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神社のすすめ 『徒然草 気まま読み』#90
今回扱うのは、第二十四段。
全文を紹介すると…
齋王の、野の宮におはします有樣こそ、やさしく、面白き事の限りとは覺えしか。「經」・「佛」など忌みて、「中子(なかご)」、「染紙(そめがみ)」などいふなるもをかし。
すべて神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。ものふりたる森の景色もたゞならぬに、玉垣しわたして、榊木に木綿(ゆふ)かけたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴船(きぶね)・吉田・大原野・松尾(まつのを)・梅宮(うめのみや)。
法師である兼好が、神社を褒めているというところが面白い。
しかも、最後に特によい神社を列挙していて、それがかなりの数に上っている。
果して、兼好は神社のどこにそんなに惹かれたのか?
そして、この時代の仏教と神社の関係性は?
などなど、興味深い話が登場!
恋の深淵 『徒然草 気まま読み』#89
今回扱うのは、第二百四十段。
全体に名文だが、特に格調の高い結論部分だけ紹介すると…
梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣(みかき)が原の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。
うまくいく恋などつまらない、障害があってこそ恋は燃え上がる。
当時の寿命を考えると既に「老人」の域に入っていたはずの兼好だが、恋について語る感覚は若者のようにロマンティックである。
それは、現在の人間よりも情熱的だとさえいえるものがある。
興味の湧いた人は、ぜひ全文を原文で読んでみよう!
空振りの話 『徒然草 気まま読み』#88
今回扱うのは、第五十四段。
途中まで紹介すると…
御室(おむろ)に、いみじき兒のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむと企(たく)む法師どもありて、能あるあそび法師どもなど語らひて、風流の破籠(わりご)やうのもの、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、雙(ならび)の岡の便りよき所に埋(うづ)み置きて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、兒をそゝのかし出でにけり。
前回・前々回に続いて、今回も仁和寺の法師の失敗談。
そんなに、仁和寺には変わった法師が多かったのだろうか?「御室」は仁和寺の別称。出家後の宇多天皇が、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室御所」と呼ばれる。
そんな皇室ともゆかりの深い寺なのだが、当時の寺は女人禁制、男だけの世界。
そこには、ある種の同性愛的な感覚があった。
ある時、仁和寺にたいそう評判の稚児がいた。法師たちは、その稚児の気を引きたくてしょうがなく、一計を案じる。
なんだか僧侶というより、ほとんど男子高校生みたいなノリなのだが、はたしてどうなる?
酒の大失敗 『徒然草 気まま読み』#87
今回扱うのは、第五十三段。
途中まで紹介すると…
これも仁和寺の法師、童の法師にならむとする名殘とて、各遊ぶことありけるに、醉ひて興に入るあまり、傍なる足鼎をとりて頭にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおしひらめて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、滿座興に入ること限りなし。
しばし奏でて後、拔かむとするに、大かた拔かれず。酒宴ことさめて、いかゞはせむと惑ひけり。
前回に続いて、今回も仁和寺の法師の話。
仁和寺には変わった法師が多いのか? と思わせる、愉快そうな話かと思ったら、だんだんシャレにならないことになっていく。それでも途中までは滑稽味も漂っているのだが、その行き着く先は…
第84回で扱った第八十七段とも共通する酒をめぐる失敗談だが、酒によるちょっとの気のゆるみが、下手をしたら命とり。くれぐれも酒には気をつけよう!
物知り顔はしない 『徒然草 気まま読み』#82
今回扱うのは、第七十九段。
全文を紹介すると…
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は知りたる事とて、さのみ知りがほにやは言ふ。片田舎よりさしいでたる人こそ、萬の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば世に恥しき方もあれど、自らもいみじと思へる氣色、かたくななり。
よく辨(わきま)へたる道には、必ず口おもく、問はぬかぎりは、言はぬこそいみじけれ。
ものをよく知っているのはいいことではあるけれども、本当に立派な人は、いかにも自分はものを知っているという様子でそれを話すだろうか?
今回も兼好の美意識が短い文章によく表れる。
決して厳しく非難するようなことでもないけれども、しかしそれは、野暮じゃないか?
