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【神道シリーズ】第65回・八百万の神⑳愛宕信仰【後編】(柱松・松上げ・松明)信仰の中心は今も地蔵菩薩尊
明治政府は、愛宕信仰の中心であった愛宕山別当の白雲寺を破壊し、そこに新たに愛宕神社を新設し、幕末頃より火伏せ繋がりで仏教の三宝荒神が愛宕大権現と習合したところから、国学者たちが三宝荒神を火繋がりでカグツチに比定していたことから、祭神をカグツチとその母(??)である伊弉冉、および、愛宕山にはまったく縁もゆかりも無い古事記の神を三神祀り、古くから地蔵信仰を中心とした愛宕大権現信仰を否定しようとしましたが、しかし、地域に深く根付いていた愛宕山信仰は地蔵信仰と火伏せ信仰を中心としており、明治以降も祭祀は破壊を免れた月輪寺(天台宗)や清凉寺(浄土宗)や神護寺(旧・神願寺>真言宗)、金蔵寺(真言宗)などによって引き継がれ、第二信仰圏ともいえる丹波・丹後・若狭・但馬にまで広がり、そうした地域では今でも寺院を中心とした修験行事である松上げ(松明投げ祭)や験競らべなどが行われている。
【神道シリーズ】第64回・八百万の神⑲愛宕山大権現【前編】(明治の弾圧を跳ね返して今日まで続く愛宕信仰)
愛宕山信仰とは、8世紀に役小角と白山信仰創設者の泰澄による開山と言われてはいますが、実際には781年に僧都・慶俊(法相宗)による開山だとされ(「雍州府史」)、さらに、和気清麻呂による愛宕五山寺(白雲寺・月輪寺・神願寺・日輪寺・伝法寺)の創建により愛宕大権現が祀られた、とされています。
9世紀に天台宗が愛宕さんに進出すると、愛宕山の山頂に位置する白雲寺が天台宗の傘下となり、さらに愛宕山の別当(支配管理職)に任命されると、6つの院(かつて皇族が住職を務めたことがある寺院のこと)によって運営されてたこの白雲寺が実質的に愛宕山信仰の中心となりました。
さらに、この愛宕山は戸隠信仰(飯綱大明神・真言系)の影響で天狗信仰が生まれ、「愛宕太郎坊」として日本の天狗信仰の中心ともなります。
天狗信仰は、真言宗系の当山派修験が中心となり、戸隠・飯綱・高尾山・秋葉山・愛宕山と、稲荷大明神(真言密教に基づくダキニ天の白狐に乗った仙人)のイメージが重なり、「白狐・烏天狗」と「勝軍地蔵・不動明王・毘沙門天信仰」を共有する一大「天狗信仰ネットワーク」を形成しました。
【神道シリーズ】第61回・恐山信仰【後編】(山懸け・オシラ様・イタコ・・仏教の聖地)
恐山信仰は、宇曽利湖(うすりこ)を擁する恐山は、お寺とか神社ではなく、それそのものが「本尊」とされ、地蔵菩薩信仰を中心に曹洞宗の円通寺が管理しており、一方、恐山に隣接する釜臥山は天台宗(山門派)の修験寺大覚院が「山懸け」修行(円通寺<むつ市>近くの兵主神社(祭神は釜臥山大明神)から釜臥山山頂の奥の院の観音堂を目指して毎年8月15日に行われる)を行っています。
東北地方には、下北も含む広範な範囲で、その蚕産業を営む地域で、16世紀頃から「オシラ様」という、4世紀の東晋の時代の中国の伝説「探神記」に出てくる「長者のお姫様と千段栗毛の馬の恋の物語」のストーリーに基づく民間信仰がありますが、これもおそらくは東北に精力を伸ばしていた天台宗の知識僧が伝えたことが発端なのかもしれません。
とにかく、明治の神仏分離政策の中でも、強制的に信仰の中心の寺を廃寺にして無理やり神社を作って古事記の神様を祀るような、全国で行われていた日本の伝統破壊政策もここ下北や東北では通用しなかったようです。
幸福とは何かを見出したいときの名言【瀬戸内寂聴】~大橋直久
幸福とは何かを見出したいときの名言(大橋直久)
名言の主: 瀬戸内寂聴
「人は、不幸の時は1を10にも思い、
幸福の時は当たり前のようにそれに慣れて、10を1のように思います」
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瀬戸内寂聴は日本の小説家、天台宗の尼僧。俗名晴美。京都府在住。
