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【神道シリーズ】第97回・八百万の神㊷その他の山岳信仰(9)三瓶山・金峰山・大滝山・横倉山など・・
その他の山岳信仰、今回は、三瓶山(さんべさん)・金峰山(みたけやま)・大滝山(おおたきさん)・横倉山(よこくらやま)を紹介したいと思います。
三瓶山は、出雲大社の南で、島根県太田(おおだ)市の南東に位置し、承平元年(931)、霊椿山(れいちんざん)円城寺(野城)が開山され(931〜945年)、 開基は、朝満上人(天台宗)と言われ、円城寺は三瓶山信仰の中心となりました。
金峰山は、徳山市(現・周防市)向道湖(こうどうこ)の北に並ぶのが金峰山(789m)で、一岳の山頂には「おたきさん」と呼ばれる巨石が鎮座し、神亀(じんき)年間(8世紀初頭)に吉野蔵王権現を勧請したことに始まると言われてます。
大滝山の大滝寺は、大滝寺は奈良時代に行基が開いたとされる歴史ある寺院で、空海も二度に渡って来山修行し、大滝権現の尊像も彫刻たと伝えられています。
横倉山の信仰の中心は妙福寺(真言宗智山派)だったが、同寺のある越知町には、平家の落ち武者に守られて安徳天皇が落ち伸びてきたという伝承があります。
シーイーの古都京都巡り016吉祥院天満宮
京都府民のシーイーが主に地元の神社や仏閣を、
独自の視線での紹介動画になります。
今回は
天神様偏第二段
「吉祥院天満宮」
の紹介になります。
写真は、緊急事態宣言の解除の後の、
好天な日に撮りました。
天台宗を創設した最澄
真言密教を提唱した空海
彼らと遣唐使として大陸に渡った
「菅原清公」とその父親である「土師古人」が、
長岡京遷都~平安京遷都の頃にこの地へやってきました。
一行の船は海難事故にあい、
一命をとりとめました。
その時に吉祥天のご加護があったので、
菅原家は吉祥天の信者となり、自宅で祀り、
清公の子「是善」
その子「道真」
彼らも吉祥天の信者でもありました。
その信仰となったお堂が発端らしいです。
道真生誕の地と推測される地の一つであり、
また19歳の頃まで住んでいた事から、
「菅公聖跡二十五拝」
に選定されて、第4番目となっております。
【神道シリーズ】第95回・八百万の神㊵その他の山岳信仰(7)浅間山・妙高山・金北山・鳳来山など・・・
今回のその他の山岳信仰動画では、浅間山・妙高山・金北山・鳳来山などを紹介したいと思います。
浅間山(あさまやま)は、山を鎮めるために麓の各所に浅間神社が祀られており、浅間山大権現の
本地仏は虚空坊菩薩で、長野側の真楽寺(真言宗智山派)や群馬県側の延命寺(天台宗)が別当として配札を行ってきた歴史があり、浅間山信仰の中心となってきました。
妙高山(みょうこうざん)は、信仰の中心であった関山神社は真言修験の道場で、「生け込み型」と呼ばれる石仏があり、平安後期から鎌倉にかけて真言系修験の霊場として盛況し、本地として伝えられている秘仏が観音菩薩であることから白山修験の影響が推測され、今でも本地垂迹関係が維持されてる珍しい神社の一つです。
鳳来寺山(ほうらいじさん)の中腹にある鳳来寺は、今から約1,300年前(西暦703年)に利修(りしゅう)という仙人によって開山されたと言われ、文武天皇が病気になった時、利修仙人に勅使を使わされ、仙人は鳳凰に乗って都にのぼり、7日間の加持祈祷によって天皇のご病気を治したと言われています。
佐渡島の最高峰(1173m)である金北山(きんぽくさん)は、信仰の中心は中世以降一貫して真言宗(智山派)の真光寺であったが、金北山大権現あるいは北山大権現は白山権現が実態ではなかったか?とする説もあります。(金北山権現>(本地)勝軍地蔵(垂迹)カグツチ)
真光寺は明治政府によって破壊され、今では一部のみ名残が残ってるだけになりましたが、統治は仏教に由来する山名や地名が多く見られます。
【講義アーカイブ】対話がつむぐ教理と実践 ―華厳宗の論義資料を読む―(講師:野呂靖)[2020年4月18日]
※ この講義のレジュメおよび資料編を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。当日配布した資料「画像篇」については、諸事情により公開できませんので、ご了承ください。
煩悩にとらわれた凡夫は華厳教理を理解できるか?―――
鎌倉初期の東大寺。平重衡(1157-1185)の南都焼討によって灰燼に帰した伽藍と教学の復興期に、華厳宗僧が盛んに行ったのが論義や談義などの対話型・問答型の修学でした。そこでは自らの成仏に至るプロセスに華厳教理がどのように関わるのかという実践的な問題が大きなトピックになっていました。彼らはそうした教理問答のなかで、教理を議論する営みそのものが華厳の修行論・成仏論に合致していること、善財童子などの『華厳経』の登場人物や中国華厳の祖師たちの歩みを「模倣」することによって確実な成仏への道が開けていることを、繰り返し確認していったのでした。その姿はあたかも兵火によって失われた「聖教」を、自らの実践のなかに取り込み、その教えの通りに生き直していくことこそ真の復興であると考えていたかのようです。
