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【UTAU調声晒し】天樂/調声前後で比較してみた【怪子奇】(shorts)
2024/5/4 投稿
■曲/ゆうゆ
■UST/RewoundClockwork
■うた/怪子奇
■調声とか絵とか/犬狸
【UTAUカバー】天樂【怪子奇】(shorts)
2024/5/4 投稿
■曲/ゆうゆ
■UST/RewoundClockwork
■うた/怪子奇
■調声とか絵とか/犬狸
蒙遜散る! 西方最終局面【夕刊シチ 6月11日号 433年01月】
【433年01月】
資治通鑑原文1619文字(259/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜▲
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
6/10-拓跋晃-6/30
【できごと】
太武帝はこの年、侵攻と内政のバランスを巧みに取ります。北燕には増援を送り、長安には信頼おける弟の拓跋範を大都督として配し、崔浩の叔父である崔徽に補佐をさせます。これにより長安の治安は改善されていきました。また虎牢を守らせていた陸俟に一度西方の騒乱を鎮圧させると、今度は高車の鎮撫にあたらせます。すると高車から前任者に戻してほしいとクレームがあったため、太武帝、前任者を戻し、陸俟を平城に召還。すると陸俟は前任者が失敗すると予言し、直後本当に前任者は殺されました。太武帝は陸俟のこの見識に唸っています。
そしてこのタイミングで、沮渠蒙遜が死亡。子の沮渠牧犍がつきました。太武帝は沮渠牧犍の才能を軽んじていましたから、この段階ではあえて優遇するような形をとります。沮渠牧犍もまた自身の妹を太武帝の側妾として献上、その紐帯を強めようとしました――その北魏で北涼攻略の謀議が進んでいるとも知らないまま。
さて、宋における蜀の反乱の原因の一つに、長官が病に倒れていた、というのがありました。前年まではそれでも何とか踏ん張っていましたが、このタイミングで長官が死亡。残された官吏たちは長官の死を伏せたまま新たに派遣された長官、清廉にして硬骨で知られる甄法崇の到着まで持ちこたえました。さらに劉義慶もまた成都救援の兵を派出します。趙広は逃げ回りながらも勢力を保ち、対峙します。とはいえ趙広は各地で敗北、後退を余儀なくされました。
一方、仇池です。蜀の反乱にいっちょ噛みしていた楊難当は、ここで北魏とも手を組んでいました。おりしもお隣の地、漢中では甄法崇の兄、甄法護がやはりずさんな統治で現地人の恨みを買っていたため、代わりの長官、蕭思話が派遣されることになっていました。なお蕭思話は武帝の継母である蕭皇太后の甥にあたります。なので言ってみれば、宋における「血の繋がっていない外戚」のような立場です。ただし楊難当は長官交代直前、という不安定なタイミングに乗じて漢中に侵攻、そして獲得。仇池の軍略、正直、いぶし銀です。
Spared.
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ついに第一次生産者に
北魏の圧! 周辺諸国は【夕刊シチ 6月10日号 432年01月】
【432年01月】
資治通鑑原文3503文字(120/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
拓跋晃-6/30
【できごと】
吐谷渾から赫連定が護送されてきましたが、太武帝はサクッと処刑します。また吐谷渾に対しては旧西秦の統治を許可したのでそれが報酬ではないかと言ってのけ、吐谷渾からの支持を失いました。ともあれ夏の滅亡は北魏にとっての慶事です。ここで改元及び5歳の嫡子、拓跋晃を太子に立てました。そして太武帝は兵を整え、北燕を攻撃。武を収めた、わけではなかったようです。北燕としては到底抵抗しきれるものでもありません。各城は次々に落とされていきます。この事態を受けて北燕は宋に臣従の使者を送ります。さらに宗族内でも決裂が起き、宗族の馮崇が脱出、臨時政権を築き、北魏の支援を受けるようになりました。馮跋という類まれなる蓋の喪失が、大きく国の安定を損ねているのが伺われます。太武帝の出撃も、そこを狙ってのことだったのでしょう。太武帝は配下に都を囲ませたまま、自身は北燕領内の民をさらい、帰還しました。
改めて正式に涼となった北涼には、北魏から使者が送り込まれました。このとき沮渠蒙遜による使者への礼がひどいということで、使者からの糾弾を受けています。使者は帰還すると沮渠蒙遜の老齢を指摘。太武帝は「やつが死んだら攻め取ることとしよう」と言いました。なおこの頃北涼では曇無讖という僧が沮渠蒙遜よりの信奉を受けていましたが、曇無讖を北魏が召喚してきたため、沮渠蒙遜、曇無讖を殺します。いくら国の内情を把握した僧とは言え、殺害はさすがにやりすぎです。他にも沮渠蒙遜はこの頃暴虐を加速させてもいたそうです。
北魏にぞんざいな扱いを受けた吐谷渾は宋に近付きます。また仇池の楊難当についてもあわせて貢納を受け入れています。ここで荊州の守りが劉義恭から劉義慶に変更。劉義慶は文帝のいとこで、息子のなかった劉道規の後継者となった人物です。つまり最も重要な宗族で、その代表的著作には、有名な『世説新語』があります。
一方、これまで割と静かであった蜀で大規模反乱が起こっています。蜀の長官が収奪を甚だしくしたためです。これについては裏側で楊難当が支援していたりと、宋の遠方統治力が問われる案件となっていました。その統治力、結構ヤバそうです。
夏、滅亡! 戦のあとに【夕刊シチ 6月9日号 431年02月】
資治通鑑原文2402文字(186/365位)
【登場人物】
・メイン
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
北魏軍の反攻を受け、出陣した檀道済。檀道済はこの出撃で多くの勝利を挙げますが、叔孫建がその戦端を絡め取ろうと動き始めたため、形勢が不利になっていきます。このためついには撤退を余儀なくされました。このとき宋からの降伏兵が宋の陣営が既に限界であることを告げましたが、檀道済は米を入れるマスに砂を入れてそのかさを増し、そこに布を掛けることによって食料に余裕があるように見せかけ、北魏に警戒を生じさせ、ついには撤退を果たします。兵らの言葉よりも、檀道済の威名が上回っていたことを克明に示すエピソードです。
さて、宋を退けた北魏。ここでふたりの名前が特に挙げられています。司馬楚之、王慧龍です。この両名は武帝に晋人としての命運を殺され、北魏に仕えていました。また「東晋や宋から放たれた刺客を感服させ、むしろ忠誠を誓わせた」ことでも共通しています。両名は今回の戦役でも功績を挙げています。
この戦いが済んだあと、太武帝は宋に通婚の申し入れをしましたが、文帝はこの申し入れを拒絶しました。また柔然も使者を北魏に派遣、太武帝もこの使者を手厚く礼遇します。これは北魏の南北調略が一段落した、と見なすのがよいのでしょう。ここで太武帝は沮渠蒙遜を涼王に封じます。つまり北涼は、このタイミングで初めて「涼」となったわけです。まぁわかりづらいので忘れていいです。また太武帝はここで一度文治に切り替えるとし、崔浩の同郷人であった盧玄、つまり三国時代のあの盧植の子孫、そしてあの盧循の親族に命じ、東部の名族を招聘させました。それにしても范陽盧氏、南北で明暗がくっきりですね、名族も大変です。さらにこれまでの法制を崔浩に命じて改訂させました。崔浩の権勢がこの段階でひとつ突き抜けたレベルに到達したのを感じます。
北伐に失敗した文帝は内部の再編に大忙しです。西方を任せていた劉義恭が副官としてつけていた劉湛と不和になり始めたので劉湛を中央に戻し、別の人物を副官に充てました。また劉義慶が引退を申し出てきたので却下しました。
赫連定は乞伏暮末を殺し、そこから北涼を攻撃せんと動きますが、そこに襲いかかったのが吐谷渾慕璝でした。吐谷渾慕璝は赫連定を捕らえ、ここに夏も滅びます。これで残る五胡は、いよいよ北涼、そして北燕のみとなりました。
西秦滅亡! 太武の驍武【夕刊シチ 6月8日号 430年02月】
【430年02月】
資治通鑑原文5200文字(62/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋▲
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
