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譜面確認用 Shiny Smily Story [MANIAC]
0121566
7/2 23:30追記
タイトル変更しました
ケッコンカッコカリ 秋月改二
1941/7/2 秋月進水日
彼女に「肉 食うかい?」 って言ってみたい
ただの映像記録です
mylist/67550819
日替わりラジオ-#1221【7月は快勝スタート!】
日替わりラジオ-金曜日担当は【スパークK】
7/2(木)の実戦トークです。いよいよ始まった7月戦。スパークK編集長は、低投資からの快勝で見事ロケットスタートを決めました! 記念すべき初戦に選んだ、勝利の立役者となった機種とは一体!? さらに、ラジオ後半では編集長が未来の『パチンコ版ジャグラー』について熱く妄想しています!
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劉穆之死亡! かかる暗雲【夕刊シチ 5月26日号 417年10月】
資治通鑑原文2680文字(163/365位)
【登場人物】
・メイン
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
・準メイン
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
劉義慶-6/23
【できごと】
劉裕が関中を落として起こったこと。それは関中の民の北魏亡命でした。これについては判定が難しいところです、なにせ魏書なら普通に晋の北伐を悪事としてこのあたりを盛ってくるだけの信頼があります。とは言えむやみに疑ってもしかたがありませんので、「これは実際にあった」としておきましょう。劉裕の南燕での所業を思えば、ありえない話でもありません。
さて、ここで一度、拓跋嗣自ら北燕を攻撃。民をさらい、帰還しました。そして兵糧を南方に集め始めます。劉裕にナメられたことに対する仕返しを計画し始めたようです。この動きを察知したか、過去に劉裕に滅ぼされた刁氏の生き残り、刁雍が「晋を伐ちたい」と願い出てきました。復讐の時来たれり、というわけです。
長安の劉裕に、劉穆之死亡の報がもたらされました。実のところ、北伐は劉穆之の後方調整及び支援の賜物でした。「その死によって建康の政務が回らなくなった」とありますから、ただ事ではありません。任務を引き継いだ徐羨之は指揮官ではありません。そこで劉裕は慌てて彭城に戻ります。長安を次男の劉義真に任せ、その補佐に王鎮悪をつけて。すると、直後長安を狙ってきた赫連勃勃を前に、王鎮悪は後ろから刺されて死亡。しかも、王鎮悪を殺した将は防衛軍略の片翼を担うような立場でしたが、その暴挙が理由で、やはり処刑されます。これで関中の指揮系統はズタボロとなりました。赫連勃勃にしてみれば、勝手に関中というケーキを食べやすく切り分けてもらえたようなものです。
一方、劉裕は彭城まで帰還したところで豫章郡公から宋国公に昇格しました。ここで言う「国」とは晋の臣下でありながら、独自に朝廷を持つことが許される立場です。体面では「その絶大な権力を晋のために振るってほしい」ですが、ではその内実はどうでしょうか、というわけですね。
西秦は引き続き地味に勢力拡大、北涼はいよいよ西涼に攻撃開始。このとき李歆は晋に涼公継承を報告していますが、これは実質「助けて晋えも〜ん!」的悲鳴のように思えてなりません。晋もその承認をした、という使者は送っていますが、その本心は「まぁ遠方のことだし適当にどうぞ!」程度の感覚であったのかもしれません。
武帝崩御! 継嗣は懦弱【夕刊シチ 5月30日号 421年08月】
通鑑2520文字(177/365位)
【登場人物】
・メイン
5/7-劉裕▲
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
拓跋燾-7/1
・準メイン
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
武帝、司馬徳文を暗殺。その暗殺には、妃である褚氏の兄弟に関与させました。安帝のときもそうでしたが、宋書は武帝本紀だと「死んだ」とのみ書き、列伝ではじめて詳細を載せます。皇帝の伝記はあくまで美しくなければならないようです。