この講座では、そうした鎌倉期から南北朝期かけて作成された華厳の論義・談義資料のなかから、断惑義・浄土往生義・成仏義などに関するいくつかのトピックを紹介し、「教理を問答すること」そのものが中世の僧侶たちにとってどのような意味をもっていたのかを考える一助としたいと思います。
またその前提として、日本における華厳思想の流れについても歴史的にたどります。
華厳教理は平安時代以降、真言宗や天台宗の教理形成に大きな影響を与えつつ、常にそれらとの緊張関係のなかで議論が深められていきました。とくに空海(774-835)が示した即身成仏や法界観との差異をどのように示し、またそれを乗り越えていけるかは華厳宗側の大きな課題でした。
鎌倉期に入ると明恵(1173-1232)や宗性(1202-1278)、凝然(1240-1321)などの登場によって、遼や宋の華厳文献など東アジア各地の最新の情報が参照され、新たな展開をみせていきます。また南北朝・室町期には根来寺などの真言僧や律僧などによっても華厳文献が生み出されていくなど、修学の場がひろがっていきます。世阿弥(1363-1443)の娘婿である金春禅竹(1405-1471)と東大寺戒壇院長老志玉(1383-1463)との邂逅を介した能楽理論への導入などもこの時期にあたります。江戸期にはそうした中世後期の動向をうけつつ、とくに真言宗や浄土・浄土真宗系の学林を中心に教えが継承されていきます。
従来、鎌倉時代以降の華厳宗は衰退したと考えられてきましたが、近年、新たな資料の検出などによって、その見方は大きく変わりつつあります。そうした資料などもできるかぎり紹介しつつ進めていきます。ご参加の皆さまと議論できることを楽しみにしています。
<柳井地名発祥の寺院> 柳井山 湘江庵と柳の井戸(曹洞宗)
柳井市の白壁の町並みの東にある 湘江庵 柳井の地名伝説の場所で、豊後の長者の娘 般若姫の伝説に基づく。柳の井戸のある古刹。
柳の井戸=伝説の用明天皇の妃として都へ向かう般若姫が船でこの地を訪れたおり、水を所望したそのとき楊枝を指すと一晩で大きな柳に育った説話の故事から柳井の地名発祥の地とされる。初めてお参りしました。
楊枝=柳の枝は呪物として古くは病気の治癒を願ったり呪い(まじない)に用いたと云う。
誓光寺=浄土真宗 元は天台宗の白潟山 西願寺だが、蓮如上人に帰依して寺号を変えて一向宗に変わる。柳井あたりでは真宗の中でも大きな寺。
文芸 俳諧(今で云う連句と俳句)が盛んだったようです。
偕楽庵 理圭坊 句碑(柳井の 蕉風(芭蕉風の連句、俳句)美濃派宗匠で中興した俳人)、野口雨情歌碑、井原西鶴歌碑などあり さすが商業で栄えた所 文化都市の一面も垣間見れる。
【神道シリーズ】第93回・八百万の神㊳その他の山岳信仰(5)安達太良山・霊山・飯豊山・根室山・鹿野山など・・・
今回は、安達太良山(あだたらやま)、霊山(りょうぜん)、飯豊山(いいでさん)、室根山(むろねさん)、両神山(りょうかみさん)の山岳信仰を紹介します。
安達太良山の信仰の中心となった相応寺と円東寺は磐梯山の恵日寺と同じく法相宗の徳一の開基を伝えている(大同2年(807年))が、相応寺はその後度重なる火災に遭い、宝暦4年(1452年)玉井亀山に再建され、修験道当山派(真言系)の拠点となりました。
霊山の信仰の中心は天台宗の寺院である霊山寺で、貞観元年(859年)に慈覚大師開山と言われ、霊山山頂に寺跡があり、室町時代に伊達氏によって再建されたが、火災によって焼失。現在の霊山寺は、寛永17年(1641年)に寛永寺末寺として復興し現在に至っています。
飯豊山に祀られた五所権現は、五大虚空蔵の垂迹神とされ、山頂には金峰(きんぷ)神社、御秘所権現、空海護摩壇跡などがあり、当山派(真言系)修験の影響が強く認められています。
室根山は、閏年の翌年の祭は、奥州三神幸の一つと言われ、多くの人が集まり、祭礼や伝統には、羽黒派修験や本山派(天台聖護院系)の両方の影響が色濃く残されています。
両神山は、その歴史で記録があるのは中世以降で、・金剛院と当山派・観蔵院を中心とした両神修験の発展で、近世末(江戸時代)には本山派修験241,当山派修験148,羽黒修験39,の合計428ヶ寺の修験寺院が存在していたと言われます。(当山派・本山派・羽黒派の共存)
【神道シリーズ】第91回・八百万の神㊱その他の山岳信仰(4)霧島山・久住山・牛尾山・開聞岳・硫黄岳
今回は、九州でまだ解説してない霧島山(きりしまさん)・久住山(くじゅうさん)・牛尾山(うしおやま)・開聞岳(かいもんだけ)・硫黄岳を紹介します。
霧島山は、天暦(てんりゃく)年間(847~752)に証空の開基を伝え、そののち、霧島六社をもって霧島六社権現として発展し、明治前まではその各社とも、天台・真言の別当寺を持っていたが、明治政府により強制廃絶され、江戸時代以降に国学の影響でヤマトタケルが祀られた霧島神社のみが残っています。
牛尾山は、信仰の中心は法厳寺(単立の本山修験宗。本尊は十一面千手観音)が中心で、牛尾神社は:延暦11年(792)、出雲大社より勧請創建された古社で、もと八王子大明神といい牛頭天王を併せ祀り、地元では「天王さん」と親しまれており、現在でも修験道が盛んです。
