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ある貴族の逸話「徒然草気まま読み」#162
今回扱うのは、第百九十六段。
前半部分を紹介すると…
東大寺の神輿(しんよ)、東寺の若宮より歸座のとき、源氏の公卿參られけるに、この殿大將(たいしゃう)にて、先を追はれけるを、土御門相國、「社頭にて警蹕いかゞはべるべからむ。」と申されければ、「隨身のふるまひは、兵仗の家が知る事に候。」とばかり答へ給ひけり。
前段の百九十五段にも登場する、久我通基内大臣の逸話。
最初に出てくる「東大寺」は石清水八幡宮の誤り。
この時代の「神輿(しんよ)」とはいまのお神輿(みこし)とは性格が異なるものなのだが、これを移動させる際、これに伴う神事について通基と別の貴族、土御門相國定實公の間で意見が分かれた。
当時の貴族の教養や、神についての観念などがうかがえる、興味深い一段。
手近なことをきちんとすべし「徒然草気まま読み」#161
今回扱うのは、第百七十一段。
最初の部分を紹介すると…
貝をおほふ人の、わが前なるをばおきて、よそを見渡して、人の袖の陰、膝の下まで目をくばる間(ま)に、前なるをば人に掩はれぬ。よく掩ふ人は、よそまでわりなく取るとは見えずして、近きばかりを掩ふやうなれど、多く掩ふなり。棊盤のすみに石を立てて彈くに、むかひなる石をまもりて彈くはあたらず。わが手もとをよく見て、こゝなるひじり目をすぐに彈けば、立てたる石必ずあたる。
最初は当時行われていたゲームの話から始まる。
そこから話は一気に政治の正しいあり方を説き、医学書の話、遠征の話にまで行く。
小さなことから大きなことまで、大切なことは共通しているというのだ。
ジャンルにとらわれず、その本質を見極めようとする兼好の柔軟な発想がよくわかる一段。
求道一徹「徒然草気まま読み」#159
今回扱うのは、第百四十四段。
前半を紹介すると…
栂尾の上人道を過ぎたまひけるに、河にて馬洗ふ男、「あし\/〔足を洗ふため足と云つたのを阿字と聞いた〕。」といひければ、上人たちとまりて、「あなたふとや。宿執(しゅくしふ)開發(かいほつ)の人かな。阿字々々と唱ふるぞや。いかなる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覺ゆるは。」
兼好法師が何に感動し、何を高く評価するかという価値観がよく表れている段。
ここで兼好が紹介するのは、華嚴宗中興の祖と仰がれた明惠上人にまつわる、普通の感覚では全くの笑い話としか思えないエピソード。
ところが兼好はこれを全く滑稽な話だとは思っていない。明惠上人の、仏道を一途に追及する姿勢を端的に表した逸話として、感動を以て紹介しているのである。
さて、この感覚に同感できるかどうか?
人の臨終の有様「徒然草気まま読み」#158
今回扱うのは、第百四十三段。
全文を紹介すると…
人の終焉の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず。」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相を語りつけ、いひし言(ことば)も擧止(ふるまひ)も、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。この大事は、權化の人も定むべからず、博學の士もはかるべからず、おのれ違ふ所なくば、人の見聞くにはよるべからず。
人の臨終の様子を語り伝える時に、たとえほめそやすつもりでも、話を盛って伝えることは決してその人の本位に沿うことではないとたしなめる兼好。
そもそも、人がどのように訪れるかなどは、誰にも予想することはできない。ただその人の日ごろの心がけに違わぬ形で迎えられれば、それでいい。
常に死が自分の身近に、しかも後ろにあるという捉え方をしている兼好の考えがよく表れた、短いながらも味わい深い一段。
京の人、吾妻の人「徒然草気まま読み」#157
今回扱うのは、第百四十一段。
冒頭を紹介すると…
悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦のなにがしとかや、雙なき武者なり。故郷の人の來りて物がたりすとて、「吾妻人こそいひつることは頼まるれ。都の人は言受けのみよくて、實なし。」といひしを、
東国の武士であった尭蓮上人のもとを訪れた郷里の人が、「東国の人は言ったことは守るから信頼できるが、京の人は口先だけで約束を守らない」と言った。
それに対して尭蓮上人は、自分も最初はそう思ったが、長く住んでいるうちにそうとも言い切れないと思うようになったと答える。
その理由を聞いて、兼好法師は尭蓮上人を大きく評価する。
そうは言ってもやっぱり京都の人は難しいという、高森師範の痛い体験談もついてます!
