キーワード 天台宗 が含まれる動画 : 159 件中 1 - 32 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
地図に線を一本引き領地を定める源頼家
西暦1,200年7月10日
陸奥国葛岡(現在の宮城県大崎市岩出山)の新熊野神社の僧が、坊領の境相論に於いて、双方の文書を持参し、一帯の地頭である畠山重忠に結審を望む。畠山は、藤原秀衡の代では朝廷の安泰を祈祷していた神社であったが、今は鎌倉幕府の繁栄を祈祷している神社であるので、三善康信経由で、将軍源頼家の裁定を仰いだ。源は、絵図の中央に一本の線を引き「土地が広いか狭いかは運次第だ。わざわざ使いを出して現地を調査するのは面倒である。以後の境界争いは全てこの様に結審する。不服が有るならば訴訟など起こさぬ様に」という主旨の発言をした。
宇宙一元化 公式HP
https://universe-centralization.com/top.html
きせつの旅 さぶすぴーしーず 2023. June ぱーと2!の後編! 京都の紫陽花 編
はじめましての方ははじめまして!そうでない方はいつもお世話になっております!
今回は2023.6に京都各地の紫陽花を観に行ったお話...の2日目です!
雪もちらつくこの季節に今更の紫陽花動画です!あけましておめでとうございます!
季節はどんどん廻ります!人生辛いこともありますが...それでも前を向けば綺麗な景色が待っています!
場所が違えば景色も様々!引き続き京都各地の紫陽花をご紹介です!
柔らかだったり鮮烈だったり...赤だったり青だったり夕方だったり夜だったり...
様々な表情を見せる紫陽花をお楽しみいただけると幸いです!
それではご覧ください!!
きせつの旅 さぶすぴーしーず シリーズ:https://sp.nicovideo.jp/series/411197?ref=user_series
きせつの旅 シリーズ:https://sp.nicovideo.jp/series/331848?ref=user_series
キミの目で確かみてみろ!な今回の行き先情報はこちら!
天台宗 京都大原三千院:http://www.sanzenin.or.jp/
勧修寺:https://souda-kyoto.jp/guide/spot/kajuji.html
京都・宇治 西国第十番札所 三室戸寺:https://www.mimurotoji.com/
師茂樹×おかざき真里×亀山隆彦「仏教と論争、あるいは歴史を描くこと――『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』刊行&『阿・吽』完結記念」 @moroshigeki @cafemari @TakaKame7 #ゲンロン211120
webゲンロンにイベントのレポート記事を掲載しています。ぜひお読みください。
記事URL= https://www.genron-alpha.com/article20220308_01/
【収録時のイベント概要】
平安時代に天台宗を開き、日本の仏教や文化に多大な影響を与えた最澄。今年(2021年)は亡くなってから1200年の大遠忌にあたり、天台宗総本山の比叡山延暦寺では6月に法要が行われ、東京国立博物館では10月12日から11月21日まで特別展「最澄と天台宗のすべて」が開催されるなど、節目の年の話題が続いてる。
そんななか、マンガ家のおかざき真里氏が「月刊!スピリッツ」で連載していた『阿・吽』が完結。9月に単行本最終巻の第14巻が発売された。同作は、最澄と同時代に生きた空海、そのふたりの生き様を中心に、人間味あふれるドラマを圧倒的な描写力で魅せて、幅広い読者層の支持を得ている。
また、花園大学教授で仏教学者の師茂樹氏の新著『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』(岩波新書)が10月22日に刊行された。同書では、最澄と法相宗の徳一による「三一権実」論争を、単純な二項対立ではなく、多様な観点による新たな見取り図で解きほぐしていく。帯ではおかざき氏が「この本とは『阿・吽』を描く前に出会いたかった。美しい対決だ。」を推薦を寄せ、発売直後に重版がかかるなど好評を博している。
この度ゲンロンカフェでは、おかざき氏と師氏のおふたりに加え、私塾「上七軒文庫」を師氏とともに運営する仏教学者の亀山隆彦氏を迎えてのトークイベントを生配信する。
月9ドラマ化された『サプリ』や、11月19日公開映画の原作『ずっと独身でいるつもり?』など、現代の女性を数多く描くおかざき氏は、なぜ『阿・吽』で最澄や空海、徳一といった平安時代の仏教僧を描いたのか? 最澄と徳一は仏教史上まれに見る大論争をどのようにくり広げたのか? 現代のわれわれはその論争の歴史から、なにを学ぶことができるのか?
仏教や歴史に詳しくないという人も必見! 絶対にお見逃しなく!