そして危篤に陥ります。太子の劉義符は未だ十七歳でしたから、後見に徐羨之、傅亮、謝晦、劉道憐をつけました。そして死亡。なお謝晦は武帝存命中劉義符では皇帝にふさわしくないと言い切っています。面白いのは、このときの議論で劉義隆の名前が上がっていないことです。こうしたことから、劉義隆は才覚こそあれ母親の格的に皇位継承には値しない、とみなされていたっぽいことが匂わされます。ともあれ、劉義符が帝位を継承しました。少帝です。ちなみに皇后は司馬徳文の娘です。えげつないですね。また直後に劉道憐も死亡しました。
この年の北魏には、まだ大きな動きは現れません。ただし、これがありました。嫡子の拓跋燾を太子、監国とします。ここで監国は皇帝の代わりに政務の総取締を行う役目。当時拓跋燾は14歳です。このためその周囲は崔浩をはじめとした側近らで固められました。この動きで思い出されるものはなんでしょうか。姚興の立太子です。柴壁に向かう前の姚興が、姚泓を立てていました。では、明元帝のこの動きが示すのはなんなのか、ということです。もっともこの頃明元帝はしばしば寒食散を服用して体調を崩していたとも言いますから、単純に自らの寿命に目処が立ってしまっていただけなのかもしれません。
ところで、北涼について一つ情報を提供しておかねばなりません。わかりやすさ優先のため伏せていましたが、この頃まで沮渠蒙遜は涼王を名乗っていません。河西王、がその自称でした。このあたりには名より実を取っていた印象があります。これが奏功したか、宋より涼州刺史に任じられています。いわば、宋による涼州支配の公認です。周辺国は、南北二大国との付き合い方にかなり慎重であったことが伺われます。
二大国にしても周辺国が相手国の足を引っ張ってくれれば万々歳ですし、このあたりの時代の外交、内情を想像するだけで楽しいです――まぁ翌年、いきなり両国がぶつかるんですが。
文帝決起! 三元勲を処分【夕刊シチ 6月3日号 425年05月】
【425年05月】
資治通鑑原文3277文字(137/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃▲
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
徐羨之に傅亮、そして謝晦は文帝を立てた功績から位人臣を極めることになりました、が、これは表向きの栄華でしかありません。兄ふたりを殺した三人を、劉義隆は許すつもりがありませんでした。この気配を察知した傅亮は謝晦に警戒するよう手紙を送りました。謝晦も恐れをなし、遂には軍備を整え始めます。一方、文帝は檀道済については廃立に関わったとは言っても殺意まではなかったとして不問とし、むしろ自身の武力として頼るに至りました。そして軍備を整え、宣言します。「兄上らを殺したものの罪はその元凶のみを問うものとする」と。そして、建康にいた徐羨之および傅亮を召喚。追い詰められた徐羨之は逃げ出すも間もなくして自殺、傅亮は捕らえられ、「何故明主を立てたのに殺されねばならぬのだ!」と嘆きますが、間もなくして誅殺されます。残るは謝晦ですが、ここで文帝が檀道済に作戦を諮問しました。すると檀道済が答えます。「関中制圧戦はほぼ謝晦の主導でしたが、直接戦闘には長けていません。いざ戦いとなったら容易く捕らえられましょう」。そして、出陣。対する謝晦は徐羨之および傅亮を忠臣の死であると嘆いた上で、「陛下は琅邪王氏のものがらに騙されているのだ!」と声明を上げ、対抗しようとしますが、軍は檀道済の到着を聞くとあっさり崩壊。謝晦は囚われ、兄弟および党与もろとも処刑されました。こうして文帝は皇帝としての権威を正式に確立します。
しかし、一方でこのとき生まれた長男の相が危うい、この子は殺してしまうべきだ、と言われます。慌てて文帝はその提議を却下しました。生まれた子の名は劉劭と言います。将来に何かありますよ、という主張がかなり強いですね。いいと思います! またこの頃謝霊運や顔延之、そして僧侶の慧琳が文帝の側近となりました。とくに慧琳をうさんくさく書いています。
北魏はこの年、柔然を攻撃。一方、夏では赫連勃勃が死亡、赫連昌があとを継いでいました。このため乞伏熾磐が北魏に使者を遣わせ「いまが夏を伐つチャンスです!」と上奏しています。また仇池では楊盛が死亡、子の楊玄が立ちました。赫連勃勃の死は、西方情勢を大きく動かします。
北魏躍進! 関中を得る【夕刊シチ 6月4日号 426年05月】
通鑑2383文字(187/365位)
【登場人物】
・メイン
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