久住山(九重山)は、文明2(1470)年、英彦山より養順法印(天台宗)が入山し、修験道場を建立、法華院白水寺と呼ばれるようになり、英彦山信仰に吸収されていきました。
開聞岳は、信仰の中心は別当寺の普門寺(真言宗)であったが、明治の神仏分離令の際に破壊されましたが、現在でも岩屋や石祠(せきし)などから、かつては当山派修験の名残が窺われます。
硫黄岳は、山麓に、蔵王権現と熊野権現を祀り、熊野権現は、この島に島流しになった僧・俊寛(真言宗)らの勧請と伝えられています。
【神道シリーズ】第90回・八百万の神㉟その他の山岳信仰(3)宝満山・脊振山・阿蘇山・雲仙岳など・・・
今回は九州の四山の、宝満山(ほうまんざん)、脊振山(せふりさん)、阿蘇山、雲仙岳の信仰を紹介していきたいと思います。
宝満山は、白鳳2年(673年)に法相宗の僧・心蓮による開山とされ、その後、延暦23年(804年)に最澄が唐に渡った際に竈門山寺に航海の安全を祈り薬師如来像を4体彫刻したことにより宝満山の天台化が進み、九州天台宗の拠点となり、英彦山とともに「金胎両部の峰」を形成します。
脊振山は、聖徳太子の命により上宮東門寺(うえみやとうもんじ)が、元明天皇により中宮霊仙寺が建立され、その後、天暦年間(947~956年)に性空(天台宗)が再興したのち、天台系の修験
霊場として栄えたとされています。
阿蘇山は、古くから噴火口が崇拝の対象になっており、神霊池、宝池(雨水によって池となる)とも呼ばれていた中ノ御池(なかのおいけ)には主神の阿蘇大明神(本地・十一面観音)が祀られ、地仏の十一面観音・弥勒菩薩・毘沙門天を合わせて阿蘇三神(さんじん)と呼ばれています。
雲仙岳は、行基による開創を伝え、雲仙四面宮(しめんみや)を祀り、大乗院満明寺(真言宗御室派>現・一条院)を別当寺とおり、山号は、行儀が「温泉(うんぜん)」としたことに由来すると言われ、全国の温泉のルーツだとも言われています。
200403谷汲山華厳寺の門前に行ってみた(Ver.ニコ動)
平安時代初期の西暦798年、豊然上人の開基による天台宗の古刹で、西国巡礼の第三十三番札所である谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積)。ここは桜や紅葉の名所として知られています。 2020年、世間が新型コロナウイルスの感染拡大で自粛ムードにある中、敢えて桜を観にいきました!
新型コロナウイルス退散祈念!!元三大師(角大師・鬼大師)御札大集合!!!
3年ぶりの投稿です。
第18世天台座主・慈恵大師(元三大師)こと良源上人が、疫病神を祓うため
自ら魔王の姿に化身した姿を刷った「角大師(降魔大師・鬼大師)」の御札は
既に人口に膾炙していますが、今般、多いに話題となった アマビエと同じく、
願わくば その御利益で、この当節の人心を安んじていただけますよう。
今までに投稿した動画⇒mylist/13741552
【神道シリーズ】第87回・八百万の神㉜鳥海山大権現(真言と天台の係争の場・鳥海山修験)
鳥海山(ちょうかいさん)は、かつて出羽三山(現在は羽黒山・月山・湯殿山)の一つとして羽黒山、月山とともに数えられたことがありますが、山形県の五山(羽黒山・月山・湯殿山・葉山・鳥海山)の中では標高(2236m)でダントツで最高であり、山麓を含めた面積も他山を圧倒的に凌いでいるにもかかわらず影の薄い存在となっています。
鳥海山は奈良時代から朝廷と蝦夷の戦いの最前線にあり、朝廷は大物忌(おおものいみ)神社(祭神は鳥海山大権現)を建て、仏経的な意味で血穢や死穢を清める意味での「物忌」を願い、殺害した蝦夷の祟りを恐れて鎮霊の為にこの神社を創建しました(6世紀後半・欽明期)。
平安以降は真言宗と天台宗の修験が進出し、両宗派ともに神宮寺や大物忌神社の社僧(神社に常駐する僧侶)として神社の実験を握り、その主導権を両宗派によって明治前まで争い続けました。
明治の神仏分離令で鳥海山修験が禁止された為に鳥海講は衰え、その後消滅の道を辿り、今では大物忌神社そのものは残っているものの、その信仰を支えた修験道の消失で現在は登山地・観光地としてだけ注目されるようになりました。
【神道シリーズ】第86回・八百万の神㉛葉山大権現(今でも薬師如来を本尊として祀る葉山神社<旧・天台大円院>)
山形県の葉山はちょうど現在「出羽三山」と呼ばれる羽黒山・月山・湯殿山のすぐ東隣りに位置し(月山・湯殿山のすぐ隣)、かつては羽黒山・月山とともに出羽三山の一つに数えられていましたが、江戸時代以降、湯殿山に真言宗が進出して湯殿山信仰を確立すると今の三山形式になりました。
それまでは現出羽三山に匹敵する山岳信仰があったとされています。
葉山信仰は天台宗の葉山大円院とともにあり、葉山信仰=天台葉山大円院と言っても過言でないほどですが、江戸後期頃には次第に月山信仰に吸収されて衰退し、明治維新の神仏分離令により葉山神社(明治に新設)に強制改装されて今日に至っています。