僧位は権大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。
学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、
東京女子大学国語専攻部卒業。学位は文学士(東京女子大学)。
元天台寺住職、現名誉住職。比叡山延暦寺禅光坊住職。
元敦賀短期大学学長。徳島市名誉市民。京都市名誉市民。
代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。
1988年以降には『源氏物語』に関連する著作が多い。
これまで新潮同人雑誌賞を皮切りに、
女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞している。
【神道シリーズ】第60回・恐山信仰【前編】仏教(曹洞)仏教(天台)仏教(浄土)で神道無関係の下北信仰
恐山と言えば、イメージとしてはイタコとか独特のあの世の世界のような感じが強いですが、実は、曹洞宗・天台宗を中心に浄土宗や真言宗などの仏教各派の習合による仏教だけの信仰によって成り立っており、古事記の神は一切祀られてない、所謂、仏経による仏教の為の仏教信仰の地域だとも言えます。
恐山の開山は、9世紀に当地を訪れたと言われる(実際には天台僧<比叡山系>たちが訪れたのでしょうが)比叡山天台宗3代座主の慈覚太師(円仁)が開闢(かいびゃく)したと下北半島では伝わっています。
慈覚太師は恐山の近くの釜臥山に恐居山金剛念寺という寺を創建し、慈覚太師は「釜臥大明神」として祀られましたが、当寺は戦国時代の戦乱の中で焼き討ちされ廃寺になってしまったのですが、17世紀に恐山を訪れた曹洞宗の僧侶・宏智聚覚(わちじゅかく)が現在のむつ市のあたりに円通寺を創建し、地蔵菩薩信仰を中心に広めて行きますが、同時に廃寺になった恐居山金剛念寺を釜臥山菩提寺として再建し、天台の慈覚太師の恐山開闢伝説を復活させ、以降、今日に至るまで円通寺の地蔵尊信仰と天台の大覚院の釜臥大明神信仰の両立で成り立つようになりました。
【神道シリーズ】第59回・八百万の神⑯羽黒三山信仰【後編】松例祭・即身仏・お竹大日如来
今回は羽黒三山修験の後編として、主に松例祭やお竹大日如来信仰、湯殿山の即身仏などに焦点を当てて話をしようと思います。
出羽三山(奥羽三山)の中で、羽黒山と月山は、天台修験が支配する中、14世紀以降に成立した能除(蜂子皇子)の伝説信仰が中心となり、湯殿山は弘法大師(空海)の登山伝承や即身仏の信仰が中心となっています。
今回ご紹介する松例祭(しょうれいさい)は、羽黒山で毎年行われてる、能除伝説に基づく、巨大な藁製の「ツツガムシ」に火をつけて引っ張り競争するという祭祀で、終盤には頭に霊符を付け、赤青白に塗りたくった顔で白衣を纏った験者が火打石で発火するシーンが出てくるのですが、その様子は、日本というより中国や半島の道教祭祀を彷彿させるものがあります。(実際庄内地方には中世に渤海からの漂流者たちが住み着いたという記録がありますから、その影響が考えられます)
お竹大日如来は、江戸時代に羽黒の手向(とうげ)集落出身のお竹という女性が江戸に奉公に出てから、大日如来の化身だと言われるようになり、江戸を中心に広まった羽黒信仰の一種であります。
【神道シリーズ】第58回・八百万の神⑮羽黒三山信仰【前編】(真言宗と天台宗の確執の地と八宗兼学の地)
羽黒修験は現在、羽黒山、月山、湯殿山の三山で構成されてますが、16世紀までは羽黒山、鳥海山、葉山の三山で構成されていました。
羽黒三山には、役小角(8世紀初頭)より200年以上早い6世紀前後に崇峻天皇の皇子の蜂子皇子が蘇我馬子の脅威から逃れるために羽黒へ行き、その地で山岳信仰を始めたという伝説がありますが、しかし、これは室町時代(14世紀)になってから作られた話で、実際には不動明王信仰を核とした役小角系雑密の修験道を起源としてると思われます。