兼好法師の教養論「徒然草気まま読み」#155
今回扱うのは、第百二十二段。
冒頭を紹介すると…
人の才能は、文明らかにして、聖の教へを知れるを第一とす。次には手かく事、旨とする事はなくとも、これを習ふべし。學問に便りあらむ爲なり。
人の学問・才芸としては、古典を学び、聖人の教えを詳しく知っていることが第一に重要で、その次は文字を上手に書くことが大事だと兼好は言う。
さらにこれに続けて、重要なものを順番に挙げていくのだが、ここに兼好らしく、しかも現代に通じる価値観が表れてくる。
普通は「文武両道」というが、兼好はこれにもう一つの道を加える。しかもその第三の道を「武」よりも上に置き、この3つのいずれも欠けてはならないと説く。
その第3の道とは?
そしてその価値観は、実は最近出た『コロナとワクチンの全貌』にも通じている!
未練の狐「徒然草気まま読み」#154
今回扱うのは、第二百三十段。
全文を紹介すると…
五條の内裏には妖物(ばけもの)ありけり。藤(とうの)大納言殿語られ侍りしは、殿上人ども、黑戸にて棊をうちけるに、御簾をかゝげて見る者あり。「誰(た)そ。」と見向きたれば、狐、人のやうについゐてさしのぞきたるを、「あれ狐よ。」ととよまれて、まどひ逃げにけり。未練の狐化け損じけるにこそ。
現代語で「未練」とは、「未練がましい」とか「未練たらたら」といった使い方しかしないが、ここでいう「未練」は「熟練」の反対語。
まだ未熟で、人に化け損ねた狐を見たという人の話。
一方で現代人に通じる、あるいはそれ以上の合理的思考を見せる兼好だが、もう一方ではこんなおとぎ話のような出来事を疑いもせず事実扱いしているのも、面白いところ。
人生は不確実なり「徒然草気まま読み」#152
今回扱うのは、第百八十九段。
前半を紹介すると…
今日はその事をなさむと思へど、あらぬ急ぎまづ出で來て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人はきたり、頼みたる方のことはたがひて、思ひよらぬ道ばかりはかなひぬ。
人生の真実を端的に言い表した一段。
人生は思い通りには行かない。あてになるものなどない。
といっても、決してネガティブにもならずニヒリズムにも陥らず、フラットな視点で語っているのが特徴。
狆(チン)に似た僧侶「徒然草気まま読み」#148
今回扱うのは、第百二十五段。
前半を紹介すると…
人に後れて、四十九日(なゝなぬか)の佛事に、ある聖を請じ侍りしに、説法いみじくして皆人涙を流しけり。導師かへりて後、聽聞の人ども、「いつよりも殊に今日は尊くおぼえ侍りつる。」と感じあへりし返り事に、ある者の曰く、「何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなむ上は。」といひたりしに、あはれもさめてをかしかりけり。
いつの時代にも、決して悪気はないのだろうが、徹底的に空気が読めず、完全に的外れな発言をして場を白けさせてしまう人というのはいるもの。
故人の四十九日の法要に、ある高僧を招いたところ、その説法が素晴らしく、皆涙を流して聞き入った。
僧が帰った後も、その感動冷めやらない人々が口々にその思いを語っていたところ、空気の読めない人が一人いて…
前回紹介した話に引き続き、兼好のツッコミが楽しい。この段は後半の話と合わせてツッコミニ連発!