■
仏教と論争、あるいは歴史を描くこと – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20211120/
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十五回「平安後期の比叡山と天台宗」(講師:亀山隆彦)[2022年4月20日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十五回の講義では、平安後期の比叡山と天台宗の思想活動についてお話します。
既に様々な研究で指摘されるように、平安後期の比叡山は、さらに後の鎌倉仏教を牽引する法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった傑僧を輩出する母体です。
しかしながら、最澄、円仁、円珍、安然以降、同山の思想活動がどう展開されたか。実態は明確ではありません。
この講義では、特に十一~二世紀頃の教理研究に注目しながら、この問題について議論を試みたいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【神道シリーズ・シーズン3】第57回・谷口雅春と生長の家(その④)
谷口雅春は、青春時代に出会ったトルストイの「復活」のキリスト教における原罪と贖罪の問題に対する解決を求めて、大本入信後も、西田天香の一燈園への体験入園など、贖罪を求めた原始的共同村参加など解決無きまま彷徨っていたが、大本を脱退した大正11年にたまたま古本屋で見つけたアメリカのニューソート信者ホムルスの本に出合うとこれまでの考え方と生き方がいきなり一変することとなった。
キリスト教プロテスタント改革派であるカルバン派から発生した批判派は自らニューソートと名乗り、もともとヨーロッパで発生したその思想は19世紀に北米に広がり、20世紀に入ると日本にも流入して来ていた。
同じキリスト教徒でありながらニューソートは聖書の原罪説や贖罪説の一切を否定し、神の予定調和説さえも全面否定し、神とは自ら意思を持たぬ宇宙創造主であるとし、故に人は神に縛られるのではなく、人の中にある神の創造力を生かしていかに有意義な人生を送るべきかに主眼がおかれていた。
仏教思想に造詣の深かった谷口は、このニューソートの宇宙観や神観を仏教思想の無明や唯識論に充て辞め、究極、目的を持たぬ創造神は仏教でいうところの無明そのものだと結論付けた。
しかし、無明で予定調和を求めぬ創造神は生きと生けるものすべてにその無明の神性を与えているので人は自らの内にあるその神性に目覚め、いかに有効に活用して健康で幸せな生活を送れるようにすべきが谷口の関心の中心となっていった。
しかし、その神性に目覚めてそれを自分の為に生かして行く方法はニューソートとは大きく異なり、単なる啓発トレーニングではなく、真言密教の阿字観や天台宗の月輪観や密教の普賢延命菩薩法などを通じて如意宝珠を得るという観想法などを中心に修練法を仏教的なそれに結び付けて行った。その後、聖書や仏典や古事記やコーランなどを声を出して読んだり、静坐や瞑想することもその修練の中に含めている。
こうした実に平和的な思想を持つ生長の家にも、日中戦争が拡大するなか、いよいよ太平洋戦争に突入すると、谷口にも戦争協力の圧力がかかることになったのである。
【宗教学】日本仏教の13宗派をvtuberから教わるずんだもん【解説】
GAMABOOKS書店員の諸星めぐるです□□
この動画では、書店員諸星が、VOICEVOX:ずんだもん に向けて、ニッチでディープな話を解説していきます。
今回は宗教学の分野から「日本仏教と13宗派」について解説しています。
日本人にとって馴染みが深く、そして遠い存在の仏教について少し詳しくなれます。
主にYouTubeにて活動してます。
よろしかったら、チャンネル登録・高評価 お願いします。
https://youtube.com/@meguru.gamabooks
書店員VTuberらしく、本にまつわる企画をしつつ、
歌ったり、文豪イジリしたり、ゲームしたりと毎日がエブリディです。
#00:00 オープニング
#01:27 日本仏教のしくみ
#02:26 奈良仏教と南都六宗
#03:27 法相宗
#04:20 華厳宗
#05:13 律宗
#05:55 平安仏教
#06:43 天台宗
#08:14 真言宗
#09:45 融通念仏宗
#10:52 鎌倉新仏教
#12:17 浄土宗
#12:53 浄土真宗
#13:43 臨済宗
#14:23 曹洞宗
#15:15 日蓮宗
#15:57 時宗
#16:24 黄檗宗
#17:33 エンディング
□リンク□
□Twitter:https://twitter.com/boshi_megu
□プロフ:https://profcard.info/u/tzLWJQa1pXUwGFfWBTlL9P7V6Az2
□働いてる店:https://www.gamabooks.jp/
ご支援いただける場合
□FANBOX:https://gamabooks.fanbox.cc/
noteにて、配信のアーカイブを書いています!
□「読む配信」:https://note.com/moroboshi_meguru
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第47回・合気道と道教と山王神道
病弱だった植芝盛平がやがて小さな体で大男を軽々と投げ飛ばしてしまう合気道を創立するまでにはどのような経過があり、また、その合気道とはどのような思想の流れの中で形成されて行ったのか?その謎を解くところに今回の特集は焦点を当てる。植芝盛平は7歳の頃、近所の地元和歌山県田辺市の古義真言宗の地蔵寺の住職の藤本密乗の開く私塾で四書五経や真言密教の鎮魂法や祈祷を学び、また、32歳の時には移住した先の北海道遠軽の地で出会った大東流合気柔術の師範武田惣角から5年間、大東流合気柔術を学び、さらには、36歳の時には父の病気直しの為に大本教の本部のある綾部に出口王仁三郎を訪ねた時、出会った出口王仁三郎に感銘し、そのまま8年間綾部に住み込み、王仁三郎の、戦い回避を目指す言向け和しの無抵抗主義を学び、次第に盛平独自の合気道の道を開いていくこととなった。合気道の技のほとんどは大東流合気柔術から来てるが、その大東流合気柔術を可能にしたのは、創始者とされる鎌倉時代の新羅三郎を称した源義光が影響を受けた天台密教の作った神道理論、山王神道であった。山王神道は、真言宗系の両部神道とともに道教の影響を受けた中国の真言密教、天台教の影響を受けており、道教思想がその密教理論の中に展開されている。太極拳、少林拳、八掛掌、形意拳、心意拳などの中国武術は一様に道教の思想が根源にあり、日本の合気道や大東流合気柔術は天台系の山王神道を通じてこうした武術に繋がる道教思想を継承したのである。山王神道では、古事記・日本書紀では新羅王子、地方風土記では新羅の神とされる天日矛が日本に残した十種の神宝の中に中国武術に繋がる道教的思想を見出し、その中から鎌倉時代に大東流合気柔術が生まれ、そうして大正時代から昭和時代にかけては大東流や大本から独立した植芝盛平によって合気道は誕生した。平田系神道カルトの大本の流れを汲みつつ、一方で大東流や山王神道の中国道教の流れも汲む中、植芝盛平は、和合の精神を説き、人と競い合う事を好まれず、「自己の練磨」のみを目的とする試合無き武術、合気道の道を開いたのである。
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第十五回「天台密教の形成と展開」(講師:亀山隆彦)[2021年10月25日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第十五回の講義も、平安初期日本における天台宗の展開について講義します。具体的には最澄以降、円仁、円珍、安然を中心に推進される天台密教の形成と展開についてお話したいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第十四回「最澄と日本天台の形成」(講師:亀山隆彦)[2021年10月11日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第十四回の講義も、最澄を中心に平安初期日本における天台宗の請来と展開についてお話したいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【脱洗脳】コロナワクチン洗脳時代の今こそ、脱洗脳が重要 苫米地英人博士の「洗脳護身術」 自己脱洗脳の重要性 誤った正しさを押し付ける全体主義の売国日本政府にNOを!