平安後期の9世紀以降は、この地は真言宗と天台宗(比叡山)の勢力の覇権争いの場となり、羽黒山、月山、鳥海山、葉山は天台宗の勢力下、湯殿山は真言宗の勢力下と二分されることになります。
羽黒修験は、全国修験道共通とされてる不動明王信仰や十界修行(真言密教の十往心に対応)や擬死再生修行などはもちろんのこと、そこにさらに9世紀に渤海からの漂流者(記録あり)が伝えたであろうとされる大陸の道教祭祀の影響が見られ、ユニークな羽黒修験が形成されています。
明治の神仏判然令で天台系の修験道は羽黒山や月山からの下山を強制され、代わりに羽黒三山神社が作られ、月読命や大貴己神など古事記の神々が政府によって祀られましたが、湯殿山だけは真言宗との繋がりがあまりにも強固で分離できず、今日まで真言宗の一拠点となっています。
明治に政府が無理矢理神社(羽黒三山神社)を作り、古事記の神々を祀ろうと、古くからの伝統を消し去ることは出来ず、今でも信仰対象は羽黒権現・月山権現・湯殿山権現で、祭祀も古代からのままで、国家神道化は失敗したと言えます。
【神道シリーズ】特別会(初詣・七五三・七夕<道教>おみくじ<仏教>と神道無関係w)
初詣、七五三、七夕、おみくじと言えば、日本に長く根付いた「日本特有の伝統文化」であり「やはり日本は神道だなあ」と思いたいところですが、
ただ、実はこれらはまったく神道には無関係な、道教(陰陽五行>陰陽道)や仏教からの習慣で、さらには、意外と歴史が浅く、おみくじ(平安時代)以外では、庶民の間に初詣、七五三、七夕が普及したのは江戸時代以降、しかも、本格的に世間一般の行事になったのは明治末以降というのが現実です。
おみくじを始めたのは天台宗(比叡山)18世の元三(がんぞう)太師と言われた良源上人で、比叡山の延暦寺の根本中堂で発行したのが初めてと言われます。
初詣は、儒教や道教や仏教(大乗仏教)の伝統を持つ東アジア諸国では名称は異なれ、新年を祝う東洋的宗教行事として中国(道教や仏教寺院で)、韓国(仏教寺院で)、ベトナム(仏教寺院)などで日本と同様に行われています。
日本で初の「初詣」と言われるのが源頼朝の鶴岡八幡宮での新年の詣でだと言われますが、これは道教の陰陽五行思想を継ぐ陰陽道の方角説から生まれたもの(恵方詣で・大歳神<陰陽道神>)で、庶民の間で寺社への信念の詣でが広がるのは江戸時代末期になってから。
七五三は、道教の「天地三歳論」をルーツとして、江戸中期の呉服商人が広めたと言われます。
これを考えると、元々日本にあったものと思ってるものでも実は外国の宗教習慣や思想から来てたり、それで日本へ伝わってからの歴史が意外と浅い(江戸時代以降とか明治以降とか)ということがよくあります。
【神道シリーズ】第49回・八百万の神⑥立山信仰(前編)立山権現・山岳浄土信仰
立山信仰は、神道(国家神道)一切無関係の山岳浄土教信仰ですが、立山信仰の縁起では、奈良時代(701年)に、文武天皇の夢の中で阿弥陀如来が出てきて越中の国司に佐伯有若を任命すれば国家の安泰は保障されると言われ、文武天皇の命で越中に派遣された有若は鷹狩の愛好家で、自分が大切にしていた白鷹がある日飛び出していなくなってしまい、息子の有頼に白鷹を探して取り戻すように命じました。
(佐伯)有頼は道中で刀尾天神を名乗る老人に行先を教えられ、辿り着いた洞窟の中に白鷹を発見しますが、突然熊が襲い掛かって来た為、この熊に矢を射ました。
しかし、その熊の正体が阿弥陀如来と知り、悔悟し、阿弥陀様に言われたように、出家して慈興上人となった上で阿弥陀如来を立山権現として祀りました。
この縁起では立山開山が8世紀になってますが、実際には9世紀後半だと言われてます。
立山信仰の中心の芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺(いわくらじ)にはその後天台宗寺門派の座主・康済が入山し、不動明王も立山権現の本地の一つとなります。