文帝、親政体制を築きます。裴松之らをはじめとした人士を各地に派遣、各地の政務の状況をヒアリングさせました。また軍務を檀道済に委ね、中央には宰相らしい宰相は置かず、王華・王曇首・劉湛・殷景仁・謝弘微の五名を謀臣として諮問役に据えました。この状況に対し、荊州時代からの参謀役という自負心のあった王華は特にがっかりとしていました。文帝としては王華や王曇首を特に褒賞したかったようではあったのですが、「罪人を討伐しただけです」と王曇首に辞退されてしまったため、この褒賞も立ち消えとなりました。王華の褒賞も一緒に。王華さん不憫。
赫連勃勃の死は、北魏国内にも夏討伐の機運を引き起こします。ただ、夏の北ではいつまでも柔然が厄介な敵として存在しています。そこで太武帝は臣下らにどちらを先に討伐すべきかを諮問しました。多くの臣下が「先に柔然です」と言いますが、その中で崔浩のみ「柔然は倒そうとしてもすぐに逃げてなかなか倒しきれません、先に国体がグズグズとなっている夏を落とすべきです」と具申しました。すると「赫連昌に守りを固められたら、その背後から柔然に襲われるぞ?」と反論を受けますが、崔浩はここで「天運がそうなっているんです」で切り捨てました。するとこの遅々として進まない議論に太武帝は激怒し、崔浩に反対した者たちを罵倒、そして夏に向けて軍を動かします。蒲阪や陝城といった洛陽から長安に向かうためのルートを次々と陥落させました。そして太武帝自身も平城より出撃。そしてこの動きに西秦も連動します。さらに南進する太武帝の前で黄河が氷結、太武帝は労せずして黄河を渡り、統万城に到着、攻撃を開始しました。ただしこのタイミングでは城を陥落させず、周辺地域を略奪の上で統万城を離れ、そのまま関中襲撃に移り、長安を陥落させます。この事態を受け、沮渠蒙遜も、楊玄も、北魏に臣従を申し出ました。
こうした動きを受け、乞伏熾磐はいまこそ北涼を弱らせる機会と北涼に侵攻しますが、沮渠蒙遜はここで赫連昌に援軍を要請、逆に西秦軍を包囲し、撤退させています。そして西秦では離反が起こったり反乱が起こったりと、周辺を攻めてる場合なの? 状態になっていきます。西方も、なかなか落ち着きません。
太武豪腕! 統万を落とす【夕刊シチ 6月5日号 427年04月】
通鑑3276文字(138/365位)
【登場人物】
・メイン
5/12-陶淵明▲
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
北魏の夏攻略がクライマックスです。前年統万城にダメージを与えるだけ与えて関中を攻撃した太武帝、再び平城より軽騎兵を率い進撃。臣下らは攻城器具を持っていかなければ落とせたものではないと諫めますが、太武帝は「やつらに守りを固める隙を与えるだけではないか。それよりも我らが敢えて弱っているよう見せかけて釣り出し、撃滅するのがよいのだ」と一顧だにしません。ただ統万城に向かう途中で既に赫連昌が守りを固めているらしい、という情報を得たため、別働隊を南に発して「北魏軍が弱っている」という偽情報をばら撒き、ついには赫連昌を城内からおびき出します。ここで太武帝はうろたえて逃亡するふりをして夏軍を更に釣り出しました。するととたんに周囲が霧に覆われ、暗くなります。臣下が太武帝に作戦を中止すべきと具申しましたが、崔浩が「愚かなことを申すな!」と一喝。太武帝もこの応酬に喜び、ついには反転、夏軍を迎撃、大破します。ここで太武帝は落馬したり手に矢を負ったりしますが、気にせず攻勢を仕掛け、赫連昌を上邽に追いやり、自身は統万城を獲得。城中の夏人らを数万人単位で捕らえ、馬や羊、財宝なども獲得します。太武帝はこうしたものを臣下に功績に応じ分配しました。
ところで太武帝は勇猛で質素で気前がよく、さらに戦の見識にも長け、かつ残虐であったそうです。うっかり臣下を殺してしまうと「やっちまった」と翌日反省することもしばしばであったとか。なんというか、魔王としか言いようがありませんね!
統万城を追われた赫連昌は上邽もまた追われ、平涼に後退。ここで一度北魏軍を撃退するのですが、第二波を受けた際に落馬、ついに囚われます。このため弟の赫連定が帝位に就き、崩壊した夏軍を再編成しました。そして更に攻撃を仕掛けてきた北魏軍を、今度は完膚なきまでに大破してのけます。太武帝はこの敗北に激怒、追撃軍の将を処刑しました。
この年、北魏よりの使者が宋に訪れたと書かれますが、これは魏書に載るものであり、宋書には載りません。宋くん、ほんとそういうとこだぞ。また王華、そして陶淵明が死亡。すいません政治に関わらないので陶淵明全然紹介できませんでした。また西秦では引き続き臣下の離反を喰らっています。地獄ですねえ。
【6月7日号 429年03月】崔浩の神眼! 態度は最悪
【429年03月】
資治通鑑原文2987文字(152/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
