日本中朝主義
山鹿素行は、元和8年1622年、陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以の子として生まれたが、父は当時の会津藩主・蒲生 忠郷の家老・町野長門守幸和に身を寄せていたところ、藩主の死による蒲生家の断絶のため、町野幸和は幕府に直接仕えることとなり、素行親子も一緒に江戸に移住することとなったが、江戸移住以降、済松寺の袒心禅尼に養われ、書を学び始めるようになると天才的な才を発揮し、周りの者たち驚異する中、素行はまたたくまに四書、五経、七書はいうに及ばず、詩文などまでをマスターしてしまった。
素行の尋常ならぬ天才ぶりは注目を集め、わずか9歳にして幕府の大学頭/林羅山の門下に入り、朱子学を学ぶ運びとなった。
そして翌年10歳になると林門下の生徒たちに師として教えるほどの立場となり、さらに11歳になると松江城主/堀尾山城守から、2百石で召し抱えるとの申し出があったが、父が「安い給料で束縛されたくない」と辞退したのだ。
素行と父は素行の幕府召し抱えか1万石以上での高給での藩仕えかのどちらかを望んだが、幕府召し抱えはあとわずかなところで希望していた三代将軍家光の死去により実現せず、また、31歳の時に、1年余りの間赤穂藩で1千石でのレンタル移籍を行うものの、その後の契約条件が折り合わず江戸に戻り、全国に6千人もの門下生を抱えながら著作活動を進めた。
その間、素行は、諸藩からの指南役などのオファーを断り続ける一方、北条氏長から北条兵学を、光宥から両部神道、広田担斎から忌部神道を学び、さらに40代に入ると儒教の古学に関心を寄せるようになり、次第に幕府の御用学問であった朱子学を古学の立場から批判するようになった。
その頂点が素行45歳の時に著した「聖教要録」で、この内容は、当時会津藩主であり、同時に4代将軍家綱の後見役でもあった保科正之の逆鱗に触れ、その後、正之の死後3年まで続く赤穂藩預かり謫居、つまり、指定された屋敷の敷地の中での禁固刑が9年間続くこととなる。
これは、素行が生涯求めていた幕府仕えへの道を完全に絶たれることを意味はしたが、ただ、この9年間の間に素行は自分が属していた北条兵学からの離脱と山鹿兵学の独立、そして彼独自の日本中朝主義、つまり、儒教とは実は中国ではなく日本のオリジナルであり、日本書紀に書かれてるのは儒教の歴史であり、日本自体が中国であり、日本人こそ中国人であると言う儒教日本起源説を展開し、やがては陰陽五行説に基づく易学理論の象数宇宙論に至り生涯を閉じることとなった。
山鹿素行の士道的武士道論は、彼より少し遅れて佐賀藩にて葉隠武士道を確立した山本常朝の武士道論とともに江戸時代の武士道観を形成して行ったのである。
そっくりさんの幻想郷第42話(追1)
裏世界を見てみよう。再うpすみません。
##(参考資料)日韓問題##
幻想入りで政治の話をするのもナンなので、リンクを張ります
これらは、興味無かったら見なくてもいいです。
sm37973706 正義とは何ぞや
sm37973724 日韓問題の正体は、正義の違い
sm37973737 韓国は儒教の社会
sm37973761 だから多数の問題を引き起こす
sm37973787 日韓問題は、政治の問題
sm37973806 日本政府から朝鮮総督府への通達
【神道シリーズ・シーズン2】第31回・藤田東湖と会澤正志斎(後期水戸学)
藤田幽谷の息子の藤田東湖と水戸藩士・会澤正志斎は、幽谷が始めた私塾青濫舎で四書五経などの儒教の書とともに儒教的な農本主義的な経世救民論、および水戸藩や日本全体を取り囲む国際情勢を学び、同時に剣術や槍術などの武道も学びつつ、文武両道の実学の大切さを教えられた。
幽谷が生きていた時代は、班内の旧守派・保守派の反対や妨害もあって実現しなかった幽谷の儒教的道理に基づく藩改革は9代藩主武公水戸斉昭の時代になると積極的に取り上げられ、実践されていったものの、商品経済貨幣経済が発達した19世紀に時代錯誤的な儒教的な農本主義政策はまったく効果がなく、また、江戸幕府が迫りくる外国勢力に対して弱腰の姿勢を取りづつける現状を片目に水戸藩では会澤正志斎や藤田東湖らの尊王攘夷論は高まりを見せ、次第に幕府への批判が強まる中、とうとう藩主斉昭も藤田東湖も蟄居の処罰が下り、斉昭は強制隠居も命じられて4年間、東湖は8年間の蟄居生活を余儀なくされることとなった。