明治期の廃仏毀釈で芦峅寺・岩峅寺は破壊され、立山権現信仰も明治政府によって禁止されて雄山神社とされ、さらに女人成仏祭祀の布橋灌頂法会も禁止されますが、
戦後、立山権現は復活し、1996年より布橋灌頂法会も復活を遂げています。
歴史上ありもしなかった「神道」を捏造した国家神道による弾圧にもかかわらず、平安時代よりずっと続いてきた伝統的精神文化は今力強く復活をしています。
2018年8月9日釈正輪講話会「経歴について」
元々お寺に入りたい、住職になりたいという思いは無く
導かれて今の人生に至った。
たまたま10代の時にお世話になった方がいて、その方が臨済宗のお坊さんだった事がきっかけ。
その方を師事して修行に励んだものの長年経過すると、良くない事もいろいろ見えてきて悩んでいた頃に
1年間無銭旅行を実施。その1年の最後の頃に真言宗のお坊さんと出会う機会がありその方を師匠として仰いでいた。
真言宗のお坊さんが無くなった後天台宗に入るきっかけも出来た。
その後マザーテレサに興味を持ち、どうしても出会いたい気持ちでインドに赴き
マザーテレサと直接お話する機会があった。
「あなたはあなたのままでいい。悩みながら生きるのは辞めませんか」
その言葉が目からうろこで、今のままでいいんだと。どこの宗派に属する事無く生きていこうと決意。
その後韓国の禅宗との出会いがあり
いろんなご縁が自分を導いてくれて、ご縁があるところで学んで行こうと進めた結果が
様々な宗教に出会い、関わる事になった。
いろんな場所に行き、いろんな方々との交流の中において今まで知っていた日本についての歴史が全然違う情報が入ってきたり
それを皆さんに伝えていこうと
自分の使命を考えると
いろんな人達と友になった事が財産であり
私がそこで聞いたり見たりするものをFBする。それがお役目なのかなと
【神道シリーズ】第47回・八百万の神④天狗信仰(道教と密教修験道の習合が生み出した妖怪(仏教)護法神)
天狗と言えば、鼻が高くて山伏の格好をして手に大きな葉っぱを持ってるようなイメージですが、実はこうした天狗のイメージが創られたのは室町時代(「御伽草子」)ぐらいからで、もともとの天狗とは中国の道教神話の中で、流星の隕石が狐(ないしは犬)のような形をしてるのが天狗と呼ばれていたのですが、遣唐使の僧旻(そうみん)はその妖怪的なイメージだけを日本に伝えたところから、後にそのイメージが平安時代になって仏僧たちによって開かれた全国の山岳信仰の間で修験道の山伏たちにより僧形の天狗の神のイメージが生まれ、修行を多く積んで強力な験力を得たものが天狗になったとされました。
その天狗は、権現神(仏の眷属が仮の姿として山の神となったもの)と重なり、日本の山岳信仰(全国)の中に浸透して行きました。
八百万の神の中でもこの天狗信仰は全国の山岳信仰に隈なく普及しており、むしろ天狗信仰の無い山岳信仰を探すことが困難なぐらいになってます。
後に江戸時代に国学が盛んになると、天狗を古事記の神サルタヒコに比定する動きも出てきましたが、天狗自体は古事記や日本書紀にはまったく無関係の修験の神だと言えます。
やがて真言宗や天台宗が全国の山岳信仰を制覇するようになると(平安~鎌倉時代)、天狗信仰も両派(当山派=真言系/山門派=天台系)の傘下に入って行きます。
明治時代には国家神道形成の為に多くの天狗信仰の寺が廃寺に追い込まれたり、寺が無理矢理神社にされたり、祭神が無理矢理古事記の神に変えられたりしましたが、1000年以上に渡る歴史は変え難く、今では完全に元の天狗信仰が全国で復活してきています。
【神道シリーズ】第44回・八百万の神とは?(仏神・外国神・人格神・家祖神・職祖神・女性神・・)
八百万の神と言えば、日本にはありとあらゆる所に神様がいるというイメージで、特に保守愛国系の人たちの間では