この年も、何と言っても太武帝が輝きまくっています。宋としては、武帝崩御直後に生じた黄河南岸域の失陥がどこまでも屈辱でした。なのでその奪回に動きますよ、と北魏に宣告してきます。太武帝は怒りましたが、崔浩から「いまのタイミングでの南進は非効率です」と言われたため、一旦の侵略を受け止め、寒くなってからの逆襲を誓います。敢えて河南地域の守りを薄くさせ、あっさりと宋軍に奪還を許させます。このときの北伐主将は到彦之といい、これを大戦果であると見なしていましたが、別動軍の王懿は「いやこれ明らかに罠でしょ」と見抜いていました。そして寒さが厳しくなってきたところで、初めて北魏軍が反攻に出ます。到彦之は副将の垣護之の諫めも聞かず戦いを挑もうとするも、そこで病に冒されて指揮不能の状態に陥り、大敗。到彦之や王懿は免職となりました。そして檀道済が救援として派遣されます。なおこの戦いで宋軍はどこもかしこもズタボロと書かれるのですが、その中で司馬光さんはひとりの人物が魏の反攻に対して勇敢な戦いぶりを示した、と描きます。その武将の名前は蕭承之。武帝の継母である蕭太后の親族で、のちに南斉を立てる蕭道成の、父親です。
さて北魏ですが、一方では夏よりの反攻を受けてもいました。しかも北上してきた宋との連携をとる、と公言しながらです。しかし太武帝はこれを虚勢と見抜き、自身は夏攻略に集中。ちなみに宋への反攻に出ようとしたときに崔浩が「対宋守備将は自分たちも戦いで敵から略奪したいだけです」と太武帝に進言してます。まーたヘイト買うようなこと言ってる。そして太武帝の反攻により赫連定は大敗、負傷し、逃げ落ちます。この赫連定の逃げた先が、西秦でした。北魏にとり西秦は配下国でもあるため、太武帝は西秦を救援するための軍も発しましたが、間に合いませんでした。すでにズタボロになっていた西秦は、この敗残軍すらまともに跳ね返せず、赫連定に降伏。ここに西秦が滅びました。
一方、北燕では馮跋が病に倒れます。すると後継者に据えられていた子の馮翼が、馮跋の弟である馮弘に殺されます。このショックで馮跋も死亡、馮弘が立ちます。さらに馮弘は、馮跋の子百人あまりも殺害。久々の北燕、いきなりクソヤバじゃない?
【6月7日号 429年03月】崔浩の神眼! 態度は最悪
【429年03月】
資治通鑑原文2987文字(152/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
前回の太武帝の沈黙、それは柔然攻撃の準備のためでした。しかし、いよいよ兵を興そうというときに、臣下らがこぞって反対します。いわく、天のめぐりがよろしくない。いわく、後背の宋にこのスキに乗じられてはことだ。こうした反対意見に対し、太武帝は論破マシーン崔浩を起動させます。崔浩は開口一番「そも、これは遠征でなく罪あるものへの裁きである。むしろ天の巡りは断罪に適した時と告げている」と言い、さらに反対論者の中にもと夏の臣下がいるのを認め「では問うが、貴公らは夏主に対し、敗北の兆しを伝えたのか? 兆しが見えておらなんだであれば未熟、見えて告げなんだであれば怠慢ぞ」と切り捨てています。その上で言い切るのです、「宋は所詮動けぬ、むしろ今ここで柔然を討っておかねば、それこそ宋との戦いにて後背をつかれることになるのである」と。そして太武帝の出撃前に崔浩は寇謙之に向け「諸将のあの愚鈍ぶりが好機を逃すことにつながらねば良いのですが」とも漏らします。
そして、出征。ここで太武帝は柔然を大いに追い込みますが、慎重論を唱える諸将の言葉を受け入れ、いったん進撃を止めました。寇謙之が崔浩の言葉を伝えますが、聴きません。そして改めて進撃。するとタッチの差で郁久閭大檀を逃していたことが判明し、太武帝は崔浩の言葉を退けたことを悔やむのでした。あと郁久閭大檀は逃走中に死亡。郁久閭呉提があとを継ぎました。平城に戻った太武帝、崔浩を寝室に招き寄せ、様々なことを語らいました。寝室で。様々なことを。そして太武帝は「おまえの言葉にキレるかもしれないけど、おまえは俺に遠慮するなよ」と言っています。
この頃にもなると西秦いぢめに吐谷渾も合流します。積年の恨みというやつです。なんとかこの年も退けはしましたが、引き続き内紛も頻発。西秦のゴールも近そうです。赫連定は統万城奪還に失敗し、さめざめと泣いています。また仇池の楊玄がさっそく死亡、子の楊保宗が立ちましたが、すぐにその叔父、つまり楊玄の弟である楊難当に簒奪されました。
……宋? 知らない子ですね。
西秦疲弊! 蒙遜迫る【夕刊シチ 6月6日号 428年04月】
通鑑1773文字(247/365位)
【登場人物】
・メイン
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
西秦で乞伏熾磐が死亡、乞伏暮末が立ちます。それにしても禿髪傉檀といい、鮮卑語なのをいいことに都合のいい当て字をしている印象です。この機に乗じて沮渠蒙遜が西秦を攻撃しましたが、これは撃退されました。とは言え状況としては北涼が有利。このため乞伏暮末は北涼に和睦の使者を送りました。沮渠蒙遜はその動きを慎重に見極めることとし、ようやく和睦を受け入れます。なにせ西秦、宗族がアンコントローラブルになっていたりで、統制で手一杯になっていたのです。すると沮渠蒙遜、すぐさま和睦を破棄し、攻め込みます。
この年の太武帝には大きな動きがありません。統万〜関中をどのように治めるか、新たな国境をどう守るか、に追われていたのでしょう。なので逆サイドでの動きが起きます。宋による徐州攻撃です。あわせて中山での反乱が起こります。中山については叔孫建が鎮圧にあたりました。
この年の宋では、謝霊運の傲慢さが再び強調されます。謝霊運はかの謝玄の孫であり、その爵位を継承していた、筋金入りの名門人でもありました。そのため自分こそが宰相にふさわしいと思っていたのにも関わらず王曇首や殷景仁など、自身から見れば木っ端でしかない者たちが大権にあずかっていたことを恨みに思い、サボタージュを決め始めたため文帝より「休め」と言われ、会稽に隠棲します。ただし会稽でなんらかのやらかしを決めたそうで、免職となりました。
ここで文帝は武帝四男の劉義康を宰相に据え、五男の劉義恭を荊州の守りに充てます。つまり自身の兄弟によって国内の統治を固めた形です。そして劉義恭にはその統治を粛々と実行させるべく、戒めの手紙を書いてよこしました。その内容はかなり細々としている、と言うか、ひとくちに言って文帝の悪い意味での生真面目さがこれでもかと刻みつけられていました。ただし大々的な取り上げ方から見ると、司馬光さん的にはどうも大喝采だったっぽいです。
ちなみにここで紹介しておきましょう、曹魏は宗族の権威を抑え込むことで司馬氏の台頭を招き、西晋は宗族に大権を与えて八王の乱を引き起こし、東晋は宗族に中途半端な権威しか与えられなかったことで南渡貴族らの跋扈を引き起こしました。では、劉宋はこのあとどうなるのでしょうか。
太武豪腕! 統万を落とす【夕刊シチ 6月5日号 427年04月】
通鑑3276文字(138/365位)
【登場人物】
・メイン
5/12-陶淵明▲
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
北魏の夏攻略がクライマックスです。前年統万城にダメージを与えるだけ与えて関中を攻撃した太武帝、再び平城より軽騎兵を率い進撃。臣下らは攻城器具を持っていかなければ落とせたものではないと諫めますが、太武帝は「やつらに守りを固める隙を与えるだけではないか。それよりも我らが敢えて弱っているよう見せかけて釣り出し、撃滅するのがよいのだ」と一顧だにしません。ただ統万城に向かう途中で既に赫連昌が守りを固めているらしい、という情報を得たため、別働隊を南に発して「北魏軍が弱っている」という偽情報をばら撒き、ついには赫連昌を城内からおびき出します。ここで太武帝はうろたえて逃亡するふりをして夏軍を更に釣り出しました。するととたんに周囲が霧に覆われ、暗くなります。臣下が太武帝に作戦を中止すべきと具申しましたが、崔浩が「愚かなことを申すな!」と一喝。太武帝もこの応酬に喜び、ついには反転、夏軍を迎撃、大破します。ここで太武帝は落馬したり手に矢を負ったりしますが、気にせず攻勢を仕掛け、赫連昌を上邽に追いやり、自身は統万城を獲得。城中の夏人らを数万人単位で捕らえ、馬や羊、財宝なども獲得します。太武帝はこうしたものを臣下に功績に応じ分配しました。
ところで太武帝は勇猛で質素で気前がよく、さらに戦の見識にも長け、かつ残虐であったそうです。うっかり臣下を殺してしまうと「やっちまった」と翌日反省することもしばしばであったとか。なんというか、魔王としか言いようがありませんね!