会澤正志斎は「新論」を著し、平和ボケしてる幕府や諸藩の危機管理意識の低さを厳しく批判したが、その内容があまりにも過激すぎたために当時の藩主哀公斉修に上呈したものの、出版は差し控えられた。
一方、藤田東湖は8年間の長い蟄居生活の間に「弘道館記述義」や「回天詩史」などを執筆し、彼自身の歴史観や尊王攘夷論を訴えた。
この両者の著作は、水戸藩のみならず、この両者に会いに来た、長州の吉田松陰、高杉晋作や薩摩の西郷隆盛など、その後討幕の主力勢力となった勤王の志士たちにも多大な影響を与えた。
しかし、藤田東湖の死後、彼がまとめてきた班内の尊王攘夷過激派たちは暴走を始め、桜田門外の変や天狗党の乱を引き起こし、水戸藩内は保守派の諸政党と急進派の天狗党との間の血で血を洗う熾烈な内部抗争が続き、明治維新を挟んでの報復合戦の末、ついには水戸藩出身者が新政府の一翼を担うことなく終わってしまうのであった。
3.「平语近人-習主席の好きな典故(言必信 行必果)と五ヵ年規画」 【字幕付き】
Storyline
習近平国家主席は2018年5月2日、北京大学で、『論語』の『言必信 行必果』(言必ず信あり、行い必ず果たす)という古典を引用し演説を行った。
習主席は「中華文明は脈々と数千年続いており、独特な価値体系を持っている。『言必ず信あり、行い必ず果たす』『人にして信なくんば、その可なるを知らざるなり』を重んじてきた。こうした思想と理念は、過去も現在もその鮮明な民族的特色を持っており、いつまでも色あせない時代的価値を持っている」と強調した。
「言必信 行必果」は、2千年以上前の儒教の経典『論語』に書かれた言葉。言ったからには約束を守り、行なう以上はやり遂げるという意味だ。個人にとっては言ったことを実行するのが最低ラインであり、国にとっては執政能力の試練である。中国での例としては「五カ年規画」の策定と実行を挙げることができる。
「五カ年規画」は国の成長、社会的、経済的成長のための計画で、共和国が建国されたときから始まっている。第13次五カ年規画(2016-2020年)の期間中、中国は経済と民生の改善等で長足の進歩を遂げた。中国経済は15兆ドル近く成長し、1人当たりのGDPは1万ドルを超えたほか、2020年の都市・農村部住民1人当たり所得は、予定通り2010年の2倍という目標を達成した。現行基準の農村貧困人口9899万人は全て貧困から脱却し、中国は絶対的貧困をなくした。
政治経済学者であるローレンス・ブラーム氏は「ビジネスには計画が不可欠、同様に政府にとっても不可欠なものだ」と指摘した上で「中国政府は巧みに計画を実行している。中国政府の仕組みによるところが大きく、中国古代哲学で論じられた一致性と連続性にも関係している。実際、中国には共通認識を作る過程がある。代々の指導層は秩序ある新旧交替を行い、順を追って一歩一歩進んでいくのだ」と自らの理解と解釈を示した。
中央広播電視総台(チャイナ・メディア・グループ/CMG)制作による特別番組「平『語』近人——習近平氏の好きな典故」では、習近平国家主席が演説や論文、講演などで引用した中国の古典からの名言や故事を紹介する。そして中国伝統文化の奥深さとその中から国家統治の知恵を汲み取る。
CMG傘下の中国国際テレビ(CGTN)のニューメディア・プラットフォームでは、国際版の第1シーズンが6日から公開され、CMGの各オンライン・プラットフォームでは44の言語でも続々と公開されている。
国際版の第1シーズンは全9話で、「グリーン発展」「生態文明」「革新」「新型コロナとの闘い」「反腐敗対策」「教育による貧困扶助」などをテーマにしたエピソードが展開される。また、8人の外国人ゲストを招き、対話を通じて理解を共有する。
【神道シリーズ・シーズン2】第30回・藤田幽谷と中期水戸学
藤田幽谷は安永3年2月18日1774年3月29日常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれ、頭脳明晰の才が認められ、父与右衛門の英才教育の下、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎から儒教を学び、その後、彼らの推挙により10歳にして荻生徂徠の古辞学派の、のちに水戸藩の彰考館総裁となる立原翠軒の門人となった。