下手なとぼけ方「徒然草気まま読み」#147
今回扱うのは、第九十段。
全文を紹介すると…
大納言法印のめしつかひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常にゆき通ひしに、ある時いでて歸り來(きた)るを、法印、「いづこへ行きつるぞ。」と問ひしかば、「やすら殿の許(がり)まかりて候。」といふ。「そのやすら殿は、男(をのこ)か法師か。」とまた問はれて、袖かき合せて、「いかゞ候らむ。頭をば見候はず。」と答へ申しき。などか頭ばかりの見えざりけむ。
この時代には同性愛に対して非常に大らかだったという文化を伝えている一段。
大納言法院というくらいの高い僧侶が、乙鶴丸という稚児を目にかけていた。
というか、はっきり言えばこの二人は男色の関係にあったわけだが、その乙鶴丸に、他に男が出来たらしく、しょっちゅう通っていくので、ある時大納言法院、そのことを問い質したら…
最後の兼好のツッコミも面白い。
豆と豆殻の会話「徒然草気まま読み」#145
今回扱うのは、第六十九段。
一部紹介すると…
書寫の上人は、法華讀誦の功積りて、六根淨にかなへる人なりけり。旅の假屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮る音の、つぶ\/と鳴るを聞きたまひければ、「疎からぬ己等しも、うらめしく我をば煮て、辛(から)き目を見するものかな。」といひけり。
兼好法師はかなり合理的な人というイメージがあるが、たまに不思議な話も書いている。
これもその一つで、仏教最高の経典とも言われる法華経を読み続け、心身全て清らかな境地に至った上人には、普通の人民にはとてもできない特殊な能力が備わるという話なのだが、その特殊な能力というのがなんと…
信心や修行についての話となると、ちょっと扱いが変わってくるところが面白い。
夜の魅力「徒然草気まま読み」#144
今回扱うのは、第百九十一段。
冒頭部分を紹介すると…
夜に入りて物のはえ無しといふ人、いと口惜し。萬の物のきら、飾り、色ふしも、夜のみこそめでたけれ。晝は事そぎ、およすげたる姿にてもありなむ。夜はきらゝかに花やかなる裝束いとよし。
兼好の独特の美意識、価値観が表れている一段。
見るもの、聞くもの、匂うもの、その全てにおいて昼よりも夜の方がいいと兼好は絶賛。
夜の魅力がわからない人は、残念な人だとまで言い切る。
もちろん当時の夜といえば、灯りはごくわずかで暗闇に近い世界。
それでも夜の方が断然いいと言い切るのはなぜか?
もしかしたら、そこには現代人が忘れている感覚があるのかもしれない。
寸陰惜しむ人なし「徒然草気まま読み」#143
今回扱うのは、第百八段。
冒頭部分を紹介すると…
寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人の爲にいはば、一錢輕しと雖も、これを累ぬれば貧しき人を富める人となす。されば商人(あきびと)の一錢を惜しむ心切なり。刹那覺えずといへども、これを運びてやまざれば、命を終ふる期(ご)忽ちに到る。
ほんのちょっとの時間を無駄にしても、それを惜しむ人はいない。
しかし、人生はほんのちょっとの時間の積み重ね。
これくらいの時間の浪費くらい、大したことないと思っていたら…
「徒然草」の中でも、何度も繰り返し語られるテーマ。
それほどに重要な、それでいて、日常の中でつい忘れてしまう、だからこそ何度でも、いろんな表現で繰り返して言っておかなければならないと兼好が思っていたのであろう真理。
荒れたる宿の「徒然草気まま読み」#142
今回扱うのは、第百四段。
冒頭部分を紹介すると…
荒れたる宿の人目なきに、女の憚る事あるころにて、つれづれと籠り居たるを、ある人とぶらひ給はむとて、夕月夜のおぼつかなき程に、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことごとしく咎むれば、げす女のいでて、「いづくよりぞ。」といふに、やがて案内せさせて入りたまひぬ。
ある女性が人目をはばかって粗末な家に侘び住まいをしていた。
そこに高貴な身分の男性が、夕暮れの月あかりの中を忍んで訪ねてきた。
情景描写が非常に細かく、情感たっぷりに語られる男女の切ない一夜のお話。
この段は、兼好が伝聞等から既述した小説的なものというのが通説。
しかし泉美さんは作家の感性と探偵の分析力で、今まであまり言われていない、しかし説得力のある新解釈を披露!