しかし、普通明治に信仰の中心であった寺院が破壊されて神社化させれる時、縁も所縁もない古事記の神々が祀られる事がほとんどの中、今でも葉山神社では本尊として薬師尿来が祀られていることからしても明治の神社神道化(国家神道化)の失敗例だとも言えるでしょう。
【神道シリーズ】第85回・鞍馬寺信仰【後編】鞍馬山火祭りと鞍馬山観光(火は煩悩を焼き尽くす)鞍馬山修験(天台山門派)
今回は映像を中心に鞍馬山の境内巡りと1000年以上続く鞍馬山の火祭りについて紹介します。
ニコ生放送が重くて放送中二度も中断しましたが、編集して一つの動画に繋げてアップロードしました。
【神道シリーズ】第84回・鞍馬寺信仰【前編】牛若丸と鬼一法眼と青蓮院(天台宗)<神道無関係w>
鞍馬山と言えば、「鞍馬天狗(鬼一法眼・きいちほうげん)と牛若丸(源義経)」とか「鞍馬の火祭」で有名ですが、もともと、770年、鑑真の高弟・鑑禎(がんてい)が、山背に霊山があるとの夢を見た
。その地で毘沙門天像を得て、草庵を結んだのが始まりとされています。
その後、東寺の僧・峯延(ぶえん)が入寺し別当を任じられ、東寺真言宗となり(東寺の末寺となる)、
さらに、959年に鞍馬寺は延暦寺西塔末になり、天台宗に改宗し、天永年間(1110-1113)、天台座主・忠尋により、比叡山延暦寺の末寺になり天台密教の傘下におさまります。
その後、南北朝時代には、名和長年や新田義貞など南朝側の武将たちの干渉を受け、戦国時代に入ると、足利将軍家、武田信玄らの鞍馬寺の毘沙門天信仰への崇敬が集まり、さらに信長による庇護や秀吉、家康による信仰と庇護を受け、度重なる焼失にもかかわらず、焼失の都度、またたくまに復興という歴史を繰り返してきました。
江戸時代になると、徳川幕府による厚遇の下、鞍馬寺信仰は最盛期を迎え、10院9房を抱える一大寺院勢力となりました。
しかし、明治の神仏分離令に続く廃仏毀釈運動でその10院9房のほとんどは破壊し尽くされ、それまで鞍馬寺の鎮守(お寺の本尊をお護りする神社)として、鞍馬寺境内のほんの一角の小さな敷地に建てられていた由岐神社が(明治政府の命令により)火祭りなどの祭祀を引き継ぐことになり今日に至っています。
一旦破壊尽くされた鞍馬寺も信者たちによりすぐに復活され、明治期は比叡山延暦寺(天台宗)の末寺となりましたが、戦後の昭和22年(1947年)には鞍馬弘教(こうきょう)として天台宗から独立しました。
明治以降、それまで(平安末期より)鞍馬寺が行ってきた火祭りの祭祀は由岐神社に移されたものの、
祭祀の内容はまったく変わっておらず、今でも由岐神社は由岐大明神や八所大明神というかつてからの名称(鞍馬寺毘沙門天の守護神)で神輿を出し、火祭りを行っています。
江戸時代の商家が残る〜【白壁の町並み】と金魚ちょうちんの街「柳井」令和二年1月 山口県柳井市金屋
柳井は江戸時代岩國領で吉川氏の統治下にあり「吉川の御納戸」と呼ばれた港湾と商業の街。国の伝統的建造物群保存地区指定の古市、金屋地区の町家が残る白壁の町柳井とよばれる海沿いの地域である。軒先に民芸品の金魚ちょうちんが揺れる町並みを散策。
駅〜麗都路(レトロ)通りを歩き、柳井川の本橋を渡る〜町並み資料館(旧周防銀行跡)〜金屋の伝統建築の町家群の通りを西へ〜甘露醤油の蔵元〜誓光寺、湘江庵(柳井地名発祥伝説の井戸のある寺院)
松島詩子=柳井出身の名誉市民 シャンソンなどをを歌った往年の歌手。第1回紅白に出場計10回出場した。レコード=マロニエの並木路など多数。
町並み資料館=旧周防銀行本店遺構 明治40年建設されたもの。
甘露醤油=いわゆる再仕込み醤油。殿様が「甘露甘露」と絶賛したことからこの名がある。二軒かな?醸造元があったね。
湘江庵=曹洞宗。柳の井戸があり般若姫伝説の舞台で柳井の地名伝説の地。平安時代の十一面観音や如意輪観音のお堂もある。井原西鶴の句碑などもある(西鶴の著 一目玉鉾ひとめたまぼこ〜所収俳句)
「 丸雪(あられ)ふる今朝の嵐の吹き落ちて柳井の底にくたく玉水 」
かつては文化サロン的な場所だったそうです。俳諧、謡曲などなどが催されたとか。
般若姫=九州豊後の真名野長者の娘で欽明天皇の妃として都へ登る途中立ち寄る。航海中周防大島沖で嵐に会い人々を救うため身を投げたとも難破して亡くなったとも言われる伝説の人物。周辺地域だと伝承にゆかりの室津半島の般若寺や周防大島には松尾寺などがある。
誓光寺=創建時は天台宗白潟寺〜西願寺となり〜後に蓮如上人に帰依し誓光寺と改める。周防西部の真宗寺院では寺格の高い寺だったという。境内の句碑は芭蕉の弟子各務支考の流れをくむ美濃派の俳諧師であり(表具屋の経営者)当地柳井の俳諧中興の祖、俳号=偕楽庵理圭坊の辞世の句だそうです。連句や俳句が盛んだったのが伺えます。
金魚ちょうちん=柳井の郷土玩具民芸品で名産。幕末に創始され戦後改良され現在の形に。地元のシンボル的存在の可愛い民芸品。金魚ちょうちん祭りもあるそうです。
【神道シリーズ】第81回・八百万の神㉙伯耆大山・智明大権現(今日も続く天台大山寺の大山修験と信仰)