洗脳護身術 苫米地英人
https://www.amazon.co.jp//dp/B01LVXM14T/
武田邦彦の教え 真田信秋
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BC6KMB4D/
認知科学をベースにした脳内情報処理が専門で、この領域が脱洗脳とかぶっており、オウム事件の脱洗脳経験もあり、この領域の専門家になっていった。その他、宗教、サイバーセキュリティなども専門で、天台宗とチベット仏教の僧籍を持っている。髪は長いが。
洗脳とは、「認知レベルを含む脳内情報処理に、何らかの介入的な操作を加えることで、その人の思考、行動、感情を思うままに制御する」ことである。(第三者の利益のために)
脱洗脳を含む洗脳技術は本来非公開のものであるが、自己脱洗脳、洗脳護身の情報提供の必要性を感じた。
我々は教育や家庭、社会、メディアなどから意図的に、または知らず知らずのうちに知識や、自分の思考パターンを形成している。
これらに、我々が束縛されていることはないだろううか。
情報遮断と偏った情報提供により洗脳を実施、小泉政権の誕生やイラク戦争はこの結果である。イラク戦争を起こさせる経緯をみて本書の執筆に踏み切った。アメリカ人は洗脳されていると感じた。実際、大量破壊兵器はなく、多くのイラク人が違法に殺された。
アメリカ兵が一人死ぬと大きな報道になり、イラク人が大量に殺されていることは報道されない。CNNより朝日の報道が早く多かった。
イラク戦争は、アメリカメディアが生み出した「反イスラムキャンペーンと新保守主義(ネオコン)のヨーロッパの賛同不要論により実現したことは間違いない
民主主義の解釈権を米国大統領が持っているが、聖書の解釈権まで大統領が持っていることのようにして、正義が何かの定義を決めてしまう。民主主義で何が正義か決まるが、それが洗脳的手法で世論が作られている場合は問題。
自己脱洗脳、全ての権力、全ての情報、全ての記憶から完全に自立する方法論を学んでほしい、日常の価値観から始めてほしい。
正しいことを皆が強く信じる、正しいことが正しければ正しいほど、そしてそれを強く信じる人口の割合が高ければ、高いほど誤ったことを徹底的に排除しようとするから問題。
国民全員がひとつの価値に縛られないこと。正しさがひとつしかないと、戦争が起こる。
コロナは怖い。ワクチンは打たないといけない。
21世紀型資本主義やアメリカ的民主主義が25世紀くらいの歴史書で誤った価値観であるとされる可能性もある。
2022年10月2日開催「世界長老会議プレイベント」のお知らせです!
世界長老会議プレイベントでは、天台宗の大阿闍梨の町田宗鳳氏、アイヌ活動家アシリレラさんをゲストにこれからの世界の問題を大討論いたします。
【神道シリーズ・シーズン3】第19回・千家尊福と出雲国造【前編】出雲国造の歴史
朝鮮半島にルーツを持ち、仏教伝来以前の古代より続いてきた出雲信仰を引き継ぐ出雲国造は、1600年以上の歴史を持ち、その歴史は、奈良時代以降に始まった伊勢神宮より古く、そしてその歴史観は朝廷の編纂した古事記・日本書紀とは異なり、独自の出雲伝承のストーリーで語られている。
古き出雲信仰は「出雲風土記」に基づき、新羅より渡来した神・スサノオの神霊を継ぐアメノホヒを始祖とする
出雲氏が、朝廷より管轄を依頼された出雲国造として、朝廷に従属する形で国造職を担ってきたが、大化の改新で国造職が廃止された後も「出雲国造」を名乗りながら出雲信仰信仰圏を維持して行った。
そこでは出雲国造は人ではなく、アメノホヒそのものであり、現人神であった。出雲国造は島根県東北部の意宇の熊野大社を拠点としていたが、平安時代には島根県西北部の杵築に拠点を移し、アメノホヒの神霊の元である
スサノオを、アメノホヒそのものである出雲国造が祀り、中世から近世にかけては天台宗の鰐淵寺と蔵王権現とスサノオの本地垂迹関係を結んでいた。
しかし、江戸時代後期になると、76代国造の千家俊秀の弟・俊信は、本居宣長の門人となり、国学に傾倒するようになった結果、国造に代わって指揮を執り、これまでの天台宗鰐淵寺との本地垂迹関係を解消し、杵築大社の祭神をスサノオから大国主に変更し、平田篤胤による大国主イコール幽界の支配者の思想を採り入れ、出雲信仰はしだいに平田国学の復古神道的となり、国学に基づく出雲神道が形成されることとなった。
こうした背景を持つ出雲国造家は、明治以降、祭政一致を目指す復古神道の思想により、「うつくしよ」と呼ばれた人間界を支配するのは天皇で、「かくりよ」と呼ばれた死後の世界・幽界を支配するのは大国主という顕幽二元論を掲げて新政府の宗教改革政策に積極的に関与したが、明治6年の神道事務局創立の際に起きた、事務局の祭神・造花三神と天照以外に大国主も同時に祀るべきという、所謂「祭神論争」が起き、出雲派はこの論争に敗北することにより、在野で独自の教団を形成する決意をし、明治13年に80代国造の千家尊福が出雲大社教を立ち上げ、政府の管理する神社神道とは異なる独自の信仰路線を進む一方、神秘思想に埋没していった古神道と呼ばれる平田系神道カルト集団とも距離を置き、今日まで続く独自の出雲信仰を形成して行ったのである。
マニアフェスタVol.6 超告白~実はマニアなんです!~
クリエイターたちが、今まで伝えてこなかったマニアな趣味を初告白!
公開するタイミングや場所がなかった好きなものをとにかく熱く語ります!
気になるあの人の意外な一面が見えるかも!?