又五郎の凄さ「徒然草気まま読み」#141
今回扱うのは、第百二段。
前半部分を紹介すると…
尹(いんの)大納言光忠入道、追儺の上卿(しゃうけい)を務められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎をのこを師とするより外の才覺候はじ。」とぞ宣ひける。かの又五郎は老いたる衞士の、よく公事に馴れたる者にてぞありける。
宮中で大晦日に行われる重要な行事の実行責任者を務めることになった尹大納言光忠入道、滅多にあることではないので、どうすればいいのかと、その式次第を洞院右大臣に聞いたところ、又五郎に聞く以外にないとの答え。
上級貴族が一目置く、その又五郎とは誰か?
身分に関係なく、現場の人物の能力を正当に評価しているところに注目。
待つのは老いと死「徒然草気まま読み」#136
今回扱うのは、第七十四段。
前半部分を紹介すると…
蟻の如くに集りて、東西にいそぎ南北に走る。貴(たか)きあり、賎しきあり、老いたるあり、若きあり、行く所あり、歸る家あり、夕にいねて朝に起く。營む所何事ぞや。生を貪り利を求めてやむ時なし。
徒然草の基調を為しているといえる一段。
どんな人にとっても確実なことは、老いと死が必ず訪れることである。
この現実に向き合わずに日々を過ごしている人が、いかに多いことだろうか?
コロナ禍で初めて自分の死を意識して、パニックを起こしてコロナ脳になり、いや、死にたくない、ゼロコロナだ! と血迷っている現代の人々を兼好が見たら、どう思うだろうか?
だが一方で兼好は、決して虚無感に浸っていたわけではない。
一筋縄ではとらえきれぬ、その人生観・死生観とは?
「悪事のついで」徒然草気まま読み#131
今回扱うのは、第二百九段。
全文を紹介すると…
人の田を論ずるもの、訟(うた)へにまけて嫉(ねた)さに、その田を刈りて取れとて、人をつかはしけるに、まづ道すがらの田をさへ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは。」といひければ、刈るものども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事せむとてまかるものなれば、いづくをか刈らざらむ。」とぞいひける。ことわりいとをかしかりけり。
田んぼの所有権をめぐる争いで訴訟を起こし、負けた男がその腹いせに、人を使ってその田の稲を刈り取ってしまおうとした。
ところが命じられた者たちが、その道すがらにある無関係の田の稲まで刈り取ろうとしたので、それを止めようとしたら思わぬ「正論」で反論されてしまう。
ちょっとした小噺みたいな滑稽味のある一段。
しかもこの話には、一説には意外な解釈もあって…
「珍しい鳥獣は不要」徒然草気まま読み#130
今回扱うのは、第百二十一段。
冒頭部分を紹介すると…
養ひ飼ふものには馬、牛。繋ぎ苦しむるこそ痛ましけれど、なくて叶はぬ物なれば、如何はせむ。犬は守り防ぐつとめ、人にも優りたれば、必ずあるべし。されど家毎にあるものなれば、ことさらに求め飼はずともありなむ。
極めて合理的に、不要なものははっきり不要だと判断を下す兼好法師。
前回はむやみに有難がられていた「舶来品」を要らないと断定したが、続いて今回は、家畜・ペットなどの動物について語っている。
ここで注目したいのは、兼好法師の動物に対する想像力の深さとそれに基づく優しさ。
なぜ兼好は珍しい鳥獣を飼うことに異議を唱えているのか?