伯耆大山(ほうきだいせん)は2018年に開山1300年を迎え、盛大なイベントが行われていましたが、今でも信仰の中心は大山寺(だいせんじ)を中心とした地蔵菩薩信仰であり、天台系の山伏たちが法螺貝を吹き、柴燈護摩を焚くという儀式が行われています。
大山の開山伝承では、8世紀に猟師の従道が大山で金色の狼を射止めようとしていたところ、地蔵菩薩が現れ、一瞬で改心して仏道に入り、名を
金蓮(こんれん)と改めた、という話が伯耆大山の開山伝説となっています。
9世紀以降は天台宗(比叡)の進出により、慈覚大師(比叡山第二世座主・円仁)伝説などが加わり、天台修験の一大拠点となります。
戦国時代の戦乱で一時期衰退しますが、江戸時代になると伯耆国出身の豪円という天台僧が比叡山や伯耆の大山寺を復興し、再び信仰の復活を見ます。
明治には政府により信仰の中心の大山寺が破壊され、大神山神社が建てられますが、明治35年には地元の信者たちにより大山寺は復活し、今日まで伯耆大山信仰の中心となってきています。
千日回峰行
天台宗比叡山延暦寺の光永圓道大阿闍梨
mylist/58493369 政治思想系動画
mylist/58570412 戦争歴史系動画
mylist/58744240 芸術科学系動画
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【神道シリーズ】第80回・早池峰神楽(両部神道<真言宗>がもたらした古事記の真言密教的解釈の当山派(真言系)修験芸能)
早池峰神楽は平成21年(2009年)にユネスコの無形文化遺産に登録されましたが、この世界的に有名な神楽は岩手県早池峰山の麓の3つの地域に
3つの早池峰神楽が現在存在しています。
もともと早池峰神楽が始まったのは室町時代後半の15世紀後半頃からですが、9世紀より天台宗の拠点であった早池峰山信仰の中心の4つの院を持つ
妙泉寺のうち、西登山口の大迫(おおはさま)に位置する池上院妙泉寺は
14世紀に真言宗の支配下になり、その真言宗の進出には真言系の修験道と、真言密教が作った両部神道の思想や歴史観も同時にもたらされました。
両部神道の教義書(理論書)である「中臣祓訓解」の中に登場する瀬織津姫(せおりつひめ)(←古事記・日本書紀には出てこない神)が早池峰の地にもたらされ、十一面観音を本地とする早池峰権現の垂迹の姿としての瀬織津姫とされました。
一方、両部神道(真言密教神道)に基づく古事記解釈による早池峰神楽は
当山派(真言系修験道)の山伏たちの芸能として大迫の大償地区で発生し(15世紀後半)、その後、(大迫の)岳地区に伝わり、やがて江戸時代になると遠野の大出にも伝わり、3つの早池峰神楽が形成されて今日まで至っています。
【神道シリーズ】第79回・八百万の神㉘早池峰大権現【前編】(妙泉寺の4つの院と両部神道<真言>の影➡瀬織津姫)
早池峰山周辺には現在4つの早池峰神社がありますが、これらはいずれも
明治以前に妙泉寺と呼ばれる天台宗や真言宗の院を持つお寺で、明治の時に強制的に(妙泉)寺を廃して神社(早池峰神社)に改装したものですが、面白い事には、文書の資料が乏しい中、西登山口の大迫(おおはさま)の早池峰神社や南登山口の遠野の早池峰神社の社伝の中で、かつて真言や天台の寺であったことや、天台の慈覚太師(円仁)の訪問伝承や真言宗の進出の事なども記されていることです。
4つの登山口に建てられていた妙泉院のうち西登山口の池上院妙泉寺だけは14世紀から真言宗が進出して(他の3つは天台宗)、同時に真言密教が作り上げた両部神道の理論書(教義書)の「中臣祓訓解」(なかとみのはらえくんげ)に出てくる瀬織津姫という女神(古事記・日本書紀には出てこない)を十一面観音の化身(垂迹)として祀り、この瀬織津姫は早池峰大権現として中世以降信仰を集め、本地垂迹関係が明治政府によって切り離された後も今日まで信仰の対象となっています。
【神道シリーズ】第77回・八百万の神㉗箱根山信仰(今日まで伝わる万巻上人の九頭龍大王調伏伝承)
箱根山信仰と言えば、今も昔も変わらないのが芦ノ湖に住むと言われる9つの頭を持つ
九頭龍という毒龍を調伏して箱根山の守護神と変えた万巻上人の伝承です。
箱根信仰の歴史を伝える書物は主に3つの古書で、それは、
①筥根山縁起并序(ならびしょ)(建久二年(1191)
②箱根権現縁起絵巻(「天正十年」(1582))
③新編相模国風土記(天保12年(1841年)に昌平坂学問所にて書かれた)
の三書なのですが、
①は、紀元前5世紀に仙人によって箱根山が開山され、8世紀中期になって朝廷から派遣された南都六宗の僧侶・万巻により男躰(なんたい)・法躰(ほうたい)・女躰(にょたい)から成る箱根山三所権現という神を感得し、これを祀ることにより箱根山信仰は成立したとするものですが、ここに万巻上人よる芦ノ湖の九頭龍を調伏した説話が出てきます。
②は、戦国時代に書かれた完全なる仏教説話的な箱根三所権現の成立を語る小説風書物で、
③は、明治元年から16年前の幕末に国学者(昌平坂学問所)たちによって書かれた風土記で、それまでまったく縁も所縁もなかった古事記の神々(ニニギ・ホオリ・コノハナサクヤヒメ)を強引に箱根三所権現に当て嵌め比定したものです。