「八百万の神こそは神道」と言う人が多いですが、実は、八百万の神とは、縄文のアニミズムから生まれたものでもなければ、古事記・日本書紀に出てくる多くの神々そのものが実際に存在した日本各地の神々を取り上げてるわけでもなく、奈良時代から平安時代にかけて雑密や純密と言った密教系の仏教勢力を中心に形成された山岳信仰や地方信仰が確立していく中で、本地垂迹説的に後世になってから古事記や日本書紀の神々が(密教系の中世神学によって)あてはめられて行ったというのが実体です。
古事記や日本書紀に出てきた数々の神々は基本的に名前の羅列だけでその背景の詳細が書かれてるものではありませんでした。
それが、真言宗(三宝院)や天台宗(聖護院)の密教系神道を通じて本尊を仏の眷属としつつ、その垂迹(仮の姿)としての神々として古事記や日本書紀に名前の羅列だけだった神々を借用し(これを比定と言います)、中世の神道説(これが現在まで地方祭祀に反映されて行きますが)が形成され、定着して行きます。
そこには、外国神(中国・朝鮮からの播神)や仏教天部の神々、道教の神々、ヒンズー教の神々などがさまざまな形で八百万の神を形成して行く姿が見られます。
一方、中世以降の御霊信仰(古事記・日本書紀無関係)なども仏教(密教)の法会によって慰撫するという形で鎮霊・除霊がされ、天神などの御霊も八百万の神の一部となって行きます。
【神道シリーズ】第43回・両部神道⑤富士山修験(理論は両部神道で管理は聖護院<天台宗寺門派>)
日本の山岳信仰が具体的な神名を持って信仰されるようになったのは真言密教による両部神道が確立した鎌倉時代以降ですが、密教僧たちは山に登頂し、そこに仏の眷属を祀り、さらに古事記の神々の中から選んで比定し、仮の姿として古事記の神様の姿になるときがあるとしました。
これこそが日本における「八百万の神」信仰の始まりであり、古事記に出てくるコノハナサクヤビメも、火山という属性だけで大日如来の仮の姿であるとされ、それが富士山においては浅間(せんげん)大権現として祀られ、信仰されるようになりました。
つまり、もともと民衆の間に古事記の神々の信仰があって、それが八百万の神の信仰になったのではなく、密教僧らによって形成された山岳信仰の中心をなす本地垂迹説として古事記の神々が採用されていったのです。
富士山修験が始まったのは13世紀に仏僧の末代(まつだい)が富士山頂に登頂して大日寺を創建し、大日如来を祀ったことから始まります。
16世紀になって富士講を統合組織した長谷川角行は、役小角の夢告で富士山に登頂して以降、大日如来=コノハナサクヤビメを浅間大権現として信仰する一神教的意味合いの浅間権現信仰を確立し、以降、弟子たちによって村上修験(富士山修験をそう呼びます)の富士講は江戸時代には全国に広がって行きます。
明治に神仏分離で浅間神社の祭神はコノハナサクヤビメとされましたが、今日でも浅間大権現の信仰は続いており、村山修験の流れを汲む修験道の団体が伝統を引き継いでいます。
【神道シリーズ】第38回・山王神道②(天台教学と山王神道について)
天台宗の山王神道は中世日本(全体)に真言宗の両部神道とともに日本の信仰を二分割したと言っても過言ではないですが(真言系神道7.5対2.5天台系神道)、今回はその山王神道を裏付ける理論としてベースになっている天台密教教学を検証し、どのように天台宗の密教神道(山王神道)が形成されたかを探っていきたいと思います。
真言宗も天台宗も共通してる基本文献(経)は、①大日経②金剛頂経③理趣経ですが、天台密教はさらにこれに④蘇悉地(そちつじ)経(蘇悉地法)が加わります。
まずは、その蘇悉地法とは何か?というところから始め、さらには、天台宗が影響を与えた熊野修験や祇園信仰との関係、そして、天台宗の守護神(山門派は赤山明神、寺門派は新羅明神)がいずれも外国の神様たち(赤山明神>中国道教霊山の主神の泰山府君、新羅明神>新羅道教の神、さらに祇園信仰の牛頭天王(スサノオ)は新羅の神・・・)なのでしょうか?