その後15歳で彰考館の正式な館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わるようになった。
そして17歳になると「神皇正統記」の研究をはじめ、「天皇考」「幽谷随事」を著して国体論を確立し、この時より幽谷を名乗るようになる。
18歳になった年には老中松平正信の求めにより、天皇と幕府と諸藩との間の君臣上下の名分を正すことの重要さを説いた「正名論」を寄稿し、24歳以降は、封事という、藩主への直訴とも言える訴えを行い、幽谷は、文公治保、武公治紀、哀公斉修の藩主三代に渡り生涯に26回の封事を行った。
29歳の時には、水戸梅香の自宅に青藍舎という私塾を開き、ここに日本全国から尊王攘夷に燃える若者たちが集まり、その中にはのちに長州で松下村塾を始めた吉田松陰も含まれていた。
幽谷の封事は、迫りくる外国勢力からの海防国防の為の強兵策と悪化し続ける水戸藩の財政の立て直しを目指して行われたが、幽谷の在任中は藩内の旧守派藩閥派にことごとく阻まれ実行されることはなかったが、幽谷の死後、9代藩主となった列公水戸斉昭は幽谷の海防論と藩財政立て直しの為の経世救民論を受け入れ、それを実行しようと心がけたのだ。
しかしながら、海防を充実するだけの財政余裕はなく、また、藩財政の立て直しに関しても、江戸中期以降発達した商品経済貨幣経済にまったく対応のできない儒教的な農本主義に基づく名分再建論で水戸藩の財政を止めることは出来なかった。
幽谷の儒教的経世救民的財政再建策はなんの効果も無かったものの、度重なる処分や死の覚悟をしてまで藩主に直訴を続けた姿勢と尊王攘夷の気概は、彼の開いた青藍舎を通じて全国の勤王の志士たちに大きな影響を与えることとなったのである。
【王戈wg与戈戈圈】03 焼いた紙を桐生ココにあげました丨我把初中三年的试卷送给了桐生可可
[Gege Circle] 03: I gave the baked paper to Kiryu Coco
原视频发布于2020年11月28日
https://www.bilibili.com/video/av202952201
https://www.youtube.com/watch?v=mzQg74bqtX4
✨视频音乐✨
天門 - End Theme
角巻わため - Ending BGM〖sm38616321〗
Luca Francesco Pinto - Don't Change a Thing〖sm35311733〗
✨推荐视频✨
戈戈圈招人啦!王戈wg与戈戈圈 sm35777958
我居然用MCPE0.8建造了一个城市? sm38616051
Sand - China-2 sm38572430
LeeAlive - 水(Original Mix) sm38581971
Senpai Ru - Twin Trees sm38586227
Dio Deer - Successful Person sm38586273
只需要3秒,你就会发现不对劲的歌……【warma/CB】sm35776992
【泠鸢】大喜丨国风电音单曲 sm38611922
徐梦圆 - China-P sm38602534
嘉然小姐的狗 sm38595135
#中国 #bilibili #YouTube #桐生可可 #桐生ココ #hololive #冲蝗 #独轮车 #夜酱 #nightbot #A-SOUL #嘉然 #贝拉 #珈乐 #乃琳 #向晚 #祭祀 #烧纸 #佛教 #儒教 #道教 #孔子 #老子 #中国风 #文化 #戈戈圈 #王戈wg #孙笑川 #吴亦凡 #蔡徐坤 #肖战 #敬汉卿 #女胖胖 #老番茄 #罗翔说刑法
【神道シリーズ】シーズン2・第27回・賀茂真淵(神道論無き日本人アイデンティティーの追求)