(4/29(金祝)4/30(土)の二日間行われたマニアフェスタVol.6のイベントの様子です。)
~出演者~
・岸本誠(都市ボーイズ)
・友光雅臣(寺社フェス向源 代表 /天台宗常行寺 副住職)
・ユリコタイガー(コスプレイヤー)
・都丸ちよ(声優)
【神道シリーズ・シーズン3】第13回・三河大浜騒動(浄土真宗の反撃)
明治新政府は、寺院統廃合と神仏分離政策、および、宮中、伊勢神宮、全国神社の祭祀統一などにより、欧米のキリスト教のような一神教的神道国家の形成を目指したが、そこに大きく立ちはだかったのは浄土真宗とその膨大な数の門徒たちであった。
新政府は寺院の数を減らしたり、寺院を神社に変えたりすることにより仏教の弱体化と国家が直接管理する全国神社により「神道国家日本」を目指したが、その過程で多くの真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などの寺院が廃寺化されたが、それはすべて朝廷の命令の下にという口実で強権を持って進められた。
しかし、阿弥陀如来以外を信仰対象としない浄土真宗にはもともと権現とか明神と言った神祇信仰は持たなかった為、国家神道を押し付ける新政府の政策には強く抵抗した。
寺院統廃合政策に対して浄土真宗は全国で抵抗を続けたが、明治4年(1972年)2月に富山で2000人以上の真宗門徒農民の一斉蜂起が起きた翌月の3月には三河の大浜で真言宗僧侶や門徒農民数千人による大浜騒動が起き、暴動自体は鎮圧されたものの、それにより大浜での寺院統廃合および神道化政策は中止となり、この動きは全国的な真言宗の抵抗運動に大きな弾みをつけると同時に、新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈運動に対して大きなブレーキをかけて行くこととなった。
現在の愛知県碧南市、西尾市、安城市を含む三河大浜の地域は、当時、千葉県に本拠地を置く菊間藩の遠隔飛び地として菊間藩の管轄下にあり、藩は、平田国学の門下生で小参事の服部純を大浜の寺院統合および神道化政策のトップとして派遣した。
この動きに不満を訴えた大浜の真宗寺院の僧侶たちは暮戸会所に集まり、藩の本部である大浜陣屋に談判に出かけることを決めたが、その道中、多数の真宗門徒農民たちが集まり、談判団の数は数千人に膨れ上がり、僧侶たちは彼らに解散を求めたが応じず、結局大浜陣屋北の片山家庄屋で暴動となり、藩側が砲撃により鎮圧に乗り出すこととなった。
結果は、事態の大きさに対して藩側の処罰は予想よりはるかに軽く、このことからしても真宗を挑発することの恐怖感を藩が感じていたことを物語る。
新政府の強引ともいえる国家神道化計画は、当時東部中国地方から畿内、中部地方全域、そして関東の一部にまで勢力を持ち、当時の人口の三分の一から二分の一近くを占める真宗門徒たちを無視して進めることはできず、結果、神道化政策もかなり形骸化される結果となったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第12回・東京(浅草寺・増上寺・寛永寺・宮中)における廃仏希釈
京都で長い伝統を持つ送り火や節分節句、門松、七夕、七五三などが禁止され、奈良では多くの名刹巨刹の寺院が廃され、住民と政府との間で強い摩擦が生じていた頃、東京と改名した江戸では、神仏習合して長い歴史を持ち、徳川から深い敬愛を受けていた増上寺、寛永寺、浅草寺などが神仏分離の名のもとに境内にあった権現社などが次々と切り離され、神社化された。
しかし、地元住民の深い信仰で支えられていた浅草寺では新政府の思惑通りには進まず、7世紀に隅田川で聖観音を見つけた漁師の檜前浜成・竹成兄弟とそれを自宅を寺院に変えて祀った土師中知の三名を三社権現という神として祀る浅草寺の由緒社伝は室町時代頃に作られ、新政府は浅草寺境内にあった三社権現社を浅草神社としたが、権現号自体は取り払われたものの、今でもこの三名を神として祀っており、さらに由緒もありのままが書かれている。
徳川の菩提寺であった増上寺と祈願寺であった寛永寺も廃仏毀釈の嵐に邁偶することとなる。
増上寺は浄土宗の寺院であったが、元は真言宗の寺院であった為、熊野権現社、車折明神社など11の社を抱えていたが、それらの社の旧社殿はすべて破却され、幸稲荷神社とされた幸稲荷社にすべての権現・明神が大神として合祀された。
天台宗の寺院・寛永寺は、山主に代々皇族出身の法親王が就き、輪王寺号を継承し、天台座主と日光山門主も兼帯し、形式上将軍と対等の地位を持っていた。
しかし、その寛永寺も、慶応4年1868年10月に新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を始めた時、新政府軍は恭順した増上寺を基地とし、寛永寺に立てこもる彰義隊を攻撃し、僅か1日で勝利し、戦禍にまみえて寺院は悉く焼け落ち、彰義隊の死体の山と化してしまった。
その後、新政府は寛永寺の境内の不忍池にあった弁天堂に鳥居があったため、堂舎を取り壊そうとしたが、僧侶や信徒たちによる必死の抵抗により、鳥居のみを取り壊すことにより仏教寺院として維持していくことを可能とした。
東京遷都に伴い、江戸城を新皇居とした明治政府は、京都御所から歴代天皇の位牌や念持仏を祀る御黒戸を撤去し、それまで中国式であった皇室儀礼をすべて明治に作られた神式に変え、皇室祭祀の中心であった仏教祭祀や皇位継承儀式をすべて廃止し、新しい神道式に変えた。
こうした一連の、新政府による伝統否定政策は、逆にこんにちで言う「神道」なるものが明治に作られ、明治より始まったのだという事実を証明することになってしまったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第11回・奈良・京都における廃仏毀釈(伝統文化破壊と否定)
明治を迎えてから1200年以上の伝統を抱えてきた奈良・京都も激しい廃仏毀釈の影響を受けることになり、興福寺の広大な寺領の中で神の使いとして大切に飼われてきた鹿が殺され、すき焼きの肉にされたり、京都でも盆踊り、送り火、地蔵祭を始め、門松、端午の節句、七夕までをも禁止されるという、およそ京都の歴史や文化そのものまでも全否定するような極端な廃仏政策が強行された。