統万城を追われた赫連昌は上邽もまた追われ、平涼に後退。ここで一度北魏軍を撃退するのですが、第二波を受けた際に落馬、ついに囚われます。このため弟の赫連定が帝位に就き、崩壊した夏軍を再編成しました。そして更に攻撃を仕掛けてきた北魏軍を、今度は完膚なきまでに大破してのけます。太武帝はこの敗北に激怒、追撃軍の将を処刑しました。
この年、北魏よりの使者が宋に訪れたと書かれますが、これは魏書に載るものであり、宋書には載りません。宋くん、ほんとそういうとこだぞ。また王華、そして陶淵明が死亡。すいません政治に関わらないので陶淵明全然紹介できませんでした。また西秦では引き続き臣下の離反を喰らっています。地獄ですねえ。
北魏躍進! 関中を得る【夕刊シチ 6月4日号 426年05月】
通鑑2383文字(187/365位)
【登場人物】
・メイン
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
文帝、親政体制を築きます。裴松之らをはじめとした人士を各地に派遣、各地の政務の状況をヒアリングさせました。また軍務を檀道済に委ね、中央には宰相らしい宰相は置かず、王華・王曇首・劉湛・殷景仁・謝弘微の五名を謀臣として諮問役に据えました。この状況に対し、荊州時代からの参謀役という自負心のあった王華は特にがっかりとしていました。文帝としては王華や王曇首を特に褒賞したかったようではあったのですが、「罪人を討伐しただけです」と王曇首に辞退されてしまったため、この褒賞も立ち消えとなりました。王華の褒賞も一緒に。王華さん不憫。
赫連勃勃の死は、北魏国内にも夏討伐の機運を引き起こします。ただ、夏の北ではいつまでも柔然が厄介な敵として存在しています。そこで太武帝は臣下らにどちらを先に討伐すべきかを諮問しました。多くの臣下が「先に柔然です」と言いますが、その中で崔浩のみ「柔然は倒そうとしてもすぐに逃げてなかなか倒しきれません、先に国体がグズグズとなっている夏を落とすべきです」と具申しました。すると「赫連昌に守りを固められたら、その背後から柔然に襲われるぞ?」と反論を受けますが、崔浩はここで「天運がそうなっているんです」で切り捨てました。するとこの遅々として進まない議論に太武帝は激怒し、崔浩に反対した者たちを罵倒、そして夏に向けて軍を動かします。蒲阪や陝城といった洛陽から長安に向かうためのルートを次々と陥落させました。そして太武帝自身も平城より出撃。そしてこの動きに西秦も連動します。さらに南進する太武帝の前で黄河が氷結、太武帝は労せずして黄河を渡り、統万城に到着、攻撃を開始しました。ただしこのタイミングでは城を陥落させず、周辺地域を略奪の上で統万城を離れ、そのまま関中襲撃に移り、長安を陥落させます。この事態を受け、沮渠蒙遜も、楊玄も、北魏に臣従を申し出ました。
こうした動きを受け、乞伏熾磐はいまこそ北涼を弱らせる機会と北涼に侵攻しますが、沮渠蒙遜はここで赫連昌に援軍を要請、逆に西秦軍を包囲し、撤退させています。そして西秦では離反が起こったり反乱が起こったりと、周辺を攻めてる場合なの? 状態になっていきます。西方も、なかなか落ち着きません。
文帝決起! 三元勲を処分【夕刊シチ 6月3日号 425年05月】
【425年05月】
資治通鑑原文3277文字(137/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃▲
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
徐羨之に傅亮、そして謝晦は文帝を立てた功績から位人臣を極めることになりました、が、これは表向きの栄華でしかありません。兄ふたりを殺した三人を、劉義隆は許すつもりがありませんでした。この気配を察知した傅亮は謝晦に警戒するよう手紙を送りました。謝晦も恐れをなし、遂には軍備を整え始めます。一方、文帝は檀道済については廃立に関わったとは言っても殺意まではなかったとして不問とし、むしろ自身の武力として頼るに至りました。そして軍備を整え、宣言します。「兄上らを殺したものの罪はその元凶のみを問うものとする」と。そして、建康にいた徐羨之および傅亮を召喚。追い詰められた徐羨之は逃げ出すも間もなくして自殺、傅亮は捕らえられ、「何故明主を立てたのに殺されねばならぬのだ!」と嘆きますが、間もなくして誅殺されます。残るは謝晦ですが、ここで文帝が檀道済に作戦を諮問しました。すると檀道済が答えます。「関中制圧戦はほぼ謝晦の主導でしたが、直接戦闘には長けていません。いざ戦いとなったら容易く捕らえられましょう」。そして、出陣。対する謝晦は徐羨之および傅亮を忠臣の死であると嘆いた上で、「陛下は琅邪王氏のものがらに騙されているのだ!」と声明を上げ、対抗しようとしますが、軍は檀道済の到着を聞くとあっさり崩壊。謝晦は囚われ、兄弟および党与もろとも処刑されました。こうして文帝は皇帝としての権威を正式に確立します。
しかし、一方でこのとき生まれた長男の相が危うい、この子は殺してしまうべきだ、と言われます。慌てて文帝はその提議を却下しました。生まれた子の名は劉劭と言います。将来に何かありますよ、という主張がかなり強いですね。いいと思います! またこの頃謝霊運や顔延之、そして僧侶の慧琳が文帝の側近となりました。とくに慧琳をうさんくさく書いています。
北魏はこの年、柔然を攻撃。一方、夏では赫連勃勃が死亡、赫連昌があとを継いでいました。このため乞伏熾磐が北魏に使者を遣わせ「いまが夏を伐つチャンスです!」と上奏しています。また仇池では楊盛が死亡、子の楊玄が立ちました。赫連勃勃の死は、西方情勢を大きく動かします。
二十本の矢! 新世代たち【夕刊シチ 6月2日号 424年06月】
通鑑2860文字(155/365位)
【登場人物】
・メイン
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
6/1-寇謙之-6/27
6/1-謝霊運-6/12
・準メイン
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
徐羨之らは刺客を送り込み、金昌亭にて劉義符を暗殺しました。このとき劉義符の化け物じみたフィジカルが描写されており、生まれるのが十五年早かったら違ったんだろうな、と思わずにおれません。ちなみにこの暗殺劇に対して司馬光さんは裴子野による「武帝の教育不足が悪い」論を長々と載せます。なお裴子野は三国志に注を付したことで有名な裴松之のひ孫であり、その裴松之は、まさしくこの時代に現役真っ盛りです。
荊州の劉義隆のもとには傅亮が赴き、奉戴を申し出ました。劉義隆は躊躇しますが側近である王華の助言を受け、建康に赴き、即位します。文帝です。なお傅亮は文帝の兄たちの死に対する慟哭を見て、「我々は助からない」と確信しました。また謝晦が荊州刺史として配属されます。はっきりと見えることがあります、劉毅や司馬休之と同じパターンです。本人は「建康から脱出できた!」と喜んでいたようですが。
柔然の郁久閭大檀は明元帝の崩御を好機と見、北魏に攻めかかりますが、太武帝が自ら出撃、大破します。そのまま臣下に追撃させ、多量の資源を獲得。あまりにも鮮やかすぎるデビュー戦です。そして帰還すると、保母であった竇氏を保太后としました。これではなんのための子貴母死なのか、とツッコむのは禁句のようです。