箱根三所権現の信仰の中心は萬福寺金剛院という新義真言宗(真言宗智山派)の寺院でしたが、三所権現思想や九頭龍伝承は、万巻の時代に白山の泰澄からの影響が考えられます。(三所権現形式自体は天台宗聖護院<天台宗寺門派>が自らの支配する熊野で開発し、白山を筆頭に全国に展開したものですが、箱根山では聖護院の勢力の足跡は見られませんから)
明治になると、政府により信仰の中心であった真言宗の萬福寺金剛院は破壊され、その地に「箱根山神社」という神社が建てたれ今日に至ってますが、ただ、その箱根神社の社伝にさえ今でも万巻上人による三所権現感得や九頭龍調伏の伝承は書かれており、信仰自体は今も昔も変わっていません。
【神道シリーズ】第76回・八百万の㉖日光山信仰【後編】(峰修行・現在の祭祀)
前回は勝道上人による開山伝承やその後の日光山(二荒山)の天台化や比叡天台系の輪王寺を中心にして確立した日光三所大権現信仰の歴史などを紹介しましたが、今回は、その日光山で行われてきた四季峰修行や現在の日光山の祭祀などについてお話したいと思います。
日光山信仰は中世以降天台宗(比叡山)を中心とした日光三所大権現信仰を中心に発展して行き、近世(江戸時代)になると日光東照宮の創建や天台僧天海による山王一実神道の確立などで幕府からの強い後援を受けて発展しますが、明治になると神仏分離令で三社権現社が日光二荒山神社に改編され、輪王寺との関係が強制的に断絶させられましたが、それでも日光山の登拝祭祀や護摩祈祷などは輪王寺と日光二荒山神社の協力の下で行われており、さらに江戸時代以降に確立した東照宮の祭祀などが今日でも続いており、(かつての)日光山修験道の廃止以外は今も昔も祭祀は変わっていません。
【神道シリーズ】第75回・八百万の神㉕日光山二荒山三社権現【前編】(勝道上人開山・天台の拠点化)
日本の山岳信仰のほとんどには役小角による開山伝承があるのですが、なぜか東北地方には役小角伝承が無い地域があり、それは、その地域を奈良時代中期頃まで蝦夷が支配しており、そこが朝廷軍によって占領されてから朝廷の旧蝦夷支配地域の宗教政策(啓蒙化政策)として天台宗の僧侶たちを(朝廷が天皇の勅令などで)送り込んで開山した例がいくつかあります(例・箱根山、早池峰山、岩木山など)。
華厳宗の僧と言われた勝道は、下野国(栃木県)の薬師寺で、鑑真の弟子のイラン系ゾルド人僧の如意僧都から受戒を受け、正式な僧侶となった後、二荒山(ふたらさん>現在の日光山)の登頂を目指してその麓に四本龍寺(現・輪王寺>天台宗)を創建し、二度の登頂失敗の後、782年(延暦元年)3月、三度目の登頂を試みてついに成功し、その後、三山に神が宿るとし、三つの祠を作り、仏の加護に預かれるようにと祈願します。
その三つの祠が、天台宗(比叡山)が進出してから二荒山三社権現(現・二荒山神社)となり、輪王寺との本地垂迹関係を形成します。
勝道が日光山登頂を目指した時期は、ちょうど朝廷軍と蝦夷軍の戦いの最前線が日光山(二荒山)の麓のあたりで、朝廷や寺院による勝道登頂支援やその後の天台宗の進出も朝廷による宗教政策(縄文系の蝦夷の文化を破壊して朝廷の仏教信仰で啓蒙しようとする政策)の一環としても見られます。
【神道シリーズ】第74回・八百万の神㉔岩木山三所権現(天台と真言の確執の中で発展した岩木山信仰)
青森県津軽地方の「津軽富士」と呼ばれる岩木山(いわきさん)の特徴は、他の山岳信仰でほぼ例外なく伝わる「役小角による開山説」の伝承が無いことで、代わりに薬師如来の垂迹とされた大元尊(大己貴神)による開山が伝えられ、以後、岩木山と両隣の岩鬼山(がんきさん)と鳥海山(ちょうかいさん)が、それぞれ十一面観音の垂迹の多都比姫(宗像三女神)、阿弥陀如来の垂迹とされる国常立尊で構成される「岩木山三所大権現」が信仰の中心となってきました。
この岩木山三所権現は、天台宗の聖護院が自ら形成した熊野三所権現や白山三所権現と同じパターンで、さらに天台宗比叡山の山王三聖の中心の大己貴神=釈迦如来の化身を本地仏を薬師如来に変えて持ち込み、これも白山三所権現や英彦山三所権現(いずれも天台系)と同じパターンで、「大己貴神(釈迦か薬師か阿弥陀の化身)が地元の竜女神と結婚した」パターンが採られています。
こうしても見ても、岩木山信仰のほとんどは天台両派(比叡山と聖護院)によって形成されたと言っても過言ではありません。
岩木山信仰は①岩木山三所権現を中心に、室町時代から江戸時代にかけて、②坂上田村麻呂=毘沙門天(多聞天=北斗七星=妙見)信仰③深沙(じんじゃ)大権現<大般若経守護神の一つ>の猿賀(岩木山の麓)④安寿姫と厨子王丸(仏教の説教話「さんせう太夫」の登場人物)から来る安寿姫=岩城大権現信仰の4つの柱からなっていますが、いずれも天台宗の影響が大きいのが窺われます。
明治の神仏分離令で、信仰の中心の百沢寺(ひゃくたいじ)は政府により強制的に神社に改編され(岩木山神社)、多くの僧房は破壊されましたが、今でも上記の四要素は昔と変わらず、山伏が中心となる祭祀が行われています。
【神道シリーズ】第73回・八百万の神㉓英彦山大権現(伝燈大先達とは?)