奈良では、藤原鎌足の菩提として、和銅3年(710年)の平城京遷都とともにほぼ同時期に建立された氏神社・春日大社と氏寺・興福寺は、明治前まで一体となって繁栄してきたが、慶応3年(1868年)の神仏混交禁止令により、両者を完全分離し、春日大社内の仏像・仏具を興福寺に移したのみならず、奈良県庁は興福寺の廃寺化を目指し、日吉社での暴力的な廃仏毀釈の知らせに恐れおののいていた興福寺の僧侶たちを還俗させ、寺から追い出し、無住にした後、県庁は、無住を理由に興福寺を廃寺とした。
廃仏毀釈のほとぼりが冷めたら再び出家して興福寺に戻りたいと願っていた還俗僧侶たちの希望を打ち砕くように、興福寺の仏像・仏具・堂宇などは悉く破壊され、シンボルであった五重塔さえ売却破却の危機に晒された。
一方、700年以上の歴史を持つ名刹で巨大寺院の真言宗・内山永久寺は、完全に破壊され、境内にあった布留大権現を祀る布留社が石上神宮にされ、一瞬にして歴史ある巨大寺院は消滅し、境内の一部が神社にされるという運命を辿ることとなった。
しかし、興福寺や内山永久寺での廃仏毀釈は、多くの国宝級の宝物が失われることとなり、破壊棄却のみならず、かろうじて難を逃れた仏像や宝物も国内のみならず、英国のロンドン美術館やアメリカのニューヨーク美術館などにただ同然で明け渡され、国内に残った堂塔、堂宇、仏像なども一部の収集家の手に渡り、やがて各地の美術館に保存されることとなった。
また、摂津国阿威山で没した藤原鎌足の遺骨が、鎌足の息子で、不比等の兄であった僧侶の定慧によって移された大和国の多武峰に建てられた妙楽寺は、その後、天台宗の寺院となったが、この1100年以上の歴史がある名刹寺院も
明治期に廃され、僧侶は還俗させられ、そのまま神職とされ、寺は仏像・仏具は廃棄されたものの、その建築物の立派さから破壊は免れ、寺院の建物はそのまま新設神社・談山神社とされてしまった。
この、古事記・日本書紀の神々にまったく無関係の妙楽寺は、明治政府によって一瞬にして神社にされてしまったのだ。
明治期には、こうした名刹の寺院が次々と廃寺になり、それが神社にされてしまうというパターンが続いたのだが、特に奈良では名刹中の名刹と言われる巨大寺院が破却されて神社にされてしまうところが多かった。
【神道シリーズ・シーズン3】第9回・秋葉・祇園・天満宮・白山の廃仏毀釈
明治の神仏分離政策で多くの寺院が破却され、その寺院がそのまま神社に改変されることにより寺院の神社化が次々と進められて行った。
稲荷大社、春日大社、住吉大社、鹿島大社などの氏神の系統の神社を除けば、それ以外のすべての神社は明治時代に寺院を廃してそのまま神社化したケースや、寺院が管理する権現社、明神社、堂宇、宮などを神社にしてしまったケースのどちらかに属している。
つまり、伊勢神宮の系列、および上記の氏神系神社の系列を除けば現在存在する神社のほぼすべては明治前までは寺院ないし寺院の管理する仏教系の神々を祀る社であったのである。
秋葉信仰は、明治前までは秋葉寺が中心となった火消しの神・秋葉三尺坊の信仰が続いていたが、明治になると秋葉寺は新政府により廃寺にされ、秋葉寺は仏像仏具を取り除かれ、そのまま新設の
秋葉神社に改変改装されたが、今でも秋葉山の信仰は火消しの神、秋葉三尺坊大権現の信仰のままであり、秋葉山の祭祀やお祭りも秋葉寺や曹洞宗の寺院・可睡斎が中心で行われており、明治に新設された秋葉神社にはまったく存在感がない。
一方、京都の八坂神社は明治前までは天台宗の寺院・観慶寺の感心院の境内に設けられた仏教の神・牛頭天王を祀る社殿で、祇園社と呼ばれていた。
牛頭天王は播磨の廣峯社を中心に蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹とされ、また、中国の道教神の天刑星とも習合した仏教神で、その信仰は、京都祇園も含め全国に点在するように広がっていた。
祇園社では、牛頭天王とその妻、ハリサイニョと、8人の息子たち八王子を祀っていたが、明治政府は、それをスサノオとクシナダヒメとスサノオの8人の息子たちに置き換え、祇園社を八坂神社と言う神社にしてしまった。
しかしながら、現在でも八坂では祇園祭が行われており、全国でも牛頭天王を祀っていた現神社元寺院の地域では現在でも各地で天王祭が行われている。
北野天満宮は元道真を祀る天台宗の朝日寺の曼殊院門跡であり、大宰府天満宮は大宰府の真言宗の寺院・安楽寺であった。
十一面観音を本尊とし、雷神と道真の御霊が習合した天神信仰を、明治政府はこれを北野神社と改めたが、今でも天満大自在天神社と「大自在天」の名称が残っている。
そして、北野も大宰府も今でも祭神は道真のみで記紀の神は充てられていない。
白山を囲む三つの白山神社はもともといずれも平泉寺、長瀧寺、白山寺という天台系の寺院で、明治政府はこれらの寺院を強引に神社に変えたものの、今でも平泉寺白山神社、長瀧白山神社と、寺院の名称を残し、修験道的な神事を残している。
【神道シリーズ・シーズン3】第8回・吉野・羽黒三山の廃仏毀釈
現在の日本の神社はほとんどが明治前には寺院であったところが神社に変えられたもので、特に山岳信仰に至っては100%と言ってよいほどもともと寺院と寺院が管理する権現社であったところが明治期に神社に変えられているのだが、その過程の中で名称こそ寺を神社に改められ、権現は大神に変更されても中身の祭祀や信仰だけは維持しようと戦い続けた山岳信仰が多く見られた。
新政府は神仏分離政策を進める中、平田国学に強い影響を受けた役人たちを各地の宗教政策の担当に充て、日本全土の神道化を目指したが、新政府の実現しようとしたその神道化の中身が実は平田神道であり、この神道論・神道説の中には誇大妄想的日本中心主義と顕界と幽界、つまり人の生死の哲学はあってもそれぞれの地で長年信仰され染みついてきた権現信仰や仏教信仰に置き換わりうるだけのコンテンツは到底提供できず、当然地元からは強い反発と抵抗を受けることとなる。
平田国学に染まった役人たちは、道の至る所に散在する地蔵仏や庚申、道祖神、小祠、堂宇などを破壊しまくり、権現社を神社に改め、山頂に鎮座する寺院をことごとく神社に改変してきたが、一番欠けていたものは彼らが唱える「神道」の宗教的コンテンツであった。