西秦はこの年も各地を攻撃。まだまだ元気です。その西秦に脅かされ続ける吐谷渾では、王の吐谷渾阿柴が死亡しました。その死に際し、二十人の子らそれぞれに矢をもたせて折らせ、その後今度は二十本をまとめて折らせようとした、と言うエピソードが現れます。西秦との関係を思えば、極めて重いエピソードです。そのあとは弟の吐谷渾慕璝が継ぎました。
ここで、久々に夏の話が出ます。赫連勃勃は太子に才なしということで廃そうとしたところ謀反を受けました。この謀反は弟たちにより討伐され、喜んだ赫連勃勃はその中で主導的な役割を担った赫連昌を改めて太子に立てました。また北燕の話もあります。女児が男児に変わる、という怪異が起こった、とのことです。えっ、それだけ? まぁ、どちらも当人死亡後に何が起こるか、ということについて暗示しておきたいようですね。
25【Marathon】ゲゲゲのMarathon~昼はタウセティで運動会~【Twitchアーカイブ】ネタバレあり。
2026/5/4 Twitch生配信のアーカイブ動画です。
Twitch→https://www.twitch.tv/senbeisyokuninnomago
孫のマラソン日記。(私のゲーム実況全般での発言や行動はフィクションです。
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明元崩御! 少帝廃位!【夕刊シチ 6月1日号 423年07月】
資治通鑑2477文字(182/365位)
【登場人物】
・メイン
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
寇謙之-6/27
謝霊運-6/12
・準メイン
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣▲
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
河南攻略戦を終えると、明元帝が崩御しました。父のときとは違い、こちらは万全な体制のもとに帝位を嫡子の拓跋燾に継承します。太武帝です。そして母親の杜氏を皇后として追尊と載ります。母の死に慟哭した明元帝、太武帝の母も殺したようです。
太武帝の後見人代表といえば崔浩でしたが、崔浩、この頃ひとりの道教指導者を奉じました。寇謙之と言います。ここで司馬光さんが「崔浩、老子のことめっちゃ毛嫌いしてたやん! なのになんで寇謙之みたいな老子の言葉をさらに悪用したクソ野郎崇めとんねん!」とブチ切れています。司馬光さんにとって崔浩はヘイトの対象であったようです。ただし崔浩ヘイトは北魏朝廷のデフォルトであったようで、太武帝に対して臣下らが崔浩を罷免すべく言い募っています。太武帝も、はじめこの提言に従うふりをして、まもなくして復帰させています。
宋では、少帝が父親への服喪もそこそこに遊びほうけていました。これは皇帝の才なしということで、徐羨之らが廃位を図ります。ただしそのままでは「あの」劉義真が皇帝になってしまう。そのためまず劉義真が廃位の上殺されました。なおこの劉義真の友人に、謝霊運がいました。東晋~劉宋期最大の文人です。ただし資治通鑑は文の才能よりも傲慢さを優先して紹介しており「こんなやつ左遷されて当然じゃ」くらいの書き方をしています。そして檀道済を招集、兵を率いさせ、遊び疲れて眠る少帝のもとに赴いて迫り「皇太后陛下よりの命令である」として皇帝の印綬を没収、廃位しました。ここで、次の皇帝への推戴順序がやはり先に五男の劉義恭、次いで三男の劉義隆と言う順番でした。廃位された劉義符は建康を出され、金昌亭という地に送り込まれました。
柔然はちょくちょく北魏に攻勢を受けていました。そうすると、別のところでそのうっぷんを晴らそうとするわけです。その対象になったのが、北涼でした。この戦いで沮渠蒙遜は嫡子を喪います。また西秦では南涼から皇后に迎えていた禿髪傉檀の娘が乞伏熾磐への反乱を目論みますが、同じく側妾となっていたその妹による告発を受け、処刑されています。北涼と西秦も、やや怪しい雲行きになり始めていますね。
北魏南侵! 洛陽陥落【夕刊シチ 5月31日号 422年07月】
【422年07月】
資治通鑑原文4013文字(100/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
5/30-拓跋燾-7/1
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
劉宋と北魏は、なにせ大国同士です。このため互いに使者を交わしていました――これまでは。明元帝、武帝の死を聞くと、いきなり使者を捕まえます。「使者の礼がなっていない」。名目こそこうなっていますが、まぁ北伐時に舐められた意趣返しでしょう。明元帝のこの動きを崔浩が「損害に対してメリットが少なすぎます」と諌めますが、聴きません。大軍を編成し、洛陽を、青州を攻撃させます。この戦いは基本的に北魏有利に進むのですが、王鎮悪の副官であった毛徳祖をはじめとした宋の現地将らが奮戦、その作戦進行の鈍さに明元帝を激怒させています。さらにこの動きを受け、檀道済をはじめとした中枢将らが軍備を整えた上で北上。青州については各地を大いに荒らされこそしたものの守り抜きましたが、最終的に洛陽をはじめとした黄河南岸域を広く失陥、毛徳祖ら守将もほぼ捕らわれました。こうして北魏の前線基地と化した洛陽には于栗磾が配され、青州を睨む地域には叔孫建や刁雍が配されます。明元帝は新たに獲得した領土を巡幸したのち、平城に帰還しました。また、こうした動きを受けて山間の蛮と呼ばれる部族らが北魏に朝貢をなしました。これは建康と荊州とを分かつ山塊、大別山脈に毒入りの錐が埋め込まれたようなものです。
こうした事態を受け、徐羨之、傅亮、謝晦は、国土を失った責任を取るとして自らを弾劾すべく申し出ましたが、少帝はこれを不問としました。この事態につけ込んで三名を離間しようとする動きもありましたが、あっさりと退けられています。
ここしばらく夏と北燕の話がありませんが、この年もやはりありません。北涼と西秦が引き続き干戈を交えていますが、こうした中乞伏熾磐は、各地の情勢をひと通り見回した上で北魏への臣従を誓うことにしました。
五胡西方の最終局面は、夏を真ん中に置き、夏と北涼が結び、西秦と北魏が結ぶ、と言う状態です。仇池については、ちょっとよくわかりません。ともあれ北魏にしてみれば、とにもかくにも夏が目障りで仕方がない、と言う状況になっているわけです。ただし、ここから事態が動くのは拓跋燾、即ち、太武帝が即位してから、となります。
武器装備現地調達/Solo/NoHUD【Marathon】マルチゾーン 即時転送Ⅲ【Twitchアーカイブ】ネタバレあり。ゲゲゲのMarathon
2026/5/4 Twitch生配信のアーカイブ動画です。
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孫のマラソン日記。(私のゲーム実況全般での発言や行動はフィクションです。 現実世界やSNSでは絶対にやめましょう。犯罪者になるし嫌われるよ!) 未成年の方は保護者の方に同意を得てご視聴ください。 成人されている方は 孫を見る温かい目でご視聴していただけると嬉しいです。
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武帝崩御! 継嗣は懦弱【夕刊シチ 5月30日号 421年08月】
