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何かわけがあったか? 『徒然草 気まま読み』#99
今回扱うのは、第十段。
一部を紹介すると…
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、假の宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、長閑(のどやか)に住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一際しみじみと見ゆるぞかし。今めかしくきらゝかならねど、木立ちものふりて、わざとならぬ庭の草も心ある樣に、簀子(すのこ)・透垣(すいかい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
兼好の思考の柔軟さがよく見える一段。
仏教の無常観から、人の住まいなど仮の宿りだと思う一方で、その中に趣のある様子を見れば、心を動かされる。
とはいえ、あまりに凝り過ぎたものを見ると、それは見苦しいと感じる。
そして後半ではある故事について、語り伝えられてきて評価の定まったことについても、ふとしたことから再考の必要があるのではと思いつく。
固定観念に縛られずに感じ、考え続けた姿勢がうかがわれる。
盃の酒を少し残す 『徒然草 気まま読み』#58
今回扱うのは、第百五十八段。
全文を紹介すると…
「杯の底を捨つることは、いかゞ心得たる」と、ある人の尋ねさせ給ひしに、「凝當(ぎょうたう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候らん」と申し侍りしかば、「さにはあらず。魚道なり。流れを殘して、口のつきたる所をすゝぐなり」とぞ仰せられし。
この当時、盃で酒を回し飲みするときには、注がれた酒を飲み干さずに、少し残してそれを捨ててから次の人に渡すという習慣があった。それはなぜか?
ある人のいう答えに、兼好法師は納得したからそれを書き記したのだろう。
一説には、その人の説明は誤りだとも言われているが、その真偽はともかく、兼好が納得したことには共感できるのでは?
神無月をめぐって 『徒然草 気まま読み』#78
今回扱うのは、第二百二段。
前半を紹介すると…
十月を神無月と云ひて、神事に憚るべき由は、記したるものなし。本文も見えず。たゞし、當月、諸社の祭なきゆゑに、この名あるか。
十月のことを「神無月」というが、その由来は何か?
実はこれには現在も、定説はない。
兼好法師はこの問題について、推測ではなくあくまでも根拠のある答えを求める。
それは歴史学における「史料批判」と同様のアプローチで、後の文献史学や実証主義にも通じる、批判的知性を感じさせる。
そしてさらには「神無月」について、徒然草にしか残されていないのだが、おそらくこの時代にはそういわれていたのだろうということがわかる、ちょっと意外な話も。
負けじと打つべきなり 『徒然草 気まま読み』#69
今回扱うのは、第百十段。
全文を紹介すると…
雙六(すぐろく)の上手といひし人に、その術(てだて)を問ひ侍りしかば、「勝たんとうつべからず、負けじとうつべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりとも遲く負くべき手につくべし」といふ。
道を知れる教(おしえ)、身を修め、國を保たむ道も、またしかなり。
「雙六(すぐろく)」とは現在の「すごろく」とは違って、博打の一種。
兼好はその名人に、負けない秘訣を尋ねる。
そしてその答えは、現代の勝負師もよく口にするようなことだった。
歌の文句にもある「勝つと思うな、思えば負けよ」である。
博打うちの言うことからも貴重な教えを見出す兼好。
ところがその兼好が、実は博打うちをどう思っていたかというと…
謎のなぞなぞ 『徒然草 気まま読み』#43
今回扱うのは、第百三十五段。
藤原資季(すけすえ)大納言入道という人物が、宰相中将・源具氏(ともうじ)に対して、「おまえさんの尋ねる程度のことなら、どんなことだって答えてみせよう」と言ったことが発端となり、話が大きくなって、御前にて争うことになり、もし資季が具氏の尋ねる問いに答えられなければ、ご馳走をするということになった。
そこで具氏が尋ねたのは、幼い時から聞いていたが、未だにわからないなぞなぞの答え。
そのなぞなぞとは
「馬のきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」
資季はついに答えられず、具氏の勝ちとなったのだが、それで、このなぞなぞの答えは?