吉野では、奈良時代から役小角による修験道と蔵王権現の信仰があり、平安以降は真言宗や天台宗の密教の修行の場となり、地元では陰陽行的な金精明神と密教の蔵王権現信仰が根付いており、また、羽黒山、月山、湯殿山を有する奥羽三山では古くから役小角の影響を受けた能除の修験道が発達しており、さらに中世以降は羽黒山、月山では天台宗、湯殿山では真言宗の修験道が発展し、羽黒山権現、月山権現、湯殿山権現の信仰が定着していた。
こうした密教修験道に基づく強い地元信仰のあった地に新政府は平田国学が提唱する神道という名の新興宗教によって置き換えようとしたが、結果、地元や真言・天台の抵抗もあって、寺院や権現の名称自体は失っても中身の信仰や祭祀は維持するという結果になったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第4回・薩摩・宮崎(日向)における廃仏毀釈
薩摩藩の島津家は元々は仏教信仰の篤い家柄で、戦国時代の島津家15代当主の貴久の時代には「仏を信じざる者は我が子孫にあらず」とまで言われ、菩提寺・曹洞宗の福昌寺や勅願寺の心岳寺などを中心に代々敬虔な仏教信仰を行って来たが、幕末の11代藩主斉彬の時代になると、薩摩藩士・田中頼傭が京都より持ち込んだ国学の影響で廃仏思想が高まり、それが藩内の財政改革や富国強兵の必要性などと事情が重なり、
厳しい廃寺政策が採られることとなった。
藩主・斉彬が目をつけたのは水戸藩における神社統廃合による財政改革や寺院の破却によって得られる梵鐘や金仏や金属什器が溶かして大砲や鉄砲製造の為の素材になるという点で、先代より引き継いだ500万両以上の借金と外国勢力の侵略に備えた軍備の充実の点からみても一石二鳥の政策であった。
しかし、斉彬の後を継いだ12代藩主忠義の父・久光は、
我が息子で幼い忠義の後見役として藩の実験を握り、国学の影響も強く受け、さらに藩の廃仏政策を強力に推し進めて行った。
寺院の破却を加速させ、そこから得られた金属類は大砲や鉄砲などの武器のみならず鋳貨の偽造、つまり贋金作りにまで利用され、それによって得られた資金でますます藩の軍事力を強大化して行った。
やがて廃仏政策は藩内に一つの寺も残らないところまで推し進められ、
一方ではかつて大寺院であった天台宗の書写山円教寺を破却して霧島神宮という神社に改編し、社伝も6世紀から神武天皇らが祀られてきたかのように書き換えられた。
となりの宮崎は、当時、飫肥藩・佐土原藩・高鍋藩などの小藩に分かれ、いずれも大藩である隣国の薩摩藩の影響下にあり、廃仏政策も薩摩藩の意向を忖度するかの如くに行われ、結果的に薩摩藩を上周るレベルでの廃仏毀釈が行われた。
しかし、宮崎南部の高鍋藩ではそうした廃仏政策に抵抗する寺も多く、浄土宗の円福寺では住職の関代が体を張って抵抗して廃寺を免れたり、また、明治3年1870年には真言宗智山派の伊満福寺の僧侶が宮崎藩の役人によって崖から投げ落とされて殺害されるような事件さえ起きている。
こうした一連の厳しい廃仏政策はこの両県から大半の寺院を消滅させ、強引に神道化を進めたが、しかし、彼らが進めた神道化政策とは、やってることは仏教と変わらないが、形を彼らが創り出した神道式に変えると言う換骨奪胎に過ぎなかったのである
【神道シリーズ・シーズン3】第2回・廃仏毀釈②(佐渡・隠岐・富山)
廃仏毀釈は、慶応4年1868年3月8日の吉田神道配下と日吉社社司ら40名による日吉社の仏壇仏具の破壊焼却に始まり平田国学の影響を強く受けた一部の藩主藩士や庄屋豪農らにより明治元年より明治4年の終わりぐらいまでの間に全国5か所ぐらいの地域で過激な仏教排撃、寺院破壊と僧侶の強制還俗と帰農、そしてぶっそうさい火葬の禁止と神葬祭土葬の強要が実施され、やがて寺院や民衆の方から政府や朝廷に抗議の請願が出され、実地調査をした新政府がその惨状に驚き、事件関係者を処罰し明治4年の後半頃より収束をみることとなった。明治以前より廃仏寺院統合や廃仏毀釈が行われてきた水戸藩、薩摩藩、岡山藩、津和野藩、土佐藩などを除くと明治以降に平田国学の影響を強く受けて過激で破壊的な廃仏毀釈が行われたのは、松本、苗木、佐渡、隠岐、富山の5地域であるが、これらの地域に共通している点は、いずれも浄土真宗の強力な勢力圏であり、真言宗や
天台宗や浄土宗、禅宗の寺院が次々と破壊され、僧侶たちには還俗が強制される中、浄土真宗だけは民衆門徒やtouzai本願寺の政治力も含め、実に根強い抵抗を見せ、この力がやがてこうした一連の過激な廃仏毀釈活動を終息させていくこととなった。
結局一連の過激な廃仏毀釈活動が齎したものは、実行犯たちの思惑に反していかに仏教が国民にとって切り離せない唯一の信仰になっていたかを改めて証明した結果になったのだ。
【作業用BGM】「雨の清水寺」 島根県安来市 雨の音/雨音/環境音/自然音/ASMR【EMOCAL(エモーカル)】
○他の動画はこちら mylist/71500192
○島根県安来市「みさき親水公園」の動画はこちら so39120031
---
○瑞光山 清水寺(ずいこうざん きよみずでら)
用明天皇二年(587)尊隆上人によって創建された天台宗の古刹です。十一面観音様をご本尊とする厄払いの寺として有名です。創建当時、この山は一滴の水も出ませんでしたが、7日間祈願したところ水が湧出し、一年を通して常に清い水を湛えたところから清い水の出る寺、清水寺と命名されたと伝えられています。
本堂奥にそびえる三重塔は高さ33m、山陰唯一の木造の多宝塔であり、実際に登ることができ、「出雲の国神仏霊場第11番」「出雲の国観音霊場第21番」「中国観音霊場第28番」の霊場として親しまれています。
境内には宿泊施設として「紅葉館」「松琴舘」があります。
また各宿泊施設やお食事処「ゆう心」では精進料理を楽しむこともできます。
○EMOCAL「雨の清水寺」
静かな境内に小雨が降る日の清水寺を感じることができます。5万坪という広大な境内では、春の桜、ツツジ、秋の紅葉、冬の雪景と四季を通じて美しい色彩を感じることができます。
清水寺・島根観光ナビ
https://www.kankou-shimane.com/destin...
清水寺公式サイト
http://www.kiyomizudera.jp/
出雲國神仏霊場を巡る旅 清水寺紹介
https://shinbutsu.jp/shrines-temples/...