日本で完成されたとする真言密教に比べ、天台密教は中国や朝鮮半島の影響が強く見られ、それが天台宗の神道、山王神道にも色濃く反映されてます。
【神道シリーズ】第37回・山王神道(山王一実神道)①(天台宗の作った神道)
中世になると、真言宗や天台宗がそれぞれの仏教理論に基づいて独自の神道理論を生み出し、その神道理論に基づいて古事記や日本書紀に出てきた神々仏様の眷属(仲間)にあてがい(これを「比定」と言います)、例えば、アマテラスの本地(本当の姿)は大日如来だとか(真言宗)、比叡山の神様(山王)は大物主神(大貴己神=大国主神)として仮の姿を現してるが、実は正体はお釈迦様なのだとか、全国の地方信仰(単純に山神とか川神様とか呼ばれていたようなもの)にこの公式を次々とあてはめて行きます(比定)。
そしてやがて日本国中の神々(八百万神)はすべて古事記の神様で、しかもその正体(本地)は仏様の眷属(阿弥陀如来とか不動明王とか、、)であると比定することにより、今日に繋がる地方信仰は作られて行きます。(これは古事記のストーリーとはまったく無関係に新たな(仏と神の)関係ストーリーが作られ、それが地方伝承として定着していきます。
山王神道(山王一実神道)や両部神道は、それぞれ天台宗、真言宗が作った神道(仏家神道)で、その後に生成された神道はすべてこの原理をベースに形成されています。
そういった意味では、「日本の神道を作ったのは天台宗と真言宗である」と言ってもまったく過言にはなりません。
今回は、その天台宗による仏家神道を見て行きたいと思います。
【神道シリーズ】第26回・祇園信仰(新羅の神(牛頭天王)と陰陽五行思想)神道無関係w①
祇園社(現在の八坂神社)は、斉明天皇の時代の656年に、高句麗から来た新羅人の使者・伊利之使主(イリシノオミ)が天皇と接見し「新羅の神・スサノオが日本に住み着いていらしてこれから帰国するところです」(八坂神社社伝)と伝えられ、その伊利之使主は高麗(の狛国)より連れて来た81人の新羅人とともに祇園社を作りました。(帰国の予定のスサノオ神がそこに留まることになったわけです)
それから朝鮮半島より播磨に伝わっていた蘇民将来の民間伝承に出てくる武塔神(天刑星>道教神)が廣峯神社より近江の東光寺(天台宗)を経て9世紀には武塔神とスサノオ(牛頭天王)が習合し、現在に至る祇園神が形成されます。
この祇園信仰は古代朝鮮の神信仰(牛頭天王=スサノオ)に加え、きわめて中国の陰陽五行説(道教)色の強い信仰だと言えます。
明治維新でそれまでの本来の祇園信仰は破壊され、国家神道的な解釈になりましたが、今でも八坂神社や祇園の会を始め全国の祇園祭の会が本来の祇園信仰を取り戻そうと奮起しています。
【神道シリーズ】第25回・熊野信仰(別当・検校と九十九王子)天台修験が支配する熊野②
熊野信仰は、基本的には①雑密(新羅系の道教的密教)②天台修験(天台宗寺門派)③一遍の浄土信仰④観音信仰から成っています。
熊野三山の神々に古事記の神々を割り当てたのは後世(室町時代~江戸時代)であって、もともとは熊野川の神や(ゴトビキ)岩の神(速玉神)などで、これが仏の眷属と結びつけられ、本地垂迹説の下、極めて仏教色の強い独自の熊野信仰が完成します。
今回は、熊野古道と言われる和歌山県の海外線から本宮・新宮・那智へ至る道の途中に築かれた九十九王子と呼ばれる中継地点や、熊野検校や熊野別当(どちらも天台宗寺門派が独占)について説明します。
【神道シリーズ】第24回・熊野信仰(浄土思想と天台密教が織りなす「死の国」の息吹)「神道」無関係w①
熊野信仰は、奈良時代の新羅より伝わった雑密(未完成の呪術的密教)と平安時代以降の浄土信仰(一遍の時宗の融通念仏思想)と天台宗寺門派(三井寺)から成る「贖罪の国」「死の国」熊野から成っています。
華厳経や法華経に説かれた補陀落渡海(ほだらくとかい)と言って、小舟に30日分の食料を積み、念仏を唱えながら極楽浄土に辿り着くことを願って永遠の船旅に出る、つまり、水上自殺の聖地として那智は名所となっていました。
熊野三社(本宮・速玉新宮・那智)の熊野権現は古事記には出てこない仏教の神様で、こうした背景の中、時宗(時衆)の巡礼者たちが減罪を求めて「蟻の熊野」という紀州を通って熊野にいたる熊野古道の難所を越えて行きます。
ユネスコ世界遺産に指定された熊野三社や熊野古道はまさに日本の精神文化の神髄と言っても過言ではありません。
「神道」(国家神道のこと)とはまったく無関係な真の日本の精神文化の髄に触れられる場所がこの熊野です。