英彦山(彦山)は中世より天台宗の霊仙寺(りゅうせんじ・天台宗系)が山岳信仰の中心になってきましたが、その霊仙寺の座主は同時に英彦山の峰入り修行を20年以上繰り返した「伝燈(でんとう)大先達」という先達(今で言うところの登山ガイド)でなければならないというシステムがありました。
しかしながら中世初期には、天台宗聖護院(天台宗寺門派)が皇室系の座主を霊仙寺に送り込んできて黒川院という皇室系で世襲制の座主の時代が12世紀から14世紀までの200年間続き、まともに峰入り修行もしていない人が霊仙寺の座主や伝燈大先達になってしまうという時期があったり、あるいは聖護院(京都)から派遣された修験僧が弟子から弟子へと法統で継承される時期が長く続きました。
16世紀の半ば(1540年)になると、聖護院系ではない、日光修験(天台系)の阿吸坊即伝(あきゅうぼうそくでん)が英彦山の座主(同時に伝燈大先達)に就くと、それ以降は、当初のシステム通り、20年以上に渡る峰入り修行を英彦山で行った英彦山出身の山伏だけが霊仙寺の座主および伝燈大先達になれるという制度が徹底されるようになります。
全国の修験道(山岳信仰)が法統中心の別当寺(その山岳信仰を支配する寺)の座主になっていたり、山岳信仰支配のシステム自体が緩んで行く中、英彦山は特に江戸時代以降この座主=伝燈大先達制度が強化され、同時に信仰の深まりと九州全土への広がりの中、結束を固めて行きます。
明治には神仏分離令で政府により霊仙寺やその200以上あった僧坊は完全に破壊され、代わりに政府が英彦山神社を作りましたが、英彦山信仰の内容はその後も変わらず、
戦後になると、なんと英彦山神社(神宮)が中心になって英彦山修験(本山派<天台系>修験)の復活運動を始め、既に英彦山の末山である宝満山では英彦山修験が復活してきています。
今でも英彦山信仰の信仰対象は英彦山三所権現たる英彦山大権現です
般若心経/ひらがな読みルビ付き/三回復唱【天台宗・比叡山延暦寺】
比叡山延暦寺公式サイト様より、
フリー素材画像を使わせていただきました。
【神道シリーズ】第72回・八百万の神・英彦山大権現【中編】オホシサマ(如来宝珠)と顕密寺社
今回は、英彦山信仰の中核となってる①三所権現の三元構造(俗躰・女躰・法躰)②オホシサマ(如意宝珠)とそれに纏わる祭祀(二季祭・延年など)についてお話をして行こうと思います。
「三所権現」形式(三所権現・二所権現・四所権現・十二社権現などの変化形あり)を全国の天台修験に広めたのは聖護院門跡(天台宗・寺門派<三井寺派>)ですが、その三所権現は実は、俗躰(陽=男=金剛界)と女躰(陰=女=胎蔵界)で、俗と女が一体化することは、真言宗の両部神道の言うところの、金胎合致(金剛界と胎蔵界の一体化)による即身成仏(大日如来との一体化)を意味するのですが、聖護院門跡の解釈では一体化したのちに阿弥陀如来に集約されていく、という見方があります。英彦山もこの三元構造が信仰の基本にあります。
さらに、英彦山(霊仙寺)の中興の祖と言われた法蓮が般若窟で12年間の修行の末得たとされる如意宝珠も英彦山信仰の中核にあり、これがさまざまな祭祀(オホシサマ祭、二季祭、延年<直会(なおらい)>)などにも反映されて行きます。
こうした祭祀は今日でも北九州広域で続いています。
【神道シリーズ】第71回・八百万の神㉖英彦山信仰【前編】(英彦山神社になっても今でも英彦山大権現信仰w)
英彦山(ひこさん)は、6世紀の北魏僧・善正による開山伝説や、二代忍辱(にんにく)の伝承、そして8世紀以降の法蓮による弥勒信仰に基づく新羅仏教による中興の祖としての活躍、そして、9世紀以降は天台二派(比叡山と聖護院門跡)による天台支配が以降続き、17世紀には霊仙寺(りょうぜんじ・英彦山信仰は伝説期の6世紀より明治前まではこの寺が中心になっていました)の座主・広延が真言系の三輪流神道に転向して真言宗(当座派修験)の影響が強くなりますが、基本的に天台宗の大拠点の一つとして中世・近世を送ってきました。
明治の神仏分離令で信仰の中心だった霊仙寺は破壊され、そこに政府によって英彦山神社が作られたものの、
信仰内容は不変で、今日でも「英彦山大権現」への信仰は変わらず、祭祀も天台や真言の修験者たちが中心で行われており、今、明治に政府によって廃止させられた英彦山修験は復活しつつあります。
【神道シリーズ】第70回・八百万の神㉕求菩提山修験(天台宗山門派(比叡山)と寺門派(聖護院門跡)の天台修験の地)
求菩提山の歴史は近世に書かれた「求菩提山雑記」に6世紀以降の猛覚魔卜仙(もうかくまぼくせん)による開山(526年)や、その後704年の役小角の入山、そして、720年の行善による求菩提山護国寺の建立などが求菩提山の古代史として残っていますが、その真偽はともかく、山頂から5~6世紀のものとされる須恵器(朝鮮半島から)が見つかってることから、6世紀頃から渡来系の雑密僧による開山が推測されています。
その後、12世紀に宇佐出身の辛島氏の系統(新羅系)の頼厳が護国寺入りし(平安時代)、中興の祖となり14世紀(室町時代)には、皇室から送られた彦山の雲仙寺の座主・助有法親王(安仁親王)によって始まった「黒川院」が求菩提山の如法寺(ねほうじ)も配下に置き、法親王が所属する天台宗寺門派の聖護院門跡(本山派修験)の傘下に入り、求菩提山も彦山修験の傘下に入ります。
16世紀に黒川院が黒田長政の息子の忠之によって破壊された後は、歴代の領主が座主となっていた如法寺が求菩提山信仰の主導権を握りますが、その如法寺を支えた
天台宗寺門派の聖護院門跡が求菩提山修験をリードしていく形になり、明治前まで続いて行きます。