前回の太武帝の沈黙、それは柔然攻撃の準備のためでした。しかし、いよいよ兵を興そうというときに、臣下らがこぞって反対します。いわく、天のめぐりがよろしくない。いわく、後背の宋にこのスキに乗じられてはことだ。こうした反対意見に対し、太武帝は論破マシーン崔浩を起動させます。崔浩は開口一番「そも、これは遠征でなく罪あるものへの裁きである。むしろ天の巡りは断罪に適した時と告げている」と言い、さらに反対論者の中にもと夏の臣下がいるのを認め「では問うが、貴公らは夏主に対し、敗北の兆しを伝えたのか? 兆しが見えておらなんだであれば未熟、見えて告げなんだであれば怠慢ぞ」と切り捨てています。その上で言い切るのです、「宋は所詮動けぬ、むしろ今ここで柔然を討っておかねば、それこそ宋との戦いにて後背をつかれることになるのである」と。そして太武帝の出撃前に崔浩は寇謙之に向け「諸将のあの愚鈍ぶりが好機を逃すことにつながらねば良いのですが」とも漏らします。
そして、出征。ここで太武帝は柔然を大いに追い込みますが、慎重論を唱える諸将の言葉を受け入れ、いったん進撃を止めました。寇謙之が崔浩の言葉を伝えますが、聴きません。そして改めて進撃。するとタッチの差で郁久閭大檀を逃していたことが判明し、太武帝は崔浩の言葉を退けたことを悔やむのでした。あと郁久閭大檀は逃走中に死亡。郁久閭呉提があとを継ぎました。平城に戻った太武帝、崔浩を寝室に招き寄せ、様々なことを語らいました。寝室で。様々なことを。そして太武帝は「おまえの言葉にキレるかもしれないけど、おまえは俺に遠慮するなよ」と言っています。
この頃にもなると西秦いぢめに吐谷渾も合流します。積年の恨みというやつです。なんとかこの年も退けはしましたが、引き続き内紛も頻発。西秦のゴールも近そうです。赫連定は統万城奪還に失敗し、さめざめと泣いています。また仇池の楊玄がさっそく死亡、子の楊保宗が立ちましたが、すぐにその叔父、つまり楊玄の弟である楊難当に簒奪されました。
……宋? 知らない子ですね。
西秦滅亡! 太武の驍武【夕刊シチ 6月8日号 430年02月】
【430年02月】
資治通鑑原文5200文字(62/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋▲
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
この年も、何と言っても太武帝が輝きまくっています。宋としては、武帝崩御直後に生じた黄河南岸域の失陥がどこまでも屈辱でした。なのでその奪回に動きますよ、と北魏に宣告してきます。太武帝は怒りましたが、崔浩から「いまのタイミングでの南進は非効率です」と言われたため、一旦の侵略を受け止め、寒くなってからの逆襲を誓います。敢えて河南地域の守りを薄くさせ、あっさりと宋軍に奪還を許させます。このときの北伐主将は到彦之といい、これを大戦果であると見なしていましたが、別動軍の王懿は「いやこれ明らかに罠でしょ」と見抜いていました。そして寒さが厳しくなってきたところで、初めて北魏軍が反攻に出ます。到彦之は副将の垣護之の諫めも聞かず戦いを挑もうとするも、そこで病に冒されて指揮不能の状態に陥り、大敗。到彦之や王懿は免職となりました。そして檀道済が救援として派遣されます。なおこの戦いで宋軍はどこもかしこもズタボロと書かれるのですが、その中で司馬光さんはひとりの人物が魏の反攻に対して勇敢な戦いぶりを示した、と描きます。その武将の名前は蕭承之。武帝の継母である蕭太后の親族で、のちに南斉を立てる蕭道成の、父親です。
さて北魏ですが、一方では夏よりの反攻を受けてもいました。しかも北上してきた宋との連携をとる、と公言しながらです。しかし太武帝はこれを虚勢と見抜き、自身は夏攻略に集中。ちなみに宋への反攻に出ようとしたときに崔浩が「対宋守備将は自分たちも戦いで敵から略奪したいだけです」と太武帝に進言してます。まーたヘイト買うようなこと言ってる。そして太武帝の反攻により赫連定は大敗、負傷し、逃げ落ちます。この赫連定の逃げた先が、西秦でした。北魏にとり西秦は配下国でもあるため、太武帝は西秦を救援するための軍も発しましたが、間に合いませんでした。すでにズタボロになっていた西秦は、この敗残軍すらまともに跳ね返せず、赫連定に降伏。ここに西秦が滅びました。
一方、北燕では馮跋が病に倒れます。すると後継者に据えられていた子の馮翼が、馮跋の弟である馮弘に殺されます。このショックで馮跋も死亡、馮弘が立ちます。さらに馮弘は、馮跋の子百人あまりも殺害。久々の北燕、いきなりクソヤバじゃない?