ちょっと心しておいたほうがいいかも。
話題の扱い方 『徒然草 気まま読み』#81
今回扱うのは、第七十八段。
全文を紹介すると…
今樣の事どもの珍しきを、いひ廣め、もてなすこそ、又うけられね。世にこと古(ふ)りたるまで知らぬ人は、心にくし。今更の人などのある時、こゝもとに言ひつけたる言種(ことぐさ)、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見あはせ、笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず、よからぬ人の、必ずあることなり。
今回も前回に続いて、「情報」というものはどう扱うべきと兼好が考えていたかがうかがい知れる段。新しいもの、珍しいものにすぐ飛びついて「拡散」させることは好ましくないと考えているところなどはいかにも兼好らしい。
でも、「新しもの好き」もそんなに悪くはないんじゃないかなあ…?
気を回しすぎるな 『徒然草 気まま読み』#79
今回扱うのは、第二百三十一段。
園の別当入道という、類ない料理の名人がいた。ある時、立派な鯉が手に入ったので、みな別当入道の包丁さばきを見たいと思ったのだが、それを言い出せなくて躊躇していたところ、別当入道はその空気を察して、自ら理由を作って料理を買って出た。
皆、その心遣いにさすがだとうなったのだが、その話を聞いた北山太政入道は、全く違う評価を下した。
いかにも日本人らしい、人に対する気遣い、心遣い。
決してそれ自体がいけないというわけではないのだが、それをするにもセンスというものが要る。
そこがスベると、かえって鼻につくものになってしまう。
なかなか微妙で、機微に触れるエピソード。
玉は淵になぐべし 『徒然草 気まま読み』#75
今回扱うのは、第三十八段。
冒頭部分を紹介すると…
名利に使はれて、靜かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ、煩ひを招く媒(なかだち)なり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人の爲にぞ煩はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しび、又あぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金は山にすて、玉は淵になぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
この段には、兼好法師の極めてラジカルな面が表れている。
そこには、序に「徒然なるままに」というような、することもなく手持ち無沙汰だから書いているといった感覚とは全く異なる、尖った若々しい感性がある。
そしてそれは、真に人生を大切に考え、人生を輝かせることを阻んでいるのは何なのかということを真剣に考えたからこそ到達した心境なのである!
無駄話 『徒然草 気まま読み』#74
今回扱うのは、第百六十四段。
全文を紹介すると…
世の人相(あい)逢ふ時、しばらくも默止することなし。必ず言葉あり。そのことを聞くに、おほくは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。これを語る時、互の心に無益のことなりといふことを知らず。
前回紹介した第二百三十三段にも、「言葉すくなからんには如かじ」と自制の勧めがあったように、兼好法師は無駄に口数が多い人を特に嫌う。
この段でも、短い文章で無駄話をすることを手厳しく非難しているのだが、ふと考えてみると、そう言っている兼好に対してもちょっと疑問が…。
雪の朝の手紙 『徒然草 気まま読み』#70
今回扱うのは、第三十一段。
全文を紹介すると…
雪の面白う降りたりし朝、人の許(がり)いふべき事ありて文をやるとて、雪のことは何ともいはざりし返事に、「この雪いかゞ見ると、一筆のたまはせぬ程の、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは、かへすがえす口惜しき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。
雪の降る趣深い朝に送った手紙のやり取りをめぐる、ちょっとしゃれたお話。ほんの些細な出来事なのだが、それを印象に留めて書き記している兼好法師の情緒がしのばれ、その手紙の相手の人となりや、関係性までいろいろ想像したくなってくる、微笑ましい一段。
大事なことを後に回すな 『徒然草 気まま読み』#66
今回扱うのは、第四十九段。
前段を紹介すると…
老來りて、始めて道を行ぜんと待つ事勿れ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬる方のあやまれる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。その時悔ゆとも、甲斐あらんや。