明治の神仏分離で求菩提山護国寺も妙法寺も破壊され、明治に政府によって確立された神社神道の下、国玉神社が作られますが、今でも求菩提山祭祀は明治以前の火祭りやお田植祭などが行われています。
【神道シリーズ】第68回・六郷満山信仰【中編】六郷満山の天台寺院(神道無関係w)
今回と次回の二回に渡って六郷満山の天台寺院を出来る限り紹介して行きたいと思いますが、
六郷満山(国東半島全体)は天台宗(本山派・寺門派)および天台修験道の一大拠点であり、ほとんどの寺院が天台系に属しています。
中国の天台三山に倣って三山方式と言って、本山(もとやま)、中山(なかやま)、末山(すえやま)に分類され、それぞれに本寺・中寺・末寺があるという形で、主要な天台寺院は28寺で、それぞれに所属する坊が今でも数多く残っています。
六郷満山信仰の特徴としては、比叡山天台宗の山王神道の影響で、阿弥陀如来・薬師如来を本尊とする寺が多く、一方で熊野修験を支配していた天台宗寺門派(聖護院門跡)も進出しており、こちらの影響で不動明王や六所権現なども同時に本尊として祀られています。
あと、六郷満山の魅力と言えばやはり摩崖仏で、多くは平安末期から鎌倉時代以降のものですが、中でも熊野摩崖仏や元宮摩崖仏などは有名です。
六郷満山の摩崖仏は6世紀以降の朝鮮半島(新羅・慶州)の摩崖仏の影響が大きく、朝鮮半島とも繋がりが大きいのも六郷満山信仰の特徴です。
【神道シリーズ】第67回・六郷満山信仰【前編】日本随一の天台王国・秦王国(神道無関係w)
六郷満山は以前の「宇佐八幡宮」の放送の際にも若干触れてはいましたが、これだけ素晴らしい仏教伝統の色濃く残る文化をあれだけで終わってしまうのはあまりにももったいなく思い、今回は六郷満山だけを取り上げ、【前編】で宇佐八幡との関係史を、【中編】【後編】で六郷満山の多くの天台寺院を取り上げて行きたいと思っております。
六郷満山の寺社は、ほとんどが天台系であり、寺院はいうまでもなく、数少なく存在する神社も中世から近世に比叡山天台宗の山王神道や天台宗寺門派(聖護院門跡)の熊野修験の影響を強く受けており、祀られてる神のほとんどは出雲系であり、現在でも祭祀などは天台寺院の傘下にあります。
六郷満山も、恐山や秋葉、愛宕、石鎚、鞍馬山などと同様にそれまでの地元の仏教や修験道の信仰が強すぎて明治の神仏分離策で神社神道化(神社神道は明治期に創設された)に完全に失敗した一つの例とも言えます。
【神道シリーズ】第68回・八百万の神㉓石鎚山信仰【前編】法螺貝と大般若経と念仏は今でも健在!!
石鎚山は、8世紀に役小角が開山し、その弟子・芳元が中国の天台山から勧請したと言われる熊野権現をこの地に祀り、それが「石鎚山蔵王大権現」となり、それが今も昔も一貫した信仰対象となりました。
石鎚山信仰は、その同じ8世紀に寂仙(石仙)という修行僧が信仰の基礎を築き、大峯山(吉野)で峰修行した天台宗(比叡山)の高僧・光定は、最澄から天台座主のオファーを断り、(9世紀に)寂仙を師と仰ぎ、石鎚山で山岳修行を行い、やがて石鎚信仰の両輪の一つとなる横峯寺を創建しました。
9世紀になると真言宗御室派(古義真言宗・京都仁和寺が本山)が同地に進出し、前神寺を創建し、さらに横峯寺にまで進出します。
石鎚信仰は、両寺を中心に、多くの先達を率いた石鎚講を形成し、その組織が強大過ぎたために、明治期の神仏分離令も政府の思うように行かず、石鎚神社を新設するまでに35年もかかり、それも石鎚山真言宗系の石鎚本教により運営され、そのまま今日に至ってる。
今日でも石鎚山の山開きでは法螺貝の音とともに大般若経や念仏が唱えられる石鎚神社の石鎚講で信仰が支えられている。
臨済宗建仁寺派 峨眉山・普賢寺(海難除けの守護仏の普賢菩薩堂と伝雪舟作 枯山水庭園)光市室積
普賢寺(普賢禅寺)は伝では、書写山の性空上人開基とされ、境内寺歴の解説によれば一条帝の御代 寛弘3年(1006年)開基。開山は大林玄侑和尚という方らしい。
元は天台宗でのちに臨済宗に代わった古刹です 御本尊は漁師により海中より引き上げられた普賢菩薩像であり海の難除けの守護仏の寺とされる。ちなみにご開帳は50年に一度だそうです (´・_・`)> 私は絶対拝見できないですね。
伝説では普賢菩薩を拝す願いを持った上人が、夢告に導かれ周防國熊毛郡の室積に来て、海中より引き上げられた普賢菩薩像にまみえ、草庵を建て祀り、後に寺院や普賢堂が建立されたというもの。
性空上人の最晩年の史実と寺伝は境内の解説版でも違っておりその辺は不明。
毛利氏の祈願所として御手普請の寺として寺格も高かった。
現山門(仁王門)は寛政十年(1798年)建立で仁王像と楼上には十六羅漢像が安置されるそうです。
庭園は室町時代の作とされ、大きな正方形の平庭で、三尊石組みの中心にした立石存在感がある。 峨眉山の樹木も取り込んだ庭で、山口県でも最古層になるの枯山水庭園とされるそうです。夏に再訪したら蚊に襲われました注意w
室積の中心の山の峨眉山(樹林は天然記念物)や半島部の先端、周防橋立とも言われる。象鼻ケ岬は
かつて島で、伸びた砂州がつながっり陸繋島となって半島になっている。室積の街並み自体が砂州の上にあるようです。*長くなるので 街並みや、神社や古跡、海の景色は別の機会つくろうかな。
最近参詣した寺院の中でもピカイチでした。
訂正 字幕 お参りの時唱える真言→おんさんまやさとばん です(なおってなかったわw)
普賢寺伝雪舟 枯山水 sm37174525
普賢寺周辺(普賢菩薩対面の松、早長神社、御旅所、みたらい湾) sm37253466
普賢寺周辺〜海商通りと象鼻ヶ岬(2019年) sm35457880
普賢寺(2019年) sm35414670
妙見宮鷲頭寺 (お隣の街〜山口県下松市中市) sm35565588