それは、単に無駄だとか、役に立たないとかいう理由ではないのである。
「舶来品は不要」徒然草気まま読み#129
今回扱うのは、第百二十段。
全文を紹介すると…
唐の物は、藥の外はなくとも事かくまじ。書どもは、この國に多くひろまりぬれば、書きも寫してむ。もろこし船の、たやすからぬ道に、無用のものどものみ取り積みて、所狹く渡しもて來る、いと愚かなり。遠きものを寶とせずとも、また得がたき寶をたふとまずとも、書にも侍るとかや。
舶来品をありがたがる傾向は、兼好法師の時代にもあったようだ。
この時代に重宝された海外の文物といえば、もちろんシナ渡来のものということになるわけだが、あくまでも本質的なことを重んじる兼好法師、シナのものだからということだけでありがたがることはない。国内のもので十分だと一蹴である。
とはいえ、決して「排外主義」的な感覚で言っているわけではないというところにも注目しよう。
「宝剣と御剣」徒然草気まま読み#125
今回扱うのは、第百七十八段。
全文をご紹介すると…
ある所の侍(さぶらひ)ども、内侍所〔宮中内侍所、鏡を奉安せる所〕の御(み)神樂を見て人に語るとて、「寶劒〔三種の神器の一なる天叢雲劒〕をばその人ぞ持ち給へる。」などいふを聞きて、内裏なる女房の中に、「別殿の行幸(ぎゃうかう)には、晝御座(ひのござ)の御劒(ぎょけん)にてこそあれ。」と忍びやかにいひたりし、心憎かりき。その人、ふるき典侍なりけるとかや。
宮中の故実に関わるお話。
宝鏡を安置している内侍所で行われる御神楽を見たある侍が、貴重な経験に興奮し、そのことについて話をしていたが、知識が足りないため間違ったことを言っていた。
それが耳に入った女官、その間違いを訂正しながら、侍が気を悪くしないようにしようとして行ったこととは?
細やかな心配りも、そしてそこに共感する兼好にも微笑ましさを感じる一段。
「小野小町の偽書」徒然草気まま読み#124
今回扱うのは、第百七十三段。
全文をご紹介すると…
小野小町がこと、極めてさだかならず。衰へたるさまは、玉造といふ文に見えたり。この文清行(きよゆき)が書けりといふ説あれど、高野大師の御作(おんさく)の目録に入れり。大師は承和のはじめにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後のことにや、なほおぼつかなし。
絶世の美女として名高い小野小町だが、その晩年は美貌も衰え、極めて不遇だったと伝えられている。
その様子を書いたとされるのが『玉造小町壯衰書』という漢文の著作だが、現在ではこれは小野小町のことを書いたものではないとされている。
そして、『玉造』が小野小町に関しては「偽書」であるとした、最初かも知れない指摘が徒然草のこの段。では、その根拠は?
日本における、極めて古い文献検証の一例をご紹介。
「清げなる男」徒然草気まま読み#118
今回扱うのは、第四十三段。
短いので、全文をご紹介。
春の暮つかた、のどやかに艷なる空に、賤しからぬ家の、奧深く木立ものふりて、庭に散りしをれたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子を皆下して、さびしげなるに、東にむきて妻戸のよきほどに開(あ)きたる、御簾のやぶれより見れば、かたち清げなる男(をのこ)の、年二十ばかりにて、うちとけたれど、心にくくのどやかなる樣して、机の上に書をくりひろげて見居たり。いかなる人なりけむ、たづね聞かまほし。
徒然草の中でも、いったい何が言いたいんだろうと首をかしげてしまう、なんとも不可解な話。
ある晩春の頃、のどかで優雅な雰囲気の空の下を歩いていた兼好。特に気になる家が目に入って、それで取った行動とは…?
もしかして兼好って、アブナイ人だったのか?