今回は熊野信仰の基本構造についてお話をし、次回はその肉付けのお話をしようと思ってます。
すーびー、ベクトル 第13回 面積
目次へ sm32891852
第12回へ sm33058938
第14回へ sm33100045
解答
最澄 天台宗 比叡山 延暦寺
空海 真言宗 高野山 金剛峯寺
【新緑】西教寺を散策【大津市坂本】
天台真盛宗の総本山。阿弥陀如来が本尊です。同じ天台宗の延暦寺や園城寺(三井寺)が密教色が強いのに対して、西教寺は念仏を唱える浄土教の特色が強いのが特徴です。@shakujiikouenn co3600272
善光寺の「生き仏」が謝罪会見を途中退席で騒然
善光寺(長野市)の天台宗側トップ、小松玄澄貫主(84)が、女性職員に差別的な発言をしたとして信徒らに罷免要求されていた問題で、小松貫主は1月10日、同寺大勧進で記者会見を開き、法要や儀式への参加を再開する意向を表明した。一定期間後に貫主を辞任する考えも示した。
小松貫主は問題発覚後の平成28年6月から、本堂で行われる法要や儀式への参加を自粛していた。会見では、「貫主として平常通り、法要及び儀式に復す」とした上で、「しかるべき時期をもって貫主の地位を後進に譲りたい」と述べた。ただ、再開や辞任時期などへの言及は避けた。
http://www.sankei.com/affairs/news/180110/afr1801100041-n1.html
【万能の天才】苫米地英人 名言集
認知科学者であり計算幾科学者であり中国南開大学客座教授であり全日本気功師会副会長であり米国公益法人The Better World Foundation日本代表であり米国教育機関TPIインターナショナル日本代表であり天台宗ハワイ別院国際部長であり財団法人日本催眠術協会代表理事であるなど「万能の天才」と呼ばれる苫米地英人博士の名言集です
延暦寺のここがツボ・雅流塾
天台宗の総本山である延暦寺のツボをたっしー&たー坊が分かりやすく解説します(≧▽≦)http://kyonara.xyz/archives/cat_838646.html
組曲「最澄と天台宗」
第十四回政歴M@D祭・参加作品です。内容は最澄が多めで、他に天台宗関連の方々が何人か登場します。歌詞の都合上、時系列がかなり前後しております。教義の解釈等間違っているところがありましたらすみません。/他の作成物→mylist/10267760、小国らじお→mylist/32090960
【替え歌】ハレ晴レ天台
伝教大師最澄を扱った歴史替え歌です。オフボーカルです。先日、最澄と天台宗について書かれた本を読みまして、それに触発されて作ってしまいました。もう少し色々盛り込みたかったのですが、力不足でかなりあっさりした内容になってしまいました。時系列が少し前後しております。※余談ですが、volの数字=生年は766年説もあるそうです。/他の作成物→mylist/1026776
死刑賛成は「殺したがるバカども」なのか?【瀬戸内寂聴の暴言】
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【鎌倉仏教シリーズ】第76回・日蓮宗⑥日像と三十番神2-2
日蓮の弟子ベスト6のうち最も穏健だった日朗の甥である日像は、日蓮の入滅後(死後)、日蓮ゆかりの地を巡礼した後、京都入りし、京都に本格的に布教を始めましたが、畿内にすでに勢力のあった天台宗、真言宗、浄土宗はこぞってこの新興勢力の進出を阻むためあらゆる妨害を始めます。そして、ついには朝廷に上訴し、日像は京から追放されることになりますが、追放が説かれると再び入京するも、またすぐに追放と、このプロセスを三回繰り返した後、京に定着するようになり、京都における一大法華勢力を築くことになります。
【鎌倉仏教シリーズ】第76回・日蓮宗⑥日像と三十番神2-1
日蓮の弟子ベスト6のうち最も穏健だった日朗の甥である日像は、日蓮の入滅後(死後)、日蓮ゆかりの地を巡礼した後、京都入りし、京都に本格的に布教を始めましたが、畿内にすでに勢力のあった天台宗、真言宗、浄土宗はこぞってこの新興勢力の進出を阻むためあらゆる妨害を始めます。そして、ついには朝廷に上訴し、日像は京から追放されることになりますが、追放が説かれると再び入京するも、またすぐに追放と、このプロセスを三回繰り返した後、京に定着するようになり、京都における一大法華勢力を築くことになります。