元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(現在の静岡県浜松市)で賀茂神社の神職の家に生まれた真淵は、近所の稲荷神社の神職家の杉浦国頭の家に通い、小さな頃から和歌にいそしむ生活をしていたが、26歳の時、京と江戸を行き来していた京都の伏見稲荷大社の神官の家出身の有名歌人・荷田春満が途中浜松の杉浦国頭の催す歌会に寄った際に歴史的な出会いをし、以後、春満が浜松による度に和歌の手ほどきを受けたが、やがて37歳になると春満の門人になることを目指し上京し、以後、7年後に春満が死ぬまで真淵は京都と浜松を行き来した。
その後、時の将軍徳川吉宗の次男で、徳川御三卿の一つ田安家の当主となった田安宗武に使えていた春満の末子の荷田在満の勧めで江戸に出向した真淵は、春満の弟の荷田信名の江戸宅をひきりに、荷田家人脈の門人を頼りに寄宿し、やがて江戸の豪商・村田春海の家に寄宿することとなり、和歌研究と著述の日にあけくれた。
やがて、50歳の時に荷田在満の推薦で、田安宗武に和学御用として仕えることとなり、
以後、64歳で隠居するまでの14年間宗武の下で仕える事となった。
その間に、新古今和歌集を推す在満と万葉集を推す宗武の間で、所謂「国歌八論」論争というものが起き、在満は新古今和歌集の技巧を重んじ、宗武は万葉集の中に現れる儒教的な「ことわり」を重視し、この埋まらない対立の末、在満は田安家を去る事となり、残った真淵は、万葉集支持の立場より宗武の側についたものの、和歌を儒教の六経の詩経の道徳観や儒教独特の勧善懲悪的な和歌評価には賛同できず、両者の見解の深い溝は埋まらぬまま真淵は粛々と独自の万葉集研究を続けた。
真淵はその後64歳になって隠居生活に入るが、宝暦13年(1763年)に宗武の命により
大和を訪ねた際、その江戸への帰り道で三重県の松坂に寄り、真淵門下入門を志していた青年・本居宣長と両者生涯一回限りの面会を果たし、そこで宣長は古事記注釈書作成への情熱を熱く語ったと言う。
賀茂真淵の生涯の圧倒的部分は万葉集研究に注がれ、真淵がその中に見出したのは、自由奔放で雄々しく素朴で、しかもみやびある古代日本人であり、それは「ますらおぶり」という言葉で表現されている。
しかし、真淵の神道に関する関心は低く、「天皇は日本の風土に合っている」とは述べたものの、その根拠は語られず、しかも、後の国学者たちのように独自の神道理論を構築しようとする姿勢は見られず、あくまで古代の日本人という日本人のアイデンティティー追求に人生をかけていたと言える。
【TREASURE】TREASURE MAP EP.8
サブタイトル:“12時、わたしたちの故郷”
サブタイトルの「12時、わたしたちの故郷」は、『6時、わたしたちの故郷』という「雄大な自然や地域独自の文化を紹介する」KBSの番組から取られています。EP.8は「ジョンウ、ジョンファンの故郷ツアー」。同じ「益山(イクサン)」出身の2人がガイドになって、残り10人と旅します。無難にガイドをこなすジョンウとは対照的に、色々な意味であたふたするソ・ジョンファンが見ものです(笑)
※主より。。。
ソ・ジョンファンの特徴は、「いまどき珍しい王道マンネ」なところ。11人のひょん達の愛を一身に受けたり、ジェヒョクの誕生日プレゼント選びの時の「自己主張が苦手」な部分は、「もっとがんばって!」感が凄くて(ジョンファンより年上だからか)主は応援してしまう、そんな魅力に溢れています。
儒教文化が根付き、年長者への礼儀を絶やさない韓国ですが、ことナムジャドルでは「マンネ・オブ・トップ!」と、圧倒的にマンネに権力が集まっているケースが多いです。ソンジェ(BTOB)がまさに典型例。番組の企画でプニたんに「敬語」で電話したら「ソンジェじゃないんですか?」と疑われちゃう。そんなマンネはソンジェだけだと思います。(グク筆頭にBTSもマンネラインの権力が強めですが、もともとはナムさんのカリスマありきで作られたグループかつ、テテがあまりにもバブちゃんなのでBTOBほどではないかと)偶然にも同じ益山出身&大人数グループのマンネにディノ(SEVENTEEN)がいますが、彼は家では長男なのもあってか、かなり自己主張がうまいです。家でも末っ子なジョンファンとは対照的だなぁと感じます。