夏、滅亡! 戦のあとに【夕刊シチ 6月9日号 431年02月】
資治通鑑原文2402文字(186/365位)
【登場人物】
・メイン
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
北魏軍の反攻を受け、出陣した檀道済。檀道済はこの出撃で多くの勝利を挙げますが、叔孫建がその戦端を絡め取ろうと動き始めたため、形勢が不利になっていきます。このためついには撤退を余儀なくされました。このとき宋からの降伏兵が宋の陣営が既に限界であることを告げましたが、檀道済は米を入れるマスに砂を入れてそのかさを増し、そこに布を掛けることによって食料に余裕があるように見せかけ、北魏に警戒を生じさせ、ついには撤退を果たします。兵らの言葉よりも、檀道済の威名が上回っていたことを克明に示すエピソードです。
さて、宋を退けた北魏。ここでふたりの名前が特に挙げられています。司馬楚之、王慧龍です。この両名は武帝に晋人としての命運を殺され、北魏に仕えていました。また「東晋や宋から放たれた刺客を感服させ、むしろ忠誠を誓わせた」ことでも共通しています。両名は今回の戦役でも功績を挙げています。
この戦いが済んだあと、太武帝は宋に通婚の申し入れをしましたが、文帝はこの申し入れを拒絶しました。また柔然も使者を北魏に派遣、太武帝もこの使者を手厚く礼遇します。これは北魏の南北調略が一段落した、と見なすのがよいのでしょう。ここで太武帝は沮渠蒙遜を涼王に封じます。つまり北涼は、このタイミングで初めて「涼」となったわけです。まぁわかりづらいので忘れていいです。また太武帝はここで一度文治に切り替えるとし、崔浩の同郷人であった盧玄、つまり三国時代のあの盧植の子孫、そしてあの盧循の親族に命じ、東部の名族を招聘させました。それにしても范陽盧氏、南北で明暗がくっきりですね、名族も大変です。さらにこれまでの法制を崔浩に命じて改訂させました。崔浩の権勢がこの段階でひとつ突き抜けたレベルに到達したのを感じます。
北伐に失敗した文帝は内部の再編に大忙しです。西方を任せていた劉義恭が副官としてつけていた劉湛と不和になり始めたので劉湛を中央に戻し、別の人物を副官に充てました。また劉義慶が引退を申し出てきたので却下しました。
赫連定は乞伏暮末を殺し、そこから北涼を攻撃せんと動きますが、そこに襲いかかったのが吐谷渾慕璝でした。吐谷渾慕璝は赫連定を捕らえ、ここに夏も滅びます。これで残る五胡は、いよいよ北涼、そして北燕のみとなりました。
謝霊運刑死! 傲慢の末【夕刊シチ 6月12日号 433年12月】
資治通鑑原文1511文字(267/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運▲
・準メインキャスト
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
6/10-拓跋晃-6/30
【できごと】
北魏はこの年、やや外交メインでした。馮弘からの和平の使者を却下した、娘を柔然に輿入れさせ、また柔然の娘も後宮に迎え入れた、などなど。それにしても北魏のこの滅ぼした国の王族の娘を積極的に后として迎え入れているのは何なのでしょうか。というか、鮮卑系はどこもそうですね。こうして歴史を追っていると不倶戴天の敵同士にしか思えないのですが、血統的にはかなり交わりあっているのが不思議です。
また、このタイミングで赫連昌が逃亡を図るも、殺されました。これで夏は正真正銘滅ぼされた形です。いちおう赫連勃勃 の娘は太武帝の皇后ではありましたが、両名の間に男児はありませんでした。未来に赫連姓の人物は結構いますが、どの程度赫連勃勃直系の人物がいたかは、やや心もとないです。
北燕は対等となることを諦め、ついには臣従する、と告げる使者を発しました。太武帝もこれを受け入れますが、しかしその証拠ともいうべき、子を人質として送ることを渋ります。臣下は「それをやったら魏に付け込まれるだけですぞ!」と諫めましたが、その臣下を馮弘は殺害。なので太武帝は北燕に侵攻、北燕領内で大いに略奪をなし、撤収しました。太武帝はそのあと平城の南に割拠していた山胡の討伐に出たのですが、なめてかかって危うく殺されかけたりと、おっちょこちょいな面も見せます。かわいい? ですね。ちなみにその山胡についてはあとで皆殺しにしました。
会稽に追い出され免官となった謝霊運はついに人間関係の不和から謀反を企みました。これは処刑相当の罪でしたが、文帝がその文才を惜しみ、流罪に減刑。しかしその配流途中でやはり謀反を企てたとのことで、結局は最終的に処刑されました。