【制作】
EMOCAL(エモーカル)
https://catchystuck.jp/emocal/
【協力】
島根県安来市
https://www.city.yasugi.shimane.jp/
○EMOCAL(エモーカル)とは?
地域の音とイラストを使って日本全国を応援する地方創生プロジェクトで、無料で動画コンテンツの制作を行なっております。完成した動画や描きおろしたチーコのイラストデータをご共有いたしますので、その後の宣伝活動などにご活用いただけます。ご興味のある方は公式サイトよりお問い合わせください。
https://catchystuck.jp/emocal/
【ゆっくりニュース】仏教 霊魂は存在する? 容認派「真言宗」「天台宗」「日蓮宗」 言及しない・否定派「浄土宗」「浄土真宗」「臨済宗」「曹洞宗」
当チャンネルは、テレビがスルーするニュース記事を取り上げて発信しております。ぜひ、チャンネル登録お願いします
BGMにMusMus様の著作権を使用しております
自民党では、日本は変わらない。新しい新保守政党を待望しております
【神道シリーズ・シーズン2】第38回・光格天皇と古儀復興
明和8年(1771年)、皇位継承直流より7親等離れた閑院宮典仁(すけひと)親王の第6子として生まれた祐宮(さちのみやや)親王は、21歳という若さで崩御された第118代天皇の御桃園帝の皇位継承者として白羽の矢があたるが、当時4世襲宮家の一つであった閑院宮が本流より離れていたことや、実母の身分が低かったことや、そして何より既に天台宗の寺院・聖護院に入寺して皇籍降下をしていたことなどから様々な異論は出ていたものの、直流よりはるかに離れすぎた伏見家本流の王子による継承は考えられず、結局9歳にして、御桃園前天皇の実の娘である欣子(よしこ)内親王に養子縁組する形で119代天皇の地位を継承することとなった。
9歳で即位した光格天皇は、11歳の頃より学者肌の公家たちを講師として「論語」や「孟子」「中庸」「大学」などの儒教の教育を徹底して受けることになり、これを通じて次第に儒教的君主論における天子としての自覚を深めて行った。
その光格天皇が17歳の時、長引いた天明の大飢饉の中困窮する京都の庶民たちが御所の千度参りの際に御所の周りに集まった6万人にも及ぶ民衆が直訴の内容を書いた紙で賽銭をくるみ投げ入れたことから天皇が幕府に民衆救済を申し入れたことが禁中並び公家諸法度に違反するとして問題となったが、事情が事情だけにやむを得ないとし、幕府側は天皇を諫めなかった一部の公家たちを処分はしたものの、緊急米として1500石を京都庶民に放出することなった。
また、同年に、5年前に京都大火で焼失した京都御所の復興において光格天皇は平安時代の復古調の御所の再現を要求したが、幕府の予算の関係で建材を倹約した状態での紫宸殿と清涼殿の復古調復興は認めたが、神嘉殿の復興は認められず、仮御所をその代用にするように命じられた。
新嘗祭や大嘗祭など応仁の乱以降中絶していた朝廷儀式は、徳川幕府が始まってからその朱子学的な天子君主論の建前から幕府が中心となって復興されてきたが、その後また何度か中断され、光格天皇の時代になり、新嘗祭が本来の神嘉殿で行われるよう完全復興を目指したが、結局、仮御所を神嘉殿として見立てて復興することとなった。
しかし、天皇とはならなかった実父の閑院宮典仁親王を上皇にしたいという尊号一件の問題については幕府に押し切られ、要求したこととの罰として大量の公家たちが幕府により処分されることとなった。
光格天皇は様々な朝廷古儀の復興を目指したが、それは必ずしも宮中儀礼だけではなく、宮中真言院、つまり、亡くなられた前天皇の後七日供養を行ったり、歴代天皇が真言密教形式の天皇灌頂という皇位継承の儀式を行う宮中の建物の復興や石清水八幡宮の臨時祭放生会、つまり仏式の儀礼などの復興も同時に求めていた。
シーイーの古都京都巡り032蓮華王院
京都府民のシーイーが主に地元の神社や仏閣を、
独自の視線での紹介動画になります。
今回は
「蓮華王院」
です。
正式名称だと聞きなれないかもしれません。
単独のお堂が「三十三間堂」の愛称なので、
こちらの名前の方が有名であり、
正面にもその名前の表札があります。
元々は天台宗のお寺で、
応仁の乱でも被害経験があり、
寺院史にも残る大修復が数回あります。
シーイーの古都京都巡り030養源院
京都府民のシーイーが主に地元の神社や仏閣を、
独自の視線での紹介動画になります。
今回は
「養源院」
です。
山号は「南叡山」
開山が「成伯」で戦国大名の浅井家に縁がある方で、
開基が「浅井茶々」となり、
まさに「浅井家の菩提寺」と言えるお寺です。
成伯が延暦寺の僧であったため、建立当時は天台宗のお寺でしたが、
昭和期に浄土真宗に改宗されてます。
大坂の陣の後は、徳川秀忠の正室である浅井江(徳川江/崇源院)が、
豊臣秀頼、姉の茶々および浅井家先祖の供養をすべく、
江戸幕府主体での法要が大々的に行われました。
まもなくに火事で焼失しますが、
江が秀忠に懇願して再建されました。
再建には解体された伏見城の廃材がリサイクルされて、
伏見城の戦いで戦死した、徳川方の将兵の血が多数付着しており、
主に天井板に使われている事から、「血天井」の異名があります。
この件は、
大河ドラマ「葵 ~徳川三代~」の第37回で、
秀忠と江の夫婦の会話に出てきております。
上述の通り徳川家の先祖に当たる事から、
葵の御紋の使用が許可されております。
【神道シリーズ・シーズン2】御流神道と三輪流神道(両部神道主要二派)
11世紀頃から発生してきた真言宗を中心とする(一部天台宗寺門派も含む)真言密教系神道理論は12世紀から15世紀にかけ両部神道を形成し、中世の日本の宗教界を支配していくことになりますが、その両部神道は主に室生山で発生した御流神道と三輪山で発生した三輪流神道が中心となって行きます。13世紀後半より形成された伊勢神道や15世紀に形成された吉田神道もこの両部神道(真言神道)を下敷きにしており、ある意味日本における「神道」という宗教を成立させた根本にもなってる存在だと言えます。