人生の誤りとは、重要なことを後回しにして、どうでもいいことを優先してやることである。
今はその時ではない、いずれ時が来たらやろう、などと言っていたら、結局やらないうちにこの世を去ることになってしまう。その時に後悔したところで、どうにもならないのだ。
兼好は「仏道」について言っているが、これはもちろん、何についても言えること。人は時間を無限に持っているわけではなく、いつも死が隣にあることを意識していないと、何もしないで人生を終えることになってしまう。
後段では、兼好のちょっと狂的な感覚がうかがえるエピソードが紹介される。
過ぎたる欲望を捨てよ 『徒然草 気まま読み』#65
今回扱うのは、第二百四十二段。
全文を紹介すると…
とこしなへに、違順につかはるゝ事は、偏(ひとえ)に苦樂の爲なり。樂といふは好み愛する事なり。これを求むる事 止(や)む時無し。樂欲(ごうよく)するところ、一つには名なり。名に二種あり。行跡と才藝との誉(ほまれ)なり。二つには色欲、三つには味(あじわい)なり。萬の願ひ、この三つには如(し)かず。これ顛倒の相より起りて、若干(そこばく)の煩ひあり。求めざらむには如かじ。
ラス前で、特に心がこもっている感じもする一段。
これが徒然草で最後まで残ったテーマと言えるかもしれない。<br>人の欲望には限りがない。名誉欲、色欲、そして食欲。
これが過ぎると、人は不幸になる。
徒然草に通して書かれてきたリアルな人間観察・分析の中に、仏教の教えや兼好の価値観が端的に表れている。
めでたい秋の月 『徒然草 気まま読み』#64
今回扱うのは、第二百十二段。
全文を紹介すると…
秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべきことなり。
秋の月はほかの季節と違ってことさらに美しいという日本人の美的感覚は、いつできたのだろうか?もしかしたらそれは、徒然草のこの段の影響かもしれない。
さらに話は広がって、昨年の天皇陛下御即位の「祝賀御列の儀」について触れる。
秋の月は特別という感覚と、祝賀御列の儀の際の皇后陛下のご表情や、天皇陛下のふるまいに感じた思いとの、その共通点とは?
客の心得 『徒然草 気まま読み』#63
今回扱うのは、第百七十段。
最初の部分のみ紹介すると…
さしたる事なくて人の許(がり)行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。
大した用もなく人を訪ねるのはよくない。用があって行ったとしても、用事がすんだらすぐ帰るべきである。
…とは言っているが、一度言ったことを杓子定規に何でもかんでもに当てはめるということはせず、一見、矛盾しているようなことをすぐ後に書いたりするのも徒然草。
ここでは、「客に行くとき」と「客を迎えるとき」で違うことを言っている。またそれが、兼好法師の懐の深さなのかも。
古典のすすめ 『徒然草 気まま読み』#62
今回扱うのは、第十三段。
全文を紹介すると…
ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするこそ、こよなう慰むわざなる。
文は文選(もんぜん)のあはれなる卷々、白氏文集(=白樂天の詩文集)、老子のことば、南華の篇。この國の博士どもの書けるものも、いにしへのは、あはれなる事多かり。
「読書のすすめ」という題にしてもいいのだが、引き合いに出されているのはすべて古典である。
それにつけても問題なのは現代の、「古典のすすめ」どころか「読書」そのものが廃れてしまっている傾向である。
読書の魅力を小学生くらいのうちに味わっておかないと、読書の習慣をつけるのは難しい。
これは親と学校が頑張らなければならないことなのだが…
心を慰めるもの 『徒然草 気まま読み』#60
今回扱うのは、第二十一段。
前段部分を紹介すると…
萬の事は、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものは有らじ」と言ひしに、またひとり、「露こそあはれなれ」と爭ひしこそ、をかしけれ。折にふれば何かはあはれならざらん。
ある人は、見て最も心を慰められるものは月だといい、ある人は露だと言い争う。
現代では考えられない論争で、時代の違いを感じさせられるが、逆に言えば現代人は何もせずに花鳥風月を眺めるような「すき間の時間」を持つ心の余裕を失っているのではないだろうか?
凶相の理由 『徒然草 気まま読み』#57
今回扱うのは、第百四十六段。
全文を紹介すると…
明雲座主、相者(さうじゃ)に逢ひ給ひて、「己(おのれ)若し兵仗の難やある」と尋ねたまひければ、相人、「實(まこと)にその相おはします」と申す。「いかなる相ぞ」と尋ね給ひければ、「傷害の恐れおはしますまじき御身にて、假にもかく思しよりて尋ね給ふ。これ既にそのあやぶみの兆なり」と申しけり。はたして矢にあたりて失せ給ひにけり。
「虫の知らせ」というものがある。
する必要がないはずの心配が、心の中に沸いてきて、不安でしょうがなくなってきたりする。
それはほんの気のせい、取り越し苦労か?