漢中を落とされてしまった蕭思話は蕭承之を先鋒として仇池と戦い、何とか漢中を奪還しています。この頃仇池は裏でばっちり北魏と手を組んでいたんですが、この漢中争奪戦が収束すると宋に対して謝罪。宋も「ええんやで」と表向きは言っています。こうした綱引きをどう渡り歩くか、が、この二大国に挟まれた小国の宿命なのでしょう。とは言えそのやり取りは見ていてヒリヒリします。きっと春秋時代の鄭もこんな感じだったのでしょうね。なお漢中から逃げ出した甄法護は処刑されました。それはそう。
[実況]「ドラゴンクエストXI・S(PS4)」3Dモード第16回 人魚の物語編(スマホ撮影)
7/2、撮り下ろしの実況です。スマホで撮影しています。直撮りなので、そういう意味では画質は悪いです。あと、自己満足のプレイなので、クリアを目指している訳ではありません。ご了承ください。ゲームの説明や、攻略法まで、喋りながらのプレイです。ゲームは、個人的にやりたいゲームを やっています。
【ジャワさんTS】ロケットナウ□5時間無音でした、でもまたやります
ロケットナウ🚀5時間無音でした、でもまたやります
2026/7/2(木) 23:45開始(2時間07分)
西秦疲弊! 蒙遜迫る【夕刊シチ 6月6日号 428年04月】
通鑑1773文字(247/365位)
【登場人物】
・メイン
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
西秦で乞伏熾磐が死亡、乞伏暮末が立ちます。それにしても禿髪傉檀といい、鮮卑語なのをいいことに都合のいい当て字をしている印象です。この機に乗じて沮渠蒙遜が西秦を攻撃しましたが、これは撃退されました。とは言え状況としては北涼が有利。このため乞伏暮末は北涼に和睦の使者を送りました。沮渠蒙遜はその動きを慎重に見極めることとし、ようやく和睦を受け入れます。なにせ西秦、宗族がアンコントローラブルになっていたりで、統制で手一杯になっていたのです。すると沮渠蒙遜、すぐさま和睦を破棄し、攻め込みます。
この年の太武帝には大きな動きがありません。統万〜関中をどのように治めるか、新たな国境をどう守るか、に追われていたのでしょう。なので逆サイドでの動きが起きます。宋による徐州攻撃です。あわせて中山での反乱が起こります。中山については叔孫建が鎮圧にあたりました。
この年の宋では、謝霊運の傲慢さが再び強調されます。謝霊運はかの謝玄の孫であり、その爵位を継承していた、筋金入りの名門人でもありました。そのため自分こそが宰相にふさわしいと思っていたのにも関わらず王曇首や殷景仁など、自身から見れば木っ端でしかない者たちが大権にあずかっていたことを恨みに思い、サボタージュを決め始めたため文帝より「休め」と言われ、会稽に隠棲します。ただし会稽でなんらかのやらかしを決めたそうで、免職となりました。
ここで文帝は武帝四男の劉義康を宰相に据え、五男の劉義恭を荊州の守りに充てます。つまり自身の兄弟によって国内の統治を固めた形です。そして劉義恭にはその統治を粛々と実行させるべく、戒めの手紙を書いてよこしました。その内容はかなり細々としている、と言うか、ひとくちに言って文帝の悪い意味での生真面目さがこれでもかと刻みつけられていました。ただし大々的な取り上げ方から見ると、司馬光さん的にはどうも大喝采だったっぽいです。
ちなみにここで紹介しておきましょう、曹魏は宗族の権威を抑え込むことで司馬氏の台頭を招き、西晋は宗族に大権を与えて八王の乱を引き起こし、東晋は宗族に中途半端な権威しか与えられなかったことで南渡貴族らの跋扈を引き起こしました。では、劉宋はこのあとどうなるのでしょうか。
北魏の圧! 周辺諸国は【夕刊シチ 6月10日号 432年01月】
【432年01月】
資治通鑑原文3503文字(120/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
拓跋晃-6/30
【できごと】
吐谷渾から赫連定が護送されてきましたが、太武帝はサクッと処刑します。また吐谷渾に対しては旧西秦の統治を許可したのでそれが報酬ではないかと言ってのけ、吐谷渾からの支持を失いました。ともあれ夏の滅亡は北魏にとっての慶事です。ここで改元及び5歳の嫡子、拓跋晃を太子に立てました。そして太武帝は兵を整え、北燕を攻撃。武を収めた、わけではなかったようです。北燕としては到底抵抗しきれるものでもありません。各城は次々に落とされていきます。この事態を受けて北燕は宋に臣従の使者を送ります。さらに宗族内でも決裂が起き、宗族の馮崇が脱出、臨時政権を築き、北魏の支援を受けるようになりました。馮跋という類まれなる蓋の喪失が、大きく国の安定を損ねているのが伺われます。太武帝の出撃も、そこを狙ってのことだったのでしょう。太武帝は配下に都を囲ませたまま、自身は北燕領内の民をさらい、帰還しました。