通鑑2520文字(177/365位)
【登場人物】
・メイン
5/7-劉裕▲
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
拓跋燾-7/1
・準メイン
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
武帝、司馬徳文を暗殺。その暗殺には、妃である褚氏の兄弟に関与させました。安帝のときもそうでしたが、宋書は武帝本紀だと「死んだ」とのみ書き、列伝ではじめて詳細を載せます。皇帝の伝記はあくまで美しくなければならないようです。
そして危篤に陥ります。太子の劉義符は未だ十七歳でしたから、後見に徐羨之、傅亮、謝晦、劉道憐をつけました。そして死亡。なお謝晦は武帝存命中劉義符では皇帝にふさわしくないと言い切っています。面白いのは、このときの議論で劉義隆の名前が上がっていないことです。こうしたことから、劉義隆は才覚こそあれ母親の格的に皇位継承には値しない、とみなされていたっぽいことが匂わされます。ともあれ、劉義符が帝位を継承しました。少帝です。ちなみに皇后は司馬徳文の娘です。えげつないですね。また直後に劉道憐も死亡しました。
この年の北魏には、まだ大きな動きは現れません。ただし、これがありました。嫡子の拓跋燾を太子、監国とします。ここで監国は皇帝の代わりに政務の総取締を行う役目。当時拓跋燾は14歳です。このためその周囲は崔浩をはじめとした側近らで固められました。この動きで思い出されるものはなんでしょうか。姚興の立太子です。柴壁に向かう前の姚興が、姚泓を立てていました。では、明元帝のこの動きが示すのはなんなのか、ということです。もっともこの頃明元帝はしばしば寒食散を服用して体調を崩していたとも言いますから、単純に自らの寿命に目処が立ってしまっていただけなのかもしれません。
ところで、北涼について一つ情報を提供しておかねばなりません。わかりやすさ優先のため伏せていましたが、この頃まで沮渠蒙遜は涼王を名乗っていません。河西王、がその自称でした。このあたりには名より実を取っていた印象があります。これが奏功したか、宋より涼州刺史に任じられています。いわば、宋による涼州支配の公認です。周辺国は、南北二大国との付き合い方にかなり慎重であったことが伺われます。
二大国にしても周辺国が相手国の足を引っ張ってくれれば万々歳ですし、このあたりの時代の外交、内情を想像するだけで楽しいです――まぁ翌年、いきなり両国がぶつかるんですが。
涼州統一! 沮渠蒙遜の知謀【夕刊シチ 5月29日号 420年08月】
通鑑776文字(333/365位)
【登場人物】
・メイン
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
・準メイン
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
皇帝即位後の劉裕、いえ、武帝は即位直後に大赦をなしましたが、この年にも改めて大赦をなしました。まあなんと言うか、簒奪を食らった皇帝の復位なんて権威はどう考えてもどん底ですし、その皇帝のもとでどれだけ功績を挙げてみたところで「皇帝の値段」は上がらないのですよね。資治通鑑が語るのも、結局は劉裕が強かった、であり、では、皇帝としての権威がどれだけあったのか、には、かなり懐疑的です。ここで司馬光さんは自分の言葉ではなく、梁代の歴史家、裴子野の言葉を引き、「その大赦、なんかおかしくね?」と主張しています。乱発に対する懐疑的な目を「疑ってるのは自分だけではありませんよ!」とアピールしてきます。
またこの頃、武帝は司馬徳文を暗殺すべく、配下に毒薬を渡したところ「元の主を殺すくらいならば死んだほうがマシです!」と、その毒薬で自殺されています。武帝の即位周りの後ろ暗さがこれでもか、と詰め込まれています。司馬光さん、劉裕の初動はめちゃくちゃ情熱的だったのに、南燕のあたりからおかしくなっています。「なんでお前は伝説の聖王にもなれたかもしれないのに、そんなポカばっかりするんだよ!」とでも言わんばかりです。
西秦と北魏は例によってふわふわした動きです。南を諡号で呼び始めましたし、北も一緒に諡号で呼び始めましょう。拓跋嗣、改め明元帝は姚皇后を喪うなどの悲劇にも見舞われましたが、引き続き大きな動きを見せていません。ということは南征の準備を進めていた、と言うことでもあります。ド派手に暴れ回っていた父親とは見事なくらい真逆です。
そして、西涼。最期の君主である李恂は沮渠蒙遜と戦っても勝ち目がないと守りに回りますが、結局水攻めを受け、絶望し、自殺しました。これで沮渠蒙遜は涼の地域を手に入れます。とは言え東には夏も、西秦もある。そして何よりも、北魏。この時代で覇を唱えるには、他の国がまた強すぎた。生まれた時代と場所がもう少し違ったら結果も違ったのではないかとも思わせるくらいの、稀代の策士ではあるのですけれど。
なお北涼、そして西秦は仏教が重んじられていましたが、資治通鑑は触れません。この辺りを踏まえれば、見え方が変わりそうなんですけどね。
劉裕即位! 南朝の始まり【夕刊シチ 5月28日号 419年09月】
【419年09月】
資治通鑑原文2207文字(206/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
劉裕、王に。もはや完全に曹操親子、司馬師親子と同じルートです。明確に違うのは、自らの君主をすでに手にかけていること。そのうえでさらに恭帝に禅譲の詔勅を書かせました。この時恭帝は「桓玄の時に滅んでいたはずが永らえただけだ」と、粛然と劉裕から押し付けられた草稿を清書しました。そして、禅譲の儀。このとき劉裕の即位を喜ぶ謝晦の隣で、徐広という人物が人目もはばからず号泣しています。いわく「わしにとっては今この瞬間、仕えていた国が滅んだのだ」。同じことは曹丕の即位の時にも陳羣が言っています。これは儒者の気骨か、皇帝の度量のアピールか。それぞれの物語の基準に応じて解釈するのが良いのでしょう。恭帝は零陵王とされ、また北魏以外の各国には官位をばらまきます。
劉裕の子供たち、甥たちも次々と王位につきます。そしてこの流れで劉裕の即位を見ることの叶わなかった劉穆之の爵位追贈もなされ、合わせてここで「穆之が死んでから、俺は軽んじられるようになった」という劉裕のボヤキが載せられます。司馬光さん、たぶん劉穆之への追贈、このボヤキをねじ込むために入れています。劉裕の即位にケチをつける気満々です。そしてさらに司馬光さんは、ここに拓跋嗣のコメントを載せます。いわく、「俺はこれまで天なぞ信じていなかったが、ここに来て初めて信じる気になった」と。
めでたく劉宋が立ちました。この頃北はどうでしょうか。沮渠蒙遜が西秦に攻め込んだので、これを好機と李歆が北涼に攻撃を仕掛けようとします。臣下や、母親までもが李歆を止めますが、聞きません。こうして李歆は出撃。すると沮渠蒙遜、ある程度まで西涼軍を引き付け、後戻りができなくなるタイミングで転進、西涼軍に襲いかかり、大破します。この戦いで李歆は戦死。沮渠蒙遜は西涼の都も一気に陥落させました。ここで沮渠蒙遜は城への略奪を禁じ、また人士らを厚遇します。中でも李歆の母、尹氏の気骨は、沮渠蒙遜より大いに賞賛されるところとなりました。西涼は残党がさらに西に逃れはしましたが、ここに、ほぼ滅んだと言っていいでしょう。十六国、残るは北涼、西秦、夏、北燕。……意外と残ってますね?