いや、そんな不安を感じた時点で、実は危機的状況になっているのだ…という、ちょっと怖くなってくる話。
神になった業平 『徒然草 気まま読み』#56
今回扱うのは、第六十七段。
一部を紹介すると…
賀茂の岩本、橋本は、業平・實方(藤原實方)なり。人の常にいひ紛(まが)へ侍れば、一年(ひととせ)參りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止(とゞ)めて、尋ね侍りしに、「實方は、御手洗に影の映りける所と侍れば、『橋本や、なほ水の近ければ』と覺え侍(はべ)る。吉水和尚の、
月をめで花をながめし古(いにしえ)の やさしき人は こゝにあり原
と詠みたまひけるは、岩本の社とこそ承りおき侍れど、己(おのれ)らよりは、なかなか御存じなどもこそさぶらはめ」と、いと忝(うやうや)しく言ひたりしこそ、いみじく覺えしか。
上賀茂神社の岩本社には、在原業平が祀られている。
実在の人間を神として祀っているわけである。
人をご祭神とする神社といえば、まず思い浮かぶのが靖国神社。他には楠正成を祀る楠公神社などがあるが、これは明治以降の政治目的によってつくられた、新しい信仰だなどと非難する者がいる。
しかし、人を神とするのは決して「新しい伝統」ではないのだ。
心惑わす色欲 『徒然草 気まま読み』#55
今回扱うのは、第八段。
全文を紹介すると…
世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥え膏(あぶら)づきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。
時代を超えた古典には、現代にもそのまま通用する普遍性がある。
そしてその作者について、何世紀も前の人とは思えないような親しみを感じるところがある。
今回紹介する段は、まさにその二つの特徴が良く表れている。
とにかく、人間というものは「色欲」には逆らえない。
これはまさしく兼好の人間観察からも、そしておそらく兼好自身の体験からも導かれた、どんなに時代が移っても変わらない真理!
そして、このような体の人であれば、もう一層逆らえない…と言っているあたり、それは兼好の好みでは?と、隠しきれない人間性が滲んでいるところが、なんとも微笑ましい!
競争の弊害 『徒然草 気まま読み』#54
今回扱うのは、第百三十段。
結論部分を紹介すると…
人に勝らむことを思はば、たゞ學問して、その智を人に勝らむと思ふべし。道を學ぶとならば、善に誇らず、ともがらに爭ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辭し、利をも捨つるは、たゞ學問の力なり。
勝負ごとに入れ込むことの不毛を兼好は説く。
ただ勝ち負けにこだわって快感を得るということは、負けた人に不快感を味わわせて喜ぶということであり、徳に背くし、長く恨みを買うことも多く、いいことがない。
だから人に勝ちたいと思うのなら、学問をしてその智で勝てという、兼好の深い洞察。
古典に対する造詣が非常に深かった作家・田辺聖子が『古典の森へ』で語った徒然草評もご紹介!
「富む」とは何か 『徒然草 気まま読み』#52
今回扱うのは、第百二十三段。
重要な部分を紹介すると…
人の身に止む事を得ずして營む所、第一に食ふ物、第二に著る物、第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。飢ゑず、寒からず、風雨に冒されずして、しづかに過(すぐ)すを樂しみとす。但し人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、缺けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを、驕(おごり)とす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせん。
衣食住に「医」を加えているところが兼好独自の考え。この4つが揃っていれば「富」、それが満たされないのが「貧」、それ以上のものを求めるのが「驕」。実に明快な、兼好ならではの人生の価値観。
小林秀雄の「徒然草」論 『徒然草 気まま読み』#48
今回は少し趣向を変え、徒然草の本文から離れて、昭和を代表する批評家、「批評」をジャンルとして確立し、文学であり芸術であるというレベルにまで高めた小林秀雄が、早くから徒然草を絶賛していたということを紹介する。
兼好が「徒然草」で書いていたことは「批評」であり、兼好こそが自らの先駆者であると小林は見ていたようだ。
その著作集『古典と伝統について』から、そんな小林秀雄の「徒然草」論を紹介する。
そして、最後に小林秀雄がイチ押しとして挙げる徒然草の段は…?