改めて正式に涼となった北涼には、北魏から使者が送り込まれました。このとき沮渠蒙遜による使者への礼がひどいということで、使者からの糾弾を受けています。使者は帰還すると沮渠蒙遜の老齢を指摘。太武帝は「やつが死んだら攻め取ることとしよう」と言いました。なおこの頃北涼では曇無讖という僧が沮渠蒙遜よりの信奉を受けていましたが、曇無讖を北魏が召喚してきたため、沮渠蒙遜、曇無讖を殺します。いくら国の内情を把握した僧とは言え、殺害はさすがにやりすぎです。他にも沮渠蒙遜はこの頃暴虐を加速させてもいたそうです。
北魏にぞんざいな扱いを受けた吐谷渾は宋に近付きます。また仇池の楊難当についてもあわせて貢納を受け入れています。ここで荊州の守りが劉義恭から劉義慶に変更。劉義慶は文帝のいとこで、息子のなかった劉道規の後継者となった人物です。つまり最も重要な宗族で、その代表的著作には、有名な『世説新語』があります。
一方、これまで割と静かであった蜀で大規模反乱が起こっています。蜀の長官が収奪を甚だしくしたためです。これについては裏側で楊難当が支援していたりと、宋の遠方統治力が問われる案件となっていました。その統治力、結構ヤバそうです。
蒙遜散る! 西方最終局面【夕刊シチ 6月11日号 433年01月】
【433年01月】
資治通鑑原文1619文字(259/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜▲
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
6/10-拓跋晃-6/30
【できごと】
太武帝はこの年、侵攻と内政のバランスを巧みに取ります。北燕には増援を送り、長安には信頼おける弟の拓跋範を大都督として配し、崔浩の叔父である崔徽に補佐をさせます。これにより長安の治安は改善されていきました。また虎牢を守らせていた陸俟に一度西方の騒乱を鎮圧させると、今度は高車の鎮撫にあたらせます。すると高車から前任者に戻してほしいとクレームがあったため、太武帝、前任者を戻し、陸俟を平城に召還。すると陸俟は前任者が失敗すると予言し、直後本当に前任者は殺されました。太武帝は陸俟のこの見識に唸っています。
そしてこのタイミングで、沮渠蒙遜が死亡。子の沮渠牧犍がつきました。太武帝は沮渠牧犍の才能を軽んじていましたから、この段階ではあえて優遇するような形をとります。沮渠牧犍もまた自身の妹を太武帝の側妾として献上、その紐帯を強めようとしました――その北魏で北涼攻略の謀議が進んでいるとも知らないまま。
さて、宋における蜀の反乱の原因の一つに、長官が病に倒れていた、というのがありました。前年まではそれでも何とか踏ん張っていましたが、このタイミングで長官が死亡。残された官吏たちは長官の死を伏せたまま新たに派遣された長官、清廉にして硬骨で知られる甄法崇の到着まで持ちこたえました。さらに劉義慶もまた成都救援の兵を派出します。趙広は逃げ回りながらも勢力を保ち、対峙します。とはいえ趙広は各地で敗北、後退を余儀なくされました。
一方、仇池です。蜀の反乱にいっちょ噛みしていた楊難当は、ここで北魏とも手を組んでいました。おりしもお隣の地、漢中では甄法崇の兄、甄法護がやはりずさんな統治で現地人の恨みを買っていたため、代わりの長官、蕭思話が派遣されることになっていました。なお蕭思話は武帝の継母である蕭皇太后の甥にあたります。なので言ってみれば、宋における「血の繋がっていない外戚」のような立場です。ただし楊難当は長官交代直前、という不安定なタイミングに乗じて漢中に侵攻、そして獲得。仇池の軍略、正直、いぶし銀です。
関中鎮圧! 陸俟の才覚【夕刊シチ 6月25日号 446年04月】
通鑑1637文字(256/365位)
【登場人物】
・メイン
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
・準メイン
5/23-崔浩-6/29
6/10-拓跋晃-6/30
6/14-劉駿-7/14
【できごと】
改めて蓋呉を大破し山中に追い込んだ太武帝でしたが、その足跡をたどれません。数万規模の兵を動員し、蓋呉が潜伏していたあたりを包囲しますが、さてどうしたものかと討伐諸将が思案にくれます。するとここに進み出たものがあります。高車鎮撫から長安守備に回されていた、陸俟です。先の大破で捕らえた蓋呉の親族を密かに許した上で蓋呉のもとに解き放ち、おびき出そうというのです。この計略は的中、首級を挙げることに成功しました。それにしても数万規模の包囲とか、陸俟にも「あれはたった一人でも国を傾けるに足る」と評価されていたりとか、蓋呉という人物がどれほど規格外の存在であったかが伺われます。