長安陥落! 帝を弑す【夕刊シチ 5月27日号 418年10月】
【418年10月】
資治通鑑原文3504文字(119/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
5/26-劉義慶-6/23
【できごと】
いよいよ長安に赫連勃勃が接近します。完全に風雲急を告げています。ところでトップ将には二人の補佐官がつきます。軍事畑の司馬、事務畑の長史です。ここで劉義真の司馬は死んだ王鎮悪で、長史は王修といいました。そしてここで、劉義真はわがまま坊主のうえ、王修によく叱られていました。まあ当時の劉義真、十歳ですしね。やむを得ない。しかし問題は、そのわがまま坊主が大権握る長安の長官だったことです。王鎮悪周りのドタバタにかこつけ、劉義真、王修を処刑。これが長安に取り、トドメとなりました。軍の統率は完全に失われます。これを聞いた劉裕は慌てて朱齢石を送り込みましたが、時既に遅し。またたく間に長安は陥落し、朱齢石をはじめとした多くの将軍が戦死、捕縛。劉裕の北方計略、完全破綻のお知らせです。怒った劉裕は再度軍を編み、長安奪還を言い出しますが、謝晦らに諫止され、諦め、長安の方を向いて涙しました。劉義真はなんとか長安を脱出、帰還を果たします。
赫連勃勃の長安平定戦は、その大枠が王買徳の差配によるものでした。このため王買徳への寵愛は、いよいよマックスに。そして赫連勃勃は皇帝を名乗ります。ただし都は長安でなく、統万城のままでした。北魏と対抗するためには、長安では心許ない、がその理由とのことです。あと引き続き取ってつけたような暴虐エピソードが乗りチベスナ顔を禁じえません。
ここで北魏の話をしておきます。彗星が天をよぎったということで、これはいったいどの国の凶兆なのだろうか、と拓跋嗣が問いました。すると崔浩が「晋でしょう」と答えます。つまり、劉裕による簒奪です。
晋には「昌明の後になお二帝あり」という歌が流行っていました。昌明とは孝武帝のこと。安帝では、まだ一人。ということで劉裕、安帝を暗殺。司馬徳文を皇帝に立てます。恭帝です。
このころ、北涼に追い詰められた西涼の李歆は逆襲を言い出します。臣下らはみな、どころか母親までもが「今は内政に専念してください!」と諫めますが、聞きません。もうこれまで何度も見たパターンが、涼でも起こるようです。
と言うわけで、次回。滅びます、二つの国が。
【LIVE 5/4】宇山卓栄 #11★「拝米」思考について考える、中共権力闘争の最新動向、イスラエル・イラン戦争問題 ほか
◆宇山卓栄 連続講座「世界の中の日本民族論」第11回◆
「拝米」の思考について考える、中共権力闘争の最新動向、イスラエル・イラン戦争問題 ほか
日時:5/4(月祝)14時00分〜
会場:TIME SHARING 茅場町 岡本ビル3F
東京メトロ日比谷線・東西線 茅場町駅 「3番出口」より徒歩0分
チケット:
リアル:3,000円(限定25名)(懇親会あり)
Z世代割:1,500円(30歳以下)
ニコニコch:990円 (※生配信・アーカイブあり)
詳細:
https://wanokuni.me/posts/uyamatakuei
【これまでのプログラム】
第1回 DNA遺伝子解析で読み解く日本人の起源①
第2回 DNA遺伝子解析で読み解く日本人の起源②
第3回 アイヌと日本民族の真実
第4回 蝦夷や隼人は異民族だったのか?
第5回 日本民族とアジア諸民族の違い、そして日本文明
第6回 移民問題と日本民族の進む道
第7回 遺伝子で証明されるアメリカ大陸先住民族のルーツ
第8回 激動の世界!トランプとイラン、ベネズエラ、そして解散総選挙!国内外のニュースを語る
第9回 高市自民圧勝の危険性!アメリカvsイランの行方、衆議院選挙・左翼崩壊とチームみらい票の実態
第10回 イラン×イスラエル情勢とユダヤ問題、中川郁子/中川昭一 政治の闇、高市×トランプ日米問題 ほか
第11回 「拝米」の思考について考える、中共権力闘争の最新動向、イスラエル・イラン戦争問題
→ニコニコチャンネルでアーカイブ配信中!
https://ch.nicovideo.jp/wanokuni
【プロフィール】
宇山卓栄(うやま・たくえい)
1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。代々木ゼミナール世界史科講師を務め、著作家。テレビ、ラジオ、 雑誌、ネットなど各メディアで、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説。主な著書に『日本人が知らない!「文明の衝突」が生み出す世界史』、『日本人が知らない!世界史の原理』(茂木誠氏との共著、ビジネス社)、『世界を揺るがす! グローバルサウスvs米欧の地政学』(石田和靖氏との共著、ビジネス社)、『大アジア史』(講談社)、『世界民族全史』、『民族で読み解く世界史』、『王室で読み解く世界史』、『宗教で読み解く世界史』(以上、日本実業出版社)、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA) 、『経済で読み解く世界史』、『朝鮮属国史---中国が支配した2000年』(以上、扶桑社)など。
#解散総選挙 #国際情勢 #宇山卓栄
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解説コラム:https://wanokuni.me/posts/naturalsalt
★「縄文塩」で豊富なミネラルが摂れる!日本人復活の鍵は天然塩!
https://wanokuni.me/posts/jomonsalt
劉穆之死亡! かかる暗雲【夕刊シチ 5月26日号 417年10月】
資治通鑑原文2680文字(163/365位)
【登場人物】
・メイン
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
5/25-劉義隆-7/2
・準メイン
4/28-赫連勃勃-6/3
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
劉義慶-6/23
【できごと】
劉裕が関中を落として起こったこと。それは関中の民の北魏亡命でした。これについては判定が難しいところです、なにせ魏書なら普通に晋の北伐を悪事としてこのあたりを盛ってくるだけの信頼があります。とは言えむやみに疑ってもしかたがありませんので、「これは実際にあった」としておきましょう。劉裕の南燕での所業を思えば、ありえない話でもありません。
さて、ここで一度、拓跋嗣自ら北燕を攻撃。民をさらい、帰還しました。そして兵糧を南方に集め始めます。劉裕にナメられたことに対する仕返しを計画し始めたようです。この動きを察知したか、過去に劉裕に滅ぼされた刁氏の生き残り、刁雍が「晋を伐ちたい」と願い出てきました。復讐の時来たれり、というわけです。
長安の劉裕に、劉穆之死亡の報がもたらされました。実のところ、北伐は劉穆之の後方調整及び支援の賜物でした。「その死によって建康の政務が回らなくなった」とありますから、ただ事ではありません。任務を引き継いだ徐羨之は指揮官ではありません。そこで劉裕は慌てて彭城に戻ります。長安を次男の劉義真に任せ、その補佐に王鎮悪をつけて。すると、直後長安を狙ってきた赫連勃勃を前に、王鎮悪は後ろから刺されて死亡。しかも、王鎮悪を殺した将は防衛軍略の片翼を担うような立場でしたが、その暴挙が理由で、やはり処刑されます。これで関中の指揮系統はズタボロとなりました。赫連勃勃にしてみれば、勝手に関中というケーキを食べやすく切り分けてもらえたようなものです。
一方、劉裕は彭城まで帰還したところで豫章郡公から宋国公に昇格しました。ここで言う「国」とは晋の臣下でありながら、独自に朝廷を持つことが許される立場です。体面では「その絶大な権力を晋のために振るってほしい」ですが、ではその内実はどうでしょうか、というわけですね。
西秦は引き続き地味に勢力拡大、北涼はいよいよ西涼に攻撃開始。このとき李歆は晋に涼公継承を報告していますが、これは実質「助けて晋えも〜ん!」的悲鳴のように思えてなりません。晋もその承認をした、という使者は送っていますが、その本心は「まぁ遠方のことだし適当にどうぞ!」程度の感覚であったのかもしれません。