猫又出現! 『徒然草 気まま読み』#34
今回扱うのは、第八十九段。
山奥に猫又という妖怪がいて、人を食うそうだとある人が言うと、またある人が、山奥でなくても、この辺でも年を取った猫が妖怪になって、人を食うらしいぞとある人が言う。
そんな話を聞いたある法師が、自分のように独り歩きをする者は気を付けないといけないぞと思っていたところ…
昔の話というなかれ。このような話が誰からともなく広がっていく様は、現在の「都市伝説」なんかにもそっくり。
そして、すっかり信じ込む人もいる一方で、兼好はじつに冷ややかな視線を向けている。
これも、今とあんまり変わらないようで…
寸陰惜しむ人なし「徒然草気まま読み」#143
今回扱うのは、第百八段。
冒頭部分を紹介すると…
寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しと雖も、これを累ぬれば貧しき人を富める人となす。されば商人(あきびと)の一錢を惜しむ心切なり。刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期(ご)忽ちに到る。
ほんのちょっとの時間を無駄にしても、それを惜しむ人はいない。
しかし、人生はほんのちょっとの時間の積み重ね。
これくらいの時間の浪費くらい、大したことないと思っていたら…
「徒然草」の中でも、何度も繰り返し語られるテーマ。
それほどに重要な、それでいて、日常の中でつい忘れてしまう、だからこそ何度でも、いろんな表現で繰り返して言っておかなければならないと兼好が思っていたのであろう真理。
「人の亡き跡」徒然草気まま読み#114
今回扱うのは、第三十段。
動画では冒頭部分だけのご紹介ですが、ここでは全文を掲載します。
人の亡き跡ばかり悲しきはなし。
中陰(ちゅういん)の程、山里などに移ろひて、便りあしく狹き所にあまたあひ居て、後のわざども營みあへる、心あわたゞし。日數(ひかず)の早く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。はての日は、いと情なう、互にいふ事もなく、我かしこげに物ひきしたため、ちりち゛りに行きあかれぬ。もとの住家にかへりてぞ、さらに悲しきことは多かるべき。「しかじかの事は、あなかしこ、跡のため忌むなる事ぞ」などいへるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覺ゆれ。
年月經ても、露(つゆ)忘るゝにはあらねど、去るものは日々に疎しといへる事なれば、さはいへど、その際(きは)ばかりは覺えぬにや、よしなし事いひてうちも笑ひぬ。骸(から)は、けうとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、程なく卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問ふよすがなりける。
思ひ出でて忍ぶ人あらむほどこそあらめ、そも又ほどなくうせて、聞き傳ふるばかりの末々は、哀れとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらむ人は哀れと見るべきを、はては、嵐にむせびし松も、千年を待たで薪にくだかれ、ふるき墳(つか)はすかれて田となりぬ。その形(かた)だになくなりぬるぞ悲しき。
人の死というものについて、まず身内の葬儀の話から始まり、さらに年月を経ていくにつれての変化を語っていく。
決して長くはないこれだけの分量で、ここまでミクロからマクロまで視点を変化していく文章はなかなか見られるものではない。
徒然草の中でも屈指の名編、じっくり味わっていただきたい。
中四国ゴー宣道場に集まれ!
第88回ゴー宣道場は令和2年3月8日、初の「中四国ゴー宣道場」として岡山で開催される。
テーマは「女性が輝く時代は来るか?」
太古の昔、日本は東アジアの中でも最も女性が輝く国だった。
それがいつの間にここまで男尊女卑がはびこる国になり、それを払拭できないまま、ジェンダーギャップ指数153か国中121位、前年よりも悪化しているという状態になっているのか?
そもそも、「女性が輝く」とはどういうことだろうか?
女性が輝いていないのに、男性だけが輝くということなどあるだろうか?
「女性が輝く時代」を考えることは、国の在り方、人の生き方そのものを考えることである。
応募はゴー宣道場ホームページから
https://www.gosen-dojo.com/application/
締め切りは2月26日です!!