あまりに奇妙なため、様々な解釈を生んでいる異色の段。
こんな一面もあったのかという、不思議な兼好をご紹介。
「古さの名誉」徒然草気まま読み#117
今回扱うのは、第九十九段。
短いので、全文をご紹介。
堀河の相國は、美男のたのしき人にて、その事となく過差を好み給ひけり。御子基俊卿を大理(だいり)になして、廳務を行はれけるに、廳屋の唐櫃見苦しとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃は、上古より傳はりて、そのはじめを知らず、數百年を經たり。累代の公物、古弊をもちて規模とす。たやすく改められ難きよし、故實の諸官等申しければ、その事やみにけり。
どんなに経済的に裕福であろうと、あるいは権力を持っていようと、踏み越えられない一線がある。
簡単に変えてはいけないものがある。
そのことを、誰もが自然にわきまえていたということがわかる一段。
日本に保守主義というものがあるとしたら、その源流だともいえるような話だが、現代の日本の「保守」に、この感覚はあるだろうか?
「はっきりと答えよう」徒然草気まま読み#113
今回扱うのは、第二百三十四段。
冒頭部分を紹介すると…
人の物を問ひたるに、知らずしもあらじ、有りのまゝにいはむはをこがましとにや、心まどはすやうに返り事したる、よからぬ事なり。
人がものを聞いて来た時は、それが誰でも知っているような、わかりきったことであっても、ぞんざいな答え方をしてはいけない。じっくり、はっきりと答えるべきであると兼好法師は言う。それはなぜなのか?
「ごーまんかましてよかですか?」に匹敵するような兼好の決めゼリフも登場し、日常で誰もがついやってしまいそうな行動を戒める。
「賢しらは見苦しい」徒然草気まま読み#112
今回扱うのは、第二百三十二段。
冒頭部分を紹介すると…
すべて人は、無智無能なるべきものなり。ある人の子の、見ざまなど惡しからぬが、父の前にて、人と物いふとて、史書の文をひきたりし、賢(さか)しくは聞えしかども、尊者の前にては、然(さ)らずともと覺えしなり。
最初の部分、決して全ての人は無知無能であるのが良い状態であると言っているわけではない。無知無能に見えるくらいがいい、という程度に解釈しておくべきだろう。
イケメンな人が、知識のあるところを見せようとして、賢そうに見せたとしても、さらに知識のある人の前においては、かえって見苦しくなってしまう。
若い人、見栄えのいい人には特に注意しておいた方がいいこととして、さらにエピソードを挙げて語っていくのだが、なんかそこに、兼好のひねくれた一面が見えるような、見えないような…?
「上には上がある」徒然草気まま読み#109
今回扱うのは、第百七十七段。
前半を紹介すると…
鎌倉の中書王にて御鞠ありけるに、雨ふりて後、未だ庭の乾かざりければ、いかゞせむと沙汰ありけるに、佐々木隱岐入道、鋸の屑を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土のわづらひ無かりけり。「取りためけむ用意ありがたし」と、人感じあへりけり。
親王の御所で蹴鞠が催されることになっていたのだが、雨が降って庭がぬかるみになっていた。そこに佐々木隱岐入道がおがくずをたくさん車に積んで持ってきて庭に敷いたので、蹴鞠を行うことができた。
用意のいい人だと、皆が感心してその話をしていたのだが、その評判がたった一言でひっくり返る。
思い込みで評価をしていたら、簡単なことで足をすくわれる。
なんだかいつでもどこでも起こりそうな話で、用心用心。
「慈悲の心」徒然草気まま読み#108
今回扱うのは、第百二十八段。
冒頭を一部紹介すると…
雅房大納言は、才賢く、善き人にて、大將にもなさばやと思しける頃、院の近習なる人、「只今、淺ましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色も違(たが)ひ、昇進もしたまはざりけり。
動物に対しても、どんな小さなもの、弱き者、愚かな者にも、小さきもの、弱き者、愚かな者だからこそ情けを掛けなければならない。
元・武士であったことの片鱗をうかがわせる場面も時々見せる兼好だが、ここではまさに法師らしい慈悲の心を語る。
そして、このような境地に至ったからこそ武士を捨てたのではないかとも思わせる一段。
吉凶は人による「徒然草 気まま読み」#106
今回扱うのは、九十一段。
前半を紹介すると…
赤舌日(しゃくぜつにち)といふ事、陰陽道(おんみゃうだう)には沙汰なき事なり。昔の人これを忌まず。この頃、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末通らずといひて、その日言ひたりしこと、爲(し)たりし事、叶はず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日(きちにち)を選びてなしたるわざの、末通らぬを數へて見んも、亦等しかるべし。
中世の人間というと、「陰陽道」などを信じているようなイメージがあるが、兼好に関してはそんな様子は全くなく、非常に合理的。
むしろ、現代の我々の方が「信心深い」のではないかと思ってしまう。
ついつい縁起のいい日を選んだり、ゲンをかつぐということを、誰もがしていないか?