【公演の記録】第壱拾参・伍回公開会合『末法二〇二六』第一公演《落》【不完全版|MARIONEttE】
【この記録には欠落があります】
不完全完全版▸https://maliceberry.fanbox.cc/posts/11962789
第壱拾参・伍回公開会合『末法二〇二六』 第一公演《落》 の記録を公開しました。
おめでとうございます。この記録の時点では、あなたはまだ自由です。
―末法の世では、■でさえ人の心を長くは繋ぎとめておけない それでもせめて、この記録を最後まで―
《落》演目
細菌汚染-Bacterial Contamination- Cover(未収録)
エデンの林檎
until my 13 come
『末法二〇二六』
5/4《落》→5/27《残》→6/6《転》→6/21《臨》
後秦滅亡! 周辺諸国は【夕刊シチ 5月25日号 416年11月】
資治通鑑原文5847文字(46/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
5/24-劉義隆-7/2
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
【できごと】
北魏は劉裕の後秦討伐をどのように考えていたでしょうか。崔浩が拓跋嗣に話しています。「後秦では到底劉裕には勝てません。あれは漢の献帝にとっての曹操のようなものです。ただ北に赫連勃勃がいる以上統治は安定しないでしょうし、その勃勃も所詮粗暴なだけの小者。関中獲得のために、陛下はただ座して待っておられれば良いのです」と。この話を聞き、拓跋嗣はその通りだ、と大いに笑っています。
洛陽を落とした劉裕のもとには乞伏熾磐が後秦討伐に参与したい、と申し出、劉裕もそれを受け入れています。そして西進。途中王鎮悪が独断で突っ走って要衝の潼関を前に敗走という珍事も起こりましたが、その要衝も抜き、ついに長安へ。長安はただでさえ内憂に悩まされていたところに漢中から、襄陽からの各方面軍にも牽制を受けており、そこにさらに本軍の到着です。なすすべもなく長安は陥落しました。ただこのとき北魏軍が洛陽の東にある虎牢と言う城を奪ったとも書かれており、どうも、思ったより劉裕が動員した軍の規模は大きくなさそうです。この点について一つ、面白い話を載せておきます。この後秦討伐軍ですが、「どのくらいの規模であったかの情報が、一切載りません」。ともあれ姚泓は捕らえられ建康にて処刑されました。ここに後秦が滅びます。
さて、この長安陥落。周辺諸国はどう感じたことでしょう。一番面白いのは沮渠蒙遜で、この事態に対して激怒しています。たぶん旨いところをぶんどれなかったことに対して怒ったのでしょう。赫連勃勃のもとには劉裕から使者がよこされており、赫連勃勃はその対応をカンペ丸暗記という荒技で乗り切り、劉裕を唸らせています。そして西秦は実際にどの程度長安陥落に貢献できたのか不明です。あと例によって吐谷渾を攻撃して王の吐谷渾樹洛干を死に追いやりましたが、そのあとを継いだ吐谷渾阿柴が名君であり、その勢力を却って強盛にした、と書かれます。
また、ここで西涼の李暠が死亡、息子の李歆が立ちましたが、残念ながら父親ほどの統制力は持ち合わせておらず、以降西涼は沮渠蒙遜にボコされることになります。あわれ。
と言うわけで劉裕、長安獲得。天下統一まであと一歩、ですねっ☆
洛陽奪還! 劉裕の神速【夕刊シチ 5月24日号 415年12月】
【415年12月】
資治通鑑原文4287文字(87/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
劉義隆-7/2
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興▲
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/23-檀道済-6/14
5/23-崔浩-6/29
【できごと】
北魏は拓跋珪が最強の将そのものであったため、なかなか配下将が目立ちませんでした。ここで特筆に値する将が二名出ます。叔孫建と、于栗磾です。ここで北燕とのいざこざもあったりもしますが、大局が動くほどではありませんでした。
西秦と北涼は幾度かの戦いの末、ここで和睦。その目的は、まあ後秦領のぶんどりと見て差し支えないでしょう。姚興は病気を理由に中央から離れようとしますが、ここで姚弼が、今度は姚興の暗殺をもくろみます。これはもうどうしようもありません。ついに姚弼を自殺させると、そのまま姚興も死亡。姚泓があとを継ぎましたが、その権威は父と兄のおかげでどん底です。夏や西秦がひっきりなしに攻めてくるほか、次々と内乱が勃発。この頃姚碩徳は既に亡く、姚泓は叔父の姚緒に頼り、その内乱を鎮圧させました。
この事態を受け、誰が動くでしょうか。劉裕です。大規模な北伐の軍を編成し、建康には嫡子の劉義符を置き、襄陽から、寿春から、彭城から、果てには漢中それぞれから軍を発し、侵攻。このとき、あえて総大将を司馬徳文としました。王鎮悪や檀道済を先鋒とし、自身は一度先祖の故郷たる彭城にて先祖「と設定されていた」劉交、すなわち劉邦の弟、および「早期に引退を申し出、大権に与ろうとしなかった」張良を祀ります。そして彭城には三男の劉義隆を置き、さらに北上。黄河南岸にまで出ます。このとき黄河が北魏との勢力境界線となっており、これはもう北魏に対する示威行動にも等しいものでした。「後秦攻めを邪魔したらお前らに襲いかかるからな」というわけです。このため北魏は散発的な妨害行為しかできず、劉裕の進軍を許します。
一方、先発隊です。錚々たる名将たちに攻められてしまえば、洛陽の守りなど紙切れに過ぎません。あっという間に陥落。ここで司馬徳文に晋の先帝らの陵墓を修復させます。桓温のようにいち将軍ではなく、皇帝の弟によるものです。これを成し遂げた劉裕の功績は未曾有のものであるとして、宋書武帝紀は「劉裕くんの功績ヤバい!」と褒めちぎる安帝陛下のお言葉が長々と載ります。ただしこれは劉裕の配下、傅亮の筆によるもの。文武揃ってのパフォーマンス、絶好調です。
司馬休之敗走! 後秦は不安【夕刊シチ 5月23日号 414年12月】
【414年12月】
資治通鑑原文3976文字(101/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/18-檀道済-6/14
崔浩-6/29
【できごと】
司馬休之周りが不穏になるのに連動してか、北魏との国境付近で司馬氏宗族による動乱が起き、その地の守りを任されていた劉敬宣が殺されたりしています。しかし劉裕はそちらを捨て置き、司馬文思周りで曖昧な態度を取る司馬休之を朝敵と設定、攻撃を仕掛けます。司馬休之はこの動きに対抗、あわせて襄陽の魯宗之もこのままでは滅ぼされる、と司馬休之に合流しました。なお劉裕は司馬休之の配下に「司馬休之以外を敵とするつもりはないので我が元に降れば誠意を示そう」と手紙を送りましたが、「お前のどこに誠意があるのだ!」と長々とした罵倒を喰らっています。この罵倒は宋書武帝紀にもまるまる載っています。隠しきれなかったのか、あるいはこれを載せることが皇帝の度量の証、としたのでしょうか。ともあれ劉裕はこの戦いで自分の娘婿を失うも、戦いそのものは完勝。司馬休之および魯宗之は後秦に亡命しました。荊州には劉裕の無能なほうの弟である劉道憐がつきましたが、実務を回したのはその臣下でした。なお宋書楽志には、劉裕の娘である劉興弟のもとに丁旿が訪問、夫の死に様を報告し、彼女を慟哭させた、という話が載っていてとてもえっちです。
北魏の官制礼制を整えた崔宏には息子がいました。崔浩と言います。既に一回名前を挙げていますけれど。このひとは天文読みに抜群の才覚を示しており、この頃からいよいよ本格的に拓跋嗣のご意見番として取り立てられるようになります。たとえば火星の動きから「間もなく後秦が滅ぶでしょう」と予言をして他者より総おこられを喰らい、黙って退く、などです。なお間もなく後秦では大干魃が起こり、崔浩を怒った皆さんは「当たってる!?」と驚いたそうです。なお三年後。