【神道シリーズ・シーズン2】第4回・伊勢神道④和光同塵と百王思想
伊勢神道が形成される背景には前回にも説明しましたように、真言系の両部神道(真言神道)が形成される中で真言密教勢力や天台宗(山門派)の山王神道や天台宗(寺門派)の熊野三所権現などが内宮の天照大神との一体論を唱える中、外宮が疎外され、元寇後税制にひっ迫した朝廷の経済的支援が得られなくなった外宮の立て直しが背景にありました。
真言宗や天台宗によって唱えられた「神国思想」(大日如来が天照の姿で降臨した世界唯一の神の国日本)はその外宮の伊勢神道の形成を促していくことになります。
昭和7年主婦之友発行 東京絵葉書 41枚
昭和7年に主婦之友の附録として発行された絵葉書です。全部で66枚のセットですが、41枚しかありません。宛名面に解説あり。
(1)宮城の正門、二重橋
(2)宮城二の丸付近(明治21年竣工)
(3)桜田門:司法省、海軍省、警視庁などの官庁街
(5)青山御所(赤坂離宮のうち青山街道に面した西南部)
(6)明治神宮:明治天皇皇后を奉祀
(10)護国の英霊を祀った靖国神社
(11)戦利記念品や乃木将軍軍服を陳列した遊就館
(12)乃木将軍夫妻を祀った乃木神社
(14)浅草五重塔(三代将軍家光建立)
(15)赤穂浪士を祀る芝高輪泉岳寺の山門
(18)旧芝離宮恩賜公園(大正13年御下賜)
(21)金龍山浅草寺総本坊、天台宗 浅草伝法院の庭
(22)上野動物園:藤堂高虎邸跡、明治15年
(25)昭和7年落成間近の国会議事堂
(26)東京府美術館(佐藤慶太郎100万円寄付)
(27)東京科学博物館:日本唯一の科学博物館、本郷湯島より移転
(30)わが国唯一の発券銀行、日本銀行
(32)松竹合名社直営、東京劇場(東劇)
(34)銀座大通り:銀座四丁目の三越屋上から新橋方面を望む
(35)銀座尾張町:右手は服部時計店、奥は朝日新聞
(36)東洋一厖大な丸ビル、通勤者4500名
(38)日比谷公園沿いに篠懸並木の散歩道 内幸町通り
(39)司法省、裁判所、海軍省が並ぶ霞ケ関通り
(41)省線電車(高架)、市内電車(地上)、地下鉄が集まる 上野山下附近
(42)里程元標を置いた日本橋、明治44年竣工
(43)隅田川風景:帆をはらんだ荷足舟と昭和7年開通省線電車鉄橋
(44)吾妻橋:震災で焼け落ちた旧橋に代わる耐震耐火橋
(45)両国橋と国技館 武蔵と下総の国境
(46)大正15年完成、復興東京の一大偉観、永代橋
(47)東京の地勢を語る断層谷(掘)にかかる赤坂弁慶橋
(52)馬場先門附近:宮城外堀から見た美松百貨店
(54)広さ4.5畳ほどの土産物店が並ぶ、幅5間の敷石道、浅草仲見世
(55)映画館のひしめく浅草公園六区、明治19年埋め立て
(57)大震災後に日本橋附近から築地に移された魚河岸
(58)沼の底のような静けさの包む丸の内ビル街の朝
(59)東京の反面:銀座一丁目の町続き、大根河岸附近からの情景
(60)水上の生活:およそ3万6千~7千人
(61)日蓮宗大本山、池上本門寺の五重塔
(63)水の公園(隅田公園)
(65)隅田川風景の一つ、川風におむつが翻る水の上の生活
(66)大森で取り浅草観音で売る海苔を採る舟
峨眉山 普賢禅寺(臨済宗)普賢堂 と開山堂 山口県光市室積 令和2年6月
普賢寺(普賢禅寺)は伝では、性空上人開基とされ、境内寺歴の解説によれば一条帝の御代 寛弘3年(1006年)開基。開山は大林玄侑和尚という方らしい。
元は天台宗でのちに臨済宗に代わった古刹です。 御本尊は漁師により海中より引き上げられた象に乗った普賢菩薩像でありその出現のいわれから海難除けの守護仏の寺とされる。ちなみにご開帳は50年に一度だそうです次回は20年後らしい。
普賢堂は豪壮な建物で、まるで神社の拝殿と繋がった本殿見たいない感じに見える大きなもの。
寺伝の伝説では普賢菩薩を拝す願いを持った性空上人が、夢告に導かれ周防國熊毛郡の室積に来て、海中より引き上げられた普賢菩薩像にまみえ、草庵を建て祀り、後に寺院や普賢堂が建立されたというものである。どこまでが史実かは不明。
性空上人の最晩年の史実と寺伝は境内の解説版でも違っておりその辺は不明。実際に上人が来たのかその法門に連なるものか?天台系の僧が開基説話に仮託したものか?
毛利氏の祈願所として御手普請の寺として寺格も高かった。
現山門(仁王門)は寛政十年(1798年)建立で仁王像と楼上には十六羅漢像が安置されるそうです。
2020年6月 再訪。 梅雨の合間に参詣 記録
詳しい方のお話では昔は、周防安国寺だった柳井市伊陸の高山寺の末寺の筆頭だったらしいですね。
普賢寺伝雪舟 枯山水 sm37174525
普賢寺周辺(普賢菩薩対面の松、早長神社、御旅所、みたらい湾) sm37253466
普賢寺周辺〜海商通りと象鼻ヶ岬(2019年) sm35457880
普賢寺(2019年) sm35414670
妙見宮鷲頭寺 (お隣の街〜山口県下松市中市) sm35565588
【高校古典を意訳】安養の尼上の小袖 <十訓抄> 現代語訳・意訳|万葉授業
※この動画は2020/04/15にyoutubeにて公開したものです。
https://youtu.be/oHbqMdRNlP0
ーー□ーー□ーー
こちらは授業風の映像となっています。
題材は、「【十訓抄】安養の尼上の小袖」
教科書よりも内容が理解しやすい教材を目指していきます。
【参考・引用】
天台宗総本山比叡山延暦寺:https://www.hieizan.or.jp/
新編日本古典文学全集
三省堂 高等学校古典B古文編[改訂版]
【音源使用】
甘茶の音楽工房
一部を表示