ジョンファンがこれから先どう成長するのか。今の彼は間違いなく「骨の髄まで末っ子」。いつかYGも新しいグループをデビューさせるし、その時にはジョンファンも「ひょん!」と呼ばれる日が来ます。あのバブちゃんだったセフン(EXO) もNCTの皆様に「ひょん」と呼ばれる時代。でも、今はまだそんな姿なんて全然想像できないっすね(笑)
【神道シリーズ・シーズン2】第25回・荻生徂徠(古文辞学の立場より孔子・朱子批判)
江戸時代に入り、林羅山、山崎闇斎、中江藤樹など朱子学や陽明学の研究は全盛となり、本来の古典的な儒教の教えが隅に押しやられてしまっていた中、古学派の伊藤仁斎は儒教本来の孔子が論語で訴えた徳目修身の原点に立ち返り朱子学・陽明学を批判していたところ、苦学独学で儒教を習得した荻生徂徠はその伊藤仁斎の朱子学批判では飽き足らず、孔子の論語ではなく、孔子以前に中国の先王聖人らが打ち立てた礼楽刑政の思想に立ち返り、先王たちの礼楽を
たんなる仁義礼智という、個人で習得すべし徳目として把握していた孔子を痛烈に批判し、さらにはその孔子の論語の立場にたつ伊藤仁斎も厳しく批判した。
荻生徂徠は、孔子とか朱子と言った先王聖人の時代からみて後世の学者たちによる六経の偏向的解釈を論破する為、古代の中国語を学び、五経も日本語の訓読みではなく、オリジナルの中国語の発音で読み理解するという方法論を採った。
そこから徂徠が得たものとは、本当に理解すべきは堯舜以前の時代から先王たちにより築かれて行った経世済民を目指す礼楽の制度そのものがあればこそ民は仁義礼智のような徳を身に着けた民なれ、天下も丸く治まるのだ、という政治制度の重要さで、それを孔子や朱子のように個人の努力で皆が徳目を習得する修身に心がけるとか、宇宙の理と個人の性を一致させる努力などに歪曲して解釈されてることが許せなかったのである。
尚、この徂徠の、古典をその時代の言葉で読み解くという古文辞学という方法論は、対象はまったく異なるものの、後の国学者本居宣長の古事記の万葉仮名読みによる分析にも引き継がれていくことなり、この宣長の古事記解釈はその後の復古神道を産むきっかけとなり、一方荻生徂徠はその復古神道派からは中国かぶれの批判的評価が下されるという皮肉な運命になるのであった。
毒母に親孝行を尽くし裸で鯉を捕る王祥をボロボロ日本語で語る【VOICEROID 紲星あかり、ついなちゃん】
読書が苦手な人にとって、親孝行に尽くすことで公務員になれる制度ってアリかも?
20210322補足:01:37「求めて」ではなくて、「求められて」のほうが正しい。
Youtube→https://www.youtube.com/watch?v=384Kctfb3wA
Niconico→https://www.nicovideo.jp/watch/sm38469222
Illustration:
SD役ついな(しのびぃ~さん)
いらすとや
Music:
Temptation(Chris Haugenさん)
検索用タグ:三国志、晉書、世說新語、二十四孝、王祥、王覧、儒教、陸績、孟宗、孟宗竹、モウソウチク
|ボロボロ日本語シリーズ|
mylist/69207343
デトロイト空港衝突事故 ATC(ニュース映像から)
Northwest 1482
https://youtu.be/KILV7sI8qTg
日付 : 1990年12月3日
概要 : 視界不良時の地上衝突
現場 : アメリカ合衆国 ミシガン州デトロイト・メトロポリタン・ウェイン・カウンティ空港
ノースウエスト航空1482便
乗客数 : 40
乗員数 : 4
負傷者数 : 10
死者数 : 8
生存者数 : 36
機種 : マクドネル・ダグラス DC-9-14
ノースウエスト航空299便
乗客数 : 146
乗員数 : 8
負傷者数 : 0
死者数 : 0
生存者数 : 154 (全員)
機種 : ボーイング 727-251-Adv
事故原因 : アメリカ国家運輸安全委員会の事故調査により、事故原因として次の点が報告された。
操縦士の問題:不確実な経路に進入した際に停止して地上管制に報告しなかったことと、操縦士間の役割の仮想的逆転(機長が副操縦士に心理的に従属する状態になっていた)による適切な協調の欠如