臨機応変 『徒然草 気まま読み』#47
今回扱うのは、第二百十三段。
全文を紹介すると…
御前の火爐(かろ)に火おく時は、火箸して挾む事なし。土器(かはらけ)より、直ちにうつすべし。されば、轉び落ちぬやうに、心得て炭を積むべきなり。
八幡(やはた)の御幸に供奉の人、淨衣(じょうえ)を著て、手にて炭をさされければ、ある有職の人、「白き物を著たる日は、火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。
何事も、杓子定規に固定した考えで行動してはいけない。
しきたりというものは、それぞれに意味があって定められているものではあるが、いつどんな場合でもそのとおりにやらなければならないというわけではない。
その場の状況によって、多少正式とは異なる形となっても認められるという、余裕や寛大さはあっていいもの。
兼好なりの自由さ、柔軟さが表れた一段。
その場にはその場に合わせた振る舞いというものがある。
蜜柑に興醒め 『徒然草 気まま読み』#46
今回扱うのは、第百三十三段。
全文を紹介すると…
神無月(かみなづき)の頃、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遙かなる苔の細道をふみわけて、心細く住みなしたる庵あり。木の葉に埋(うず)もるる筧(かけい)の雫ならでは、露おとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に、菊・紅葉など折りちらしたる、さすがに住む人のあればなるべし。
かくても在られけるよと、あはれに見る程に、かなたの庭に大きなる柑子(こうじ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりを嚴しく圍ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覺えしか。
風流な情景描写が美文で綴られ、その光景が目に浮かぶよう。…と思ったら、その後に続く描写の落差に、思わず笑ってしまう一段。多分、兼好もそのギャップを目立たせようとして、前半を殊更に美文で描写したのではないか? そんな茶目っ気も感じさせられます。
古きをのみぞ慕わしき 『徒然草 気まま読み』#45
今回扱うのは、第二十二段。
全文を紹介すると…
何事も、古き世のみぞ慕はしき。今樣は、無下(むげ)に卑しくこそなり行くめれ。かの木の道の匠(たくみ)のつくれる美しき器(うつはもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
文の詞などぞ、昔の反古(ほうご)どもはいみじき。たゞいふ詞も、口惜しうこそなりもて行くなれ。古(いにしえ)は、「車もたげよ」「火掲げよ」とこそいひしを、今様の人は、「もてあげよ」「かきあげよ」といふ。「主殿寮人數(とのもりょうにんじゅ)だて」といふべきを、「立明し白くせよ。」と言ひ、最勝講なるをば、「御講(みかう)の廬(ろ)」とこそいふべきを、「講廬(こうろ)」と言ふ、口をしとぞ、古き人の仰せられし。
兼好の美意識がよく表れた一段。
言葉は時代によって変化していくが、兼好は昔ながらの正式な言い方を尊重する。
何でもかんでも古いものがいいと言ってしまうと何も前には進まないけれども、新しい時代になって行くと失われるものがあるということは、はっきり意識しておく必要があるのではないだろうか?
男として願わしいこと 『徒然草 気まま読み』#44
今回扱うのは、第一段。
有名な「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて…」の序段に続く第一段で兼好が語ることは、やはり「つかみ」を意識してか、人として、男として、望ましいこと、願わしいことは何だろうかという、間口の広い題材となっている。
一部を紹介すると…
人は、かたち・有樣の勝(すぐ)れたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向(むか)はまほしけれ。めでたしと見る人の、心(こころ)劣りせらるゝ本性(ほんじゃう)見えんこそ、口をしかるべけれ。
人品(しな)・容貌(かたち)こそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才なくなりぬれば、しな(=人品)くだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ。
兼好の思う、いい男の条件が、かなり具体的に語られている。これが『徒然草』の「入り口」である!