なお陸俟はその後、長安の西にもほど近い地、安定で立ち上がった劉超という人物の鎮圧にも充てられました。ここでは単身乗り込んで劉超の警戒心を解き、宴を楽しみ、酔っ払ったふりをしたところでいきなり軍を発して征伐するなど、そのずば抜けた知略と胆力を示します。太武帝もまた陸俟のその手腕に感嘆しました。
この年、平城では沮渠牧犍が誅殺されています。その記述によれば北魏に降伏する際宝物庫を開放して民にその宝を持ち出させ、北魏軍になにも分け前を与えなかったであるとか、その姉妹ともども毒殺の術に深く知悉しており、多くのものを殺害したため太武帝が激怒した、とあるのですが、まぁこれについては「北涼のもと王がこのタイミングで殺された」以上を下手に拾ってしまうと怪しくなる、と見たほうが良いのでしょう。
宋では杜坦という人物が紹介されます。このひとは、かの杜預の直系子孫です。杜預の子らははじめ前涼に逃げ込んだあと前秦後秦を経て武帝に引き連れられはじめて東晋入りしたのですが、そこで顕職にあずかることはできませんでした。そのあたりについて文帝との対話にて語っています。いわく「江南ではいわゆる早期南渡貴族らがその上位を独占しており、そこから出遅れた家門の者たちにはまるで付け入る隙がございません」。これは南朝の固定化した階層について鋭く切り込んだ批判であり、この発言に文帝が返答できなかったところには、文帝自身問題と考えていながらも自身では動かしようがないと感じていたのが推定できます。皇帝なのにまるで中間管理職みたいです、しんどいですね。とは言えこの階層が将来北朝、ことに孝文帝にとってのひそかな憧れになるのですからわからないものです。
太武弑さる! 文帝歓喜【夕刊シチ 7月1日号 451年12月】
【451年12月】
資治通鑑原文3322文字(132/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/24-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾▲
蕭道成-8/1
・準メインキャスト
6/14-劉駿-7/14
6/27-劉彧-7/22
6/30-宗愛▲
【できごと】
拓跋晃の死亡後、その嫡子である拓跋濬を太武帝は寵愛しました。このため太武帝は拓跋濬を皇太孫のような扱いをし始めました。が、その前にやらねばならないことがあります。宗愛の始末です。それはもちろん宗愛にもわかっていたことでした。なので太武帝、さくっと宗愛に殺されます。まあ相手は宦官ですので、やりようはいくらでもあった、ということなのでしょう。こうして華北に覇を唱えた英雄帝はあっけなく舞台より去りました。ただし宗愛は太武帝の末子であった拓跋余を立て、敵対分子を殺してまわろうとしますが、うまく行きません。結局拓跋余をも殺したところで陸俟の子、陸麗らの計略により捕らわれ、一族もろとも殺されました。こうして拓跋濬が即位します。文成帝です。
宋では文帝が北魏により受けた損害を修復させつつ、改めて補佐役をひとり任じます。五臣の一人であった王曇首の子、王僧綽です。すると資治通鑑はここに突然「文帝を補佐した人物」を紹介します。第一期が王華、王曇首、殷景仁、謝弘微、劉湛。第二期が范曄、沈演之、庾炳之。そして第三期が江湛、徐湛之、何瑀之、王僧綽とのことです。突然こんなのを書き始めるなんて、司馬光さんなにか嫌な予感があったんでしょうか、ねっ!
太武帝の死を聞いた文帝、大喜びです。今こそリベンジのチャンス、と北伐を開始します。この北伐は徐州方面から蕭思話、荊州方面から魯爽ら、そしてなぜか潼関に向け臧質が向かわされたと書かれますが、潼関は許昌や洛陽を抜いたさらにその先にある長安への玄関口ですので、これは襄陽から長安に直行する細い山道の合間に築かれていた武関を指すのではないかな、と思います。ただしこの北伐も、結局は北魏軍を攻め落としきれずにありました。なおこの軍役において、漢中から一人の武将が長安に向けて出発しています。その名は蕭道成。蕭承之の子にして、後の南斉高帝です。
一方、北を望む文帝の足元では、しばしば文帝より叱責を受けていたという劉劭が、弟の劉濬とともに、父親殺しの呪いを掛けようとしていた、と明るみに出ます。この事件に対し文帝は激怒しましたが、このときには処罰がなされませんでした。ええ、このときには。
またこの年、吐谷渾慕利延が死亡。甥の吐谷渾拾寅が立ちました。吐谷渾もマージナルな国としてもろもろ大変そうです。
[実況]「ドラゴンクエストモンスターズ(PS)」RTPJR 第2回(スマホ撮影)
7/2、撮り下ろしの実況です。レトロゲーム中心にプレイしてます。スマホで撮影しています。直撮りなので、そういう意味では画質は悪いです。あと、自己満足のプレイなので、クリアを目指している訳ではありません。ご了承ください。ゲームの説明や、攻略法まで、喋りながらのプレイです。ゲームは、個人的にやりたいゲームを やっています。