赫連勃勃は引き続き後秦を攻撃。そうした中姚興はクーデターを起こした姚弼を許してしまいました。その病もいよいよ重篤となっており、姚興の判断および病状が後秦に政情不安を引き起こしています。
北涼の沮渠蒙遜のもとには、蜀を守る朱齢石からの使者がもたらされていました。ここで沮渠蒙遜は晋と共に中原の五胡勢力、すなわち北魏や後秦の撃滅をする、と誓っています。この動きはまさしく近攻遠交。劉裕による後秦討伐の時が迫りつつあるのを感じさせられますね。
南涼滅亡! 禿髪は源氏に【夕刊シチ 5月22日号 414年01月】
【414年01月】
資治通鑑原文3387文字(128/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/18-檀道済-6/14
【できごと】
劉裕の権勢はいよいよ頂点、しかしあと一人、最後の一人が待ち受けます。司馬休之です。とは言えこれまでの措置をみていると、劉裕が実権を握った後、司馬休之からどのように権勢を剥ぎ取るかの試みが続けられており、結局それがなかなか上手く行かなかった、と言う印象にもなります。と言うわけで劉裕、ついに「お前の息子が建康で悪さばかりしている、荊州に送り込むので処刑しろ」と難癖をつけました。これに逆らったら謀反と見なすぞ、と言うわけです。なかなかに無茶を仰る。
外側にだいぶ虫食いの出た後秦ですが、中もヤバい。後秦の太子は姚泓でしたが、その兄である姚弼は才覚があり、しかも姚興よりの寵愛を受けていました。それを鼻にかけなにかと姚泓を軽んじる動きを見せ始めます。折悪しく、このタイミングで姚興は病を得、寝込みました。すると姚弼、なんとクーデターを起こします。この期に及んで姚弼に対して苛烈な処断を下せない姚興は臣下から「いやいい加減もう無理でしょう!」という声を受けるのですが、反論らしき反論もなく、ただ俯くのみでした。
お隣の南涼ですが、ついに限界が来ます。配下部族が決起したため禿髪傉檀が討伐に出、都が空になったところを西秦軍に襲撃され、陥落。帰るところを失った禿髪傉檀は配下からも見放され、ほぼ単身で乞伏熾磐のもとに降伏。こうして南涼は滅びました。禿髪傉檀は西秦の公卿として取り立てられますが、一年ほどのちに毒殺されます。
こうした事態を受け、南涼の皇族たちは北魏に亡命しました。というのも拓跋氏と禿髪氏は、どうもかなり近い関係性の氏族であったそうなのです。このため拓跋嗣も彼らを受け入れ、源が同じ、ということで彼らに「源」姓を与えました。中でも源賀は、こののちの北魏の重鎮として名を知られます。また北魏は柔然、北燕それぞれに使者を送り込みました。ただこの使者は却って両国の反感を募らせるにすぎませんでした。一方、そんな柔然ではクーデターが起きます。郁久閭斛律は捕らわれ、北燕に追放。新たに甥の郁久閭歩鹿真が立ちましたが、すぐさま郁久閭斛律のいとこである郁久閭大檀に討たれ、郁久閭大檀が新たな可汗となりました。
土断施行! 勃勃は赫連に【夕刊シチ 5月21日号 413年01月】
【413年01月】
資治通鑑原文2316文字(193/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/18-檀道済-6/14
【できごと】
荊州から帰還した劉裕は、わざと途中で旅程に遅れを出します。このため建康で劉裕の期間を待つ者たちは何日かの待ちぼうけを食らうことに。ここには劉裕の同志のひとり、諸葛長民がいました。この人物は武幹こそあれど傲慢で劉裕に対しても不満を抱いていた人物でした。劉毅という反劉裕派の筆頭が滅んだ以上身を危ぶみ劉裕の命を狙うであろうことが見えていたため、劉裕、船団から小舟で別行動をとり、本隊到着の前に建康城へ帰還。そして諸葛長民を「後ろから」呼び出します。肝を潰した諸葛長民は劉裕のもとに出頭、そこで劉裕の護衛である丁旿に殴り殺されました。この事件があり、ちまたでは「変なことしたら側に丁旿がいるぞ」と噂されるようになりました。
劉裕はこれで、ほぼ自身の発言を思い通りに押し通せる状態になりました。そこで次の政策を打ちます。土断です。桓温の時代から時が下り、民の移動もや混交もまた起こっていましたので、そこを整えたのです。この土断は、晋の時代でもっとも徹底的なものとなりました。これにより劉裕は北伐のための軍資を獲得した、と評されます。また西方に送り込まれた第三次蜀遠征の軍は、見事に譙縱を討ち果たし、平定に成功します。なお資治通鑑は黙殺していますが、平定直後に蜀で大規模反乱が起こっており、なかなか言うほどお綺麗な軍役でもなさそうです。
北魏では周辺勢力を制圧したり、謀反を鎮圧したり、などの話が載るくらいです。あと後秦から拓跋嗣にあてて婚姻の話が持ち込まれたため、これを受け入れました。このためここから北魏と後秦の紐帯が一段太くなります。これは、このあとの劉裕による北伐にも絡んできます。
後秦をいじめ抜き、劉勃勃はまさにこのときが勢力の絶頂。ここで有名な話が出てきます。まず、名前を赫連勃勃に改めます。また統万城を建築する際、城壁の作りが甘かった職人を城壁に塗り込んだり、武器職人と防具職人の作ったもので戦わせて、負けたほうを殺した、などです。嘘か本当かを聞かれたら「聞いていて楽しい」とやや引きつった顔で答えるしかないですね!
ともあれ、このあたりは後秦と南涼がとにかくひどい。読んでいてハラハラして仕方がありません。
劉毅瞬殺! 劉裕の戦略眼【夕刊シチ 5月20日号 412年02月】
【412年02月】
資治通鑑原文3557文字(118/365位)
【登場人物】
・メインキャスト
5/7-劉裕-5/30
5/12-陶淵明-6/5
・準メインキャスト
4/28-赫連勃勃-6/3
4/24-姚興-5/25
5/4-沮渠蒙遜-6/12
5/4-馮跋-6/8
5/11-拓跋嗣-6/1
5/18-檀道済-6/14
【できごと】
劉道規が病を得、任地から帰還し、そのまま死亡しました。それはそうでしょう、文字どおり魂を削るレベルのプレッシャーとストレスであったはずです。とは言え、これは劉裕にとって重要な扶翼の喪失を意味します。劉道規の後任には劉毅が任じられました。出立の宴が開かれると、このとき配下の胡藩が「ここで劉毅を暗殺しておくべきではないですか?」と劉裕に囁きましたが、劉裕、これを黙殺しました。
そして、出立。劉毅は荊州に到着すると、さっそく対劉裕のための組織作りを始めます。劉裕はそれに気付かないフリをしつつ裏で準備を進め、そして準備が整ったところで建康に残っていた、謝混をはじめとした劉毅派の貴人たちを収監、殺害。その上で劉毅の罪をあげつらい、出征します。その先鋒は、王鎮悪。王鎮悪は劉毅から求められた劉毅派の重鎮を送り届ける、というふりをして荊州に乗り込み、なんと単独で劉毅を討ち取ります。もともと王猛の孫として名声高かった王鎮悪のこの武勲は、さぞ晋を驚かせたのであろうと想像に難くありません。
ただ、劉裕の恐ろしいところはここからです。先鋒軍でことが片付いたので、本軍は無傷。なのでこの本軍を再編成、配下将のひとりである朱齢石に与え、そのまま蜀に侵攻させました。そして司馬休之を荊州統治に充て、自身は荊州の統治方針に対してひととおりの指示をすると、建康に戻ります。このとき建康ではもうひとつ仕事が残っていました。桓玄打倒決起ころからの同志、諸葛長民の粛清です。南燕討伐もそうでしたが、一つの動きに二つ、三つが当たり前に組み込まれている劉裕の軍略視野は一体どうやって身につけたものなんだと思わずにおれません。
南涼、後秦は引き続き周辺勢力からの攻撃を食らっています。ここで仇池の楊盛もまた後秦との手切れを宣言しました。姚興は怒り仇池を攻めると言い出しますが「あなたのお父上でも無理だったのに無茶です!」と言われてしまいます。それを却下して攻めかかれば、結局敗北してしまいました。
また西秦では乞伏乾帰が甥に殺される、という事件が起こっています。ただしこれは、すぐさま乞伏熾磐が兵を整え討伐。乞伏熾磐がそのまま王位を継承しました。西方の破綻も、すぐそこのようです。
日刊トップテン!VOCALOID&something【日刊ぼかさん2026.05.11】
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