謎のなぞなぞ 『徒然草 気まま読み』#43
今回扱うのは、第百三十五段。
藤原資季(すけすえ)大納言入道という人物が、宰相中将・源具氏(ともうじ)に対して、「おまえさんの尋ねる程度のことなら、どんなことだって答えてみせよう」と言ったことが発端となり、話が大きくなって、御前にて争うことになり、もし資季が具氏の尋ねる問いに答えられなければ、ご馳走をするということになった。
そこで具氏が尋ねたのは、幼い時から聞いていたが、未だにわからないなぞなぞの答え。
そのなぞなぞとは
「馬のきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」
資季はついに答えられず、具氏の勝ちとなったのだが、それで、このなぞなぞの答えは?
枕の方角 『徒然草 気まま読み』#42
今回扱うのは、第百三十三段。
全文を紹介すると…
夜(よ)の御殿(おとゞ)は東御枕なり。大かた東を枕として陽氣を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寢殿のしつらひ、或は南枕、常のことなり。白河院は北首に御寢なりけり。「北は忌むことなり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかゞ」と、人申しけり。たゞし、太神宮の遥拜は辰巳に向はせ給ふ。南にはあらず。
どちらに頭を向けて寝るのがいいのか。
徒然草の時代からいろいろと言われていて、特に「北枕」は忌み避けられていた。
些細なことではあるけれども、そんな生活感覚がわかる一篇。
稽古の心得 『徒然草 気まま読み』#39
今回扱うのは、第百五十段。
一部をを紹介すると…
能をつかんとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ。内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一藝もならひ得ることなし。
ちょっと厳しいことを言っているが、言われてみればそのとおり。
こっそり練習して、上手くなったら発表しようなんて思っている人は、何事も身につけられた試しはない。
どんなに下手であろうと、失敗しようと、恥をかこうと、構わずに披露してみることこそが重要。
これ、「ゴー宣道場」にも通じる話なので、今度参加する人は見ておいてくださいね!
綽名から逃げられない 『徒然草 気まま読み』#37
今回扱うのは、第四十五段。
全文を紹介すると…
公世(きんよ)の二位の兄に、良覺僧正と聞えしは極めて腹惡しき人なりけり。坊の傍に大きなる榎の木のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を切られにけり。その根のありければ、「切杭(きりくひ)の僧正」と言ひけり。愈(いよいよ)腹立ちて、切杭を掘りすてたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池(ほりけ)の僧正」とぞいひける。
あだ名をつけられやすい人って、いる。
それはその人のキャラクターのためであって、当人がいかに気に入らなくても、そのあだ名で呼ばれないようにするための工夫をいくらやろうとも、そのキャラクターが変わらない限り一切無駄なのです!
子を持つべし 『徒然草 気まま読み』#36
今回扱うのは、第百四十二段。
一部を紹介すると…
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふ者なり。ある荒夷の恐ろしげなるが、傍(かたへ)にあひて、「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては、物のあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子故にこそ、萬の哀れは思ひ知らるれ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛(おんあい)の道ならでは、かゝるものの心に慈悲ありなむや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ親の志は思ひ知るなれ。
確か以前に扱った段では、「絶対に子供なんて持つものじゃない」と言ってたはずだが? と思った人もいるかもしれないが、これは矛盾というわけではない。兼好はケース・バイ・ケースでその時の心の赴くように書いていて、この人の場合は、子を持ってこそ人の心がわかったのだと言っているのである。
そして話はさらに続き、恥ずべきことをする人、罪を犯す人を無下に非難するのはよくない、そうするには、その人なりの事情があることを考えるべきだと説き、些細なことから話がどんどん深くなっていく。これぞ徒然草の醍醐味。
伊勢から上京した鬼 『徒然草 気まま読み』#35
今回扱うのは、第五十段。
一部を紹介すると…
應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へ参るべし。たゞ今はそこそこに」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言(そらごと)といふ人もなし。上下(かみしも)たゞ鬼の事のみいひやまず。
前回に続いて、現在の「都市伝説」を思わせる話。
伊勢から女の鬼を連れて京に上った者がいるという噂がたち、噂が噂を呼んで、京の都は騒然。
珍しいものが見れると「鬼見」に繰り出す人もいて…
前回お見せできなかった「猫又」の絵や、「鬼」のイメージの変遷がわかる絵などもお目にかけます!