空港の問題:指示と異なる経路に進入した際の地上管制と飛行場管制との連絡手段の欠如(1482便から滑走路03Cにいるという連絡を受けた際、迅速に飛行場管制に連絡を取り、飛行場管制から299便の離陸を中止させていれば、衝突を回避できる可能性があった)、視認性の低い状態での指示経験の欠如による不適切な指示とそのバックアップ体制の不備、路面上のマーキングや看板の表記の不備
機体の問題:後部テールコーン解放機構の動作不良(これにより、1482便の機体後部で2名が窒息死している)
Wikipediaから引用 : https://ja.wikipedia.org/wiki/デトロイト空港衝突事故
【神道シリーズ】第24回・前期水戸学(水戸光圀と「大日本史」)
水戸光圀は、初代水戸藩主徳川頼房の三男として生まれ、幼くして二代水戸藩主の継承者に指名されたが、兄の頼重をさておいて継承者になったことに負い目を感じ、複雑な心境から荒れ狂った少年時代を送るが、18歳の時に読んだ史記の伯夷伝に強く感動し、儒教の長幼の功、つまり、長子こそが王位を継承すべき、という説に心を打たれ、以降人が変わったように孔子の儒教の勉強に励んだ。
史記の伯夷伝にならって漢文体で日本史の編纂を始めた光圀は、藩主になって以降、これを藩全体の中核事業に添え、日本の歴史を儒教的観点から見直すという作業を本格的に始めた。
その中で光圀は同じく儒教的立場から日本の歴史書を書いた幕府の指南役の林羅山と同様、儒教的合理主義に基づき、日本書紀の神代巻は妖怪迷信のたぐいとして対象から外し、あくまで神武天皇からの天皇の歴史書を作成することを目指していた。
結局、光圀が編纂した「大日本史」は神武から100代の後小松天皇までの歴史記録となっているが、中でも強調したのは、神功皇后が天皇ではなく女傑であったこと、壬申の乱で自害した大友皇子を「天皇大友」としたこと、そして、なんといっても南朝正統論である。
しかしながら、光圀の儒教道理論、つまり、聖人君主や長幼の功論からするとどうしても北朝の方が正統となってしまうのだが、それでも南朝が三種の神器を持っていたことを根拠に南朝正統論を強弁する理由は楠木正成の忠臣ぶりを評価したかったからである。
晩年光圀は、正成を賞賛するために湊川神社や各地に楠社を創建させたが、この中心の武勇の魂を祀るという思想は儒教の招魂思想からくるもので、この思想は後に長州藩が幕末の尊王の志士たちを祀った桜山神社や京都霊山、そして明治以降の東京招魂社、つまり靖国神社の創建につながる思想となったのである。
【神道シリーズ】第23回・日本陽明学の祖・中江藤樹
中江藤樹は、同時代の林羅山、吉川惟足、山崎闇斎らが朱子学の枠内でいかに情を抑え、性即理を実現させるべきかを模索していた時、彼らが論理の探求のみに熱中する中、藤樹は自ら儒教の道徳の原点に立ち、徹底した儒教徳目の実践を通じての性即理の実現を目指したが多くの面でその理想追求は挫折することとなった。
はたから見ると藤樹は「近江聖人」として理想的な儒者のイメージを放つのだが、本人としては理想と現実の矛盾のはざまで悩み苦しみ続けていたのだ。
一切の妥協を拒む藤樹には他の朱子学者たちの行動が偽善的であり、立身出世の為だけに朱子学者の立場を利用するものや、ひたすら読書だけに没頭して現実生活の中で徳目を実践しない朱子学者たちと映り、藤樹は彼らを俗儒と呼んで心底軽蔑した。
しかし、他を批判しようともみずからの自己研鑽実践の中での自己矛盾の問題は解決せず、また自分を取り囲む周囲の社会がまったく変わるわけでもなく、朱子学の理気論による「情を抑えて性即理を目指す」という自己抑制的理論そのものへの限界を感じ始めていた。
どうしたら心は他を敬う気持ち、つまり敬と一体になれるのか?
どうしたら心は性、つまり、自分そのものを敬の気持ちでいっぱいにできるのか?
この問に答えるために藤樹は心学、つまり心の学問というものを唱えだしたが、実際には論理で心の作用をコントロールできるものではなく、結局はタイイツシンという古代儒教の神様への信仰へと逃げ込むことになり、日本の伊勢神宮のアマテラスもタイイツシンの眷属のひとつだと主張するようになった。
しかし、この藤樹の陽明学への踏み込みはその後、朱子学を否定する国学の心の爆発、感情の爆発への道を開くこととなったのである。