「吉凶は人による」そう言い切れる人は、どれだけいるだろうか?
今でしょ!「徒然草 気まま読み」#104
今回扱うのは、五十九段。
前半部分を紹介すると…
大事を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
ここでは具体的には出家を決意した人について語っているが、現代の我々の心構えとしても完全に通用する。
何か大事なことをやろうと決心しながらも、いざ実行に移そうとすると何かと気にかかることがあってなかなか踏み出せないということはある。
しかし、そんなことを言っていたら、一生いつまでもできっこない。いつやるの?今でしょ!
…と、ここまでなら、塾の講師からでも聞きそうな話だが、見どころは後半。
今すぐやるしかない、その理由として兼好が言うことは実に激烈!
そう考えれば、確かに今すぐやるしかない!
人の心の弱さ「徒然草 気まま読み」#102
今回扱うのは、五十八段。
冒頭のみ紹介すると…
「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり人に交はるとも、後世を願はむに難かるべきかは」と言ふは、更に後世知らぬ人なり。
仏門に入って修行をしているからといって、物欲など世俗の価値観、欲求から離れられるわけではないと、兼好はいう。
確かに現実はそのとおりで、人の心は弱い。この段の兼好は、人の心の弱さには寛容である。
しかし、だからといって、決して仏道を歩むことが無意味だと言っているわけではない。
人の心の弱さを認めた上で、さらにその先がある。
花は盛りのみか 『徒然草 気まま読み』#97
今回扱うのは、第百三十七段。
冒頭部分のみ紹介すると…
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を戀ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。
徒然草の中でも最も長文の一段。
その内容も、徒然草全体のエッセンスともいうべきものとなっている。
花は盛りのときだけを、月は曇りなく輝いているときだけを見るものだろうか?いや、決してそうではないという、兼好法師の美意識が存分に語られる。
そして終盤ではややいきなりテーマが変わり、兼好法師の死生観が語られる。
誰も死から逃れられるものはない。いま生きているのは偶然であり、若くても強くても、死は不意にやってくる。
ひたすら死から目を背ける生命至上主義の現代人は、これをどう読むのだろうか?
人の心のうつろい 『徒然草 気まま読み』#91
今回扱うのは、第二十六段。
全文を紹介すると…
風も吹きあへず移ろふ人の心の花に、馴れにし年月をおもへば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になり行くならひこそ、亡き人の別れよりも勝りて悲しきものなれ。
されば白き絲の染まむ事を悲しび、道の衢(ちまた)のわかれむ事を歎く人もありけんかし。堀河院(ほりかはのいん)の百首の歌の中に、
むかし見し妹が垣根は荒れにけり 茅花(つばな)まじりの菫のみして(=藤原公實の歌)
さびしきけしき、さること侍りけむ。
詩のように美しく、緊張感も漂っている一段。
人の心が変わって離れていくことは、死別するより悲しいものだ。
決して悟りすましていない兼好法師の傷つきやすい繊細な感覚と、ロマンチシズムにあふれた名文をじっくり味わってみよう。