狆(チン)に似た僧侶「徒然草気まま読み」#148
今回扱うのは、第百二十五段。
前半を紹介すると…
人に後れて、四十九日(なゝなぬか)の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも殊に今日は尊くおぼえ侍りつる。」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は。」といひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。
いつの時代にも、決して悪気はないのだろうが、徹底的に空気が読めず、完全に的外れな発言をして場を白けさせてしまう人というのはいるもの。
故人の四十九日の法要に、ある高僧を招いたところ、その説法が素晴らしく、皆涙を流して聞き入った。
僧が帰った後も、その感動冷めやらない人々が口々にその思いを語っていたところ、空気の読めない人が一人いて…
前回紹介した話に引き続き、兼好のツッコミが楽しい。この段は後半の話と合わせてツッコミニ連発!
慢心を戒める 『徒然草 気まま読み』#93
今回扱うのは、第百六十七段。
一部を紹介すると…
人としては、善にほこらず、物と爭はざるを徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才藝のすぐれたるにても、先祖の譽にても、人にまされりと思へる人は、たとひ詞に出でてこそいはねども、内心に若干(そこばく)の科(とが)あり。謹みてこれを忘るべし。をこにも見え、人にも言ひ消たれ、禍ひをも招くは、たゞこの慢心なり。
いかにも兼好らしいというか、聞いて思わず「えっ?」と言いたくなるような、変わったことを言っている。
「他人よりも優れたものがあることは、大きな欠点である」というのだ。
兼好独特の、逆説的な話なのだが、さてその真意は?
強盗法印の話「徒然草気まま読み」#135
今回扱うのは、第四十六段。
と、その前に今回は徒然草と全く関係ない余談から。
新型コロナウイルスの接種券がいち早く届いて、それをゴー宣道場で披露した高森師範。
次いで接種券が届いたよしりん師範は、これを生放送の公開で引き裂いて話題になったわけだが、それでは、高森師範の接種券はどうなった?
そして本題。
全文を紹介すると…。
柳原の邊(ほとり)に、強盜法印と號する僧ありけり。度々強盜にあひたる故に、この名をつけにけるとぞ。
短く、全文でこれだけ。
僧の位で最も高い「法印」である僧侶の中に、「強盗法印」というあだ名のある人がいた。
「強盗」と最高位の僧。全く似つかわしくないが、別に本人が強盗を働いているわけでも、強盗のような悪辣なことをやっているわけでもなくて…
酒の大失敗 『徒然草 気まま読み』#87
今回扱うのは、第五十三段。
途中まで紹介すると…
これも仁和寺の法師、童の法師にならむとする名殘とて、各遊ぶことありけるに、醉ひて興に入るあまり、傍なる足鼎をとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入ること限りなし。
しばし奏でて後、拔かむとするに、大かた拔かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせむと惑ひけり。
前回に続いて、今回も仁和寺の法師の話。
仁和寺には変わった法師が多いのか? と思わせる、愉快そうな話かと思ったら、だんだんシャレにならないことになっていく。それでも途中までは滑稽味も漂っているのだが、その行き着く先は…
第84回で扱った第八十七段とも共通する酒をめぐる失敗談だが、酒によるちょっとの気のゆるみが、下手をしたら命とり。くれぐれも酒には気をつけよう!
「祟りを怖れるな」徒然草気まま読み#128
今回扱うのは、第二百七段。
全文を紹介すると…
龜山殿〔嵯峨龜山の仙洞御所〕建てられむとて、地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなは)數もしらず凝り集りたる塚ありけり。この所の神なりといひて、事の由申しければ、「いかゞあるべき。」と敕問ありけるに、「ふるくよりこの地を占めたるものならば、さうなく掘り捨てられがたし。」とみな人申されけるに、この大臣一人、「王土に居らむ蟲、皇居を建てられむに、何の祟りをかなすべき。鬼神は邪なし。咎むべからず。唯皆掘りすつべし。」と申されたりければ、塚をくづして、蛇をば大井川に流してけり。更にたゝりなかりけり。
天皇の御所を建てるための地ならしをしていたところ、大きな蛇がうじゃうじゃいる塚があった。
蛇を神として崇め怖れる信仰から、これを掘って捨てることは憚られると、誰もが言っていたが…
中世の人は誰もが迷信深かったかというと、そんなことはない。合理的な考え方をする人はこの時代にもいたし、もっとさらに時代をさかのぼっても合理的な人がいたことが、文献に残されている。
逆に現代が合理的な人ばかりかというと、決してそんなことはないわけで…
悪筆を憚らず 『徒然草 気まま読み』#38
今回扱うのは、第三十五段。
非常に短いので、全文を紹介すると…
手の惡(わろ)き人の、憚らず文かきちらすはよし。見苦しとて人に書かするはうるさし。
字の下手な人が、それを気にせず文を書くのはいいことである。見苦しいと思って人に代筆をさせるのは嫌味なものである。
今ではワープロもあるわけだが、手紙で気持ちを伝えようと思ったらやはり本人の肉筆。字の上手い下手など関係ない。
現在でもすんなり通じる兼好の美意識。
ついでに、字の上手い下手を巡って現在一年がかりでもめている泉美家のエピソードも登場します。
浄土宗随一の学者僧侶「徒然草気まま読み」#150
今回扱うのは、第百二十四段。
全文を紹介すると…
是法法師は、淨土宗に恥ぢずと雖も、學匠をたてず、たゞ明暮念佛して、やすらかに世を過すありさま、いとあらまほし。
浄土宗の中でも誰にも引けを取らない学者である、是法法師。
兼好法師はこの人のようにありたいと記している。
兼好は是法法師のどのようなところを理想としているのだろうか?
それは、今どきのテレビに出てくる「学者」たちとは、正反対の生き方だったりする。
平家物語の作者「徒然草気まま読み」#134
今回扱うのは、第二百二十六段。
前半を紹介すると…
後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが、樂府の御論議の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名をつきにけるを、心憂き事にして、學問をすてて遁世したりけるを、慈鎭和尚、一藝ある者をば、下部までも召しおきて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持し給ひけり。
日本の軍記物語の代表作といっていい『平家物語』。
作者は不詳とされていて、その成立を巡っては特に国文学の世界ではずっと研究が積み重ねられてきた。
そしてその中で欠かせないのがこの『徒然草』の第二百二十六段。
兼好はここで『平家物語』の作者を名指ししているのだ。
果たしてその信憑性は?
常に議論を巻き起こしてきた、問題の段をご紹介。
人の心の弱さ「徒然草 気まま読み」#102
今回扱うのは、五十八段。
冒頭のみ紹介すると…
「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり人に交はるとも、後世を願はむに難かるべきかは」と言ふは、更に後世知らぬ人なり。
仏門に入って修行をしているからといって、物欲など世俗の価値観、欲求から離れられるわけではないと、兼好はいう。
確かに現実はそのとおりで、人の心は弱い。この段の兼好は、人の心の弱さには寛容である。
しかし、だからといって、決して仏道を歩むことが無意味だと言っているわけではない。
人の心の弱さを認めた上で、さらにその先がある。
形から心へ 『徒然草 気まま読み』#71
今回扱うのは、第百五十七段。
最初の部分を紹介すると…
筆をとれば物書かれ、樂器(がくき)をとれば音(ね)をたてんと思ふ。杯をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤(だ)うたむ事を思ふ。心は必ず事に觸れて來(きた)る。仮りにも不善のたはぶれをなすべからず。
現代人の感覚だと、ものを書こうという心が先で筆を執り、音楽を奏でようという心が先で楽器を持つという順番なのだが、ここで兼好が言っているのはその逆。
これは、近代的人間像をひっくり返す考え方であり、現象と心理は別ではないのである。
そして話は、ミス日本ファイナリストへのレクチャーについても及んでいくのだが、その関連は?
嘘の世の中 『徒然草 気まま読み』#61
今回扱うのは、第七十三段。
最初の一文だけ紹介すると…
世にかたり傳ふる事、誠は愛なきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
「世の中に語り伝えられていることは、真実は面白くないからだろうか、多くは皆ウソである」
強烈な皮肉から始まり、世の中にどれほど嘘が蔓延しているか、どのようにして嘘が広まって、信じられてしまうのかといったことを、さまざま実例を挙げていく。
人の言うことに対してリアルに、シビアに、クールに向き合う姿勢が見えるが、しかし、それだけで終わらないのが徒然草。
そこに兼好法師の知性と理性を感じる洞察がある。
子を持つべし 『徒然草 気まま読み』#36
今回扱うのは、第百四十二段。
一部を紹介すると…
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷の恐ろしげなるが、傍(かたへ)にあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、物のあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。
確か以前に扱った段では、「絶対に子供なんて持つものじゃない」と言ってたはずだが? と思った人もいるかもしれないが、これは矛盾というわけではない。兼好はケース・バイ・ケースでその時の心の赴くように書いていて、この人の場合は、子を持ってこそ人の心がわかったのだと言っているのである。
そして話はさらに続き、恥ずべきことをする人、罪を犯す人を無下に非難するのはよくない、そうするには、その人なりの事情があることを考えるべきだと説き、些細なことから話がどんどん深くなっていく。これぞ徒然草の醍醐味。
「民意」とは何か 『高森ウィンドウズ』#230
衆議院総選挙はご承知のとおりの結果になり、安倍政権は「これで民意が示された」と、白紙委任状を得たかのようなことを言い始めている。しかし、この結果は本当に「民意」を反映した結果なのか?そもそも「民意」とは何だろう?
気を回しすぎるな 『徒然草 気まま読み』#79
今回扱うのは、第二百三十一段。
園の別当入道という、類ない料理の名人がいた。ある時、立派な鯉が手に入ったので、みな別当入道の包丁さばきを見たいと思ったのだが、それを言い出せなくて躊躇していたところ、別当入道はその空気を察して、自ら理由を作って料理を買って出た。
皆、その心遣いにさすがだとうなったのだが、その話を聞いた北山太政入道は、全く違う評価を下した。
いかにも日本人らしい、人に対する気遣い、心遣い。
決してそれ自体がいけないというわけではないのだが、それをするにもセンスというものが要る。
そこがスベると、かえって鼻につくものになってしまう。
なかなか微妙で、機微に触れるエピソード。
神になった業平 『徒然草 気まま読み』#56
今回扱うのは、第六十七段。
一部を紹介すると…
賀茂の岩本、橋本は、業平・實方(藤原實方)なり。人の常にいひ紛(まが)へ侍れば、一年(ひととせ)參りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止(とゞ)めて、尋ね侍りしに、「實方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、『橋本や、なほ水の近ければ』と覺え侍(はべ)る。吉水和尚の、
月をめで花をながめし古(いにしえ)の やさしき人は こゝにあり原
と詠みたまひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、己(おのれ)らよりは、なかなか御存じなどもこそさぶらはめ」と、いと忝(うやうや)しく言ひたりしこそ、いみじく覺えしか。
上賀茂神社の岩本社には、在原業平が祀られている。
実在の人間を神として祀っているわけである。
人をご祭神とする神社といえば、まず思い浮かぶのが靖国神社。他には楠正成を祀る楠公神社などがあるが、これは明治以降の政治目的によってつくられた、新しい信仰だなどと非難する者がいる。
しかし、人を神とするのは決して「新しい伝統」ではないのだ。
愛すべき日本の和歌10首・後篇(近現代) 『高森ウィンドウズ』#188
2回にわたって、歴史に残る数多くの和歌の中から、特に趣深いものを5首ずつご紹介。後編は近現代。与謝野晶子、若山牧水、石川啄木と明治以降の代表的歌人を紹介し、そして締めに選んだ2首は? 豊かな日本の心を、その意味や、歌の背景などとともに、じっくり解説します!
スマホを捨てて散歩に出よう 『高森ウィンドウズ』#203
ごくシンプルな、生活習慣のおすすめをひとつ。スマホを家に置いて、気楽に、目的を決めずに散歩に出てみよう。散歩で得られる、4つの効果をご紹介します!
神社のすすめ 『徒然草 気まま読み』#90
今回扱うのは、第二十四段。
全文を紹介すると…
齋王の、野の宮におはします有樣こそ、やさしく、面白き事の限りとは覺えしか。「經」・「佛」など忌みて、「中子(なかご)」、「染紙(そめがみ)」などいふなるもをかし。
すべて神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もたゞならぬに、玉垣しわたして、榊木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴船(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮(うめのみや)。
法師である兼好が、神社を褒めているというところが面白い。
しかも、最後に特によい神社を列挙していて、それがかなりの数に上っている。
果して、兼好は神社のどこにそんなに惹かれたのか?
そして、この時代の仏教と神社の関係性は?
などなど、興味深い話が登場!
先達はいてほしい 『徒然草 気まま読み』#86
今回扱うのは、第五十二段。
全文を紹介すると…
仁和寺に、ある法師、年よるまで石清水を拜まざりければ、心憂く覺えて、ある時思ひたちて、たゞ一人徒歩(かち)より詣でけり。極樂寺・高良(こおら)などを拜みて、かばかりと心得て歸りにけり。さて傍(かたへ)の人に逢ひて、「年ごろ思ひつる事果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊(たふと)くこそおはしけれ。そも參りたる人ごとに山へのぼりしは、何事かありけむ、ゆかしかりしかど、神へまゐるこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。
すこしの事にも先達(せんだち)はあらまほしきことなり。
普通は書きそうなところをあえて書かずに読者に想像させる兼好の絶妙さに、思わず笑ってしまう。
そしてこれは、今でもよく起こりうる「旅行あるある」でもある。
やっぱり、ガイドはいた方がいい!
背景は京都 石清水八幡宮 楼門と廻廊。acsunifu23さんによる写真ACからの写真。
玉は淵になぐべし 『徒然草 気まま読み』#75
今回扱うのは、第三十八段。
冒頭部分を紹介すると…
名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、煩ひを招く媒(なかだち)なり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
この段には、兼好法師の極めてラジカルな面が表れている。
そこには、序に「徒然なるままに」というような、することもなく手持ち無沙汰だから書いているといった感覚とは全く異なる、尖った若々しい感性がある。
そしてそれは、真に人生を大切に考え、人生を輝かせることを阻んでいるのは何なのかということを真剣に考えたからこそ到達した心境なのである!
法然の教え 『徒然草 気まま読み』#51
今回扱うのは、第三十九段。
全文を紹介すると…
或人、法然上人に、「念佛の時、睡りに犯されて行を怠り侍る事、如何(いかゞ)して此の障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覺めたらむ程、念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。又、「往生は、一定(いちじょう)と思へば一定、不定と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。
また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」とも言はれけり。是も亦尊し。
親鸞の師である浄土宗の開祖・法然。
その法然の教えを、実に徒然草的な、味わい深い筆致で紹介している。
厳しい修行を必要としない、念仏を唱えれば往生ができるという教えであるにもかかわらず、念仏の時に睡魔に襲われて行がおろそかになるという相談をする者がいた。
それに対する法然の答えに注目するあたりに、多くの衆生に救いの門を開こうという法然の姿勢に対する兼好の共感が見られる。
良き細工 『徒然草 気まま読み』#20
今回扱うのは、第二百二十九段。
すごく短いので全文を掲げると…
よき細工は、少し鈍き刀をつかふといふ。妙觀が刀はいたく立たず。
これで全文。
しかしこれだけで、優れた表現をするには何が大事なことなのかということを考えさせられる。
良い細工をするには、少し切れ味の鈍い刀を使う。
それはなぜ?
珍しすぎる宝物 『徒然草 気まま読み』#17
今回扱うのは、第八十七段。
短いので全文を掲げると…
或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人、「御相傳浮けることには侍らじなれども、四條大納言撰ばれたるものを、道風書かむこと、時代や違ひはべらむ、覺束なくこそ」といひければ、「さ候へばこそ、世に有り難きものには侍りけれ」とていよいよ秘藏しけり。
まるで落語みたいなエピソード。
特に何の教訓にもなりそうにないけれど、何か現代でも似たようなことがありそうな。『徒然草』には、こんなのもあるのです。